第二十八話
その日も、
「
須卜居次、とは云の称号である。云は馬首を巡らし、叔父である烏珠留単于の方へ馬を走らせた。羊毛で織られ、体の線に合わせて裁ち縫われた衣服を着た遊牧民たちが、馬上から花を投げるように云へ賛辞を浴びせた。云は賛辞へ手を振りながら馬を駆けさせ、烏珠留単于の前に至ると、馬を止めて一礼した。烏珠留単于は云の馬術を讃え、競走に勝利した賞品を与えた。烏珠留単于の側近が徒歩で云に近づき、漢帝国で織られた絹の衣を馬上の云へ捧げた。云は絹の衣を肩に羽織り、母譲りの美貌を微笑ませた。
「感謝いたします、単于」
単于、とは匈奴単于国の君主の称号である。烏珠留単于は穏やかに目を細めた。微笑む云を見て云の母を思い出し、刀痕だらけの恐ろしげな顔を優しく笑ませた。競走で云に敗れた女騎手たちが、云へ馬を近づけた。云の勝利を讃える一方で、その美しい黒髪に気を取られたせいで負けたのだ、と負け惜しみを口にした。
「羨ましいだろ。母上がくれた、匈奴で最も美しい髪だ」
これ見よがしに黒髪を掻き上げながら、いひひ、と云は悪びれることなく笑んだ。こいつめ、憎たらしいやつ、と女たちの一人が頬を膨らませて横を向いた。それを見て周りの女たちが笑い出した。その声に釣られるように、横を向いていた女も、く、と吹き出し、皆で共に笑い声を響かせた。
その日、漢帝国の暦でいえば
烏珠留単于の前を辞した云を囲み、他愛のない話をして笑う女たちに、男を背に乗せた馬が近づいた。女たちが男に気づき、笑うことをやめた。云も男に気づき、表情を緊張させた。
「
「居次」
男が云の前で馬を止めた。男は若く、猛禽のように目が鋭く、頬に三筋の刀痕が刻まれていた。獅子が描かれた金の
「勝ったのか」
先程の競走のことである。云は頷いた。
「はい。勝ちました」
「そうか」
男が黙り込んだ。初夏の風が草原を涼やかに吹き抜けた。云は視線を左右に彷徨わせた後、自らの肩にかけている絹の衣へ目を向けた。
「見てください。漢の絹です。単于に賜りました。美しいでしょう?」
「そうだな」
男が頷いた。それ以上の言葉は無く、また風が吹き抜ける音が辺りに響いた。また何かを探すように云は視線を彷徨わせた。数秒、彷徨わせた後、そうだ、と手を叩いた。
「この絹で、須卜当さまの下着を作りましょう。絹の下着は、怪我をした時に傷口を締めつけ、血を止めると――」
「おれは――」
男が馬首を巡らし、云に背を向けた。
「――怪我なんかしない」
男は馬を前へ歩ませた。男の背中が云から離れた。云は顔を俯かせた。一人の女が云へ馬を近づけ、馬上の云を肘で小突いた。云が振り返ると、女は云が須卜当と呼んだ男の、先程の言葉の意味を云へ教えた。
あれは、その絹は云によく似合う、という意味だよ。
「本当に? 本当の本当に?」
云は女に訊ねた。本当さ、と女は口の両端を上げた。云は須卜当のことになると愚鈍になる、と笑い、目で周りに同意を求めた。その通り、と周りの女たちは頷き、結婚して何年も経つのにこれだもの、二人の間に子供がいるなんて信じられない、と笑い合い、二人が夜の穹廬で何をしているか見てみたい、と些か卑猥な冗談を口にした。云は顔を赤くして、うるせえ、
云と別れた須卜当は、祭りで催される競技の一つに参加するために、聖樹の方へ馬を進めた。毛皮の
「
「相変わらず、不愛想な男だな。あんな言葉では真心が伝わらんぞ」
「見ていたのか」
「おうよ」
盧芳、と呼ばれた青年は、なぜか自慢げに胸を反らした。
「おれも須卜居次と同じで、漢人の血を引いているからな。どうしても気になるのよ」
「そんなに気になるなら、居次を攫って妻にすればよかろう」
「なるほど、掠奪婚というやつか。それはよい考えだ。今夜にでもやるか」
「……………………」
須卜当は矢箙から矢を抜き取り、弓につがえた。殺気のようなものを感じ取り、盧芳は慌てた。
「冗談。冗談だよ。単于の血を引いておられる須卜居次を、おれ如きが娶れるものか」
「おまえの体の中には、漢の皇帝の血が流れているのだろう?」
「普段は信じてないくせに、こういう時だけ持ち出すなよ」
「信じていないわけではない。匈奴では意味が無い、と思うだけだ」
須卜当は矢を矢箙へ戻した。
須卜当を乗せた馬が、聖樹の近くまで歩みを進めた。聖樹の周辺では、
最初の競技者が馬を走らせ、揺れる馬上で弓を引き絞り、標的である山羚羊の骨へ矢を連射した。放たれた五本の矢の内、三本が標的に命中したが、二本は同じ標的に命中していた。二人目の競技者も三つの標的を射ることに失敗し、三人目、四人目も脱落した。五人目の競技者として盧芳が登場した。最初の一矢で右の頭骨を、次の一矢で左の頭骨を射貫くも、三本目の矢を矢箙から抜く前に馬が小石の白線を越えた。天を仰いで戻る盧芳と擦れ違うように、六人目の競技者である須卜当が馬を走らせた。一度、二度、三度と弦音を鳴り響かせると、飛んでいく矢の軌跡を確かめずに馬を返した。矢は初夏の陽を弾いて鋭く飛び、山羚羊の頭骨の眉間を突き貫けた。
一巡目が終わり、須卜当を入れて十数人が成功させた。二巡目、三巡目、四巡目、五巡目が終わり、須卜当と一人だけが六巡目に臨む資格を得た。
「頑張るではないか、須卜当」
須卜当と共に六巡目へ臨む男が、須卜当に声をかけた。それでこそ匈奴の貴種、須卜氏の勇士である、と須卜当を讃えた。
「恐れ入ります」
須卜当は男に頭を下げた。男は一笑し、山羚羊の頭骨へ目を向けた。
「しかし、今日は愛する子供たちが見ているからな。おまえと須卜居次には悪いが、勝たせてもらう」
先に行かせてもらうぞ、と男は馬を駆けさせた。流れるように矢箙から矢を抜き、弓を構えた。男の幼い子供たちが、お父さん、頑張れ、と手を振りながら応援した。男は子供たちの名を順に呼び、父の勇姿を見よ、と叫んだ。弦音が二度、鳴り渡り、二つの頭骨が矢に穿たれた。男は矢を構え、最後の標的に狙いを定めた。頑張れ、頑張れ、と仔馬の上から応援する子供たちの後ろに、母譲りの黒髪を靡かせて云が現れた。
「叔父さま!」
云は男に叫んだ。
「もし須卜当さまを負かしたら、大嫌いになるからね!」
この言葉が、男の手を狂わせた。数度、弦音が響いたが、放たれた矢は悉く頭骨から逸れた。あちこちで笑いの渦が起きた。匈奴単于国の君主、烏珠留単于も民と共に大笑いした。とぼとぼと肩を落として戻る男へ、烏珠留単于は馬を近づけた。
「あれしきのことで心を乱すとは、鍛錬が足りんぞ、
「兄者、いや、単于。そうは言われますが――」
右犂汗王、と単于に呼ばれた男は、反論を試みた。その時、云が右犂汗王の幼い子供たちに、父さんに何てことを言うんだ、と追いかけられながら、右犂汗王へ叫んだ。
「叔父さま、大好きだよ! 世界で二番目に大好き!」
「……もう、いつまでも子供なんだから」
馬上で大きく手を振る云を見ながら、右犂汗王は満更でもなさそうな顔をした。烏珠留単于は愉快そうに笑い、馬を走らせ始めた須卜当へ目を向けた。
「今年の騎射の勝者は、須卜当か」
「決まりでしょう。今日は、あいつがいませんから」
「この大切な日に、あいつはどこで何をしているのだ?」
「南にいるようです。いつものように、奴隷にされた者たちを逃がしているのでしょう」
「気持ちはわからないではないが、迷惑な男だ」
烏珠留単于は苦笑した。その瞬間、須卜当の弓弦が鳴り、矢が山羚羊の骨を射貫いた。弓弦は更に鳴り、山羚羊の眉間が穿たれた。須卜当は三本目の矢を矢箙から抜き取り、弦を引いて最後の標的に狙いを定めた。弓弦が鳴り、矢が放たれた。
競技を見ていた群衆の背後の穹廬の上で、弦音が鳴り響いた。
群衆の上から山羚羊の頭骨へ、黒い羽の矢が飛んだ。須卜当の弓から放たれ、山羚羊の頭骨を撃ち貫こうとしていた矢が、黒い羽の矢と空中で衝突して弾け飛んだ。須卜当の目が大きく見開かれた。咄嗟に馬を止め、黒い羽の矢が飛んできた方へ目をやり、競技を妨害した射手を捜した。
黒衣の男を乗せた黒馬が、自分たちの仕業だと名乗り出るかのように、群衆の中から須卜当の前へ進み出た。須卜当は黒衣の男を睨みつけた。黒衣の男は意に介さず、須卜当に話しかけた。
「今日も弓が巧いな、須卜当。お蔭で、矢を一矢で落とせた」
黒衣の男は、美しい顔立ちをしていた。他の匈奴単于国の男たちのように、複数の刀痕が頬や額に刻まれていた。須卜当が知る人に似た黒髪を、草原の風に靡かせながら、須卜当の精緻な騎射の技を讃える言葉を口にした。須卜当は矢箙の矢を掴んだ。
「なぜ、おれの邪魔をした」
掴んだ矢を半ばまで、須卜当は矢箙から抜いた。黒衣の男は不敵に笑んだ。
「目立つためだ」
黒衣の男は馬首を巡らし、群衆の方を向いた。騎射の競技を妨害した謎の男に注目する群衆に対し、如何に匈奴単于国の人間が優れているか、大声で語り始めた。手始めに南方の農耕民族の国家、漢帝国の食文化を貶した。麦や米などの穀類を草の実と呼び、漢帝国の人間は草の実を食べるが、匈奴単于国の人間は草を食べる羊を食べるから、匈奴単于国の人間の方が漢帝国の人間より優れている、と吼えた。自称、漢帝国の皇帝の子孫である盧芳が、酷い演説だ、と顔を背けた。王昭君の娘を妻に迎えている須卜当も、不快げな顔をした。群衆も一部が眉を顰めた一方、一部が黒衣の男に同調して気勢を上げた。その声を聞いて、右犂汗王が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あいつめ、何ということを。南にいるという話は、さては流言か」
単于、と右犂汗王は烏珠留単于へ呼びかけた。
「すぐにあいつを捕らえなければ。おれに命じてください。あんなのでも、一応は匈奴の貴種。おれが行かなければ――」
「その必要は無い」
「兄者、あいつが可愛いのはわかりますが――」
「そうではない」
黒衣の男がいる方とは逆の方へ、烏珠留単于は目を向けた。
「もう動いている者がいる」
馬蹄が軽やかに地を蹴る音が、烏珠留単于と右犂汗王の前を駆け抜けた。黒衣の男へ近づく騎影に、須卜当が気づいた。須卜当は何も言わずに横を向いた。騎影は美しい黒髪を後ろへ靡かせながら、演説を続ける黒衣の男に突進した。いよいよ本題に入ろうとしていた黒衣の男が、近づいてくる馬蹄の音に気づいた。
音の方を振り返ろうとした黒衣の男の顔面に、作りかけの白く軟らかい乾酪が、勢いよく叩きつけられた。
「この愚兄が!」
佳人、王昭君の娘にして、須卜当の妻である云の怒声が轟いた。云に乾酪を叩きつけられた衝撃で、黒衣の男は落馬した。云は跳ぶように馬から下り、体を起こそうとしていた白面黒衣の男に、助走をつけて蹴りを入れた。
「こいつめ! 須卜当さまに何てことしやがる!」
「云、やめろ、落ち着け、話を聞け。そもそも、おれは兄ではなく、叔父――」
「うるせえ!」
革を鞣して作られた長靴(ブーツ)で、どかどかと云は黒衣の男を踏んだ。思いがけない展開に群衆は唖然とした。先程、黒衣の男の演説に同調していた男たちが我に返り、黒衣の男を助けようと群衆の中から駆け出た。須卜当を乗せた馬が、男たちの前を阻んだ。須卜当の猛禽のような目が、男たちを睨んだ。数秒の睨み合いの後、男たちは下を向いた。その間も黒衣の男は云に踏まれては蹴られ、堪らず須卜当へ助けを求めた。
「助けてくれ、助けてくれ、須卜当。云を、云を止めてくれ」
「……今日は――」
半ばまで抜いていた矢を矢箙へ戻し、須卜当は聖なる大樹、蘢城を振り仰いだ。
「――好い天気だ」
「おい、須卜当、助けてくれ」
「多分、明日も好い天気だろう」
「須卜当、無視するな、須卜当」
そうこうしている間に、黒衣の男の足首に縄が結びつけられた。縄は云の馬に繋がれていた。云が馬に跨り、馬を走らせた。黒衣の男は馬に引き摺られ、数度、草原の馬糞を己の体で蹴散らした後、居並ぶ穹廬と穹廬の間に姿を消した。
妨害者がいなくなり、蘢城祭が再開された。羊の競走が行われ、七歳未満の子供たちを乗せた羊が草原を疾走した。各部族で一番の歌い手たちが、自慢の声を順番に披露した。
匈奴単于国の歴史は、その南方に存在する漢帝国よりも古い。匈奴単于国は文字を持たない民族が築いた国であるため、その正確な起源は既に忘れられているが、少なくとも漢帝国が成立する百年前、戦国の七王国の時代には国家を形成し、七王国の秦や趙と戦いを繰り返していた。しかし、約二百年前、西方の
その場面が劇で演じられた。仔馬に乗り、小さな鷲獅子の旗を掲げた子供たちが、尖り帽子の月氏軍の騎兵と、黒い甲冑の秦軍の二輪戦車に追い立てられた。逃げ惑う子供たちを見て、劇を観賞している群衆が悲しげな声を漏らした。群衆の中には須卜当と盧芳がいた。可哀そうに、と目を潤ませている盧芳に、傷だらけの黒衣の男が近づいた。盧芳は黒衣の男に気づき、顔を顰めた。
「うわ、馬糞臭え。体を洗え、衣服を換えろ。周りが迷惑だ」
「うるせえ、漢人。これが匈奴の香りだ。漢人にはわからんだろうがな」
「あんた以外の匈奴人に失礼だぞ。すぐに謝れ。跪いて謝れ」
「云に――」
劇から目を離さずに、須卜当が口を挿んだ。
「――感謝するんだな。云に踏まれて蹴られて、乾酪を叩きつけられて、馬で引き摺られたから、あんたは馬糞塗れになる程度で済んだ」
「全く、どうかしてるぜ」
にやり、と盧芳が歯を見せた。
「大勢に注目されたいのはわかる。そのために、人が集まる蘢城祭を利用する、というのもわかる。だが、競技に乱入して妨害するなんて、愚かも愚かだ」
「匈奴のためだ。漢帝国では、大勢の匈奴人が奴隷にされている。強く、美しく、誇り高い草原の民が、弱く、醜く、卑劣な漢人どもに苦しめられている。おれは、そのことを皆に伝え、おれと一緒に――」
「おい」
じろり、と須卜当が横目で黒衣の男を睨んだ。
「静かにしろ。劇の観賞の邪魔だ」
「須卜当、おれは大事な話を――」
「もうすぐ――」
聖樹の前で演じられている劇へ、須卜当は目を戻した。
「――おれが好きな場面が始まる。あんたが好きな場面でもある」
須卜当の視線の先では、匈奴の子供たちが月氏の戦士、秦帝国の兵士に囲まれていた。太鼓が遠雷のように打たれる中、子供たちは鷲獅子の旗を中心に集まり、天に祈りを捧げた。匈奴単于国を救う英雄を草原へ遣わすよう、声を揃えて天に懇願した。子供たちの中で最も年長の者が、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます