第二十九話

 二百年前、匈奴フンヌ単于ぜんう国は滅亡の危機に晒された。西からは強大な月氏サカが、南からは始皇帝に率いられた大秦帝国が迫り、匈奴単于国は人と領土を奪われた。匈奴単于国の東に割拠する遊牧民族も、明日は我が身と考えもせずに匈奴単于国を攻撃し、人と家畜を掠奪した。匈奴単于国は三方から侵食され、その大部分が月氏に呑み込まれるかに思われた。


 しかし、時代は匈奴単于国の滅亡を望まず、一人の英雄を誕生させた。


 その英雄は、冒頓ぼくとつ単于と呼ばれている。古の英雄の多くがそうであるように、父殺しの試練を乗り越えて君主の地位を得た。匈奴の男たちを鉄の如き騎兵に鍛え上げ、それまで分裂していた東方の遊牧民を統一した。折しも南方では大秦帝国が覇王はおう項羽こううに滅ぼされ、更に覇王項羽と高祖こうそ劉邦りゅうほうの間で楚漢そかん戦争が勃発した。今なら南から攻められることはないと判断し、冒頓単于は月氏に戦いを挑んだ。数年に及ぶ死闘の末に、月氏の総大首長ムローダを討ち取り、かつてアレクサンドロス大王すらも苦しめた月氏の大軍を、西方の大草原地帯ステップへ押し返した。冒頓単于は勝利を記念し、月氏の総大首長の髑髏で杯を作らせた。


 同じ頃、南では楚漢戦争が終結し、大漢帝国が建てられた。漢帝国の初代皇帝、高祖劉邦を、冒頓単于は最後の大戦の相手と定め、漢帝国へ侵攻した。高祖劉邦は自ら軍を率いて冒頓単于の挑戦に応えた。緒戦は高祖劉邦が優勢であり、冒頓単于は軍を後退させた。高祖劉邦は後退する敵を追い、軍を北へ進めた。冒頓単于は追われて逃げる振りをして、匈奴軍の包囲網の中へ高祖劉邦を誘い込んだ。包囲網の奥深くへ誘い込んだところで合図を出し、冒頓戦法、と後に漢帝国で呼ばれる必殺の戦法を完成させようとした。


 その時、高祖劉邦が軍を止めた。


 何か変だ、と高祖劉邦は気づいた。最強の武人、覇王項羽と戦い、九十九回も敗れるも生き延びた男の勘が、身に迫る危険を察知した。近くの小高い山へ、高祖劉邦は軍を移動させた。山の頂に立ち、彼方を眺めた高祖劉邦は、地平線の向こうに隠れていた匈奴軍の騎兵の大部隊を発見した。後退しても逃げられない、と瞬時に判断し、山上で守りを固めるよう指揮下の軍に命じた。


 冒頓単于は驚愕した。すぐに伏兵に漢軍を包囲するよう命じ、自らも軍の主力を率いて戦場へ急行した。冒頓単于が到着した時、既に匈奴軍は山に篭もる漢軍を包囲し、攻撃を開始していた。数千の騎兵が喊声を上げて斜面を駆け上がるも、漢軍に高所から矢の雨を浴びせられ、少なくない被害を出して退却した。山上に陣取る漢軍の守りの固さを見て、短期戦では攻略は困難と冒頓単于は判断した。兵の損耗を避けるために攻撃を禁じ、包囲を維持して長期戦に持ち込んだ。


 匈奴軍が漢軍を包囲して七日が過ぎた。漢軍が飢えと寒さに苦しみ始めた。凍傷で弓弩を持てなくなる兵が続出し、鉄壁と思われた防御に綻びが生じた。一方の匈奴軍も糧秣の不足に悩まされた。匈奴軍は騎兵、すなわち馬に騎乗した兵士だけで構成されているが、牛飲馬食という言葉があるように、馬は大量に草を食べる。匈奴軍の数万頭の軍馬は、戦場周辺の草を数日で食い尽くした。冒頓単于は後方から秣を運ばせたが、全ての軍馬の胃袋を満たすことは出来ず、ばたばたと馬が倒れ始めた。これ以上の戦いは不可能、と冒頓単于は考え、同じく講和を考えていた高祖劉邦と使者を交わした。匈奴単于国と漢帝国の間で和約が成り、匈奴軍の包囲が解かれた。


 その歴史的な場面が劇で演じられた。高祖劉邦に扮する演者が、冒頓単于に扮する演者へ、兄者、と呼びかけた。匈奴単于国へ貢物を贈ることを条件に、漢帝国の領土と臣民に手を出さないよう求めた。冒頓単于に扮する演者が、高祖劉邦に扮する演者へ、弟よ、と呼びかけた。高祖劉邦と漢軍の兵士たちの勇戦を讃え、高祖が提示した条件が守られる限り、漢帝国の領土と臣民には手を出さないことを約束した。冒頓単于と高祖劉邦は杯を交わし、兄弟の契りを結んだ。


 群衆から歓声と拍手が演者たちへ贈られた。その様子を見て、烏珠留うしゅりゅう単于が刀痕だらけの顔を微笑ませた。実のところ、先程の劇の内容は、烏珠留単于が幼少期に見ていた劇とは異なる。烏珠留単于が幼少の頃に演じられていた劇では、匈奴軍の糧秣が欠乏していたことには触れられず、飢餓に窮した高祖劉邦が一方的に和を求め、冒頓単于の馬前に跪いて命乞いをしていた。烏珠留単于が十になるか、ならないかの頃、烏珠留単于の父が劇の内容を改めた。父は漢帝国から支援を得て単于に即位した男で、漢帝国との関係を重視していた。高祖劉邦が無様に命乞いをした、という内容は漢帝国との関係を損ねると考え、匈奴単于国と漢帝国は助け合うべき兄弟である、という内容に改めさせた。改められたばかりの頃は、不満の声が烏珠留単于の耳にまで届いた。烏珠留単于自身、改められる前の方が面白いと感じていた。しかし、あれから何十年も経ち、その間、匈奴単于国と漢帝国の友好関係が維持されると、父が改めさせた冒頓単于と高祖劉邦の物語を、匈奴単于国の臣民の多くが受け入れた。


 烏珠留単于の側近の一人が、単于、と烏珠留単于に呼びかけた。烏珠留単于の馬に自らの馬を寄せ、烏珠留単于に耳打ちした。烏珠留単于は表情を緊張させた。馬首を返しながら、他の側近たちを集めるよう命じた。


 間もなく右犂汗うりかん王を含む烏珠留単于の側近たちが、烏珠留単于の穹廬きゅうろの前に集合した。蘢城祭ろうじょうさいの最中に自分たちが集められた理由を、側近の一人が烏珠留単于に訊ねた。烏珠留単于は理由を説明した。


「西の王が二人、匈奴の領土へ逃げ込んできた」


 側近たちは騒めいた。烏珠留単于は詳しい事情を説明した。逃げ込んできた二人の王の内、一方は西方のオアシス都市国家群の王の一人で、近くに駐屯する漢軍の将校と諍いを起こし、危害を加えられることを恐れて匈奴単于国まで逃げてきた。もう一方は小さな部族の王で、別の部族から攻撃されて漢軍に助けを求めるも、漢軍は王の救援要請を断り、窮した王は民を連れて匈奴単于国まで逃れ、難民の受け入れを匈奴単于国に求めた。


 この二人の王を匈奴単于国へ受け入れるべきか否か、烏珠留単于は側近らに問うた。小さな部族の王の方は、難民も含めて受け入れるべきであると全員が答えた。都市国家の王の方は、意見が割れた。漢軍と揉めた王を受け入れることは危険である、と右犂汗王が主張した。別の側近が続けて、この王が治めていた都市国家は、かつて匈奴単于国と漢帝国が争奪を繰り返した都市であり、王の亡命を許せば漢帝国を刺激するかも知れない、と意見を述べた。右犂汗王らの意見に、約半数の側近が頷いた。残りの半数の側近は、右犂汗王らの意見を弱腰と非難し、漢軍と揉めた王も受け入れるべきと主張した。双方の意見に耳を傾けた烏珠留単于は、熟慮の末に決断を下した。


「二王を匈奴へ受け入れる。我らを信じて助けを求めてきた者たちを、見捨てることは出来ない」


 烏珠留単于の言葉を聞き、右犂汗王が眉を顰めた。不満げ、というより、心配そうな顔をした。烏珠留単于は右犂汗王に笑いかけた。


「心配するな。以前、漢から領土の割譲を要求された時も、我らは何とか切り抜けた。今回も、何とかなるはずだ」


「そうであることを祈ります」


 右犂汗王は弱々しく微笑んだ。


 烏珠留単于は亡命を希望する二王を匈奴へ受け入れ、そのことを漢帝国へ報告した。都市国家の王が漢軍と揉めた件を改めて調査すること、及び小部族の王が民と共に帰国できるよう取り計らうことを、書簡で漢帝国に求めた。


 数十日後、漢帝国から返書が届いた。漢帝国の文字を解する側近に、烏珠留単于は書簡を読み上げさせた。側近が読み上げ終えると、もう一度、読み上げさせた。本当にそう書かれているのか、側近に念を押した。間違いないと側近が答えると、少しの間、烏珠留単于は沈黙した。他の側近たちを集めるよう、烏珠留単于は命じた。側近たちが烏珠留単于の穹廬の前に集められた。何事だろうと訝る側近たちに、烏珠留単于は漢帝国からの返書の内容を明かした。


「漢は、漢の皇帝に服すべき二王が、漢の下を脱した非を鳴らし、二王を斬刑に処すので引き渡せと、我らに要求してきた」


 側近たちは驚愕した。漢軍と揉めた都市国家の王を引き渡せ、という要求であれば理解できなくもないが、小部族の王を引き渡せ、とは如何なることか。そもそも小部族の王が民と共に匈奴へ亡命したのは、漢軍に救援を断られたからではないか。それなのに、自らの行いを反省するどころか、民を守ろうとしたに過ぎない王を斬刑に処すから引き渡せとは、何と理不尽な要求か。このような要求は容れるべきではない、と側近たちは憤然と主張した。


「この烏珠留も同感である。漢の要求は道義に反する。しかし、二王を引き渡さねば、漢は匈奴へ大軍を送り込んでくるだろう」


 ならば一戦交えるまで、と側近の一人が吼えた。他の側近たちも同調した。匈奴単于国は漢帝国の属国に非ず、道義に反する要求は容れない、匈奴の戦士の誇りを見せてやる、と火を噴くように声を上げた。唯一、右犂汗王だけが反対した。激情に駆られて開戦へ突き進もうとする男たちを、右犂汗王は一喝した。


「愚かなことを言うな。おまえたちは、匈奴単于国を滅ぼすつもりか」


 右犂汗王は騒いでいた者たちを黙らせると、烏珠留単于へ体を向き直らせた。


「お聞きください、単于。我らは漢帝国と戦うべきではありません。今の匈奴は、決して漢には勝てません」


 二百年前、匈奴単于国の英雄、冒頓単于は、漢帝国の高祖劉邦との戦いを、匈奴単于国に有利な形で終わらせた。両国の間には平和条約が結ばれ、毎年、漢帝国から匈奴単于国へ貢物が贈られた。しかし、この平和条約は完璧に履行されたわけではなく、しばしば破られた。漢帝国が貢物の量を誤魔化したこともあれば、匈奴軍が漢帝国領へ侵入して掠奪を働くという事件も起きた。数万騎の匈奴軍が国境を突破して漢帝国へ入り、帝都長安から二百里(約八十キロメートル)も離れていない場所で三十日間も掠奪を繰り返す、ということまで起きた。絹や穀物を貢いでいるにも関わらず、匈奴単于国の侵寇が止まないという事実は、匈奴単于国に対する漢帝国の感情を著しく悪化させた。平和条約の破棄を主張する声が漢帝国の知識人の間で高まり、一方で不完全ながらも長く続いた平和な時代が漢帝国の国力を伸長させた。


 そして、約百年前、大漢帝国の第七代皇帝、孝武こうぶ皇帝が即位した。自らを生まれながらの皇帝と称する若き孝武皇帝は、今日の漢帝国の軍事力が匈奴単于国のそれと同等以上であることを確信し、度重なる匈奴単于国の侵寇を武力で解決することを決意した。衛青えいせい李広りこう霍去病かくきょへいなどの名将に数万の騎兵を預け、匈奴単于国を攻撃させた。匈奴単于国も数万騎を招集して応戦した。戦いは一進一退で推移し、孝武皇帝は戦況打開のために西方の月氏と手を組むことを思いついた。当時の月氏は、アレクサンドロス大王の東征に従軍したギリシア人ヘレネスの子孫の国、千の都市のバクトリア王国と交戦中であり、孝武皇帝が持ちかけた同盟は月氏の女王シャーヒに断られたが、孝武皇帝は月氏との交渉の過程で、匈奴単于国の財政が絲綢の路シルクロード――東洋と西洋を結ぶ交易路からの収入に依存していることに気づいた。


 匈奴単于国の経済に打撃を加えるために、孝武皇帝は絲綢の路の中継点の一つであるタリム盆地へ軍を送り込んだ。タリム盆地は南北を山脈に挟まれた広大な砂漠で、山脈の裾に沿うような形で無数のオアシス都市国家が点在し、東の漢帝国と西の月氏を繋いでいた。孝武皇帝はタリム盆地のオアシス都市国家群の一部を軍に占領させ、漢帝国産の交易品を大量に流通させた。その結果、東西を交易を担う隊商キャラバンがタリム盆地に集中し、匈奴単于国が治めていた草原の交易都市が急速に廃れた。匈奴単于国の財政は悪化し、鉄を始めとする物資の調達に苦しんだ。


 開戦から四十年が過ぎ、孝武皇帝が死んだ。長期間の戦争で漢帝国の経済は疲弊し、更に孝武皇帝死後の権力闘争を制してかく氏一門が帝国を支配した。一方の匈奴単于国も富と強兵を喪失して弱体化し、各地で被支配民の分離独立を許した挙句、内紛を起こして東西に分裂した。


 そういう時代に、後に烏珠留単于となる男児、嚢知牙斯のうちがしは生を享けた。零落した匈奴単于国の君主の座を巡り、父と伯父が争う様を見つめながら幼年期を過ごした。争いは父が率いる東匈奴が劣勢であり、父は起死回生の一手として、積年の敵であるはずの漢帝国に支援を求めた。幼い嚢知牙斯を連れて漢帝国へ入国し、帝都長安で皇帝に拝謁した。


 その時のことを、烏珠留単于は今も鮮明に憶えている。当時の皇帝――妻の仇である霍氏一門を地上から消し去り、漢帝国の経済の立て直しに努めていた孝宣こうせん皇帝に、父は跪いた。兄者、と父は孝宣皇帝に呼びかけた。弟よ、と孝宣皇帝は玉座の上から返した。その瞬間、烏珠留単于は恐ろしい事実に気づいた。


 自分は、人質として差し出されるために、漢帝国へ連れて来られたのだ。


「今の匈奴は――」


 右犂汗王の顔が、下を向いた。


「――偉大な冒頓単于の時代の匈奴と、同じではありません。漢と戦えば、匈奴は滅びます。一時の感情に流されてはなりません。匈奴単于国を守るために、どうか、漢帝国の要求を――」


「我らの父は――」


 烏珠留単于は拳を握りしめた。


「――漢の皇帝を兄と呼んだ。漢と匈奴は兄弟だから、助け合わねばならないと、我らに教えた」


「仰せの通りです。ですから――」


「かくも理不尽な要求を突きつける。それが、兄が弟にすることか。我らの父は、兄を殺して単于に即位した。兄が、道義に反した悪しき人だから、そうした。我らも、そうすべきではないか。漢という悪しき兄と、戦うべきではないのか」


 仰せの通り、と側近の一人が叫んだ。戦おう、と別の側近が拳を振り上げた。戦おう、戦おう、と複数の拳が空へ突き上げられた。戦おう、戦おう、と繰り返される勇ましい声の中で、烏珠留単于は口を開いた。


 烏珠留単于の口は、如何なる言葉を吐くこともなく、閉じられた。


 数十日後、匈奴単于国へ亡命した二人の王が、漢軍へ引き渡された。引き渡しの場へ連行された二王の内、漢軍と揉めた都市国家の王は蒼褪めた顔をしていた。民と共に単于国へ亡命した小部族の王は、引き渡しに立ち会う烏珠留単于へ体を向き直らせると、単于が民を受け入れてくれたことに感謝した。烏珠留単于は王を直視できず、顔を伏せた。二王が漢軍へ引き渡され、檻車の前へ連れて行かれた。檻車とは車輪が付いた檻で、二王は手と首に枷を嵌められ、檻車へ入れられた。檻車が馬に牽かれて動き出した。


 小部族の王が烏珠留単于の方を振り返り、檻車の格子を掴んだ。民のことを頼みます、と王は単于へ叫んだ。民を頼みます、民を頼みます、と繰り返した。檻車の横を歩いていた漢軍の兵士が、大人しくしろ、と格子を掴んでいる王の手を矛の柄で叩いた。


 二王は漢帝国の帝都へ移送され、漢帝国から脱した罪で処刑された。数日後、漢帝国から烏珠留単于へ書簡が送られてきた。書簡を書いたのは漢帝国の軍務長官、王莽おうもうで、漢帝国に対して異心が無いことを示すために、漢帝国へ人質を出すよう要求していた。烏珠留単于は唇を強く噛んだ。怒りを抑え、須卜当しゅぼくとう須卜居次しゅぼくきょじうんへ使者を発した。


 数日が過ぎ、須卜当と云が烏珠留単于の穹廬を訪れた。烏珠留単于は穹廬の中へ二人を入れた。父が孝宣皇帝に跪いたように、須卜当と云に跪いた。驚く二人に、漢帝国が王昭君の娘、云を人質として差し出すよう要求してきたことを伝えた。伝え終えた瞬間、須卜当の手が腰の径路刀アキナスを掴んだ。云は渡さない、という叫びと共に半ばまで引き抜かれた径路刀を、云の手が押さえた。


 風が穹廬の上を吹き抜けた。最初に云が、次いで須卜当が、烏珠留単于の穹廬を出た。愛馬が待つ方へ足を進める云の少し後ろを、須卜当は歩いた。歩きながら、なぜ、と考えた。なぜ、云は遠い異国へ送られねばならないのか。云は匈奴の女として、善良、且つ逞しく生きてきた。悪いことは何もしていない。それなのに、なぜ、かくも過酷な運命をテングリは云に課すのか。なぜだ、と須卜当は青く晴れた天を仰いだ。


 云が愛馬の前で足を止めた。


「須卜当さま」


 肩越しに、云の黒い瞳が須卜当を見た。


「これは、わたしの使命です」


「使命だと」


「わたしの母は、王昭君おうしょうくんです。母は、匈奴単于国と漢帝国の和親のために、祖父に嫁ぎました」


 匈奴単于国では、父が死んで家を相続した男子は、父の妻が自らの生母でない場合に限り、父の妻を自らの妻として娶る。云の母、王昭君は、最初は烏珠留単于の父に嫁ぎ、その死後は烏珠留単于の兄に娶られ、云を産んでいる。


「母は、漢の土地で生まれ、米や麦を食べて育ちました。母から見れば、匈奴単于国は遠い異国のはず。それでも、母は漢を離れ、匈奴に来ました。匈奴と漢の和親のためです。匈奴と漢の和親のために身を捧げること。それが、わたしたち母子の使命です」


「だが――」


 須卜当は下を向き、喉から声を絞り出した。


「だが、おまえは、王昭君の娘だが、単于の子でもある」


「単于の子であればこそ、匈奴の未来のために尽くさねばなりません。今、漢帝国と争えば、匈奴単于国に未来は無い。違いますか?」


 云の言葉に、須卜当は沈黙した。ふんわりと云は微笑し、愛馬へ目を戻した。手を伸ばし、愛馬の頬に触れた。ぱた、と云の愛馬が耳を動かした。


 須卜当の手が径路刀を掴んだ。


 須卜当は云の背中へ近づいた。云の肩を掴み、自らの方へ振り向かせた。驚いている云の胸に、径路刀を鞘ごと押しつけた。


「やる」


 受け取れ、と須卜当は云へ径路刀を強く押しつけた。数瞬、云は目を大きくしたが、すぐに須卜当の手を掴んだ。


「受け取れません」


 径路刀は、匈奴の戦士の精神の象徴である。受け取れない、と云は須卜当の手を押し戻そうとした。須卜当は手に力を込め、押し戻そうとした云の手を押し返した。


「受け取れ。これは、おれの心だ。おまえがどこにいようとも、おれの心は、おまえと共に在る」


「須卜当さま」


「受け取れ。おれの心を、受け取れ」


 より一層に強く、須卜当は云へ径路刀を押しつけた。云の手が、須卜当の手を押し戻そうとすることをやめた。包み込むように、云の両手が径路刀を掴んだ。須卜当は径路刀を離した。云の両手が径路刀を握りしめた。


「ありがとうございます」


 云の眼から、透明な雫が零れた。


「ありがとうございます。こんなにも愛されて、わたしは幸せです」


 ぽろぽろと目から大粒の雫を零しながら、云は精一杯に微笑んだ。


 それから数日して、云は漢帝国へ送られた。云を乗せて南へ進む穹廬を、少し離れた丘の上から黒衣の男が見ていた。男は数日前まで漢帝国にいた。奴隷にされていた匈奴の男女を逃がし、いつものように英雄気分で匈奴単于国へ帰還した男は、己の姪であり妹でもある云が、漢帝国へ人質として送られることを須卜当から伝えられた。男は激昂して須卜当の胸倉を掴み、須卜当を責めた。妻を奪われて平気なのか、それでも匈奴の戦士か、と罵倒した。何も言い返さない須卜当に、更に酷い言葉を浴びせた。


 その時、横にいた盧芳ろほうから殴られた。地面に倒れた男に、おまえが弱いせいだろうが、と盧芳は叫んだ。おまえが弱いから云が奪われたんだ、と叫んだ。男は立ち上がり、違う、と盧芳に吼えた。弱いのは、おれではなく匈奴だ、と殴り返した。おまえだよ、と盧芳は更に殴り返した。云や須卜当は強い大人だから、耐えている。おまえは弱い子供だから、耐えられずに泣き喚いている。だから、本当に弱いのは、おまえだ。そんなこともわからねえのか、と盧芳は拳を繰り出した。


 そこから先のことは、憶えていない。気がついたら、草原で寝ていた。愛馬の黒馬に、赤く腫れた顔を舐められていた。云を見送らなければ、と思い、痛む体を起こした。黒馬に跨り、丘の上へ駆けた。


 だんだんと小さくなる穹廬の列を、黒衣の男は馬上から見つめた。自称、漢の皇帝の子孫、盧芳を乗せた馬が、黒衣の男に近づいた。


輿


 王昭君の子であり、云の叔父にして異父兄である黒衣の男の名を、盧芳は呼んだ。


「会わなくていいのかい?」


 盧芳の顔も、打撲傷で赤く腫れていた。ああ、と黒衣の男、輿は頷き、腰の径路刀を抜いた。径路刀の刃を己の額に当て、引いた。一筋の傷が額に刻まれ、赤い血が流れ出た。盧芳は顔を顰めた。


「おい、それは何の真似だ? まさか――」


「違う。これは、昨日までのおれを弔う傷だ」


 匈奴単于国の男は死者を弔う時、自らの顔を傷つけ、涙の代わりに血を流す。


「昨日までの弱い輿は、盧芳という男に殴り殺された。それを忘れないための傷だ。昨日の輿には決して戻らないという誓いだ」


「そいつは立派なことだが、そんなことで自分の顔を傷つけていたら、母親がくれた綺麗な顔が台無しになるぜ」


「どうせ、おれは長生きは出来ないさ」


 輿は黒衣で刃を拭き清め、径路刀を鞘に納めた。


 云を乗せた穹廬が匈奴単于国と漢帝国の国境を越え、漢帝国の帝都長安ちょうあんに辿り着いた。云は宮殿の奥へ通された。見たこともない豪壮な錦を重ね着した、上品そうな老婦人が云を迎えた。老婦人は通訳を介し、あなたの母は何という名なのか、と訊ねた。


「王昭君、と申します」


 云は答えた。云の答えを聞き、老婦人は目に涙を溜めた。目を閉じて瞼を袖で押さえ、そこから流れ出ようとしたものを袖に吸わせると、改めて云を見て微笑んだ。


「わたしは、姓名を王政君おうせいくんという。そなたの母、王昭君とは一字違いだ。これからは、わたしを母と思うがよい。わたしが、そなたの二人目の母となろう」


 その言葉の通り、王政君は実の娘に接するように云へ接した。云が着ていた羊毛の服を脱がせ、豪奢な錦の衣を着せた。無数の紐状に編まれた云の髪を解き、漢の淑女のように髷を結わせて玉の簪を挿した。果実を醸して作られた美酒を飲ませ、山や海の珍味を食べさせた。云の手に筆を持たせ、文字を教えた。皺だらけの手を云の手に添え、一字一字、愛情を込めて丁寧に教えた。


 云が五十の文字を覚えた頃、王政君は云を連れて王昭君の故郷に行幸した。王昭君を知る老人たちを集め、云と共に王昭君の話を聞いた。云が百の文字を覚えた頃、王昭君が匈奴単于国で如何に過ごしていたか、王政君は云に訊ねた。王昭君が最初の夫の死後、その子供に娶られたことを知ると、可哀そうに、何と野蛮なことを強いられたのか、と王政君は泣いた。なぜ可哀そうなのか、云は全く理解できず、理解できないながらも王政君に寄り添い、王政君を身振り手振りで慰めた。


 云が千を超える文字を覚え、王政君と筆談を始めた頃、王莽を表彰するべきである、という奏上が政府高官から王政君へ出された。王莽とはどんな人なのか、云は王政君に訊ねた。王政君は兄、王鳳おうほうのことを筆で語り、王莽は兄が臨終に際して推挙した男で、人格高潔な甥だ、と云に伝えた。云は、自分にも兄がいるが大して立派な人ではない、と笑いながら筆で語り、続けて自分の甥たちや、匈奴単于国に残してきた夫や子供のことを木簡に書き、王政君に見せた。


 云が王政君との筆談を通して漢帝国の公用語を覚え始めた頃、王莽に仮皇帝かこうていの称号が与えられた。王政君は云を連れて庭園へ出かけた。自分がしたことは本当に正しいのか、と思い悩んでいる王政君の気を紛らわそうと、云は庭園の樹の一本を見上げ、匈奴単于国は雨が少ないので、こういう樹は滅多に見ない、と話した。匈奴単于国の聖なる大樹、蘢城のことを話し、毎年、初夏に行われる蘢城祭のことを話した。最後に参加した蘢城祭の競技で一位になり、烏珠留単于から漢の絹を与えられたことを話した。云の話を聞いた王政君は、云や、と呼びかけた。云に何かを問おうとして、何でもない、と寂しそうに微笑んだ。


 そして、云が漢帝国へ来てから八年後、漢帝国が滅亡した。


 漢帝国滅亡の数日前、王政君が保管していた六璽の引き渡しを求めて、王莽の使者が王政君の前に現れた。齢八十の王政君が、六璽を胸に抱いて時流に抗う姿を、云は間近で見た。王莽の使者、王舜おうしゅんとの問答の末に、ついに六璽が宙へ擲たれた。云は泣き崩れた王政君の体を支え、共に涙を流した。

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