第二章 匈奴襲来

第一節 北狄の樹、南陽の竈

第二十七話

 元后げんこうには、忘れられない人が三人いる。


 元后は姓をおう、名を政君せいくんという。十代前半の頃に他家へ嫁ぐことになるが、結婚前夜に夫となるはずの人が死んだ。その後、漢室出身の大諸侯、東平とうへい王に見初められるという幸運を得るも、輿入れの前夜に東平王は死んだ。


 王政君は呪われた女だ、と人は噂した。父母や弟たちでさえ、気味悪げな目で王政君を見た。王政君自身も、自分は男を不幸にする女だと思い、自室で密かに袖を濡らした。唯一、兄の王鳳おうほう――後に大漢帝国の軍務長官となり、死の間際に王莽を推挙した男だけが、王政君をこう励ました。


 おまえの夫となるはずの男たちが死んだのは、天の思し召しだ。おまえは、東平王よりも遥かに貴い男に嫁ぐ運命にあるのだ。


 王鳳は妹に文字を教え、書物を読ませ、鼓や琴を習わせた。自分を信じてくれている兄のために、王政君は寝食を惜しんで学んだ。


 齢十八の時、王政君は女官として後宮へ送り込まれた。位は最下級であるが、習い覚えた学問や歌舞音曲を評価され、皇太子の世話係に選ばれた。当時の皇太子は一人の美姫だけを深く寵愛し、他の女が根菜の類に見えていたが、ある時、皇太子が寵愛していた美姫が何者かに呪われ、子を産む前に死んだ。皇太子は犯人を捜すよう皇帝に訴えたが、皇帝は訴えを却下した。皇太子は落胆し、寵姫の死を深く悲しみ、身辺から女を遠ざけた。皇后が心配し、早く次の相手を選んで子を作るよう皇太子を急かした。


 その時、偶然にも王政君が部屋の前を通りすぎた。


 皇后が王政君を指し、あの女官はどうかと皇太子に訊ねた。皇太子は王政君という女官に興味は無く、自分の周りをうろうろしている根菜の一つと見ていたが、それで皇后の憂いを取り除けるならと、一夜だけ閨を共にすることを約束した。


 その一夜で、王政君は懐妊した。王政君の父母と弟たちは喜んだ。王氏に春が来た、と浮かれる父母と弟たちを一瞥もせず、王政君は兄、王鳳へ感謝の言葉を述べた。おまえの努力が実を結んだのだ、と王鳳は微笑んだ。


 王政君の懐妊が発覚して数日後、皇太子は寵姫を亡くした悲しみが癒えたのか、また女遊びを始めた。日に日に腹が大きくなる王政君を放置し、毎夜、自らの寝室へ美女を呼び寄せた。やがて王政君は出産の日を迎え、産室で男児を産んだ。自らが産んだ子を腕に抱き、無事に出産を終えられて安堵していると、不意に周囲の女官が床に膝をついた。ようやく皇太子が来てくれたのかと思い、王政君は近づいてくる足音の方へ顔を向けた。


 皇太子ではなく、皇帝の姿が見えた。


 当時の皇帝は、姓名を劉詢りゅうじゅん、後に贈られる諡号を孝宣こうせん皇帝という。劉詢の父は、数多くの伝説に彩られた皇帝、孝武こうぶ皇帝の子で、父帝から皇太子に立てられるも、父帝を呪殺しようとした罪で処刑された。劉詢の母も、祖母も、曾祖母も処刑された。兄と姉も処刑された。産まれたばかりの劉詢だけが民間に匿われて生き延び、十数年後、かく氏一門に見つけられた。霍氏一門は孝武皇帝の死後に権力を独占した一族で、一門の意に副わない皇帝を廃し、次の皇帝となる帝室の男子を探していた。霍氏一門に目をつけられた劉詢は、妻には決して手を出さないことを条件に、霍氏一門の傀儡となることを承諾した。


 しかし、皇帝が霍氏一門と交わした約束は、すぐに破られた。即位から数年も経たずして、孝宣皇帝の妻は毒を盛られて死んだ。霍氏一門の女が新たな后として孝宣皇帝に宛がわれた。孝宣皇帝は怒り、悲しみ、そして、耐えた。霍氏一門の傀儡を演じながら、長い時をかけて味方を増やし、力を蓄えた。機を捉えて粛清を実行し、霍氏一門を地上から消した。妻の復讐を果たすと共に、権力を皇帝の手中に取り戻した。


 出産直後の体を起こして拝礼しようとする王政君を、孝宣皇帝は片手を上げて制した。王政君へ歩み寄り、王政君に抱かれている嬰児を覗き込んだ。嬰児の性別を訊ね、男児であることを知ると、よくぞ産んでくれた、と喜んだ。続けて、皇太子も喜んでいるであろう、と言い、その場に皇太子がいないことに気づいた。皇太子は何処か、と皇帝は王政君に訊ねた。


 その瞬間、何かの糸が切れたように、王政君の目から涙が溢れ出た。


 孝宣皇帝は王政君の涙を見て全てを察した。その子を抱かせてくれ、と王政君に言い、王政君が産んだ子を抱き上げた。皇太子の代わりに、皇太子と王政君の子に名をつけた。異例ではあるが、字もつけた。その字は、太孫たいそん。皇太孫、という意味であり、この子に必ずや帝位を継がせる、という決意を孝宣皇帝は周囲に示した。


 時が流れ、孝宣皇帝が崩じ、孝元皇帝が即位した。王政君は皇后になり、太孫が皇太子に立てられた。


 孝元皇帝の即位から数年が過ぎ、北方の遊牧民国家、匈奴フンヌ単于ぜんう国の君主が漢帝国の帝都を訪れた。この君主は、自らの兄と国を東西に裂いて君主位を争い、一度は窮地に陥るも、漢帝国から支援を得て兄殺しを成した男で、今後も大漢帝国と良好な関係を維持するために、大漢帝国の良家の女を嫁に迎えたいと願い出た。皇帝は了承し、後宮にいる女たちの中から異国へ嫁がせる者を選ぶよう、皇后に命じた。しかし、皇后王政君は、遠い異国へ送られる女を自分が選べば、自分や王氏が女と女の親族から恨まれると考え、宮廷画家に後宮の女たちの絵を描かせ、それを皇帝に見せて異国へ送る女を選ばせた。皇帝は鼻の下を伸ばして絵を眺めて回り、全ての絵を見終えると、群を抜いて醜い女の絵を指し、この女をくれてやれ、と命じた。


 この男は相変わらず、と王政君は呆れながら、皇帝が選んだ女の姓名を確かめた。姓は王、名は昭君しょうくんであると知り、わたしと一字違いだな、と思いながら、異国の君主の嫁に選ばれたことを王昭君おうしょうくんへ伝えるよう女官に命じた。


 王昭君が匈奴単于国へ赴く日が来た。大漢帝国と匈奴単于国の友好が長く続くことを願い、盛大な式典が開かれた。王政君も孝元皇帝と共に臨席した。皇帝と皇后に深く頭を下げている王昭君に、王政君は顔を上げるよう促した。王昭君は顔を上げた。


 宮廷画家が描いた絵とは、別人のような美女が、そこにいた。


 王政君は驚愕した。式典が終わり、王昭君が帝都長安を後にすると、すぐに事情を調べさせた。実際よりも美しく描いてもらうために、後宮の女たちが宮廷画家に贈賄していたことが発覚した。王昭君だけが賄賂を贈らず、そのせいで醜く描かれていたことも発覚した。後宮の主たる皇后でありながら、後宮で行われていた不正を知らずにいた自分を、王政君は恥じた。わたしと一字違いだ、と王昭君に僅かながら興味を抱いた時、なぜ自ら会いに行かなんだかと深く悔いた。まるで流刑に処されたかのように、遠い異国へ送られる王昭君の胸中を想像した。昭君は何も悪いことはしていないのに、と涙で袖を湿らせた。


 匈奴単于国へ送られた王昭君は、数人の子供を産んだ後、二度と故郷の土を踏むことなく死んだ。王昭君の子供たちは、高原を馳せる蒙古馬モウコノウマの背の上で、時に牧羊犬と共に羊群を追い、時に胡羚羊ガゼル山羚羊アイベックスを弓で狩り、時に羊乳を固めたものを食み、時に馬乳を醸した酒を飲み、遊牧民として逞しく成長した。

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