第二十四話

 夜が明けた。東の地平から柔らかく漏れ出でた光が、朝の冷たく清らかな空気を透かし抜け、地上を走る騎影を優しく照らした。白い息を吐いて疾駆する駿馬の背の上で、武曲は僅かに目を細めた。


「湖陽です、弟君」


 武曲は背後に声をかけた。武曲の背にしがみついていた劉秀は、顔を上げて武曲の視線の先を見た。城壁に囲まれた都市が見えた。常識で考えれば、その都市が湖陽であるはずがないが、劉秀は武曲の言葉を信じた。昨夜の出来事に比べれば、陳留郡から南陽郡までの七百里(約三百キロメートル)を五時間で走破することなど、驚くほどのことではないように感じられた。


 武曲と劉秀を乗せた駿馬は、湖陽の城壁を横目に街道を進んだ。東から射し込む朝陽を浴び、きらきらと朝霜が輝いていた。高い塀と深い壕、複数の高楼を備えた小城砦が見えてきた。湖陽県の大豪族、樊重の私邸である。


 武曲は樊重の大邸宅の門前で馬を止め、劉秀を下ろした。


「わたしは劉公をお連れします。弟君は邸へ入られてください。後のことは、樊大公が取り計らってくださいます」


「あの――」


 劉縯は馬上の武曲を見上げた。


「――先生は、何者なんですか?」


 武曲の紅炎色の瞳が、微かではあるが揺れた。


「わたしは、新野の鄧公の食客です」


「誤魔化さないでください。僕は、あなたを初めて見た時から、あなたに惹かれていた。こんなことを言うと、変に思われるかも知れないけど、あなたとは、何か、強い絆で結ばれているような、そんな気がしていた」


 自分は武曲に恋をしている。最初、劉秀はそう考えていた。自らの胸の奥をとくとくと高鳴らせるものを、初恋だと思い込んでいた。相手が男であることに戸惑うも、何代か前の皇帝も美女より美男を愛したのだから、武曲ほどの美少年が相手ならば恋をすることもあるだろう、と自分を納得させていた。しかし、今ならわかる。この胸を高鳴らせるものは、そういう甘やかな感情ではない。


「教えてください。先生は、何者なんですか。あなたは、僕の何なのですか」


 劉秀は武曲の眼を見つめた。武曲の瞳が大きく揺れた。武曲の片頬を、光るものが一粒だけ流れ落ちた。


「あ……」


 熱くなりかけていた劉秀の頭が、水をかけられたように冷えた。


「ごめんなさい。そんなつもりでは――」


「いえ、これは違います」


 武曲は袖で左右の目頭を順に押さえた。


「この涙は、辛くて流れ出た涙でも、悲しくて流れ出た涙でもありません。強い絆で結ばれている。その言葉が、とても嬉しくて、不覚にも流れ出た涙です」


 武曲は袖を目頭から離した。赤く潤んだ眼が、劉秀へ向けられた。


「お許しください。今のわたしは、新野の鄧公の食客。それ以上のことは、わたしの口からは申し上げられません」


「いいえ、十分です。先生の、その眼差しで十分にわかりました。あなたが僕の、特別な人であることが」


 両手を揖礼の形に組み、劉秀は深く頭を下げた。


「どうか、お気をつけて。兄のこと、よろしくお願いします」


「お任せください」


 地面に落ちている馬の影が頭と尾の向きを変えた。馬蹄が鳴り、馬の影が劉秀の影から離れた。劉秀は蹄の音が聞こえなくなるまでそうしているつもりで、頭を下げ続けた。


文叔ぶんしゅく


 遠ざかりかけていた馬蹄の音が、不意に停止した。


「劉文叔」


 武曲の声が聞こえた。劉秀は顔を上げた。武曲に名を呼ばれたような気がした。文叔、という聞き覚えがない言葉が、なぜか自分の名であるように感じた。


「仲間を探されよ」


 赤茶色の斗篷状の外套が、馬上で大きく翻された。馬上から劉秀を顧みている武曲の背後で、地平から顔を出したばかりの朝陽が一際に強く輝いた。


「仲間を。あなたと同じ運命を背負った、二十八人の仲間を。天下りし二十八の星を」


「二十八の星」


 劉秀は呟いた。胸の奥にあるものが、とくん、と大きく動いた。武曲は手綱を引き、愛馬を二本の後脚で立ち上がらせた。


「また会いましょう。さらばです――」


 涙を溜めた紅炎色の瞳を、武曲は凛々しくも柔らかく微笑ませた。


「――兄上」

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