第二十三話

 武曲の愛馬が不意に嘶いた。武曲は周囲を取り巻く異様な気配に気づき、愛馬の轡を取ろうとした手を昆吾割玉刀にかけた。


「劉公」


 武曲は劉縯と劉秀に注意を促した。周りを囲む樹影の向こうで、無数の影が動いた。影の一つが二本の脚で立ち上がり、ほう、と梟のような声で鳴いた。


「野狗子」


 劉縯は体を強張らせた。野狗子の影の向こうに、更に大きな巨人の影が現れた。驚愕のあまり、劉縯と劉秀が声を出せずにいると、巨人の後ろから少年の声が聞こえた。


「おまえのせいだぞ、巨無覇」


 小さな影が巨人の影の横に並んだ。


「見ろ。おまえが暢気に墓なんか作るから、その間に玉璽を拾われたじゃないか」


「その声は――」


 武曲の顔色が変じた。


「――悪来、なのですか?」


 武曲は呟くように問いかけた。今度は青い瞳の少年が顔色を変えた。


「どうして、僕の名を? 僕のことを、知っているのか?」


「よく知っています。あなたのことも、あなたが仕えた王のことも」


「あの人を、知っているのか」


 少年は声を昂らせた。風が流れ、樹と樹の間を半透明の小鳥のようなものが飛び、悪来と呼ばれた少年の斗篷状の黒い外套がはためいた。少年の外套が右肩の上で留められていることに、劉縯は気づいた。少年は足を前へ踏み出し、悲しげに顔を曇らせている武曲に問いかけた。


「教えてくれ。あの人は、どこにいる?」


「わたしの後ろにいる二人の若者を、見逃してあげてください。見逃してくれるのなら、あなたの問いに答えます」


「僕たちの目的は、その玉璽だ。玉璽を渡してくれたら、誰も傷つけたりはしない」


「駄目だ」


 劉縯は叫んだ。


「これは高祖の御霊から託されたものだ。誰にも渡したりはしない」


「巨無覇」


 武曲から目を離さないようにしながら、青い瞳の少年が背後の巨人に呼びかけた。


「あの赤いのは僕が抑える。おまえは、玉璽の方を頼む」


 巨人が頷いた。少年は右肩に担いでいた二本の戟を、右手と左手に持ち直した。刃から柄まで全て鉄で出来たそれを、片腕で軽々と一振りした。


「あなたの直刀、どうやら特別製のようだけど、この戟も負けてないぞ。なぜなら――」


「その戟は、あなたの王があなたのために、天から落ちてきた隕鉄を鋳て造らせたものだから」


「……本当に、僕たちのことを、よく知っているんだな」


「考え直してはもらえませんか?」


「悪いけど、玉璽を譲ることは出来ない!」


 少年は地を蹴り、武曲へ突進した。少年の右手の戟が斜めに振り下ろされた。武曲は跳び退き、地上の影を戟に斬らせた。地面が戟に打ち砕かれ、生じた衝撃が武曲の足下を走り抜けた。武曲は怯むことなく昆吾割玉刀を鞘走らせた。少年は手首を翻し、眼前に迫る赤い刀身を戟の柄で受けた。硬い玉を泥のように割く刃が、天から落ちてきた隕鉄の柄に受け止められた。少年は戟を振り、武曲の体ごと赤い刀身を払い除けた。


「巨無覇」


翻羽ほんう


 右の戟を振り回しながら、少年は巨人の名を呼んだ。後ろに跳んで戟を躱しながら、武曲は愛馬の名を叫んだ。巨人が重々しく足を踏み出し、武曲の愛馬が軽やかに劉縯へ駆け寄った。劉縯は劉秀の肩を借りて立ち上がり、馬の背に攀じ登ろうとした。そうはさせじと野狗子の群れが武曲の愛馬に襲い掛かった。武曲の愛馬は後脚で立ち上がると、前方から跳び掛かってきた野狗子の頭に前脚を振り下ろし、更にその勢いを利用して今度は後脚を跳ね上げ、後方の野狗子の顎を蹴り飛ばした。武曲の愛馬の意外な武勇に驚き、野狗子は一斉に退いたが、劉縯は馬の背から振り落とされた。


「秀」


 地上で足掻く劉縯に巨人の足音が迫った。劉縯は胸に抱えていた伝国璽を劉秀へ押しつけた。


「これを持って逃げろ。伝国璽を守るんだ」


「嫌です」


「秀」


「一緒に戦うと誓いました。決して、兄上を一人にはしません」


 劉秀は巨人の前に立ち、剣を構えた。巨人は足を止め、劉秀へ右腕を伸ばした。劉秀は剣を突き出した。巨人は無造作に剣を掴み止めて圧し折ると、劉秀の胴体を両手で掴んで持ち上げた。


「秀!」


 劉縯は叫んだ。必死に地面を手で探り、手に触れた石を掴むと、こいつめ、秀を放しやがれ、と巨人へ投げつけた。巨人は気にも留めず、劉秀の体を自らの目の高さまで持ち上げた。巨人の手を叩いて必死に抗う劉秀を、巨人は見つめた。数秒の間を置き、巨人の口が動いた。


「あ、い、あ、お、う」


「……え?」


 劉秀は巨人の手を叩くことをやめ、巨人の顔を見た。巨人は腰を屈め、劉秀を静かに地上へ下ろした。再び立ち上がる巨人の影を、劉縯と劉秀は呆然と仰ぎ見た。巨人は野狗子の群れへ向き直り、二人を守るように両腕を広げた。野狗子の群れがたじろいだ。青い瞳の少年が、戟を縦横に振り回して武曲を跳び退かせながら、不可解な動きをする巨人を見上げた。


「何をしている。早く玉璽を奪え」


 巨人は頭を横に振り、少年の指示を拒絶した。少年は声を荒げた。


「僕の言うことが聞けないのか」


 巨人は激しく頭を振り、少年の声に抵抗した。少年は周囲の野狗子に命じた。


「あの二人を殺せ」


 野狗子の群れが動いた。巨人は野狗子らの前に立ち塞がり、跳び掛かってきた野狗子の頭を手で掴んで握り潰し、股の下を潜り抜けようとした野狗子の背を足で踏み潰した。巨人の足の横を三匹目、四匹目の野狗子が走り抜け、劉縯と劉秀に迫った。月光の中を昆吾割玉刀が閃き、二匹の野狗子の首が同時に飛んだ。


「巨無覇、どうして」


 少年は巨人を見上げた。少年の青い瞳に悲しみの色を見出し、巨人は辛そうに顔を歪めた。その辛さを振り切るように、巨人は少年へ突進して拳を振り下ろした。少年は右腕を上げて拳を受けた。ずしりと少年の踵が地面に沈んだ。


「……ああ、そうか」


 少年は気づいた。青く澄んだ眼差しを、少年は劉縯と劉秀へ向けた。


「あの二人が、おまえを助けてくれたのか」


 巨人が更に拳を振り下ろした。少年は左右の戟を離し、振り下ろされた拳を左右の手で掴んだ。


「すまない、巨無覇」


 巨人の体が宙に浮いた。自身の何倍も大きな巨人を、少年は投げ飛ばした。巨人は背中から地面に叩きつけられた。巨人の体が、少年の手で持ち上げられた。頭上に持ち上げた巨人を、少年は劉縯らの方へ投げた。武曲が咄嗟に劉秀を抱えて跳び、武曲の愛馬が後に続いた。骨折して動けない劉縯だけが取り残された。


「兄上!」


 取り残された兄へ、劉秀は手を伸ばした。目を瞠ることしか出来ずにいる劉縯を、巨人の影が覆い隠した。地響きが轟き、辺りが土煙に覆われた。巨人の体は劉縯から逸れた。地面に伏せて呻く劉縯の首筋に、戟の刃が突きつけられた。


「玉璽を渡せ。玉璽を渡せば、命までは取らない」


「嫌だ」


「言うことを聞け。この大きいのは、僕の弟のようなものだ。悲しませるようなことはしたくない。おまえも弟がいるなら、わかるだろう?」


「嫌だ。これは高祖のものだ。絶対に渡さない」


「強情なやつめ。なら、おまえの腕ごと渡してもらう」


 少年は戟を振り上げた。


 その時、風が吹いた。


 半透明の小鳥のようなものが少年の頭上を無数に飛び、周囲の樹影の間を白い光が走り抜けた。風に紛れて迫る何かの気配を感じ取り、少年は反射的に背後の闇を戟で斬り上げた。隕鉄の刃が白い光と交錯した。白い影と、切り裂かれた白い頭巾が別々に宙を舞い、二つに断ち割られた青銅の面が地上に落ちた。


 直後、青い翼が少年の後ろを風のように通りすぎた。少年が気づいた時、劉縯の体は空の上、有翼鹿身の一角獣の背の上にあった。


「あれは――」


 少年は目を見開いた。少年の青い瞳に、一角獣の青い翼が映り込んだ。一角獣は翼で風を打ち、風を猛らせた。激しく擦れ合う風の音が、人の言葉を紡ぎ出した。


 悪来、我が息子よ。なぜ戟を置き、頭を垂れぬ。我らが唯一無二の君主、朝歌ちょうかの真白き神聖王の御前であるぞ。


「僕たちの、真白き王……?」


 武曲と劉秀の前に舞い降りた白い影を、青い瞳の少年は凝視した。劉縯も一角獣の上から呆然と見下ろした。ヤマネコに似た形の銀色の瞳と、肩に触れる程度の長さの銀髪。その二つを除けば、武曲と寸分も違わない美貌が、月の光に照らされていた。


「破軍、なのか?」


「また会ったな、舂陵の劉伯升」


 右手の白い光剣を一振りし、白い少女が愉しげに目を細めた。


「それに――」


 貍に似た形の瞳が、劉秀の方へ動いた。


「――三羽の白兎も」


 少女の銀色の瞳が、劉秀の顔を映した。劉秀はぞくりとした。武曲と同じ顔、同じ背丈のはずなのに、どういうわけか恐怖を感じた。


「助かりました、破軍」


 劉秀を守るように、武曲が破軍と劉秀の間に体を割り込ませた。青い瞳の少年の方へ向き直りながら、破軍は赤い瞳の武曲を見た。


「頼まれていた仕事は果たした」


 仕事とは、舂陵侯が叛乱に関与していたことを示す証拠の隠滅である。


「悪来のことは、破軍に任せてもらう」


「あなたに任せます。わたしに何か手伝えることは?」


「ない。が、その気持ちは嬉しい。ありがとう――」


 破軍は口の端を微かに綻ばせた。


「――兄さま」


 空の上で聞いていた劉縯は驚いた。当の武曲も驚いたように目を大きくしたが、すぐに愛馬の背に跳び乗ると、劉秀の体を鞍上へ引き上げた。破軍の背中を見つめながら、左右の手を胸の前で複雑に組み合わせた。両手の小指と薬指を折り曲げて組み合わせ、人差し指を伸ばして合わせ、中指を人差し指に絡め、掌と掌の隙間を埋めるように親指を並べ合わせた。


摩利支天の加護があらんことをオン・マリシエイ・ソワカ


 武曲の言葉に、破軍は左手で応じた。左手の中指と人差し指を揃えて伸ばし、小指と薬指と親指を折り曲げた。


尊星王の加護があらんことをオン・ソヂリシュタ・ソワカ


 野狗子の群れが武曲と破軍を遠巻きに囲んだ。ぐるぐると威嚇の声を闇の中に響かせたが、破軍に銀色の瞳で一瞥されると、耳を倒して体を低くし、後ろへ下がる素振りを見せた。ぞりぞりと何かを引き摺る音が、二匹の野狗子の間を通りすぎた。二本の戟に地面を掻かせながら、青い瞳の少年が破軍の前へ進み出た。


「おまえが、僕たちの王?」


 半透明の小鳥のようなものが無数に飛び、少年と破軍の間を風が流れた。少年の黒色の外套と、破軍の白色の外套が緩やかに揺れた。


「違う」


 小鳥のようなものが向きを変え、少年の周りを回り始めた。


「おまえは、あの人じゃない」


 風が烈しく、渦を巻くように吹いた。少年の黒色の外套が風を孕んで膨らみ、砂のように細かく裂けて千切れ飛んだ。鴉のように黒い衣と、漆のように黒い革鎧が、風に崩れて飛ばされる外套の下から現れた。


「悪来」


 破軍の左手が、白色の外套の紐を解いた。風に煽られて外套が彼方へ飛び去り、腰の右と後ろの剣が月下に晒された。


「予の可愛い悪来」


 腰の右の剣に、破軍は左手をかけた。鞘から引き出された剣身は、夜よりも暗く深い闇で出来ていた。破軍の右半面を右手の光剣が白く照らし、左半面を左手の闇剣が黒く翳らせた。


「伝国璽を手に入れたくば、予と戦え。予が汝の王であるか否かは、その戟で確かめろ。憶えているはずだ。汝が慕う暴君は、戦うことでしか己を表せない」


「あの人に立ち向かえない者が、あの人を暴君を呼ぶな!」


 割れるほどに地面を強く踏み、少年は破軍に突進した。力任せに振り下ろされた二本の戟を、破軍は左右の剣で受けた。激突の衝撃が辺りの梢を震わせ、破軍の足下の地面を砕いた。怯えて身を伏せた野狗子らの上を、武曲の愛馬が飛鳥のように跳び越えた。


「先生、兄上が――」


 武曲の愛馬の上で、劉秀は兄を乗せた一角獣を振り仰いだ。武曲は手綱を操りながら応じた。


「劉公は脚を折っておられます。空の上の方が、わたしたちと劉公、どちらにとっても安全です」


「でも――」


「大丈夫です」


 樹影の間で鋭く閃き、時に樹影を斬り倒す光剣の軌跡を、武曲は肩越しに一瞥した。


「あの子は、負けない」


 斜めに振り下ろされた光剣が、少年の戟に防ぎ止められた。少年は光剣を押し返し、破軍の胴を戟で薙ごうとしたが、破軍は戟の動きに合わせて舞うように跳び退き、続けて繰り出された連撃を後ろへ跳んで躱しながら、右手の光剣を横に一閃させた。樹影が斜めに斬り裂かれ、少年の前を塞ぐように傾いた。少年は躊躇うことなく地面を蹴り、倒れる樹を肩で撥ね飛ばして突進し、右の戟を叩きつけた。破軍は両の剣で受けた。戟の鶴嘴状の刃が破軍の銀色の髪を掠めた。少年は立て続けに左右の戟を繰り出した。破軍は緩急をつけて後退し、戟に最適な間合いを巧みに外しながら、左右の剣で戟を弾き、受け流した。逸らされた戟が樹を抉り、岩を砕いた。少年は決定打を求めて距離を詰め、右の戟を突き込んだ。破軍は身を伏せて刺突を避け、両の剣で少年の足元を薙いだ。少年は上に跳んで躱し、着地に合わせて二本の戟を振り下ろそうとしたが、破軍は戟が二本とも頭上に振り上げられた一瞬を見逃さず、少年の胴に蹴りを入れた。少年は後ろへ吹き飛ばされた。背中から地面に落ちないよう、咄嗟に宙返りして着地し、間髪入れず眼前に迫る光剣を、戟の柄で受け止めた。破軍は光剣と戟の接点を支点にして少年の体を跳び越え、越えながら空中で前転し、少年の頭上から闇剣を浴びせた。闇剣は少年の耳のすぐ横で防がれた。破軍は少年の背後に着地し、少年は振り返り様に破軍の背へ戟を振り下ろした。破軍は光剣を頭上に舞わせて戟を払い除け、続いて繰り出された一撃を振り向きながら闇剣で受けると、剣身を滑らせて剣の鍔で戟の柄を叩いた。少年は体勢を崩した。破軍の光剣が鋭く閃き、少年の右手から戟を弾き飛ばした。少年は後ろへ跳んで破軍の間合いの外へ逃れ、戟を両手で構え直した。


「もうよかろう」


 少年の手から飛んだ戟が、ずしんと破軍の足許に落ちた。重さ八十斤(約二十キログラム)以上のそれを、破軍は少年の方へ小枝のように蹴り飛ばした。


「予が何者であるか、かつて何という名で呼ばれていたか。これで十分に知れたはずだ」


「おまえは、あの人じゃない」


「ならば、なぜ悪来は予を恐れている?」


「恐れてなんかいない」


「悪来は勇者だ。悪来は如何なる敵も恐れない。死でさえも、悪来を恐れさせるに足りない。もし、悪来が恐れることがあるとすれば、それは一つだけ」


「何度も言わせるな。僕は、恐れていない」


 手中に残されている一本の戟を、少年は強く握りしめた。何かに圧されているような苦しさを胸の奥に覚えていた。猟犬に追われる仔鹿のように心臓が鼓動していた。冬であるにも関わらず、額に汗が滲んだ。


「僕は、恐れていない」


 ずし、と大きな足音が少年の背後で響いた。顔を掻く梢を掻き分け、巨人の影が少年を守るように前へ出た。少年は巨人の背を見上げた。


「やめろ。おまえが敵う相手じゃない。下がれ」


 巨人は近くの樹を掴んだ。ばきばきと音を立て、樹が地面から引き抜かれた。ほう、と破軍は目を細めて息をついた。


「健気だな。本当は、怖くて怖くて堪らないだろうに、それでも立ち向かう様は、初めて戦場を共にした時の小さな悪来を思い出す」


 巨人が樹を頭上に振り上げ、咆哮と共に振り下ろした。破軍はひらりと後ろに跳んで躱した。巨人は破軍を追いかけて足を前へ踏み出し、樹を横に薙いだ。巨人の一撃は破軍に届く前に、周りを囲む樹々に塞き止められた。


「そういえば、あの時、戦いを怖がる悪来に、あの邪悪な者は教えたな」


 再び巨人が樹を振り上げ、振り下ろした。ずしん、と地面が揺れ、振動で土が舞い上がり、次の瞬間、破軍が巨人の肩を軽く跳び越え、少年の前に着地した。


「敵と戦う時は、まず敵を恐れ慄かせよ。それが出来なければ、敵を驕り高ぶらせよ。もし敵に恐れ慄いたなら――」


 破軍の背後で、巨人が樹を振り上げた。破軍の銀色の瞳が、肩越しに巨人の顔を見た。


「――恐れ慄いたなら、何だったかな」


 破軍の背へ、樹が根の方から振り下ろされた。破軍は横へ跳んで避けた。避けながら、右手の光剣をくるりと回し、逆手に持ち直した。剣を持ち直した意味を察し、少年は咄嗟に足許の戟を掴んだ。


「巨無覇!」


 少年は破軍へ突進した。破軍は巨人の手へ跳び、腕へ跳び、頭上へ跳んだ。少年は破軍を追って地面を蹴り、今まさに巨人の眉間に光剣を突き立てようとした破軍の背へ、二本の戟を横殴りに叩きつけた。破軍は体を捻り、光剣と闇剣で戟の刃を防いだが、衝撃で横へ吹き飛ばされた。少年も反動で体勢を崩し、頭を下にして地面に落ちたが、両腕を伸ばして左右の拳で着地すると、くるりと前転して手と足の位置を入れ替えた。


「逃げるぞ」


 空中で体勢を立て直し、危なげなく地上へ降り立つ破軍を視界の端に捉えながら、少年は巨人に叫んだ。巨人は頷き、少年と共に破軍に背を向けて走り出した。指笛の音が響き渡り、周囲に潜んでいた野狗子の気配が少年の後に続いた。


「追うな」


 破軍は両手の剣を両腰の鞘へ納めた。一陣の風と共に、劉縯を乗せた有翼鹿身の一角獣が破軍の傍らに舞い降りた。


「息災であることが確かめられた。今は、それだけでよい。それだけで」


 一角獣が頭を垂れた。破軍は一角獣の角に触れた。破軍の周りを半透明の小鳥のようなものが飛び、風が破軍の髪と衣を僅かに揺らした。破軍は一角獣の背の上の劉縯を見た。


「久しいな、というほどでもないか。別れてから、まだ百日も経てはいないのだから」


「そうか。あれから、まだ百日足らずか」


 東平王国で行われた翟義軍の閲兵式のことを、劉縯は思い出した。あの時は四万の兵がいた。翟義の姿は太陽のように強く輝き、皇帝劉信も眩い光彩に包まれていた。自分たちの前途に敗北は無いように思えた。大漢帝国の再生は必ず成ると信じていた。


 あの日から百日も経たずして、東平王国は炎上し、四万の兵は消えた。翟義の行方は判らず、皇帝の生死も定かではない。


「負ければ、何もかも失う。戦いとは、そういうものだ」


 破軍が瞼を閉じた。劉縯は破軍の面輪を見つめた。冴々とした銀色の髪のせいか、武曲よりも白く冷たいように感じられたが、それらを除けば鏡に映したように武曲によく似ていた。


「あんた、何者なんだ?」


 劉縯は破軍に訊ねた。何も聞こえていないかのように、破軍は口も瞼も開かない。


「悪来と、あんたや武曲は呼んでいたな。あの青い目をした子供を、悪来と」


 悪来、という不吉な響きの名に、劉縯は聞き覚えがあった。千年前に滅びた神聖王朝、その最後の王に仕えた勇者の名が、悪来ではなかったか。


「あんた、まさか、殷の――」


 黙れ、と風が吼えた。小鳥のようなものたちが四方へ散り、劉縯の視界が一転した。劉縯は風に吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。痛みに呻く劉縯の頭上で、再び風が鳴り響いた。


 我が王を、その忌まわしき名で呼ぶは許さぬ。


「なるほどな」


 劉縯は体を起こし、有翼鹿身の一角獣を見上げた。


「あんたが飛廉ひれん。あの悪来の父で、これを――」


 右手に掴んでいた伝国璽を、劉縯は顔の前に持ち上げた。


「――作らせた男の先祖か」


「やはり知っていたか。飛廉のことも、悪来のことも、大昔の予のことも」


 善を損ねるもの。千年前、そう呼ばれた怪物が、美しい少女の姿で劉縯を顧みた。劉縯は伝国璽を掴んでいる右手を下ろし、改めて銀色の瞳の少女を見た。


「だが、何でだ。その、最後の殷王は、千年も昔に斃された。それに、あの王は男のはずだ」


「この体は――」


 自身の胸の微かな膨らみに、破軍は手を当てた。


「――天が下した罰だ」


「罰?」


「大昔の予は、女を愛しすぎた。だから、愛した女と一つになれない体にされた。もっとも――」


 くす、と破軍は可愛らしく微笑した。


「――時には男も嗜むようになった、というだけで、今も女が好きなことに変わりはないがな」


「……懲りないな」


 劉縯は苦笑した。古代神聖王朝の暴君が、常軌を逸した愛情を九尾の女狐に注いでいたことは、古の賢者の多くが批判的に言及していることである。


「それで――」


 劉縯は地面に手をついた。上体を起こそうとして、折れた左脚に痛みが走り、う、と小さく呻いた。


「――千年も前に死んだ男が、何でこんなところにいるんだ?」


「それは――」


 破軍の白く細い手が、自身の微かな膨らみから離れた。


「――知らない方がよかろう」


「どうしてだ?」


 左脚に痛みが走らないよう注意しながら、劉縯は上体を起こした。破軍の銀色の瞳が劉縯を見た。劉縯を映した瞳の奥の瞳孔が、光を見た貍のように縦に細められた。


「伯升」


 破軍の右手が上がり、掌を上へ向けながら劉縯の方へ伸びた。


「伝国璽をよこせ」

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