第二十五話

「どういうことだ」


 劉縯は反射的に伝国璽を体の後ろに隠した。劉縯の体の後ろから微かに漏れる、常人には視えない翡翠色の光を、破軍は銀色の瞳で見た。


「それは、伝国璽は、汝が持つべきものではない」


「知っている。伝国璽は高祖のものだ。おれたちは、預けられたに過ぎない。伝国璽を大漢帝国の正統な皇帝に伝えることが、おれたちに課せられた使命だ」


「おれたち、か」


 破軍は呟いた。破軍の後ろに控えていた有翼鹿身の一角獣が、青色の翼を広げた。風が吹き、ざらざらと地上の落ち葉が流れた。破軍は右手を軽く上げ、力で伝国璽を奪おうとした忠臣を制した。


「伯升、汝の弟、名は秀といったか。あれとは縁を絶て」


「何だと」


「あれは、予や武曲の同類だ。汝が深く関わるべきではない」


「最初から慣れている、という話か? それが何だというんだ。おれもいつかは慣れる。あんたと同じように、人を殺せるようになるさ」


「伯升」


 破軍の声が、重く冷たい響きを帯びた。


「伝国璽を置いて南陽へ戻れ。予と武曲と、あの兎は、こちら側の道しか歩めない。汝は違う。今ならまだ引き返せる。我らとは異なる道を歩むことが出来る」


 破軍は改めて劉縯へ右手を伸ばした。破軍の声音に感応したかのように、辺りの空気が重さと暗さと冷たさを増した。劉縯の視界の中で、破軍の姿が実像以上に膨らんだ。


「伯升、伝国璽をよこせ」


 先の言葉を破軍は繰り返した。決して大きくはない破軍の声が、まるで地鳴りのように劉縯の耳に轟いた。目の前に差し伸べられた右手と、その奥で底光りしている銀色の双眸から、劉縯は目を逸らせなくなった。


「剣を捨て、土を耕し、女を迎え、子を愛でよ。我らには歩めない道を歩め。こちら側へは決して来るな。汝の弟も、自らの運命を知れば、汝が剣を捨てることを望むであろう」


「ふざけるな」


 破軍から受ける圧力に抗い、劉縯は叫んだ。


「何が運命だ。おれたちが歩く道を、あんたが勝手に決めるな」


「伯升」


「二人で戦うと決めたんだ。秀と二人で決めたんだ。この先、何があろうと、おれは決して秀を一人にはしない。それに――」


 劉縯の目の端に、光の粒が生じた。


「――おれは、人を殺した。この手で、母上がくれたこの手で、人を殺した。おれはもう戻れない。戻るわけにはいかないんだ。成し遂げるしかないんだ」


 こちらを威圧する暴君の目を、劉縯は見返した。灼けるようで凍えるような数秒間が過ぎた。不意に破軍の眼光が和らいだ。


「ああ、そうか」


 破軍は右手を下ろし、顔を俯かせた。


「破軍はまた、ほんの少しだけ、遅かったのか」


 銀色の髪が破軍の目を覆い隠した。先程、四方へ散じた小鳥のようなものが、破軍の周りを風と共に飛び始めた。有翼の一角獣が破軍へ歩み寄り、四肢を屈めて頭を垂れた。破軍の手が一角獣の背の上に置かれた。


「そうか。あの白兎と、二人で戦うのか」


 一角獣の背の上に、破軍は腰かけた。一角獣が四肢を伸ばして立ち上がり、両の翼を広げた。破軍は夜空へ顔を向け、北の空の中心で輝く星へ右腕を伸ばした。


「それもよかろう」


 ざ、と地上の落ち葉が風で鳴り響いた。夜空の彼方へ飛ばされた破軍の白色の外套が、どこからともなく飛んできて破軍の右腕に巻きついた。


「所詮、汝は定命の者。限られた命を生きるもの。どのように生きようとも――」


 破軍は腕を翻し、白色の外套を肩に羽織ると、ころりと鈴を転がすように微笑した。


「――どうせ、いつかは死ぬのだから」

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