第十六話

「なりません、仮皇帝。翟義に屈してはなりません」


 王舜は王莽の前に身を進めた。


「翟義が伝国璽を手に入れた。それが何だというのです。伝国璽が皇帝の証であるというのなら、始皇帝から伝国璽を受け継いだ二世にせい皇帝は、どうして亡びたのですか。高祖から伝国璽を奪った項羽は、どうして亡びたのですか」


 二世皇帝は始皇帝の子で、大秦帝国の二代目の皇帝であるが、その力量は乱世を終わらせた父に遠く及ばず、父の死後、三年で帝国を崩壊させた。覇王項羽は高祖劉邦の最大の敵の一人であり、一時は高祖を降伏させ、その後の再戦でも高祖を圧倒したが、最後の一戦に敗れて亡んだ。


「伝国璽は皇帝の証に非ず。持つ者を破滅させる、呪われた器物です。それが証拠に、伝国璽を手に入れた者たちの中で破滅せずに済んだのは、早々に伝国璽を手放した高祖だけではありませんか」


 王舜の言葉に周囲は響いた。確かに、と甄邯が動揺しながらも頷き、そうではあるが、と劉歆が困惑して眉を寄せた。王舜は両手を揖礼の形に重ね合わせ、床に膝をついて声を張り上げた。


「臣、舜に宮中の警護をお命じください」


 漢帝国の帝都周辺は、かつて秦帝国が首都を置き、後に高祖劉邦が覇王項羽と再戦した際に本拠とした地域である。始皇帝が作らせ、高祖が受け継いだ伝国璽が、再び世に出たことが知れ渡れば、翟義に同調して叛乱を起こす者が出る可能性がある。


「どうか、舜に長安を守らせてください。たとえ百万の族が押し寄せようとも、聖上と仮皇帝には指一本とて触れさせません」


「よくぞ仰せられた」


 孫建が自らの膝を叩いた。


「安陽侯が長安を守るのであれば、なぜ後顧の憂いがあろうか。仮皇帝、この孫建に翟義を伐てと命じてくだされ。後ろを顧みて憂いが見えねば、孫建は敵を求めて進むのみ」


 待たれよ、と甄邯が滾りに滾る孫建を止めた。翟義の兄の娘が南陽郡の舂陵劉氏に嫁いでいることを挙げ、舂陵侯の挙兵に備える必要性を説いた。挙兵に備える具体的な策を幾つか王莽に献じた。甄邯の献策に対して、孫建が現場で指揮する将軍として意見を述べ、劉歆も学者として口を挿んだ。


 翟義挙兵の翌月、翟義が送りつけた檄文の内容に動揺する政府高官を、王莽は宮城の広間に集め、自らが作成した文書を読み上げた。この文書の中で、王莽は皇帝の成人と同時に仮皇帝を辞すことを約束し、人心の動揺を鎮めた。


 文書公表の翌朝、奮武ふんぶ将軍に任命された孫建が、六名の将軍と数千の兵を率いて帝都を出発した。孫建は帝都の東にある都市、洛陽で軍を編成し、翟義の叛乱を鎮圧することを予定していた。これと並行して、南陽郡にも牽制のために帝都から将校を送り、更に孫建が敗れた場合に備え、帝都と洛陽の間にある函谷かんこく関、及び帝都と南陽郡の間にある関の守備を固め、予備兵力として甄邯が率いる大軍を帝都の城外に駐屯させた。


 孫建が洛陽へ出発してから数日後、王舜が危惧していた通り、帝都の周辺、それも帝都から九十里(約三十八キロメートル)も離れていない場所で叛乱が起きた。叛乱軍は瞬く間に十万人以上に膨れ上がり、都市を襲撃して官吏を殺し、市街に放火した。その煙が帝都長安の城壁上からも認められた。三歳の皇帝を胸に抱き、宮城の高楼から彼方の黒煙を見た王莽は、怖がる皇帝に優しく語りかけた。


「何も怖がられることはありません。仮皇帝がついております。大漢帝国は、この仮皇帝が命を懸けて守ります」


 同じ頃、翟義軍が本拠地に定めた東平王国では、本格的な出陣を間近に控え、将兵の士気を鼓舞するために閲兵式が行われていた。皇帝劉信と共に城壁上に姿を現した柱天大将軍翟義は、城外に整列した四万人の将兵を一望すると、自らが書いた檄文を改めて読み上げた。


「王莽は先帝を毒殺し、皇帝の権を奪い、大漢帝国を絶やそうとしている。帝国の忠良なる臣民よ、忠義を見せるは今である。共に起ち上がり、逆臣王莽に天誅を下そう」


 翟義は更に当面の基本的な行動指針、及び具体的な作戦行動を説明した。翟義が何を話しているのか、兵士たちは半分も理解できなかったが、とにかく自分たちには想像も出来ないような凄いことを話しているのだと思い、気分を高揚させて歓呼の声を上げた。将兵の興奮が十分に高まった瞬間を見計らい、翟義は拳を天に突き上げた。


「我に続け、勤皇の志士らよ。正義は我らにあり。大漢帝国よ、永遠なれ。千秋万歳」


 千秋万歳、と将兵は翟義に続いて唱和した。千秋万歳、千秋万歳、と何度も繰り返す将兵の列の中に、劉縯も数百人を率いる隊長の一人として並んでいた。鉄製の小札を革紐で綴じ合わせた小札鎧ラメラーアーマーに、同じく小札を綴じて作られた鉄冑という出で立ちの劉縯は、周りに合わせて拳を空へ突き上げながら、城壁上の翟義に目を凝らした。翟義の隣には、翟義よりも遥かに美々しい甲冑を着た皇帝劉信がいた。しかし、一応は最高指導者であるはずの皇帝劉信の存在感は、柱天大将軍の翟義――二十歳で二千石の高官に任命され、以後、弘農こうのう太守、河内かだい太守、せい刺史しし、東郡太守などを歴任した才人の輝きに圧倒され、注意せねば目に入らないほどに霞んでいた。


「柱天大将軍、か」


 劉縯は呟いた。かつて帝都で勉学に励んでいた頃、衛兵を率いて帝都の大路を進む執金吾の勇姿を、男とはかくあるべし、と羨望の眼差しで仰いだ。その時と同じ目で、劉縯は翟義を見上げた。


 その日の夕刻、劉縯は東平城外に仮設された布張りの兵舎で、剣の手入れをしていた。


 閲兵式の興奮が、胸の中で生きていた。


 高祖劉邦の子孫として生まれた。だから、その生まれに恥じない人間でありたい。幼い頃から、劉縯はそう思い続けてきた。そうなれない自分に絶望し、自暴自棄を起こしたこともある。だからこそ、大漢帝国に危機が迫ることがあれば、帝国のために身命を擲とうと心に決めていた。そのように生きることだけが、一度は道を踏み外した自分が、自らの生まれに恥じない人間になれる唯一の方法だと信じていた。


「そうだ。おれは、高祖の子孫だ」


 剣を磨いていた手を、劉縯は止めた。


「おれは、高祖の子孫だ。それだけだ。それだけが、おれという男の全てだ」


 高祖の子孫としての義務を全うする。正しかろうと正しくなかろうと、舂陵の劉伯升はそのようにしか生きられない。そのように生きねば、劉伯升という男に意味は無い。そのことを、破軍という名の白い少女は理解してくれていた。多分、あの梟のように目が大きな儒者も、理解してくれるだろう。だから、自分は満足だ。母や弟たちに理解してもらえなくても、満足だ。そう自らに言い聞かせ、劉縯は再び手を動かし始めた。


 南陽郡から連れてきた舂陵侯の食客の一人で、今は劉縯の下で小隊長を務めている若者が、劉縯に声をかけた。手を止めて振り向いた劉縯に、劉縯を訪ねてきた者がいることを若者は伝えた。


「どんなやつだ?」


 劉縯は剣を鞘に納めながら訊ねた。若者は言い淀んだ。劉縯は不審に思い、誰が訪ねてきたのか重ねて訊ねた。若者は意を決したように顔を上げ、訪ねてきた者の名を告げた。劉縯は驚愕した。


「そんな、まさか」


 劉縯は布張りの兵舎から走り出た。そんなはずはない。こんな場所に、あいつがいるはずがない。そう思いながら、西陽で赤くなり始めた空の下を駆けた。歩哨が詰めている兵舎が見えてきた。兵舎の脇で待たされている人影へ、劉縯は走りながら呼びかけた。


「秀」


 旅装の人影が振り向いた。人影は紛れもなく劉秀で、劉縯と目が合うと俯いた。劉縯は立ち止まり、息を整えた。自分を連れ戻しに来たのだと直感した。追い返すために、劉縯は大きな声で劉秀を怒鳴りつけた。


「おまえのような豎子が、こんな所へ何をしに――」


「兄上」


 劉縯の怒声を遮り、劉秀が劉縯の前に身を投げた。


「僕も、兄上と一緒に戦わせてください」


 両手を揖礼の形に組み、劉秀は自らの額を地面に叩きつけた。


「僕も高祖の子孫です。兄上が大漢帝国のために戦われているのを、座して見ていることは出来ません。お願いします。秀も、兄上と一緒に戦わせてください」


 劉秀は再び額を地面に叩きつけた。土が飛び、額に赤いものが滲んだ。劉縯は思わず目を見開いた。


 これと似た光景を、どこかで見たことがある気がした。


「秀」


 劉縯は膝を屈め、弟を助け起こした。


「おまえ、どうやってここへ来た?」


 そう質した後で、劉縯は弟に多額の銅貨を持たせていたことを思い出した。その銅貨の力が劉秀を目的地まで辿り着かせたのであろう。


「何てことをしやがった。本当に必要な時に使えと、母上に言われていたのに」


 劉縯は下を向いた。目の奥に熱いものが込み上げていた。劉縯は深く息を吐き、込み上げているものが目から溢れないよう気持ちを落ち着かせると、改めて劉秀を見た。


「秀、よく聞け。おれが翟大将軍の義挙に加わったのは、勿論、高祖から託された使命を果たすためだが、おまえの将来のためでもある。王莽に大漢帝国を牛耳られていては、劉氏の家運が開かれない。勝手な押しつけだということは重々承知しているが、おれはおまえに、おれと父上の分まで偉くなってほしいんだよ。だから――」


「嫌です」


 劉秀は激しく頭を振り、兄の説得を拒んだ。劉縯は語気を強めた。


「秀」


「血を分けた兄弟のはずなのに、僕はいつも仲間外れです。兄上が大漢帝国のために命を懸けられるのなら、僕も兄上と同じ戦場で死にたい」



 鉄を掻くような声で、劉秀は叫んだ。その声が、劉縯の胸を強く衝いた。


 九歳から十三歳までの四年間を、自分がどのように過ごしたか、劉縯は思い出した。その頃の劉縯には、父がいて、母がいた。姉たちがいて、弟がいた。劉秀も、劉縯が十一歳の時には既に近くにいた。姿は見えず、声も聞こえなかったが、母の膨らんだ腹に呼びかけると、内側から母の腹を蹴って応えてくれた。


 その九歳から十三歳までの四年間を、自分が家族に囲まれて幸せに過ごした四年間を、自分は劉秀に一人で過ごさせたのか。


「お願いします。どうか、僕も一緒に、兄上と一緒に戦わせてください」


 劉秀は再び叩頭した。夕陽が劉秀の背を赤く染めた。劉縯は目を瞑り、横を向いた。


「駄目だ。おまえは十三歳で、背丈も小さい。戦いに加えようにも、おまえの丈に合う甲冑が無い」


 劉縯は立ち上がり、弟に背を向けた。兄上、と劉秀の声が縋りついてきた。劉縯はそれを振り払うように叫んだ。


「南陽から連れてきた食客に、武具工房で働いていた男がいる。そいつに、甲冑の綴じ方を教えてもらえ」


「…………え?」


 きょとんとした目で、劉秀は兄の背を見上げた。劉縯は更に声を張り上げた。


「おまえの身を護る甲冑を、おまえ自身の手で作れ。それが出来なければ、おまえを一緒には連れて行かない」


「兄上」


 額の傷から滲み出たものが、つう、と劉秀の顔を流れ落ちた。後を追うように、無色透明の雫が劉秀の頬を流れ落ちた。


「兄上、本当に――」


「時間が無い。すぐに始めろ」


 顔を見られないようにしながら、劉縯は弟に命じた。劉秀は目の周りを袖で拭き、大きな声で、はい、と答えた。


 二日後、翟義軍の先遣隊が東平王国を出発した。行進する将兵の列を眺める劉縯の横には、手作りの小片鎧スケイルアーマー――鉄の小札を胴衣に縫い付けた旧式の鎧を着た劉秀がいた。劉縯は劉秀の方をちらりと見た。弟と共に戦える嬉しさと、弟を戦いに巻き込んだ苦しさが、胸の中で複雑に渦を巻いた。劉縯は視線を将兵の列へ戻した。


「五人、来なかったな」


 この戦いで劉縯は五十人の食客と行動を共にすることになっていた。しかし、無事に合流できたのは四十五人で、残りの五人は未だ姿を見せない。


「怖気づいて逃げたか、それとも何かあったのか」


 後者であった。二十日前の夜、汝南郡を経て東郡を目指していた五人は、官憲を避けるために入り込んだ森の中で怪物の群れに襲われ、全員が殺された。暖を取るために五人が熾した焚き火が、五人の死体を爪と牙で引き裂く犬頭人身の怪物、野狗子と、その傍らに落ちている弓を照らした。斗篷状の黒い外套が野狗子たちの横を通りすぎ、弓の前で足を止めた。


「そうか。これのせいか」


 少年の手が弓を拾い上げた。何かを探すように、黒い外套の少年は辺りを見回し、焚き火の向こうにいる野狗子に目を留めた。野狗子の背には一本の矢が突き立ち、その痛みと恐怖が野狗子を動転させ、執拗に死体を攻撃させていた。少年は野狗子へ歩み寄り、手を伸ばして野狗子の体に触れた。


「落ち着け。怖いものはもう死んだ。おまえを傷つけるものは、もうどこにもいない」


 少年は野狗子の体を優しく撫でた。野狗子の荒い息遣いが徐々に穏やかになり、やがて口に咥えていたものを食べ始めた。少年は別の野狗子へ目を移し、同じように手を伸ばして体を撫でた。


 全ての野狗子が落ち着きを取り戻した。黒い外套の少年は野狗子から離れ、周囲に林立する樹影の一つに近づいた。


「どうやら、これで矢を射かけられたらしい」


 少年は樹影に弓を見せた。


「向こうが先に射かけたのか。それとも、あいつらに襲われたから抵抗したのか。それはわからない。でも、どちらが先に、なんて関係ない。山や森で獣に殺されたら、殺された方が悪い。山も森も、そういうところだから」


 血で汚れている弓を、少年は地面に置いた。


「行こう」


 少年は指笛を鳴らした。野狗子たちが一斉に顔を上げ、肉や骨を咥えられるだけ咥えて火の近くから離れた。少年は近くの樹に立てかけていた二本の棒のようなものを、右肩に担いだ。


「この辺りの者たちは、軽々しく森へ踏み入りすぎる。もう少し奥の方を歩かないと、またこういうことが起きるかも知れない」


 梢の間から垣間見える星で方角を確かめ、少年は歩き出した。野狗子たちが少年の後ろに続いた。


「それにしても、野狗子は人を襲うような獣ではないはずなのに、この辺りの野狗子は、どうしてこんなに凶暴なんだろう。人の方も、あまり森を怖れていないようだし、この辺りは色々と――」


 不意に少年は立ち止まり、背後の闇を見上げた。少年の碧空のように青い瞳が、闇の中に聳える樹影の一つを映した。


「どうした?」


 少年は樹影に問いかけた。少年の声に応えるように、ずし、と重い音を響かせて、それまで樹影に見えていたものが動いた。


巨無覇きょむは?」


 焚き火の方へ動き出した影を、少年は小走りに追いかけた。樹のように大きな影は、火の近くに膝をついた。大きな手で土を掻き、その場に穴を掘り始めた。


「……屍を、埋めてやるのか」


 少年は大きな影の意図を察した。


「そうだな。野の獣に墓はいらないけど、彼らは人だものな」


 火の周りに散らばる赤いものに、少年は目を向けた。小さくなり始めた炎が、少年の両の眼に赤い光を灯した。

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