第十七話

 居摂きょせつ二年十月(西暦七年十一月)、山陽さんよう郡へ攻め込んだ翟義軍は、大きな抵抗を受けることなく山陽郡の主要な都市を制圧した。漢帝国の都市は城壁で守られており、外からの攻撃に対して強い防御力を発揮するが、翟義は予め山陽郡の諸市へ調略の手を伸ばすことで、都市を守る城兵に城門を開かせた。山陽郡は短期間で翟義軍の支配下に置かれ、翟義は自らの快進撃を宣伝して義軍への参加を呼びかけた。豪族の私兵、盗賊、手に職が無い貧困層などが翟義の下に押し寄せ、翟義軍の兵力は瞬く間に十万を超えた。


 山陽郡を席巻して勢いを得た翟義軍は、進路を西へ転じて陳留郡へ侵入した。翟義軍西進の報せを受け、翟義討伐軍の総司令官である奮武将軍孫建は配下の諸将を集めた。


「恐らく、翟義は陳留の南部を押さえ、汝南や南陽の蜂起を促すつもりなのであろう」


 陳留郡の南隣には淮陽わいよう王国があり、淮陽王国の南隣には汝南郡があり、汝南郡の西隣には南陽郡がある。諸将は表情を緊張させた。もし陳留郡南部と淮陽王国が翟義軍の手に落ちれば、汝南郡と南陽郡に叛乱の火が燃え広がることは明らかである。


「何としても陳留で翟義を止めねばならん。長安では既に足許に火が点いている。これ以上、翟義の跳梁を許せば、我らの手に負えなくなる」


「すぐに陳留へ向かいましょう」


 将校の一人が発言した。現在、孫建が討伐軍の本営を置いている洛陽には、六万の兵が集結している。予定では更に四万の兵が加わることになっているが、その到着を待っている余裕は無い。まずは手許の六万だけで陳留郡へ移動し、現地の守備軍と協力して翟義軍を防ぎ止める。そして、後続の四万が合流してから攻勢に転じ、翟義軍を殲滅する。


 将校の提案に、その場にいた他の将校の多くが賛成した。しかし、末席にいた将校が異を唱えた。


「翟義の動きは、陽動を兼ねているのではないでしょうか?」


「陽動?」


 どういうことだ、と孫建は末席の将校に説明を促した。会議が行われている部屋の床には白い布が広げられ、都市間の距離が書かれた旅程表を基に、洛陽、陳留郡、南陽郡等の位置関係が大まかな図で描かれていた。末席の将校は筆を手に取り、洛陽の近くに新たな地名を書き入れた。


「我らを陳留へ誘い出し、その隙に河北かほくで叛乱を起こさせるつもりなのかも知れません」


 河北、とは漢帝国の北部に位置している地域である。帝国の中央部にある洛陽と距離が近く、もし河北で叛乱軍が蜂起すれば、洛陽が攻撃される可能性がある。洛陽は漢帝国の交通の要であり、古くは古代連合王朝の周公旦が都を築き、漢帝国も遷都を検討したことがある由緒正しい土地である。もし陳留郡へ出撃している間に洛陽が攻め落とされ、洛陽の陥落に乗じる形で叛乱軍が南陽郡で蜂起すれば、討伐軍は帝都との連絡線を断たれて孤立する。そればかりか、帝国の経済は心臓部を喪失して機能不全に陥り、食糧を他の地域からの輸送に依存している帝都は、深刻な飢餓に襲われる。


「洛陽を空にしてはなりません。四万の兵が到着し、洛陽の防衛に十分な数を割けるようになるまでは、動くべきではありません」


「動かなければ――」


 出撃を提案した将校が声を荒げた。


「――翟義に陳留を奪われるぞ。それに、翟義が河北にまで手を回していると、なぜ言い切れる」


「翟義は用意周到な男です。洛陽や河北の価値に気づいていないはずがありません。関中や山陽に手を回していたように、河北にも手を回していると考えるべきです」


 出撃を提案した将校と末席の将校の間で議論が交わされた。両者の口調はだんだんと激しくなり、臆病者め、と前者が後者に言い、猪突するだけが勇気ではない、と後者が前者に言い返した。そこまでだ、と孫建は手を上げて二人を止めた。


「おまえたちの考えは理解した。恐らく、おまえたちの言い分はどちらも正しい。我らが軍を出そうと出すまいと、損はしない。そういう万全の策を、翟義は立てたのだろう」


 孫建は改めて床の白布に視線を落とし、この状況での最善の一手を考えた。


「陳留へ兵を出す」


 白布に書かれた陳留の二字を、孫建は指した。末席の将校が顔を上げた。口を開きかけた将校を、待て、と孫建は目で制した。


「しかし、全軍ではない。半数の三万を陳留へ送り、四万の兵が洛陽に到着するまで翟義を足止めする」


 孫建は立ち上がり、将軍の位を帯びている将校らの顔を見渡した。


「難しい任務だ。誰ぞ、志願する者はいないか」


「わたしにやらせてください」


 将校の一人が声を上げた。孫建は声の方を見た。


「王虎牙こがか」


 虎牙将軍の王邑おうゆう――仮皇帝王莽の従弟であり、王氏一門の男子の中でも特に王莽から目をかけられている成都侯王邑が、大恩ある仮皇帝の役に立ちたい、と陳留郡への出撃を志願した。孫建は逡巡した。王邑には武将の資質がある、と孫建は見ていたが、実戦の経験が不足している。しかし、王邑は王莽の寵が厚く、将来の栄達が既に約束されているようなものであるため、無理に軍功を挙げる必要が無い。また、仮皇帝の寵臣であることは、現地の守備軍に協力を仰ぐ際に有利に働く。足止め部隊の指揮官として、功に焦らなくてよい上に、仮皇帝の威を借りることが出来る王邑は、意外と適任であるかも知れない。


「よかろう。王虎牙に任せる。おい、おまえと、おまえ」


 出撃を主張した将校と出撃に反対した将校を、孫建は視線で順に指した。は、と二人は揖礼の形に両手を組み合わせた。孫建はまず前者の顔を見た。


「おまえは、騎都尉きといれんだな」


 騎都尉、とは近衛軍の騎兵隊長である。廉騎都尉、姓名は廉丹れんたんが頭を下げると、孫建はもう一人の顔に目を移した。


「おまえ、官職と名は?」


校尉こういそうと申します」


 校尉、とは近衛軍の高級武官である。荘校尉、姓名は荘尤そうゆうが一礼すると、孫建は廉丹と荘尤に命じた。


「おまえたちは王虎牙の指揮下に入れ。王虎牙、この二人は役に立つ。見事に使いこなしてみせろ」


「必ずや、洛陽へ吉報を届けます」


 王邑は孫建に一礼した。直ちに洛陽の将兵に命令が発せられ、翌朝、騎兵二千、歩兵三万から成る軍勢が洛陽の城門を出た。


 一方、翟義軍の本営では、皇帝劉信が苛立ちを募らせていた。


「真定王はどうした。舂陵侯はまだ起たんのか」


 当初の予定では、真定王と舂陵侯は翟義の挙兵に呼応し、前者は河北で、後者は南陽郡で蜂起することになっていた。しかし、翟義が挙兵してから既に一月以上も経過しているのに、どちらも腰を上げようとしない。


「翟義、真定王と舂陵侯はまだ動かんのか。膠東王は、徐郷侯は、まだ動かんのか」


 皇帝劉信は柱天大将軍翟義に下問した。翟義は今日だけで十回は口にしている言葉を繰り返した。


「動きません」


 なぜ挙兵を約束したはずの諸侯が動かないのか、翟義には見当がついていた。どの諸侯も洛陽にいる孫建らを警戒している、ということもあるが、最大の理由は、義軍の形式的な指導者である厳郷侯劉信が皇帝に即位したからであろう。特に真定王や膠東王は劉信よりも諸侯としての位階が上であり、格下の劉信が帝位に即くことを、逆賊になる危険を冒してまで支持するはずがない。伝国璽を手に入れた喜びで我を忘れ、その場の勢いで劉信に皇帝即位を進言したことを、翟義は心から悔いた。


 陳留郡へ侵攻した翟義軍は、諸市の攻略を効率的に進めるために軍を二分した。翟義は二分した軍の一方を率いて郡境付近の都市を囲み、攻城戦に備えて破城槌はじょうついを作らせた。破城槌とは屋根付きの台車に丸太を吊り下げた攻城兵器で、翟義は都市の城壁からよく見える場所で破城槌を組み立てさせながら、都市に対して開城を要求した。しかし、都市を預かる県令は翟義の要求を拒み、怯える城兵と城民を励まして防戦の準備を整えた。


 破城槌完成の翌朝、翟義は麾下の諸隊に攻撃を命じた。破城槌が車輪を軋ませて動き出した。破城槌の攻撃を援護するために弓弩兵の横隊が前進し、城壁上に矢を撃ち込んだ。城兵も矢を射返した。攻城側の矢が城壁を越えて城内の民家に突き立ち、城兵の反撃の一矢が攻城側の兵士の手から弩を弾き飛ばした。激しく交わされる矢の下を、破城槌が城門を目指して突進し、鉄で補強された丸太の先端を、防火のために泥が塗られた門扉へ打ちつけた。城壁上から破城槌へ油が撒かれ、松明が投げつけられた。瞬く間に破城槌の屋根から炎が上がり、城壁上で歓声が上がりかけたが、翟義軍の兵士は泥を塗り重ねた屋根の下で丸太を引き、何度も門扉に叩きつけた。


 城門への攻撃と平行して、城壁に対しても攻撃が行われた。弓弩兵の援護射撃の下で、多くの兵士が盾で矢を防ぎながら梯子を運び、城壁に立てかけようとした。城兵は柄が長い刺股を城壁上から繰り出し、正面から迫る梯子を空中で受け止めたり、途中まで立てかけられた梯子を横から突き倒すなどして妨害した。数本の梯子が城兵の刺股を掻い潜り、城壁に立てかけられた。翟義軍の兵士は蟻のように梯子を攀じ登り、城内へ侵入しようとした。城兵は石や煉瓦を投げ落として応戦した。


 劉縯の部隊にも攻撃命令が下された。梯子で城を攻める味方を支援するために、劉縯は指揮下の兵士たちに弩で城壁上の敵を射させた。しかし、訓練が不十分なせいか、射れども射れども敵に当たらない。


「もっとよく狙え!」


 劉縯は剣を振り回して怒号した。しかし、何度撃たせても、矢が敵の頭上を飛び越えてしまう。


「なぜだ。なぜ当たらない」


「僕にやらせてください」


 劉秀が言った。すぐに装填済みの弩が劉秀に渡された。劉秀は狙いをつけて弩の引金を引いた。矢は敵の頭上を飛び越えた。二射目、三射目、四射目も上へ逸れた。劉秀は兄を振り返った。


「なぜ矢が当たらないのか、わかりました」


 城壁の下には味方がいる。狙いを低くすれば、梯子を登攀している味方を誤射するかも知れない。だから、自分でも気づかない内に狙いを高くしてしまう。


「なるほど。そういうことか」


 劉縯は納得した。


「しかし、困ったな。まさか、味方に当たっても構わないから狙いを低くしろ、とは言えまいし」


 劉縯が考え込んだ時、劉秀が五射目を放った。矢は風を裂いて飛び、今まさに煉瓦を投げ落とそうとしていた敵兵の眉間を貫いた。敵兵は壁の向こうへ倒れた。劉縯は思わず声を上げた。


「上手いぞ、秀」


「まぐれです」


 恥ずかしげに微笑しながら、劉秀は撃ち終えた弩を後ろの兵に渡し、装填済みの弩を受け取った。六射目、七射目は城壁に弾かれたが、八射目は見事に敵兵の胸板を射抜き、九射目も敵に命中した。


 攻城戦は翌日も翌々日も続けられた。四日目、北へ偵察に出していた騎兵の小隊が攻撃を受け、二騎を残して壊滅した。その二騎の証言によると、単独で行動している敵騎兵を発見したので、捕らえて尋問しようと追いかけたところ、突如として数百の騎兵が現れたという。


冒頓ぼくとつ戦法だな」


 都市の城壁を睨んで攻城戦を指揮していた翟義は、二騎の証言を報告されるとそう呟いた。冒頓戦法、とは少数の騎兵で誘い出した敵を、多数の騎兵で迅速に包囲して撃破する戦法で、二百年前に匈奴単于国の英主、冒頓単于が、大漢帝国の高祖劉邦を退けた際に用いたことから名がついた。騎馬遊牧民に匹敵する練達の騎兵でなければ、この戦法の実行は不可能であり、現在の大漢帝国軍で冒頓戦法を使いこなせるのは、遊牧民勢力との最前線に配置されている異民族傭兵と、帝都の近衛騎兵だけである。


「孫建め、洛陽から出てきたか」


 翟義は都市への攻撃を中止するよう命令し、友軍と合流するために包囲を解いて後退した。後退の途中、輜重しちょうを放棄するべきではないか、という意見が将校の中から出された。輜重とは軍需物資を運搬する荷車のことで、軍隊の運営には決して欠かせないが、大量の荷物を載せているために足が遅い。友軍との合流を急ぐのなら輜重は棄てるべきである、と少なくない数の将校が翟義に進言した。しかし、孫建が率いているであろう軍は大軍であり、大軍であれば素早く移動することは困難である、と翟義は判断し、軍の後尾に輜重の列を伴わせた。


 一方、洛陽から出撃した軍を実際に率いていた王邑は、先の戦闘で捕らえた翟義軍の騎兵を尋問し、翟義が軍を分散させていることを知ると、翟義軍を各個撃破すべく麾下の三万を急進させた。二日後、討伐軍は行軍中の翟義軍を捕捉した。討伐軍の接近に気づいた翟義は、敵軍の予想外の行軍速度に驚きながらも、住民が逃げて一時的に無人化した集落へ輜重を避難させ、その集落を守るように指揮下の五万を展開させた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る