第十五話

 四年前の秋――劉縯と劉秀が父親を喪った秋と同じ秋に、王莽は長男を喪った。王莽は新たな外戚の台頭を防ぐために、当時の皇帝の生母を帝都に移住させなかったが、王莽の長男は母を恋しがる少年皇帝を憐れみ、王莽に皇帝の生母の帝都移住を認めさせるべく密かに運動した。王莽はこれを知ると、長男を呼び出して厳しく叱りつけた。


「かつて我ら王氏が専横を極めた時、皇帝がこれを見逃したのはなぜか。母を強く慕うがゆえに、母の一族に罰を加えることを控えたからである。わたしが外戚を遠ざけるのは、聖上が肉親の情に惑わされ、賞罰を曲げてしまわれることを恐れるからだ。賞罰が正しく行われなければ、国を正しく治めることは出来ない。おまえは、わたしの子であるのに、その程度のこともわからないのか」


 王莽の長男は親に逆らわない性格であり、道理を尽くして叱れば悔い改めるだろう、と王莽は考えていた。しかし、王莽の長男は初めて父親に抵抗した。


「父上の仰せはわかります。わかりますが、聖上は齢九つで即位されて以来、一度も母に会うことなく今日まで過ごされているのです。せめて、年に一度だけでも――」


「駄目だ。その一度が、間違いを生むやも知れぬ」


「父上」


「孟子曰く、民を貴しと為し、社稷は之に次ぐ。皇帝といえども、天下万民の安寧を脅かすことは許されない」


「幼い子供を親から引き離して、何が万民の安寧ですか」


「それが儒学の教えだ。おまえは、この王莽の子でありながら、儒学の教えに背くのか」


「父上、どうか、わたしの話を聞いてください。儒学の書物ではなく、どうか、わたしを見てください。あなたの目の前にいる、わたしを見てください。どうか、あなたの子を、子供一人助けられない大人にしないでください」


 父子の対決は終日に及んだが、一方が他方に譲ることはなく、王莽の長男は流言の罪で獄に下された。長男の入獄を報せられた王莽の妻は、次男に続いて長男を喪うのではないかと恐怖し、王氏一門の長老である元后に、長男の釈放を半ば錯乱しながら訴えた。訴えを受けた元后は、既に王莽夫妻が王氏一門のために次男を自殺させていたこともあり、何とか王莽の長男を助けようとした。王莽を宮殿へ呼び出し、皇帝の面前で王舜らと共に説得した。しかし、子供を親から引き離した者が肉親の情に流されることを、王莽は決して許さず、あるべき為政者の姿を周囲に示すために、皇帝と元后の前で声を張り上げた。


「莽の子は流言して官民を惑わし、大漢帝国の政道を誤らせようとしました。これは周公に叛いて誅殺された管叔と同罪であります。臣、莽は敢えて願い奉ります。どうか管叔を誅した周公の故事に倣い、以て帝国の政道が無謬であることを臣民にお示しください」


 結局、王莽の長男は獄中で自殺した。長男の死を伝えられた王莽の妻は、目から血を噴かんばかりに慟哭し、ついには力尽きて昏倒した。翌朝、王莽が妻の枕頭を見舞うと、妻は薄く目を開け、誰かそこにいるのか、と掠れた声で王莽に問うた。その弱々しい姿に王莽が声を出せずにいると、妻は窓の方へ顔を向けながら、暗くて何も見えない、誰か灯りを、と続けた。妻の身に何が起きたのか、王莽は察した。窓の外には燦々と輝く太陽があり、その下では、長男が母を慰めるために植えた花々が、黄色い花弁を揺らしていた。あの花を、妻は二度と見ることが出来ないのか。そう思いながら、王莽は名も知らない花を見つめた。


 この頃から、王莽は変わり始めた。


 長男の死の翌年、王莽は元后に対し、皇帝に皇后を迎えさせるよう進言した。元后は王莽の進言を容れ、諸侯や政府高官の娘から候補者を選出させた。当然、その中には王莽の娘も含まれていたが、王莽は自らの不徳を理由に娘を候補から外した。帝国政府の官僚たちは王莽の誠実さに感動し、王莽の娘を皇后に立てるべきであると元后に訴えた。元后は王莽の意思を尊重して一旦は退けたが、日に千人もの臣民が宮城へ押しかけて上書するに及び、臣民の願いを聞き入れて王莽の娘を皇后に選ぼうとした。しかし、王莽は娘の皇后冊立を頑なに辞退し、候補者の中から公平に選ぶべきであると主張した。官僚たちはますます感動し、安漢公の娘でなければ皇后にすべきではない、とまで言い張り、王莽に辞退を取り消すよう強く求めた。ついに王莽は官僚らの熱意に譲歩し、娘の皇后冊立の内意を受けた。


 かくして王莽の娘が皇后に立てられたが、更に官僚たちから元后へ上奏が行われた。これまで王莽は大漢帝国の建て直しに尽力し、窮地に立たされていた帝国を救い出すことに成功した。その功績は、古代連合王朝に対する周公旦のそれにも劣らない。王莽を表彰するべきである、と王舜を始めとする官僚らは言い、これを容れて元后は詔を下した。


 王莽に宰衡さいこう――周公旦の称号である太宰たいさいの宰と、周公旦と並び称される古代神聖王朝の賢者、桑の樹から産まれし阿衡あこうの衡を、組み合わせた称号を与える。また、王莽に二万八千戸の領地を加増し、それに加えて皇后の招聘金として三千七百万銭を与え、更に王莽の家族にも称号や爵位を与える。


 王莽は謹んで辞退した。唯一、親孝行のために母親への称号を受けたのみで、それ以外は称号も領地も財貨も固辞した。官僚たちは王莽の清廉さに感動し、王莽の辞退を認めないよう元后に嘆願した。またしても押し問答が繰り広げられたが、最後は数に圧されて王莽が妥協した。王莽への称号授与を提案した一人として、王舜は王莽が称号を受けたことを喜んだが、その一方で微かな不安が心の片隅に芽生えた。


 王莽は、表向きは謙遜に謙遜を重ねながら、権力の階を着実に上へ上へと進んでいる。これも王莽の人徳によるものに違いない、と今日まで信じてきたが、本当にそうなのであろうか。


 腹心の部下たちに退陣表明の撤回を求められている現在の王莽を、王舜は改めて仰ぎ見た。王莽の身長は七尺五寸(約百七十五センチ)で、決して低い方ではない。しかし、王莽は自身を少しでも大きく見せるために、丈が高い冠を被り、底が厚い布靴を履き、衣服の内側に綿や羽毛を詰めて体を膨らませていた。王莽は大漢帝国の実質的な最高指導者であり、自らの威厳を演出して臣民の心服を得ることに努めるのは、帝国の安定を図る上で当然の行為ではある。しかし、昔日の王莽を知る王舜の目から見ると、今の王莽は別人であるように感じられた。


「安陽侯。…………安陽侯!」


 王莽の腹心の一人である甄豊けんほうが、王舜を呼んだ。王舜は我に返った。


「申しわけない。少し考えごとを」


「困りますな。このような大事な話し合いの場で、そのようにぼんやりとされては。ご自分が栄えある王氏の一人であることを、もう少し強く自覚すべきではありませんかな」


 ほ、ほ、ほ、と甄豊は王舜を嘲笑した。王舜は俯いた。誠実であるだけの男。そう甄豊に見下されていることを、王舜は知っていた。王莽の変貌を改めて痛感させられた。以前の王莽であれば、どれほど優秀であろうと甄豊のような男を重用したりはしなかったであろう。あの日の新都侯は何処に、と王舜は息をついた。その時、檄文を記した簡冊を縛っていた紐が目に留まった。


「軍を編成する際には、ぜひ成都侯を臣の下におつけくださいませ」


 討伐軍の人選について意見を求められた孫建が、自らの希望を王莽に述べた。王莽は首を傾げた。


「なぜ成都侯を? あれは戦には向いていないと思うが」


 王莽と孫建が言う成都侯とは、かつて帝都の城壁に無断で孔を開けたり、自らの領地を分割して王莽に与えることを皇帝に願い出た男、ではなく、その息子で父の死後に成都侯爵位を相続した人物のことである。父が王莽に恩を施したことに加え、当人も王莽が帝都を追われた時は復帰運動に奔走したことから、王氏一門の男子の中でも特に王莽の寵が厚いが、その王莽の目から見ても、成都侯の才能や人格には特に優れたところはなく、とても一軍の将が務まるとは思えない。


「いやいや、そのようなことはありません。臣が見るところ、仮皇帝のご親族の中で最も将器に恵まれているのは、成都侯です。時をかけて経験を積ませれば、必ずや一流の武将になるものと確信いたします」


「お言葉ですが――」


 自信に満ちた顔で断言した孫建に、甄邯が異を挿んだ。


「――翟義は若輩ではありますが、智謀に長けた男です。何の策も無しに挙兵するとは思えません。経験に乏しい成都侯ではなく、熟練の武官を選抜して当たるべきでは――」


「仮皇帝!」


 甄邯の声を遮り、王舜が叫んだ。甄豊が冷笑した。


「何事ですか、安陽侯? そのように大きな声を上げられずとも、皆、聞こえて――」


「これをご覧ください」


 甄豊を無視して、王舜は手にしていた布を王莽に差し出した。


「これは翟義の檄文を縛っていた布です。細長く折り畳み、捻じって紐のようにしてありました」


 王舜の説明を聞きながら、王莽は差し出された布を受け取り、顔の前で広げた。一辺が四寸(約九センチ)四方の大きな印章が押されていた。王莽は印章の文字を声に出して読み上げた。


「命を天に受く、既に寿ながくして――」


 王莽の声が、不意に急変した。


「――永くさかんならん……!?」


 複数の瞳孔を具えた、血のように赤い瞳の王莽の目が、印章の字句を凝視した。甄邯と劉歆が顔色を変えた。王莽、甄邯、劉歆の様子を見て、孫建と甄豊が訝しげな顔をした。何事ですか、と問う甄豊を無視して、王莽は博学な劉歆に布を渡した。劉歆は布に押されている印章の字句に、十数秒、目を凝らした。


「間違いありません。これは――」


 劉歆は唇を震わせた。


「――伝国璽でんこくじしん始皇帝しこうていが作り、高祖に伝えられた伝国の玉璽です」


 秦、とは漢帝国の成立以前に存在した国家である。春秋の五大覇者が世を去り、古代連合王朝が名実共に崩壊した後、時代は秦、、斉、えんちょうかんの七王国が覇を競う戦国乱世に突入した。秦は戦国時代の最後の勝利者で、二百年に亘る戦いの末に他の六王国を征服し、古代連合王朝を遥かに凌ぐ超大国、大秦帝国を築いた。その帝国を治めた最初の皇帝が始皇帝で、始皇帝が方士ほうし――錬金術を始めとする超常の技術を扱う者に、権力の象徴として作らせた玉璽が伝国璽である。


「そうか。これだったのか、翟義を挙兵に踏み切らせたものは」


 甄邯が呻いた。六王国を征服した始皇帝の死後、大秦帝国は繁栄から一転して滅亡に至り、始皇帝が方士に作らせた玉璽は、後に大漢帝国を建てる高祖劉邦へ献上された。伝国璽――国を伝う璽、という名称は、玉璽が秦帝国から漢帝国へ伝えられたことに由来するが、その後、伝国璽は高祖が一時的に覇王はおう項羽こうう――高祖の創業における最大の強敵に降伏した際に、降伏の証として覇王へ譲渡され、やがて再起した高祖と覇王の戦いが激化すると、その混乱に巻き込まれて歴史から消えた。


 その伝国璽を、どういうわけか翟義らが手に入れた。現在の大漢帝国では、秦の始皇帝は暴君という評価が定着しているが、伝国璽が皇帝の権力の象徴であることは否定されていない。また、帝国政府が普及に努めている儒学は、帝権天授説、すなわち皇帝の統治権は天から授けられたものであるという説を唱えており、皇帝の権威と権力を神聖視してはいるが、血統に基づいた帝位の継承を全面的に支持しているわけではない。翟義らが伝国璽を手に入れたことは、王氏一門が擁立した幼帝と同等の正統性を、翟義が擁立した皇帝に与え得る。


「何ということか」


 甄豊が呆然と呟いた。王莽政権は中小農民を保護するために、富商や豪族に圧力を加えている。今年の五月にも、豪族化している諸侯から詐術を用いて黄金を没収しており、富裕層から反感を持たれていた。それらの資金力に富んだ不満分子が、伝国璽を得て皇帝を擁立した翟義に協力するであろうことは、容易に想像できた。


 更に付け加えると、王莽政権は貧困層を救済するために力を尽くし、一定の成果を上げてはいるが、それらの多くは対処療法的な処置であり、貧富の差を生み出す社会構造を根本的に改革できているわけではない。こうしている間にも続々と生まれ続けているであろう貧困層が、現状への不満から翟義の叛乱に同調することは、十分に考えられた。


「如何なされます、仮皇帝」


 劉歆が縋るような目で王莽に問うた。王舜、甄邯、孫建、甄豊らも上座の王莽を見上げた。王莽は目を閉じた。窓の外では庭樹が鮮やかに色づき、はらはらと紅葉を散らしていた。劉歆らは息を詰めて王莽を注視し、その口から言葉が発せられる瞬間を待ち続けた。


「翟義に――」


 王莽の口が動いた。


「――いや、柱天大将軍に使者を送り、こう伝えよ。大漢帝国は、伝国璽を有するを天意と認め、天命を受けし正統な皇帝を迎え入れる」


 仮皇帝、と甄邯が声を上げた。王莽は右手を上げて甄邯を制し、言葉を続けた。


「我、王莽は仮皇帝の位を辞し、柱天大将軍に身命を委ねる。一日も早く皇帝と共に長安ちょうあんへ入り――」


 長安、とは帝都の名である。


「――大漢帝国の官民を指導されたし」


 翟義に降伏なさるのですか、と孫建が噴き上げるような声で質した。王莽が答えるよりも早く、それはなりませんぞ、と膝を前に進め、帝都と帝都周辺に存在する漢帝国軍の兵力を挙げた。戦えば必ず勝てると断言し、翟義討伐の命令を下すよう懇願した。王莽は孫建に語りかけた。


成武せいぶ侯」


 成武侯、とは孫建の爵位に付随している称号である。


「感謝する」


「仮皇帝、臣は感謝を求めているのではありません。命令を求めているのです。どうか、臣に戦えと命じてください」


「戦いは民を苦しめる。天は長安の皇帝を選ばず、柱天大将軍が立てた皇帝を選んだ。天意に背いてはならない。天意に背いて戦いに臨み、民を苦しめてはならない」


「仮皇帝」


 孫建は項垂れた。仮皇帝、と劉歆が王莽に呼びかけた。仮皇帝、仮皇帝、と他の者も王莽へ呼びかけた。どの声も咽ぶような響きを帯びていた。先程まで王莽の変貌を嘆いていた王舜も、今の着膨れした仮皇帝の姿に昔日の新都侯の面影を見出し、両の眼を潤ませた。王莽は王舜らの顔を見回し、床に敷かれた敷き物の上に両膝を揃えると、冠を脱いで横に置いた。


「今日まで、莽の下で大漢帝国に尽くしてくれたことに感謝する。これからは柱天大将軍の下で、これまでのように大漢帝国に尽くしてもらいたい」


 王莽は両手を揖礼の形に組み、深く頭を下げた。下げられた王莽の頭には、白髪が幾筋も見えた。六璽を押さえて大権を掌握して以降、王莽は早朝から深夜まで政務に励んでいた。雨が降る夜も、雪が降る夜も、王莽の執務室の方へ目をやれば、黒く大きく聳える宮城の影の中に、小さな灯りが一つだけ見えた。その情景が甄邯、劉歆、孫建らの脳裏に浮かび、三人の目から涙が溢れようとした時、喉が裂けんばかりの声で王舜が叫んだ。


「なりません」

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