川の裔

神谷 公

川の裔

 その駅は川の上にあった。

 長くなだらかなスロープを昇りきったところにある駅は、数年前に建て替えられていてまだ新しい。スロープの下に広がる川も護岸整備され、コンクリートの丈高い壁に挟まれてゆったりと流れている。いや、流れているのか揺蕩っているのか、スロープの柵から覗き見る限りわからない。深い緑色をしたその川水は充分な水量と水深の為か、水面から下が全く窺い知れない。どのくらい底深いのか想像もつかなかった。


 落ちたら二度と上がっては来られへんよ。


 ニ年前に死んだ祖母が言っていた言葉を思い出して、七井穂高なないほたかはぶるりと身震いした。

 柵に立て掛けるように止めた自転車に手をかけ、向きを変える。スロープを降りる方向に向いた穂高の顔が夕陽に染まった。学校帰り、仲の良い友達の家に遊びに行った帰りだった。通る必要のないスロープをわざわざ昇り、川を眺めるのは穂高の習慣だ。辺りを朱に染める夕陽を跳ね返すような底深い緑の水を見ていると、なんとも言えず下腹の方が重くなる。家に帰る前の切り替えのような作業だった。明るい所からそうでない所へ。きれいな所からそうでない所へ。穂高は溜息をついて自転車を押した。前を見る。すれ違う人々は皆駅へ向かっている。仕事帰りの彼らは、これから電車に乗ってこの町から離れるのだろう。脱出、穂高の脳裏にその言葉が浮かんだ。ささやかな羨望と共にちらりと振り返る。いや、電車に乗らなくてもいい。穂高は思った。電車に乗るまでもなく、駅の向こう側に行くだけでもいい。あの新しい駅舎を通り越して、向こう側に行けたら。

 少しだけ人の流れに沿って駅の方を見つめていた穂高は、またひとつ溜息をついて顔を戻す。未練を断ち切るように頭をぶるんと振って、自転車に跨った。



 東西に川が通った小さな町は、名を恩智おちと言う。関西の片隅にあるその市は、つい最近まで市ではなく町であった。産業も企業もたいしてなく、県境の山が面積の殆どを占めていて、住宅地として確保できる平地はそうないので人口は知れている。東西に切るように流れる川は大雨の度に氾濫して田畑を水浸しにするので、農業もそれ程栄えなかった。何もない田舎町ではあったが、川沿いに敷かれた私鉄の沿線の主要駅がひとつあったのが唯一の強みだった。都市部まで数駅という立地が幸いして、少しずつではあったが開発されていった。治水工事が終わり、豊かな自然を売りに公園と登山道が整備され、売りに出された田畑の広大な敷地に大学や企業が立ち並んだ。高層マンションやゆったりとした敷地を確保した住宅地が完成して、数年前からは考えられない程整った地方都市が完成した。それが恩智駅の南側の話である。

 北側は昔ながらの家がごちゃごちゃと立ち並ぶ土地が多かった。その為、区画整理がうまくいかず、車も入り込めないような狭い道が入り組んだ下町が所々に残った。口の悪い人間は、恩智市の表町と裏町と呼んでいる。そんな北側の支流の川沿いの一部、開発から取り残されたような集落に穂高の家はあった。

 自転車の鼻先で木塀を押し開ける。蝶番がきいと音を上げた。裏庭は木々が生い茂っている。ごつごつとした石が転がる庭木の間に自転車を止めて、ただいまと穂高は裏口を開けた。事務所のドアのような上部がすりガラスになった勝手口は、鍵などはなからかかっていない。木塀には錠すら付いていない。それが普通だと思っていた穂高は、友人の家が常に施錠しているのを見て、ひどく驚いた。

 まあしかし、こんな家に泥棒など入りはしない。穂高は思った。

 敷地こそやたら広いものの、築年数が定かでない平屋の一軒家は、あちこちボロボロだった。トタンで修理された屋根は雨漏りするし、庭に面した廊下の硝子戸はサッシが歪んでいて閉めても隙間ができる。部屋は全て和室で、どこも薄暗かった。

 勝手口を上がるとすぐに台所がある。穂高に気付いて料理をしていた母親の小夜子さよこが振り返った。お帰り、と微笑む。

 味噌汁の匂いが立ち込めた台所の食卓には、唐揚げが大皿に盛られている。他にも何品かのおかずが同じように大皿に置かれていた。いつもながら随分な量だった。穂高は四人家族である。両親と祖父がひとり。兄弟はいなかった。とても四人では食べきれないと思われる量であったが、毎晩小夜子は大量に食事を作る。

「今日も友達のところで遊んでたん?」

 小夜子が味噌汁を腕に注ぎながら穂高に聞いた。うん、と頷いて湯気の立つ碗を受け取って食卓に運ぶ。

「涼真のとこ。ゲームしてた」

 高木涼真たかぎりょうまは小学六年で初めて同じクラスになった。同学年の生徒は皆顔見知りのようなものだが、クラスが違うと関わり合う事も少ない。これまで話した事もない相手ではあったが、なんとなくウマがあって、今では学校では常に一緒にいる。一学期が半ばを過ぎた今では、毎日のように放課後遊ぶ仲となった。大体涼真の家に行くか、近くの公園かだ。彼も同じ裏町と呼ばれる駅の北側に住んでいたが、駅の近くの比較的新しい住宅地に涼真の家はある。小綺麗な一軒家で、穂高はいつも羨ましかった。

「いつもお邪魔するばっかりやったら悪いから、今度うちに連れといで」

 小夜子の言葉に穂高はうん、ともううん、ともつかない返事をする。この家に涼真を連れて来る気はなかった。こんな薄暗い、すぐ近くを流れる川のせいでいつも湿った空気が流れ込む古い家に、あんな明るく綺麗な家に住む友人を連れて来る勇気は、穂高にはなかった。それを母親に言える勇気もない。曖昧に濁して、お父さんにご飯って言ってくる、と台所を後にした。父親の[[rb:伸之> のぶゆき]]は役所勤めで、毎日同じ時間に帰ってくる。夕飯までの時間を、趣味の詰将棋に費やすのが毎日の日課だった。

 隙間から明かりが漏れる父の部屋の襖をがたごとと音を立てながら開ける。

「お父さん、ご飯」

「そうか」

 胡座の伸之が振り返って頷いた。痩せぎすの伸之は彫りが深く、部屋の電気が振り向いたその顔の陰影をくっきりと映し出す。老眼が始まったらしく、最近誂えた老眼鏡を外して将棋の本の上に置き、立ち上がった。背が高い。古い造りのこの家の鴨居の全てに頭がぶつかる程である。外国人みたいだとよく言われる。

 食卓を囲むのはいつも三人だ。二年前までは祖母も入れて四人だった。祖父は自分の部屋で食事をする。一番奥の座敷が祖父の居室だった。縁側と掃き出し窓があって裏庭に出られるが、北側で背の高い木々が植わっている庭はじめじめしており、そこに面した座敷には日など差さなかった。

 祖父が日中その座敷から出る事は滅多になかった。穂高と顔を合わせる事もない。生きているのか死んでいるのかはっきり言って定かでない。祖父に夕食を持って行く母の手伝いをする時に、祖父の背中と僅かに寄越す返事で辛うじてその存在を確認する事ができた。

 自分達の分を取り分けて、まだ山と盛られた大皿の料理を盆に乗せて、小夜子は穂高に合図した。然程重くない方の盆を持ち、小夜子の後に続く。襖で仕切られた和室をいくつか通って祖父の座敷の前に膝をついた。

「お義父さん、お夕飯です」

 襖越しに声をかけてから、母は襖を開けた。家中の襖の中で唯一ここだけが音もなくすっと開く。中は薄暗い。仏壇の両脇に置いた灯籠だけが光源だった。

「ああ」

 低く嗄れた声で祖父の[[rb:昭伸> あきのぶ]]が答える。こちらに向けた半纏の背中は丸まっているが、未だ肉厚で大きかった。父のようにひょろりと高いわけではない。背丈はそれほどでもないが骨太で頑健だった。

 小夜子は盆を座敷の中へ押しやり、襖を閉めた。そうしてさっさと戻ってしまう。穂高も慌てて後を追った。祖父の座敷の前で一人取り残されるのは勘弁だった。

 あの襖の向こう、薄暗い座敷の中仏壇の前で鎮座するのは果たして本当に祖父なのだろうか。だって、穂高は思う。だってあの晩ご飯の量といったら。ひとり分の、しかも頑健とは言え老爺の食事にしては異常とも言える量だった。あれをひとりで食べられるとは思えない、穂高ら三人でさえ食べきれるかどうか。以前一度母に疑問を口にした事がある。おじいちゃん、あんなにたくさんのご飯食べられんの?その時小夜子はちらりと襖に目を向けて答えた。


 おじいちゃんは大食らいやから。


 そうなん、と言うしかなかった。翌朝には全て空になった大皿が台所に返されているのを知っていて尚、あれが祖父の胃袋に全て収まっているとは信じられなかった。もしかしたらと穂高は偶に想像する。あの部屋にいるのは祖父ではないのかもしれない。得体の知れない大飯食らいの何者かか、もしくは祖父以外に誰か。背筋がぞっとして、慌てて妄想を打ち消すのだった。


 

 クッキーの焼ける匂いがする、と穂高は思った。

 六年生になってから仲良くなった高木涼真と穂高は平日はほぼ毎日遊んでいる。サッカーチームに所属している涼真は、土日いつも練習だ。その代わりというように平日は都合のつく限り一緒に遊んでいた。公園でサッカーをすることもあれば、涼真の家でゲームをすることもあった。今日は最近買ってもらったという最新のゲームで盛り上がっていた。

 ノックの後、涼真の母親が部屋のドアを開ける。

「クッキー食べる?」

 手作りのクッキーはチョコチップがたっぷりと入っていて、とても美味しそうだ。

「いただきます」

 礼儀正しく頭を下げてからクッキーを嬉しそうに頬張る穂高を、涼真の母親は優しげな眼差しで見つめる。彫りの深い父親の顔立ちと童顔の母親がちょうど良く合わさった穂高の顔は、誰もが好感を持つくらいに整っていた。幼い頃から祖母にきちんと躾られて育った為、この年頃の子供にしては行儀良く、大人からの評判もいい。涼真の母親も、初めて家に来た時、一目で気に入ったようだった。

「そう言えば、この前穂高くんのお母さんに会うたわ。スーパーで声かけてくれて」

「お母さんに?」

「そう。いつもありがとうございますって。今度うちにも遊びに来て下さいって」

「ほんま?俺、穂高ん家に行きたい」

 涼真が目を輝かせる。

「え…」

 穂高は即答できずに戸惑った。あの家に、涼真を。あの薄暗く湿った古臭い家に。

 駄目、と言いかけた穂高より先に涼真の母親が口を開いた。

「穂高くんとこは、あそこやね。御領ごりょうさんのとこやろ」

 御領というのは恩智市が恩智町だった頃の、ある一角の昔の呼び名である。町の長の領地という意味らしい。穂高の家の界隈は代々住み継がれた昔ながらの古い家が立ち並んいるところで、恩智で生まれ育った者は皆その辺りの土地を「御領さん」と呼んでいた。

「大きい家ばっかりやんな、あの辺」

 ええなあ、と涼真が羨ましそうに言うのを聞いて、穂高は驚いた。大きいだけで他には何の魅力もない。周りの家々も皆似たり寄ったりの古い家ばかりで、どことなく陰気臭い街並みが、穂高は好きではなかった。涼真の家の近辺は新しい住宅地で綺麗な家ばかりだ。住んでいる人間も明るく見える。羨ましいのはこちらの方だ。

「でもぼろぼろやで。あちこちぎしぎし言うし、雨漏りするし」

「庭あるやん。サッカーできるくらい広いやん」

「木ばっかりで、そんなんできへんって」

「できるできる。やろうや」

 明日行くわ、笑って言う涼真に困ってしまう。断りたかったが、何と言っていいかわからない。自分は毎日のように入り浸っているのに招くのは嫌などと、心が狭いようでとても言えない。せっかく仲良くなった友達に嫌われるのも怖かった。

 答えに詰まって黙っていると、いつの間にか明日涼真を七井家に連れて行く事になっていた。内心焦るものの、もう止めようがない。

 お母さんに聞いてみる、と言い置いて家を辞した。午後六時の町内放送が流れている。あちこちの学校から放送されるそれは、夏場は六時、冬場は五時に流れて子供の帰宅を促す。小学生、中学生の皆さんは帰りましょう。子供達をみんなで守りましょう。いつからかこの放送を聞くたびに鬱々とした気分になるようになった。あの家に、穴蔵のような暗い家に帰らなければならないのだと思い出させる放送は、穂高の心を沈ませる。

 帰り道、いつもの日課で駅へと続くスロープを自転車を押しながら昇る。柵から見る川面は相変わらず緑で、今日も頑なに夕焼けを跳ね返していた。まだ日が落ちきっていない。薄暮まで暫くあった。自転車を柵に立て掛けて、穂高もその隣にもたれかかる。眼下に揺蕩う川面が見えて、太腿から尻の辺りがぞくぞくした。高い所は苦手ではない。苦手なのはこの川だ。穂高は想像する。考えまいと思うのに想像してしまうのだ。もしこの柵が外れたら。重心をかけてもたれ込んでいる今この柵が外れてしまったら。柵もろとも穂高は落ちてしまうだろう。二度と浮いてはこない、この底知れない淀んだ水の中に。何が住むか窺い知れないこの川の中に。

 自分の空想に恐ろしくなった穂高は、柵から手を離して一歩身を引いた。途端に寒気が消える。足元の覚束なさが一蹴されたような気がした。

 苦手なのになぜここに来てしまうのだろう。怖いもの見たさか、強がりか。

 穂高は首を巡らせて駅舎を見る。どちらも違う気がした。恐らく自分はあの向こうへ行きたいのだ。川のない、暗い所のない、整った乾いた場所へ。

 校区外である駅の南側へは滅多に行く事がない。父も母も向こう側にある新しいショッピングセンターやスーパーへは滅多に行かなかった。日々の買い物はこちら側にある古びた商店街で済ませてしまう。勿論、行くのは簡単だ。このまま駅舎横を通って向こう側へ続くスロープを降りて行けばいい。誰にも止められないし、悪い事でもない。なのになぜか穂高の足は止まってしまう。


 行けない。


 表と裏とはよく言ったものだ。穂高は首を戻して自転車のハンドルを持った。いつものように方向を変えて進み出す。元来た道へ、家に帰る道へ。その方向は決して表ではない、自分は裏側に住んでいるのだ、穂高は唇をきゅっと結んでサドルに跨った。

 日が沈もうとしていた。



 いつものように勝手口へと回ろうと自宅の玄関前の門扉を横切った穂高の目の端に、開け放たれた三和土が目に入った。大勢の靴が脱ぎ置かれている。客にしては多い。

 首を傾げながら穂高は勝手口の木戸を自転車の鼻先で押し開けた。ただいまと家に入ると台所の母に呼ばれた。

「ちょっと手伝って」

 大きな盆に茶器が並んでいる。客用の蓋付きの茶器は、決まった時しか使わないものだった。穂高は思わず壁に掛かったカレンダーを見る。

「今月、寄合の日やった?」

 地元の人間が御領さんと呼ぶこの界隈の町内会は、奇数月の五日と決まっている。穂高の祖父である昭伸が、もう何十年も会長を務めており、町内会は七井家で催されるのが常だった。

「違うけど、なんや急に集まる言うて」

 大盆に乗り切らない分を比較的小さな盆に乗せて、穂高に持つように促す。小さいと言えどそれなりの重量だ。慎重に持ち上げたが茶托の上の茶器が揺れる。

「気、つけて」

 台所を出て座敷に向かう母の後に続く。奥の祖父の部屋の手前の隣り合ったいくつかの和室の襖が外されて、大きな空間となっていた。寄合の時はいつもこの座敷を使う。

 長である祖父の前、近所の人間が何人も円座を組むように座っていた。老人が多い。

「失礼します」

 母が一礼して入る。心得たように数人の老婦人が茶を受け取って回していく。穂高の持つ盆を母に渡した時、ひとりの老人が声を掛けてきた。

「穂高ちゃん、大きなったな。幾つや」

「…来月、十二才になります」

 老人の顔は近所でよく見る。彼だけでなく、この辺りの老人は日中よく外で話している。車の入れないような道の脇、共同の花壇スペースの周りにベンチが置いてあるのだ。天気の良い日はそこで世間話に花を咲かせるのが彼らの日課のようだった。

 そこを通るたびに挨拶や話しかけられて少し立ち話をする事もあるので、大体の顔は知っている。知っているが、誰がどこの家の人間かはよくわからなかった。老人の顔は区別がつかない。穂高には皆同じように見える。

「そうか、もう十二か。早いなあ」

 感慨深げに相槌を打つ老人に、はあ、と返事をする。不意に、座敷にいる全員の視線が自分に注がれているような気がした。途端に居心地が悪くなる。そんな穂高に気付いたのかそうではないのか、祖父が口を開いた。

「穂高、もう行け」

 嗄れた声で言葉少なに話す祖父は苦手だが、今この時は救われたように感じた。はい、と口の中で呟いてさっさと座敷を後にする。苦手だ、と思った。祖父の事ではない。老人が苦手だ。あの粘っこい目付きと口調。皺の多い顔で表情が隠れて、笑っているようでそうでないようで、どうにも喜怒哀楽が掴みにくい。こちらを値踏みするような態度もあまり好きではなかった。だが優しいのは確かだった。この界隈で、穂高は怒られた事がない。元々大人しい方ではあったが、昔、近所の年近い子供と遊んでいた頃、うるさくしたり物を壊したりしても、誰も穂高を怒りはしなかった。怒られるのはいつも周りの子供だけで、大人達はひとりとして穂高を責める事はない。菓子をくれたり頭を撫でたり褒めたりはしたが、穂高を叱るのは七井家の人間だけだった。それを不満に思う周りの子供は、自然と離れていった。小学校に上がってからは御領の外の友達が増え、彼らと遊ぶようになったのでたいして寂しいとは思わなかったが、なんとなくそれは祖父のせいかと思っていた。七井家の奥座敷で二ヶ月に一度行われる町内会の会合は、母の手伝いで覗くたびに時代劇のワンシーンを思い浮かばせる。殿様と、傅く家臣。半纏を纏った肉厚の体が妙に大きく見える。実際昭伸は大柄な方であった。老いて尚頑健だった。

 ずっと前に一度母に聞いた事がある。おじいちゃんって偉いの?母は遠い目をした。そうやねえ、偉いんかもね。

「おんちさまに仕えてるからね」

 おんちさま、その言葉は幼い頃から度々耳にした。近所の大人が子供を叱る時、「いい子にしとかな、おんちさまに拐われるよ」と言う事があった。台風などで天候が荒れて大雨に襲われた時など、「おんちさまが来はった」と言う者がいた。

「おんちさまって何?神様?」

 幼い穂高は目をぱちぱちさせて母に問うた。おんちさまというのはきっと偉くて、神様とか仏様とかそう言ったもので、人々の畏怖や信仰の対象となるものなのだと思っていた。そういうものに仕えている祖父は選ばれた存在で、そんな祖父を皆尊敬しているのだと信じていた。

 しかし、穂高の期待を裏切るように母の小夜子の顔が曇る。どこか悲しそうな表情を浮かべて、少し笑んだ。無理に笑っているようだった。

「神様…まあ神様みたいなもんかもしれんね。穂高もいい子にしとかなあかんよ。おんちさまは、子供が好きやから」

 どういう意味かと尋ねようとしたが、小夜子は黙り込んでしまった。それきり、小夜子とおんちさまの話をした事はない。四年生の社会の授業で、郷土学習があり、昔「恩智」は「おち」ではなく「おんち」と読んでいたと習った。それを聞いて穂高はかつて聞いた神様の名を思い出した。おんちは土地の名前だったのだ。この町の、昔の呼び名。では「おんちさま」というのは土地神のようなものなのだろうか。授業の後、先生に聞いたが他市から来ている教師にはわからず首を振られた。図書室で郷土史のようなものを閲覧してみたが、そんな神様の名前はひとつもなかった。代わりに「七井」の文字を見つけた。それはかなり古い資料で、和紙に墨で書かれた和綴の本だった。毛筆の文字はひどく崩れていて、穂高には読めない。ううんと頭を抱えていると、ちょうど担任の教師が顔を出した。

「なんや、えらい難しそうなもん見とるな」

 驚き混じりに笑いながら寄ってきた教師に、今見ていたところを見せる。

「先生、これなんて書いてあるんですか?ここ、七井って読めるんですけど」

 穂高の指差す文字を見て、教師は今度は本気で驚いた。ほんまや、と呟いてじっと文献を見つめる。

「…七井ありて、御領地所治まる…かな。背景はようわからんけど、前後の文脈から、何かの凶事が『七井』のおかげでおさまった、てことやな。ただ、もしかしてこれは『なない』やのうて『しちせい』て読むんちゃうか。つまり、七つの井戸、ゆうことかな。お前の苗字もこっから来てんのかもな。お前んとこ昔からずっとここらに住んでんねやろ」

 しちせい、と呟くように言ってから穂高は顔を上げた。

「七つ、井戸があったってこと?」

 その問いに、教師はううんと唸って腕を組んだ。

「どうやろな。七って言ってもほんまに七つを指すんかはわからへん。七って数はな、ちょっと特殊やねん。たくさん、ていう意味でも使うことがある。そやから、たくさんの井戸のおかげで、いう風にもとれるし、あとは…」

 教師は少し言い淀むように口を閉じてから、まあこれは関係ないやろけど、と続けた。「死、に繋がる数でもある」

 え、と穂高は目を丸くした。

「死、は四ちゃうんですか」

 七はもっと縁起のいい数だと思っていた。ラッキーセブンとか、七福神とか。だから穂高は自分の名前がなんとなくいいもののような気がしていたのだ。

「初七日、とか言うやろ。四十九日も七の倍数やしな。七は、縁起がいいとか悪いとかではなく、死に密接に繋がってるねん」

 穂高の戸惑うような複雑な表情を見て、教師は慌てて付け加えた。

「まあでも、この場合はちゃうやろ。凶事が治まった、いうんやからいい意味のはずや。多分沢山井戸を作ったおかげで、河川の氾濫がなくなったいうことちゃうか。この辺、昔は水害で苦しんだらしいから」

 そう言って、教師は奥の本棚に向かった。授業で使う資料の物色に来たらしい。取り残された穂高は、なんとも言えない気分だった。井戸があったからだ。自分の家の庭の奥。木々に囲まれるようにそれはあった。今は塞がれているが、確かに井戸の跡だった。そこには近寄るなと物心ついたときから厳しく言われていた。


 落ちたら、二度と上がってこられへんよ。


 祖母の声が脳裏に響く。あれはあの川の事だったはずなのに。護岸整備が成される前の、あの緑に濁った川のほとりで、祖母は穂高の幼い手を繋いで言ったのだ。


 本当に?


 なんだか記憶が混在している。あの頃はまだ自分より背丈が高かった祖母を見上げて、川辺に佇んで…。いや、祖母の後ろに見えた木々は、黒ずんだ塀は、自分の家の庭だったのではないだろうか。まだ塞がれていない井戸を前に、祖母は穂高の手を痛いくらいにしっかりと握って、どこか怯えながらじっと井戸の縁を見て…。そうだ、と穂高は顔を上げた。穂高がまだ幼い頃、井戸は塞がれていなかった。蓋のない、覗き込んだら真っ暗な丸い円がぽっかりと開いているあの黒い穴。それを見て祖母は言ったのではなかったか。落ちたら、と…。

 背筋に薄寒いものが這い上がる心地がして、穂高は文献を閉じた。七つではない、たくさんでもない、あの井戸が確かに七井なら、それはきっと死の井戸なのだ。その七井が治めたものならば、凶事とやらが水害などではあるはずもなかった。きっともっと凶々しい、忌むべきものなのではないか。そしてそれは、決して消滅したわけでなはい。今はもう塞がれた井戸の中、一条の光も差さない深い闇の中、息を潜めてじっと底に横たわっている何か。そこまで考えて、穂高はぞっとした。じわりと汗が出てくる。益体もない想像を打ち消すように首を振った。そんなものを調べていたのではない。穂高はただ、おんちさまが何かを知りたいだけだ。どの文献にもおんちさまという名は出てこない。神様の名前なら、信仰のくだりにあるかと思ったが、土着信仰の話は一切なかった。

 この辺りの氏神は御領の中にある神社で、その名も御領神社という。祭神は菅原道真だった。穂高もよく知っている神社である。御領さん、というのには御領神社の氏子という意味もあった。これ以上調べるつてもなく、また方法も知らない穂高は、諦めるしかなかった。元々そこまで興味がある訳でもない。おんちさまの事は昔話のひとつくらいに思い、すぐに忘れてしまった。いや、敢えて忘れようとしたのかもしれない。井戸の底に澱んで潜む凶事と共に、なかった事にしてしまいたかったのかもしれなかった。


 祖父に救われたように座敷を出ようとする穂高の耳に、忘れたはずの単語が飛び込んできた。

「もう十二年か…。おんちさまが動き出してもおかしないな」

「おい」

 ぼそりとひとりの老人が言うのを祖父が嗄れた声で厳しく諫める。はっとしたように、呟いた老人は襖の前で振り返った穂高を見た。わざとらしく咳払いをして、湯呑みに口をつける。会合の座敷の空気が、なにやら空々しいものになる。尚も佇む穂高をじろりと落ち窪んだ目で睨む祖父に、慌てて座敷を後にした。

 台所に戻って、穂高は小夜子とふたりで食卓につく。父の伸之は会合に出ている。あまり存在感はないが、祖父の横に少し離れて、ひょろりと長いその身をかがめるように座っていた。

 今日も食卓には幾つもの大皿に山盛りの料理が並んでいる。小夜子と伸之は食は細い方だ。育ち盛りとは言え、穂高もそこまで食べる方ではない。大皿ひとつだって空にはできないだろう。毎晩これだけ作るのはかなりの手間の筈だ。食費だってきっと馬鹿にならない。それでも小夜子は文句ひとつ言わずに皿を埋めていく。

 最も材料に関しては、助成がある事を知っていた。二ヶ月に一度の寄合の際、出席する各家庭の人間の誰もが食材を持ってくるのだ。米であったり肉であったり野菜であったり、日持ちのする缶詰や乾物であったりと様々だったが、相当の量の物を持参する。会場として使わせてもらっているから、会長にはいつもお世話になってるからといった理由からだったが、それでも穂高の目には奇異に映った。殿様と家臣の図が脳裏によぎる。もしくは神仏への貢物。祭事の供物。なんにしても、これが町内会の姿とは思えなかった。

 煮物の蓮根をかじりながら穂高は先程老人がこぼすように呟いた台詞を思い返した。


 おんちさまが動き出す。


 おんちさま。その言葉は日常でよくこの辺りの人間が口にするものだ。しかしなんとなく響きがいつもと違うような気がした。普段使う「おんちさま」という言葉には、一般的な畏怖の対象としての意味合いがある。世間で言う仏だの鬼だの、それこそ人智を超えた存在だ。実在してはいないと誰もが知っている。戒めとして頭の片隅に置いておくようなものだった。反して先程聞いた「おんちさま」は、具体的な何かを示唆しているのではないかと思わせる含みがあった。生物かどうかは定かでないが、すぐそこに潜んでいるもの。影と影の間、路地や辻の裏、側溝の蓋の下。すぐそこにあるのに目にはつかないところにいるもののような言い方だった。蓮根をしゃくりと口の中で噛み砕く。つっかえそうになりながら飲み下したところで、がやがやと人の声が聞こえた。会合が終わって、玄関に移動しているようだ。小夜子が立ち上がって見送りの為に台所を出て行く。穂高もそっと立って玄関の話し声が聞こえるところまで移動して息を潜めた。


 ーー犬猫で済んでるうちはええんやけど。

 ーーとにかく暫く様子見よ。

 ーー川の近くにはあんまり行かんようにせな。


 どういうことかと穂高は首を傾げた。彼らが何を言っているかひとつとしてわからない。先程の「おんちさま」と何か関係があるのだろうか。

 もっとよく聞いてみようと更に近付こうとした時、背後から声をかけられた。

「おい」

 嗄れた低い声に穂高は飛び上がった。振り向くと祖父の昭伸が立っていた。暗い廊下にぬうと見下ろすように立つ昭伸に、思わず後ずさる。盗み聞きをしていた自分が後ろめたくもあり、俯いて口の中でもごもごとごめんなさいと謝罪した。

「…川の側に行くなよ」

 怒られるかと思ったが、昭伸は盗み聞きに関しては何も言わなかった。漏れ聴いた事と同じような事を穂高に言って、戻るように促す。穂高は慌てて台所に戻って行った。後ろから祖父が何事かぼそりと呟いた。思わず立ち止まって振り返ると、もう背を向けて廊下の奥へと歩いていた。何と言ったのか聞き返したい気持ちはあったが、呼び止めるのは躊躇われる。諦めて、穂高は再び歩き出した。

 微かに聞こえた言葉がやけに耳に残る。


 蓋があるから、あそこからは上がってこれん。


 どういう意味か。あそことは、どこなのだろう。何より、上がってこられないものとは、一体。

 食卓に座って暫くぼんやりとしていた穂高のところに、見送りを済ませた小夜子が戻って来た。

「穂高、手伝って」

 いつものように小夜子は盆に大皿を乗せていく。

「今日から、お父さんもあっちで食べはるから」

「そうなん?」

 驚いて聞き返す。初めての事だった。

「川でなんかあったん?」

 盆を持ち上げながら何気なく穂高は聞いた。軽い気持ちで口にした疑問だったが、途端に険しい顔でこちらを向いた小夜子に気圧される。

「なんでそう思うん?」

 幾分厳しい口調に戸惑いながらも、別に、と答える。

「おじいちゃんが、川に近付くなって…」

 それを聞いて小夜子は毒気を抜かれたように、そう、と力なく呟いた。先程の険しさが消えて、穂高はほっとした。

「近藤さんとこの猫が、川に嵌って死んだんやって。最近水量が増えてるし、どっかの堤防が壊れてんのかもしれんわ」

 犬猫で済んでるうちは、という台詞を思い出した。猫が死んだから気を付けろという話だったのか。しかし、と穂高は内心首を捻る。水量が増えているとは思えない。駅の下の本流は元より、この近くを流れる枝流や用水路に至るまで、いつもより嵩が増しているようには見えなかった。

「穂高も裏の川には近付いたらあかんよ。危ないから」

 勝手口のある狭い通り沿いに流れる枝流は、確かにそこそこ幅広い流れであったが、金網が張り巡らされており、暗い夜道であっても間違って落ちる事はない。最も古い金網はあちこち劣化して破れている部分もある。川までの間には僅かながらも草むらがあって、猫が入り込んで落ちたとしても不思議はなかった。時折悪戯で川側まで行く子供の姿を見かける事はあるが、まず間違いなく御領の外の子供だった。穂高を含めて御領の子供は物心ついた頃から川側へは寄らないように言い含められている。今回の猫の件がなかろうと、言われなくとも誰も近寄りはしない。用水路でさえあまり近付きはしないのだ。うん、と一応頷いた穂高は思い出したように声を上げた。

「あ」

「どうしたん?」

 盆を持って立ち止まる穂高を振り返って小夜子が問う。

「いや、あの」

 こんな時に言ってもいいのだろうか、と少し言い淀む。なに?と促されて躊躇いながらも口を開いた。

「明日、涼真をうちに呼んでもいい?」

 ぴたりと足を止めて小夜子が目をぱちぱちさせた。

「駄目だったらいいんだけど」

 穂高としては本心では涼真を連れて来たくはない。小夜子に断れと言われたらそれで終わりになる話だった。しかしまばたきの後、小夜子はにっこりと笑った。

「ええよ、連れておいで。初めてやね、あんたが御領以外の友達連れて来んの」

 浮き立つように言う。盆を運ぶ足取りが軽くなったようだった。

「おやつ、何がええかな?涼真くん嫌いなもんないかな?」

 多分ないと思うけど、と穂高は小さく答えた。嬉しそうな小夜子を見て、良かったと思うと同時に多少気が重くなる。この家に涼真を招く。それがどういう事なのか、穂高は想像して不安に思う。この暗さに、この湿気に、嫌気が差したりしないだろうか。盆を運ぶこの先が見通せない、薄暗い和室を通って祖父の居室へ向かうこの心許なさを、天井の隅がぼんやりと曇って曖昧になる境界を、振り切るように穂高は足を進めた。



「でっか…!」

 玄関の前で感極まったように涼真は声を上げた。普段は勝手口を使うが、一応お客を迎えるのだからと思い、玄関に案内した。閂のかかる木の門は常に開けっ放しだ。所々に踏み石の置かれた庭道を通って玄関の三和土に至る。涼真はきょろきょろと周りを興味深そうに見回している。

「こっち」

 庭に面した掃き出し窓のある廊下を通って、自分の部屋に案内する。和室と和室が繋がった古い造りの家は部屋数だけは多いので、穂高も自分の部屋を早くから貰っていた。一番明るい比較的日当たりの良い部屋を選んでいた事を、我ながら褒めたい気分だった。

 八畳間の和室は、本棚と勉強机が置いてあるだけで、がらんとしている。ベッドはなく布団で寝ているので、押し入れにしまってしまえば部屋はすっきり片付いて見える。服も押し入れの中のプラスチックの衣装ケースにしまっている。

「ほんまになんにもないやろ。涼真の部屋みたいにテレビゲームとか置いてないし、おもんない…」

「なんで?いいやん、畳の部屋。羨ましい。逆立ち失敗しても痛ないし、なんか落ち着く。あ、あるやん、ゲーム」

 涼真が指差した先は本棚だ。

「オセロやん。やろ」

 穂高の返事を待たずにさっさと取り出して用意する。かちゃかちゃと中央に四つ石を置いて笑った。

「俺黒がいい。穂高白な。お願いします!」

 元気良く頭を下げて、ぱちりと黒石を置く。つられて笑って、穂高も石を手にした。


 二回対戦して一勝一敗というところで小夜子が盆を手に部屋に入って来た。

「いらっしゃい」

 にこやかに歓迎する。盆にはジュースのコップとガラスの器がのっている。

「白玉作ったんやけど、食べる?」

 器の中には白玉あんみつとバニラアイスが盛られていた。

「わあうまそう!いただきます!」

 大喜びで白玉を頬張る涼真を見て小夜子は目を細める。大事な友達を歓待する母の姿は、気恥ずかしいが嬉しかった。

「涼真くんはサッカーやってるんやって?」

「うん、三年からやってんねん。そうや、おばちゃん、後で庭でサッカーしてもいい?」

 あらあら、とおかしそうに小夜子は笑った。

「あんな植木だらけの庭でサッカーできるんやろか。根っこでつまづいて怪我せんといてね」

 ふふ、と笑いながら立ち上がる。部屋を出て行く時、これからも穂高と仲良くしてね、と優しく小夜子は微笑んだ。

「穂高のお母さん、めっちゃ優しいな。若いし可愛いし」

 自分の母親を友達から可愛いと言われて、穂高は驚いた。

「若ないよ。涼真のお母さんの方が若いし優しいで、多分」

 そうか?と首を捻って、また白玉を頬張る。穂高もアイスが溶けない内に食べてしまおうと口に入れた。小豆とバニラの甘さが口の中に広がる。食べ終わると待ち構えていたように涼真に庭に誘われた。門の中に置いた涼真の自転車の前籠からサッカーボールを取り、辛うじてスペースのある場所に移動する。

 涼真はさすがにうまい。足が速く俊敏で、体育の授業では何をやらせても抜きん出ている。運動神経がいいというのはこういう人間の事を言うのだと思わせるタイプだった。穂高は体を動かす事は好きだったが、運動神経の方は並と言ったところだ。頑健な祖父とも上背のある父とも似ておらず、小柄な母の方に似てしまった。涼真とは頭ひとつ分程差がある。

 時折、なぜ涼真は自分と仲良くしてくれるのだろうと思う。明るく活発で親しみ易い彼は、友人が多く誰からも好かれている。穂高も誰とでも当たり障りのない付き合いができる方ではあったが、どちらかというと大人しい気性で、自分などと遊んでいて涼真は本当に楽しいのだろうかとつい勘繰ってしまうのだ。しかし、その問いを口にした事はない。涼真の闊達さに引っ張られるように、共にいる時は穂高もからりと笑う事ができた。常に自分を取り巻く湿度を忘れ、御領の子供である事を忘れられた。それが余りにも心地よく、できればずっとこのままでと願ってしまう。日の当たる、乾いた場所が本来自分のいるべきところなのだと、都合の良い勘違いをしたままでいたかった。

 障害物のあるサッカーは意外と面白く、熱中しているうちにいつのまにか六時の放送が流れ出した。

「もうそんな時間かあ」

 額の汗をシャツで拭く涼真が、残念そうに呟いて、転がっていったサッカーボールを取ろうと庭隅の茂みに入っていった。あ、と穂高は庭の奥へと向かう涼真を慌てて止めようとした。

「そっちは、」

「うわあ!」

 涼真の叫び声が聞こえた。蛇でも出たのかと穂高は思った。川が近いせいか、よく庭に入り込む。殆どが青大将で大きいが毒はない。どうした、と声をかけながら近寄ると、尻餅をついた涼真の前に、茂みの中ぬうと立つひとりの老爺がいた。

「おじいちゃん」

 おじいちゃん!?と涼真が思わず声を上げる。

「穂高のおじいちゃんやったん?ああびっくりした。急におったから…」

 立ち上がって尻の土をはたきながら、こんにちはと照れ臭そうに挨拶する。夕暮れ時に薄暗い庭の隅に老人がいきなり現れたら誰だって驚くだろう。しかも祖父の昭伸には妙な迫力がある。実の孫でさえ気後れするのだ。そして何よりこの時穂高は祖父の後ろにあるものを認めて、体の芯が冷えた。


 井戸。


 祖母と手を繋いで見て以来、近寄ってはいない。記憶にあるより古びたそれは、以前にはなかった重そうな鉄の板で厳重に蓋がされていた。近寄るなと言われた場所に不慮とは言え入ってしまった。叱られるかと思ったが、祖父は挨拶をした涼真に黙って頷き返すだけだった。

「お邪魔しました。穂高、また明日な」

 拾い上げたボールを手に門に向かう涼真を、昭伸は目で追った。

「友達か」

「あ、うん」

「もう暗なるから送ったれ。御領を出るとこまではついて行け」

 え、と聞き返そうとしたが昭伸はさっさと家に入ってしまう。意外だった。子供の心配をするような人だとは思わなかった。後ろ姿を見送って、はっと気付いて涼真の後を追った。ちょうど自転車を出そうとしているところだった。

「そこまで送って行く」

 ぶらぶらと自転車を押しながらふたりで並んで歩いた。湿った風が吹いてくる。その風を感じたのか、

「ここら辺、用水路多いな」

 涼真が言った。

「田んぼが多いからな。それでも昔より減ったんやって」

 以前母から聞いた話を思い出す。水路が張り巡らされ、船を渡すところもあったらしい。

「…俺、低学年の時、こっちに来たらあかんって言われててん」

 え、と穂高は思わず涼真を見た。

「なんで?」

「なんか、事故が多いからって。うち、お母さんは隣の市で生まれたんやけど、お父さんはここらの家で。御領やないんやけど、近いから色々聞いてたらしいねん。川に落ちて死んだ子がいっぱいおるって」

 ぴた、と穂高は足を止めてしまう。それに気付いた涼真が慌てて言い訳のような事を言い募った。

「いや、昔の事やで。今はそんな事言わへんから」

 地元を悪く言われて穂高が気を悪くしたかと思ったのだろうか。しかし穂高が足を止めたのは別の理由であった。

 死んだ子。

 今まで何人の子供があの川に沈んだのかは知らないが、そのうちの一人は間違いなく自分の兄だったからだ。

 穂高には兄がいた、らしい。会った事はない。穂高が生まれた年に亡くなったのだと聞かされている。裏の川に落ちて死んだのだそうだ。今の穂高と同じ年、十二才になる年だった。家の裏を流れる分流は、十二の子供が落ちるような川でも落ちたからと言って命を落とすような川でもなかったが、当時はもっと水量が多く流れも早かったらしい。最も、川で死んだというのは推測だった。

 兄の死体は上がらなかった。

 衣服が下流の川岸に引っかかっていたのでそう断定された。総出で捜索したが、結局見つからず打ち切られた。下水へと続く水路の入り口に入り込んでしまったのかもしれないと言われたらしかった。穂高は、物心つくまで兄の存在を知らなかった。家では滅多に兄の話は出なかったからだ。数年前に亡くなった祖母だけがたまに話してくれた。それも、思い出話とは言えないような、水難への注意を促すような話ばかりだった。


 落ちたら、上がってこられへんよ。


 それは兄の事を言ってるのかもしれなかった。

「穂高?」

 立ち止まったままぼんやりと考え込んでしまった穂高を訝しむように顔を覗き込んできた涼真にはっとして、慌てて歩き出す。

 御領を出るまでは、ついて行け。

 祖父が言った事がやたらと耳に残った。しこりのように、奥に残った。


 騒ぎが起こったのはその日の夜だった。食卓で小夜子と穂高がふたりだけの夕食をとっている時、玄関の方から叫び声に近い金切り声が聞こえてきた。眉を潜めて小夜子が腰を上げる。穂高も後を追うように玄関に向かった。

 近所に住む穂高と同い年の子供を抱いて、激昂した母親が半狂乱になって何やら祖父と父を責め立てていた。先に出てきていたらしい祖父の昭伸は、いつもとあまり変わらない表情で、上がり框の上から取り乱して叫ぶ女を落ち窪んだ目で見下ろしていた。腕の中の子供はぐったりしている。病気だろうかと同級生のその子供を見ていた穂高だったが、三和土の上に点々と赤い斑点が付いているのに気が付いた。


 血。


 見ると、子供の右手にぐるぐると巻かれたタオルがぐっしょりと赤く染まり、そこからぽたぽたと滴が垂れている。怪我をしたのか、と尋常ではない血の量に蒼褪めた。

「あんたらがもたもたしてるから…!なんでうちの子がこんな目に合わなあかんの、指三本も取られてしもて…!」

 落ち着いて、とにかく病院に、と三和土に降りた伸之が言うが、女はそちらに見向きもせず、昭伸を睨んだままだ。

「何の為にうちらがあんたに貢いでると思ってんの。こういう時の為に、毎回毎回…」

 尚も激昂していた女が急に沈黙した。昭伸が一歩前に出たからだった。半纏から覗く異様に太い首、盛り上がった肩、ごつごつとした岩のような手。頑健で屈強な昭伸から見下ろされて女はたじろぐ。

「…川には近付くな、言うた筈や」

 嗄れた低い声が天井の高い玄関に響いた。そう大きな声を出している訳でもないのに、妙に響き渡る。

「不用意に近付いたお前の息子が悪い」

 穂高はぞくりと背を震わせた。後ろ姿しか見えない祖父の、その顔を見るのが今は怖かった。言葉を失い蒼褪めている同級生の母親の表情を見ればなんとなくわかる。祖父は今、酷く冷たい目をしているに違いない。あの落ち窪んだ目が何の情も映さず、色濃く落ちた陰の中に埋もれている様を想像する。どろりと濁った深い穴。あの川のように底知れない虚無。

「おい、救急車からここまで入ってくる道がわからんって連絡や。通りまで出るで」

 父親らしき男が携帯電話を片手に玄関外から声をかける。はっとして母親は外に向かおうとしたが、不意に顔だけこちらに向けた。ちらりと穂高の方を見る。明らかな自分に対する視線を感じて戸惑っている穂高を見つめた後、また昭伸に目を移した。

「次はその子の番やろ。早よくれてやり」

 言って女は小走りに出て行った。

 その子の番。穂高は眉を寄せた。その子というのが自分だということは想像がついた。番というのはどういう意味だろう。自分の子供が怪我をして、次は穂高の番というのなら実に意地が悪い。嫌な気分だった。それに。


 くれてやれとは何だ。


 何もかもがよくわからず、もやもやしたまま母の小夜子を見た。小夜子なら何か教えてくれるかもと思って目を向けた穂高は、小夜子の形相を見て絶句した。童顔で、いつもにこにこと邪気のない笑顔を浮かべている母が、血走った目を吊り上げ、歯軋りが聞こえそうな程歯を食いしばっていた。言葉少なに睥睨する祖父よりも、鬼女の如く眦を吊り上げた母の方が恐ろしかった。

 立ち尽くす穂高に気付いた小夜子は、ふっと表情を戻した。

「ご飯食べといで」

 もういつもの母であった。うん、と小さく頷いて小走りに台所に戻る。食卓に座って張り詰めていた息を解いた。どきどきしていた。あんな母は初めてだった。知らない誰かのようだった。いや、違う。以前一度見た事がある。まだ穂高が幼い頃、近所の誰かに兄の事を言われた時は普通に受け答えしていたのだが、別れた後の母はやはり鬼女のようであったと思い出した。


 ーーお兄ちゃんは残念やったね。穂高ちゃんは長く育つといいね。

 ーーええ、ほんまに。


 確かそんな会話だった。今思うと妙な言い方だった。長く育つとはどういう意味だろう。大きく育つとか元気に育つとかならわかるが、長くとは。長生きしてという意味なら幼い穂高に使うのは間違っている。老人に向けるような言葉だ。

 何もかもが奇妙だった。指を落とした同級生、怒り狂うその母親、酷薄な祖父、鬼女の母。

 そして、死んだ兄。

 穂高だけが何もわかっていないようだった。子供だからという理由で遠ざけられている訳ではない、もっと別の何かがあるようで苛々した。

 山と盛られた料理の皿を、片端からひっくり返してやりたい気分だった。



 あまりいい朝ではなかった。

 洗面所は玄関の脇にある。勝手口近くの風呂場と離れているので使い勝手は悪いのだろうが、慣れてしまうと何も思わない。穂高は歯を磨きながら何気なく玄関の方を見た。この季節、いつもは朝から開け放しになっている玄関の引き戸が閉まっている。千本格子の引き戸から線状の光が差し込んで薄く伸びる。伸びた先に染みのようなものが広がっていた。

 血痕。

 穂高は歯ブラシを滑らせて内頰を削ってしまう。痛い筈だが痛みを感じる余裕はなかった。三和土をよく見ると所々に点々と色の変わった部分がある。昨夜、同級生が流した血であった。恐らくあの後掃除されたのだろうが、消しきれない染みが朝日の元に晒されている。歯磨き粉が急に苦く感じられた。口の中でぐちゅりと苦く混ざるのに耐えられず、洗面台に吐き出した。


 誰も昨日の事には触れなかった。父も母もいつも通りで、祖父は相変わらず部屋に籠っている。学校へ行く穂高の元気がない事に気付いた小夜子は、それでも昨日の騒ぎには触れず、代わりに今日も涼真に遊びに来てもらうよう言った。

「良かったら、晩御飯も食べていってもらえば?」

 邪気の無い顔で微笑む小夜子は全くいつも通りで、昨日見せた顔はもしかしたら夢だったのではないかと思わせた。しかし確かに現実だった。残念な事に、穂高の脳裏にしっかりと刻み込まれたあの夜叉のような鬼のような顔は忘れられそうにはなかった。

 小夜子の提案を曖昧に濁して、行ってきますと小さく呟いた。家から少し行ったところにいつも近所の老人達が集まる場所がある。今日もいつもと同じように話し込んでいるが、その雰囲気はいつもとは違っていた。朝日を浴びているはずなのに、そこだけ影が落ちているような。湿気を孕んだ空気が満ちているような。

 歩いてくる穂高に気付いたひとりの老人が、あ、と呟いて口をつぐんだ。両隣を軽く叩いて注意を促す。一斉にこちらを見る彼らに、穂高は息を呑んで足を止めた。じっとりとした視線が体にまとわりつく。老人特有の無遠慮さと粘着質には慣れているつもりだったが、今朝は別の物が混じっているような気がした。昨日の騒ぎはこの辺りの住人全員に知れ渡っているに違いない。

「おはようさん、穂高ちゃん。学校か」

「気いつけてな」

 口々に言う言葉はいつものもので、しかしやはり何かが違う。おはようございます、ともごもごと口籠るように挨拶して、早足で通り過ぎた。背中に彼らの視線を感じた。湿ったようなそれがいつまでも追ってくる気がして、角を曲がって彼らの視界から完全に消えたとわかっても、穂高が足を緩める事はなかった。


 怪我をした同級生は当然学校を休んでいた。事故で怪我をしたとだけ担任は話をした。だがこういう事はどこからか広まるものだ。帰る頃にはその子供が右手の指を三本失ったと学年全員が知っていた。

「穂高、帰ろ」

 声を掛けてきた涼真に続いて教室を出る。他のクラスには怪我をした子供以外にも何人か御領の子供がいる。廊下や下足室、校門でその内の数人を見掛けたが、皆一様に目を逸らした。恐れを含んだ目で穂高を追いかけるくせに、そちらを向くとさっと逸らされる。もやもやとした。大人しい穂高にしては珍しく、なんや、と突っかかりたい気になったが、昨日の騒ぎを思い出してぐっと堪える。今朝の老人達の目。湿気を帯びたまとわりつくような陰気な目の中、何かを恐れる色があった。子供も大人も恐れている。御領の中で泥濘に沈むようなどろりとした恐怖が膨らみつつある。だがそれがなぜ己の身に降りかかってくるのか、穂高にはわからなかった。彼らは一様に昨日の痛ましい事故を憂いている。その上で、今後このような事が起こらないようにと願っている。穂高も勿論そうだ。だが、その為にどうするべきかはわからない。せいぜい川に近付かないよう気をつけるくらいだ。しかし、他の御領の子供はなんだか違うような気がした。子供だけではない、今朝会った老人達もだ。漠然と感じていた違和感がどこから来るのか、今わかった。彼らが恐れているものと穂高が恐れているものは微妙に違う。穂高は川を恐れている。近寄るだけで指を失うような恐怖。底に何が潜んでいるのかわからない、未知への恐れ。しかし彼らが感じているのはそれではない。災厄が自らに降りかかるとは思っていない、その愚鈍さ。例えて言うならば、彼らはドッチボールの外野にいるのだ。ゲームには参加しているが、命の危険はないという、身の安全を確保した上での畏れ。彼らの安全は穂高の身にかかっている、穂高が彼らの願い通りの行動を取りさえすれば、己は無事でいられる、そう思っているのだ。でなければ、彼らがあの伺うような視線、媚びとへつらいと恫喝と恐怖が入り混じった、あのなんとも言えない暗い視線を寄越す道理がない。

 ぞっとした。

 一刻も早くこの底なし沼のような湿地を離れなければ、と彼らに背を向ける穂高に不意に日が差し込むような声がかかった。

「穂高、今日はうちで遊ぼ」

 いつの間にか隣に来ていた涼真だった。ほっと、肩から力が抜ける。涼真だ、穂高は鼻の奥がじんと熱くなった。彼のからりと乾いた明るさは、いつも穂高を救ってくれる。そうだ、涼真がいれば、きっと大丈夫だ。たとえ底なし沼に嵌ったとしても、その手を真っ直ぐに伸ばして引き上げてくれる。冷えていた腹の底がじんわりと温まる気がした。

「穂高?」

 じっと見てくる穂高を訝しんで、涼真が首を傾げる。はっと、今朝の小夜子の言葉を思い出し、取り繕うように言った。

「お、お母さんが、今日もうちにおいでって言ってたけど…」

 その言葉に涼真はすまなそうに眉を下げた。

「俺は行きたいねんけど…、お父さんがあかんって言うねん。昨日の夜、あの辺で事故があったん聞いたらしくて」

 近所やろ、あいつ。声を潜める涼真に無言で頷く。

「なんか知らんけど、指なくなるってどんな事故なんやろな」

 どういう事故なのかは穂高も知らない。子細は何も聞かされていなかった。大人達は勿論知っているのだろうが、尋ねられる空気でもなかった。


 ーー指三本も持っていかれて。


 あの時子供を抱えた半狂乱の母親がそう言っていた。持っていかれる。誰に。誰かに。


 おんちさまに?


 閃くように脳裏に現れたその言葉に穂高は激しい動悸を感じた。思わず胸に拳を当てる。脈動が響いて息苦しさを覚える。隣で何か喋る涼真の声などちっとも耳には入ってこない。代わりに昨日聞いた呪いのような女の言葉が耳に蘇る。


 ーー早よくれてやり。


 きいんと耳鳴りがした。


 ーー早よくれてやり、おんちさまに。


 

 なんとなく家に帰る気にならなくて、そのまま涼真の家の近くの公園に行った。この辺りは北側と言っても明るい。家にランドセルを置いて代わりにサッカーボールを持って来た涼真と、いつも通りサッカーをして遊ぶ。体を動かすと嫌な気持ちを忘れられるような気がした。かいた汗を風が乾かしていく。朝からまとわりついていた湿気が消えた。しかしまたあのじっとりとした暗い家へ帰るのだと思うと途端に気鬱になる。もうすぐ六時の放送が流れる。そうするともう帰らなければならないのだ。

 暮れて行く夕日にやるせない気分になっている穂高の視界に、影がふたつ入った。夕日を背にしてやってくるそのシルエットは女性のものだったが、誰だかはわからない。真っ直ぐこちらへ向かってくるふたつの影は近付くにつれその姿を明らかにしていく。

「穂高」

 母の声だとわかって漸く穂高はその顔を認識した。わかってみると間違いなく母ではあったが、先程まで気付かなかった。まるで見知らぬ誰かのようだった。逆光に暗く影を落とした顔。稜線が曖昧になった体。母とは思えなかった。認識してさえ未だ強烈な違和感がある。

「お母さん、なんで穂高のお母さんと一緒なん?」

 横から涼真が声を上げた。母の方に釘付けになっていて、隣に立つのが涼真の母親だと言われて初めて気が付いた。

「スーパーで会ってん。それでね、穂高くんのお母さんが、今日涼真を晩御飯に呼んでもいいかって言ってくれて」

 え、と涼真は目を輝かせる。

「行ってもいいの?お父さん怒らへん?」

「かまへんかまへん。お父さん、ちょっと神経質やねん。せっかくやからよばれてきたらいいわ」

 鷹揚に答える母親に、涼真はやったと喜んだ。

「明日はお休みやから、泊まって行き」

 誘う小夜子に涼真は更に喜ぶ。ほんま?いいの?いいよ、着替えだけ取りに行って、一緒に行こ。

「やったな、穂高。一緒におれるで」

 無邪気に笑いかけてくる涼真に、うん、と無理に作った笑顔を見せた。涼真と一緒にいられるのは嬉しい。だが。

 あの家に、涼真を入れてもいいのだろうか。

 昨日は彼が自分の家の薄暗さを拒みはしないだろうかと心配だったが、今はそれとは全く違う漠然とした不安があった。六時の放送が流れる。早く帰りましょう。子供達をみんなで守りましょう。空々しい女の声。

 人気の少なくなった公園に、放送を掻き消すように鴉の鳴き声が響いた。


 

 めっちゃいっぱい、と涼真は目を丸くした。思った通りの反応に、穂高は恥ずかし気に身を縮める。

 食卓の上にはいつものように大量のおかずが並べられていた。いつもと少し違うのは、唐揚げやエビフライなど子供の好きなメニューが多めというところだ。

 小夜子と穂高と涼真の三人で、いただきますと食べ始める。

「うまい!」

「ほんま?良かった」

 穂高の危惧を他所に食事は和やかに進む。暫くして、涼真は気付いたように疑問を口にした。

「あ、なあ。穂高のお父さんとおじいちゃんは?家におらんの?」

 あ、と思わずバツの悪い顔をした穂高に代わって小夜子が答えた。

「おるよ。でも奥の部屋でふたりで食べはるねん。お仏壇があって、供養しながら食べるのが家長の務めやから」

 ふうん、とわかったようなわからないような受け答えをして、また食事に戻る。涼真にとっては、そういうものかと思うしかないだろう。

 夕食後、ふたりで風呂に入り、穂高の部屋に布団を並べて敷いた。まだ早い時間で寝るつもりはなかったが、布団の上に寝転がる。なあなあ、横になった涼真がこちらを向いた。

「あのご飯、ほんまにおじいちゃんとお父さんのふたりで食べんの?」

 ぎくりとしたが、涼真の顔は至って普通だ。和室に運ばれた皿を見て、純粋に疑問に思った事を口にしただけなのだろう。しかし穂高は、なんとも答えようがなかった。

「うん、多分…」

「多分って?見た事ないん?」

 うん、と穂高も常々疑問に思っていた事が溢れてきて堪えきれず口に出す。

「食べてるとこは見た事ないねん。いっつも朝になったらお皿が流しに置いてあって…。それにお父さんはつい最近まで一緒に食べててん。それが急にふたりでおじいちゃんの部屋に籠るようになって」

「そうなん」

「お父さんなんか、そんなに食べへんよ。背は高いけど痩せっぽっちやし、お母さんの方が食べるくらい」

 おじいちゃんは大食らいやからと母は言った。しかし本当にそうなのだろうか。頑健とは言え年老いた男がひとりであの量を食べられるのだろうか。

 そんな穂高の疑問を見透かしたように涼真が囁いた。

「確かめへん?」

「え」

「そやから、こっそり覗きに行って確かめんねん。ほんまに食べてるんかどうか」

 確かめる。その考えは今までなかった。はっとしたように穂高はいたずらを思い付いたような涼真を見つめる。

「確かめよ」

 穂高は起き上がって大きく頷いた。


 そうっと玄関に行って靴を履いた。裸足のまま履くスニーカーはなんだか気持ちが悪い。普段は勝手口から出入りしているので穂高の靴はそちらに置いてあるが、今日は涼真と一緒に玄関から入ってきていた。それに勝手口は台所と隣接していて、小夜子に見つかる可能性が高い。

 音を立てないように千本格子の引き戸を開けてふたり無言で外に出た。門灯がぼんやりと灯っていて、蛾がウロウロと明かりの中飛んでいる。パジャマでは少し肌寒かった。祖父の昭伸の一番奥の座敷は、裏庭に面している。部屋の襖の隙間からそっと窺う事も考えたが、なんとなくすぐに見つかってしまいそうな気がした。裏庭に出る掃き出し窓は常に鍵がかかっていない。そこから様子を見るつもりだった。

 北側の裏庭は木が多く、手入れされていない為石がごろごろ転がっている。暗闇の中、おっかなびっくりふたりで進んだ。木の幹から幹へと手で辿りながら、なんとか座敷の外に近付く。途中、落ち葉の溜まり場を踏んだ時、ぐにょと柔らかく沈むような感触がして叫びそうになった。

 掃き出し窓からは薄く光が漏れていた。恐らく仏壇の灯篭の明かりだろう。父はもういないのだろうか。祖父は寝てしまったのだろうか。虫の声しかしない暗闇の中、不意に掃き出し窓が動いた。

 慌てて穂高達は木の陰に隠れる。闇に目が慣れた頃だった。開いた窓からぬうと姿を現したのは、肉厚の肩を少し丸めた昭伸だった。沓脱石に置いてあったサンダルを引っ掛けて裏庭に降り立つ。続いてもうひとり出てきた。父の伸之だった。一言も喋らず、ふたりは裏庭を通って勝手口の木塀を出て行く。こんな時間になぜと思うよりも先に奇妙なものが目に付く。ふたりの手にはそれぞれ、大皿があった。

 穂高と涼真は思わず顔を見合わせて、昭伸達の後をそっと追った。木塀を出ると、裏通り沿いに流れる川の金網の一部に中腰で近付く彼らの姿が街灯の下に浮かんでいた。穴が開いているのだろう、潜り抜けるように川辺へ入って行く。僅かな茂みを抜けると、すぐに川へ出る。何やらごそごそした後、また連なって戻って行った。木塀を抜けサンダルを脱ぎ室内に入ったのだろう、掃き出し窓が閉められると、ぼんやり薄い明かりが沓脱石の上に広がり、止んでいた虫の声がそこここから聞こえ出した。何事もなかったかのようだった。闇と虫と湿った風。物陰に隠れて成り行きをじっと見ていた穂高と涼真は、ほうっと息を大きく吐いて漸く身じろぎした。しかし声を出すのはまだ躊躇われて、口の動きだけで言葉を交わす。


 ーーなにしてたん、あれ。

 ーーわからん、でも、皿が。


 川から戻る昭伸達の手は空だった。穂高と涼真は無言で頷き合う。そっと金網に近付いた。祖父達が入って行った辺りは一見しただけではわからないが、金網に切れ込みが入っていて開くようになっていた。大人ひとりが屈んで通れるくらいで、穂高達は簡単に通る事ができた。幅狭い茂みを行くと、暗闇の中月光を映した川面が見える。さらさらとした流れに合わせてきらきらと光る。こんな時でなければきれいだと思うのかもしれないが、今はそれどころではなかった。川面に顔を向けていた穂高のシャツの裾を引っ張る感触がしてそちらに目を向けると、涼真が茂みの一箇所を指差していた。

 大皿があった。

 じとりと嫌な汗が流れた。水が近いせいかいつも以上に湿度を感じる。茂みの中突如現れたかのような大皿。奇妙な絵面だった。その皿に山と盛られている揚げ物や煮物は、先程夕食で自分が食べたものだ。腹の中にこれと同じものがあるのだと思うと、不意に吐き気が込み上げてきた。胃液が迫り上がってきた気がして、穂高は口を押さえた。

「も、戻ろう」

 そう言って踵を返しかけた穂高の視界に、ゆっくりと倒れる涼真の姿が映った。どさりとうつ伏せになった涼真を見ても、何が起こっているのか穂高には理解できない。涼真?呼び掛けてもぴくりともしない。土の上、何か黒っぽい液体が涼真の頭から流れるのが見えた。先程流れた汗が急激に冷える。寒気を感じた。恐る恐る涼真が立っていた辺りに目を向ける。そこには。

 鬼女のような母が立っていた。

 小夜子はぶらりと立っていた。散歩に来たような風情で、血がこびりついたバットを握って立っていた。風呂上がりなのか髪が濡れていた。前髪が額に張り付いて、そこから覗く目だけがぎらりと光っていた。

 穂高は後ずさりして、何かに引っ掛かってどすんと尻餅をついた。

「お、かあさん、なんで、なにして」

 何が起こったのか一切理解できなかった。それでいて母が涼真をバットで殴ったという現実は頭の奥できちんと認識していた。なぜとかどうしてとか、思う事はいくらもあったが、何よりもまず涼真の無事を確認しなければと思い至った時には、背後から誰かに羽交い締めにされていた。口を塞がれ、声も出せない穂高が必死で横を向いてそれが誰かを認識する。長い手足に予感はあった。やはり父の伸之だった。

「じっとせえ」

 耳元で父が言う。言われるまでもなく動かなかった。恐怖と疑問で体が固まっている。母の手からバットが落ちた。そうして両手で倒れた涼真の足を持ち上げ、ずるずると引き摺り出した。顔面が地面に擦れているだろうに、涼真は身動きもしない。引き摺られてできた血の跡に、もしかしてと蒼白になる。んん、と父に必死で訴える。息子の涙目にもあまり興味が無さそうな様子で一瞥する。詰将棋の手順を考えている時の方が余程真剣だった。

「死んどらん。まあどっちでも同じ事やし、死んでる方がこの後楽かもしれんけどな」

 この後。この後何が起こるのか、想像もつかない穂高は引き摺られる涼真をただ見つめる。小夜子は大皿が置かれた横まで涼真を運んで、足から手を離した。大皿の横に、涼真が並んだ。唐揚げ、エビフライ、涼真。訳がわからなすぎて頭がおかしくなりそうだった。

 戻ってきた母は、もういつもの母であった。いつもの母が、いつものように、童顔ににこにこと笑みを浮かべて名を呼んだ。

「穂高」

 ぞっとした。闇の中ぼんやりと白く浮かぶその顔は、一体誰のものなのだろう。確かに母には違いない。その顔は、その声は、穂高の母親である七井小夜子のものだった。だがこれは本当に母なのか。穂高を生み育て、毎日共に暮らしている母なのだろうか。ならば穂高の母は、息子の友人の頭を凶器で叩き割るような女だったのか。

「あらあら、こんなに冷えてしもて。震えてるやないの。早ようちに入ろ」

 穂高の頰に小夜子が手を当てる。先程まで口を押さえていた伸之の手はいつの間にか外されていた。柔らかな指先から伝わってくる温度は、しかし穂高を温めはしなかった。触れた部分から硬く冷たく固まるような気がしてまたぶるりと震えた。

 父と母に挟まれて身動きできない闇の中、月を映した川面がぱしゃりと揺れた。小さな波が立ち、波紋が川辺へと広がり届く。すうと川面が持ち上がった。穂高は目を疑う。そのまま盛り上がった川面は岸へと近付いた。

 ぱしゃり。

 水音と共にそれは岸に手をかけた。闇の中、月明かりに照らされぬらぬらと光るそれの形だけが浮かび上がる。父と母が穂高を押さえつけたまま、僅かに身を潜めた。

 それはゆらりと水から上がった。穂高は最初、人間かと思った。しかし稜線は人のようで人ではなかった。頭部と盛り上がった肩の間に首と思しきものはなく、異様に長い腕と寸胴と曲がった短い足。体を左右に傾けるように歩いて進む度、ぺたぺたと足裏が土につく時の音が聞こえる。人のようで人ではないそれは皿の前まで行くと、その長い手で食い物を掴み交互に口へ持って行く。咀嚼する音が聞こえた。食っている、穂高はまた吐き気を覚えた。次から次へと、凄い勢いで食って行く。ひとつの皿が空になると、隣の皿へと手を伸ばす。咀嚼し、飲み下す音が延々と続く。

「あれが、おんちさまや」

 囁くように伸之が耳元で言った。

「毎日毎日、おんちさまにお供え物を届けるのがうちの役目や。腹一杯になるかどうかわからんが、毎日何かを食わさんと、自分で食いもんを探しよるからな」


 食いもん。


「それでもな、十年かそこらに一遍、食わさなあかんもんがあるんや。普段は普通の飯で我慢してるけど、そろそろあれが食いたい、てなるみたいや」

 この前、子供の指食いよったやろ、何でもない事のように伸之が言う。

「子供をな、食わせなあかんねん」

 穂高は耳を疑った。今、父はなんと言ったのか。

「十二年前、お前の兄貴をおんちさまに食わさせた」

 大皿はもう二つ空になっていた。最後のひとつを貪り食っている。あれが空いたら、穂高は目線を動かす。相変わらず死んだように転がっている友人の姿が見える。

「…由高 《ゆたか》を食べさせたくはなかった」

 俯き加減に小夜子が呟いた。

「由高の前の子は、生まれて暫くして取られた。由高が十二才になるまではなんとか保ったけど、やっぱりあかんかった」

 ぽとりと滴が落ちた。穂高は自分の膝の上に落ちたその滴の跡を見て、小夜子が泣いているのだと気付いた。

「次の子を、てみんな言うけど、もう無理や。もう、おんちさまに食べられんのは嫌や」

 小夜子が泣きながら縋り付いてくる。そやから、喉を詰まらせて穂高を抱き締める。

「そやから、あの子を連れてきたんや。あんたの代わりにおんちさまに供える為に」

 最後の皿が空いた。ゆっくりと身を起こすそれの顔が月明かりに晒される。目鼻立ちはよく見えないが、顔中に鱗のようなものがびっしりと広がっていた。押さえつけられているとは言え、両親と密着しているが故になんとか穂高は叫び出さずに済んだ。

「気色悪いやろ、あれがなんなんかは俺らも知らん。昔からおるもんらしい。御領の川にずっとおんねん。それを、餌を与えてずうっと飼ってる」

 は、は、と詰まりそうになる呼吸を数回繰り返して、漸く穂高は声を出した。

「なんで、なんであんなん」

 あの化け物を、餌を与えて飼う意味がわからない。まだ普通の食事で済むならいいが、人間を与えないといけないとは。

「…御領の人間はな、長く生きられるんや。」

 おんちさまはゆっくりと顔を巡らせた。首は胴体に埋もれているが顔は左右に動く。両顎の辺りにヒレのようなものがぱかりと蠢いた。しゅう、とそこから音がする。

「ながく」

「親父…お前のおじいちゃん、幾つやと思う」

 問われて穂高は戸惑う。昭伸の姿を思い描いた。頑健で、足腰はしっかりしていて、眼光も鋭い。まだまだ現役という感じだ。

「今年で百五十二や」

 穂高は背後の父を振り返ってぽかんと口を開けた。そんな馬鹿な、と内心呆れた。

「ほんまやで。因みに俺は九十になる。小夜子は七十九」

 抑揚のない声で凡そ信じられない事を伸之は言った。目を見開き言葉を無くす息子に、ふ、と小さく笑う。幼子に花の名前を教えるように己の奇妙を教える。

「うちほどやなくても、御領の住人は皆長生きや。勿論不老不死やない。年は取るしいつか死ぬ。そやけど、時の流れが他より遅いんや。おんちさまのお陰でな」

「嘘や、だってお母さん若いって」

 涼真が若く見えると言っていた。他からも今まで何度も言われた。前を向いて小夜子を見る。彼女は少し俯いたままだった。涙の跡が皺のように見えてぎくりとした。

「若く見えるやろ。そやけどちょっと考えてみ。お前の兄貴の由高は十二年前に十二才やった。その前の子は赤ん坊やったけど、おんちさまに供えたんはそっからまだ十年以上前や」

 まだおったけどな、ぼそりと言う男は果たして父か。

「でも、そんなん誰か気づくやん、そんな長いこと生きてんのおかしいって」

「御領の中ではなんもおかしない。役所にも御領の人間は何人もおる。記録の改竄なんかどうとでもなる」

 今までもそうして生きてきたのだろう。自身の寿命を普通より伸ばす為に何を犠牲にしてきたかなど、もう考えもしないのだろう。毎朝道で会う老人達の顔を思い出す。急に彼らの顔が醜悪に感じられた。

 七井ありて御領地所治まる。

 なんのことはない、あれはまさに七井の事だったのだ。七井が子を差し出すから、御領は安泰だったのだ。

 淡々と語る父よりも泣いて穂高を抱き締める小夜子の方がまだ人間らしく思えた。しかしその小夜子も、長く我が子を奪われてきた為に、鬼になろうとしている。我が子の為によその子供を犠牲にしようとしている。おんちさまの首元からふしゅうと音がして、ヒレが動く。よく見ると顔だけではなく肩より下も鱗だらけであった。ぺたりと足を踏み出して涼真に近付く。

 やめろ、と叫ぼうとしたが寸前で伸之が口を塞ぐ。先程よりも強い力で後ろから腕を回された。

「しゃあないねん。お前も死にたないやろ」

 耳元で毒を囁かれる。嫌だ、がしりと押さえ付けられた頭を僅かに振って否定する。死ぬのは嫌だ、あんな化け物に食われるのは勿論嫌だ、だけど、涼真を食わせるのも嫌だ。大事な友達。明日も明後日もその次も当たり前のようにおはようと言って、日が暮れるまで共にいる。暗くてじめじめした場所で生きていた穂高を、笑顔で手を引いて明るい場所に連れて行ってくれる涼真。失いたくない、穂高は自分の口を覆う父の手をがぶりと噛んだ。ぐあ、と呻き声がして手が外れる。

「涼真から離れろ、化け物!」

 闇の中響き渡るその声に、おんちさまはぐるりと顔を巡らせて辺りを見た。少し離れた茂みにいる穂高を見つけ、その黒い瞳をこちらに向けた。闇を映したような漆黒の丸い目に、穂高の体は固まった。本能的な反応だった。あれに触ってはいけないと奥底で何かが訴えてくる。あの、鱗だらけの奇怪な化け物には決して触れてはいけないのだと。

 固まってしまった穂高に興味を無くしたのか、目の前の餌を思い出したのか、おんちさまは再び涼真に視線を戻す。芝の上、横たわる涼真の上にのしかかるようにその長い腕を両脇について顔を近付けた。口が開き、蛇のような先割れした舌がぬるりと出た。それ自体が別の生き物かのようにちろちろと動き、涼真の顎から上に向かって舐め上げる。唾液が飛んだ。

 おんちさまは献上された餌をいたく気に入ったようだった。何度も何度も顔を舐め上げる。そうしてかぶりつこうと口を今まで以上に大きく開けた。思わず穂高は目をつぶる。今から行われる恐ろしい儀式に耐えられないと目をつぶって顔を背けた。

 ばしゃん、と激しい水音にはっと目を開く。穂高がそちらを向くと、暗闇の中誰かが立っているのが見えた。おんちさまではない。背格好からして涼真でもない。彼は地面に転がったままだった。


 おじいちゃん。


 穂高が認識した時、後ろで伸之が、父さん、と呟いた。

 突然現れた昭伸がおんちさまを川へと突き飛ばしたようだった。暫く肩で息をして川をじっと睨みつけていた昭伸は、倒れている涼真の横へしゃがみ込んだ。息があるかどうかを確かめているのだろう。

「何してんねん、父さん。せっかくうまいこといきそうやったのに」

 伸之が憤るのを、立ち上がった昭伸が一瞥した。怒る息子を気にも止めず、穂高を抱き込んでいる小夜子を見る。

「お前の差し金か」

 嗄れた声が夜に響いた。

「お前がこの子供を連れてきたんやな。穂高の代わりに」

 小夜子は無言で、しかし負けじと睨み返す。

「何考えとんねん。御領の外を巻き込むなと普段からあれだけ言うてたやろ。面倒になるからと」

「じゃあ、一体私はいつまで子供を奪われなあかんのですか!」

 小夜子が叫ぶ。普段のおっとりした彼女からは考えられない、甲高い引き攣った声だった。

「化け物に食べさせる為に大事に育ててきた訳やあらへん!この子は、穂高だけは…!」

 爪が食い込む程きつく腕を握られる。小夜子の叫びは確かに母親としての心の叫びだった。

「長生きしたい、言うたんは誰じゃ」

 しかしその痛切な嘆きは嗄れ声に冷たく一蹴される。

「お前はできるだけ長く若くおるために、鬼になると決めたんちゃうんか」

 若い母が何を悩み考え、何を天秤にかけて今の生活を選んだかは穂高にはわからない。しかし食い込む爪から力が抜けていくのを感じて、期待が裏切られたような気になり思わず彼女を見た。闇の中にも白い小夜子の顔は凡そ表情というものをなくしていた。血が流れていないかのような凍った顔は、先程聞かされた年齢からはかけ離れた若々しい肌であった。見慣れた筈のその顔に、穂高の背に悪寒が走った。

「…まあ、お前だけを責める訳にはいかんけどな」

 自嘲気味に低く呟いた祖父は、今度は穂高を見た。落ち窪んだその目は影でよく見えなかったが、どことなく悲しそうだった。思えば祖父と話をした事はあまりなかった。百年以上あの家を守ってきた彼は、いつもあの薄暗い奥の座敷でひとり、何を思って生きてきたのだろう。朝も昼も変わらず日が差さず、灯籠の頼りない明かりだけが映し出す、あの部屋で何を。

「…もうええやろ。伸之、お前は儂の跡を継がんでええ。御領に囚われんでええ。夫婦で子供を育てて、真っ当に生きろ。生まれた時に与えられた寿命に手を加えて長生きしたところで、ロクな人生やない。地獄に落ちるわ、こんなん」

 小夜子は相変わらず表情がなかったが、穂高の腕を掴んでいた手をぱたりと落とした。伸之も押さえつけていた腕を解き、深く息を吐いて座り込んだ。祖父も父も母も、一度に年老いたかのように疲れて見えた。

「そんなん今更言われたかて…どないしたらええんや、父さん」

「すまんな、儂にもわからん。そやけど終わらせなあかん。儂らで終わらせるんや」

 連綿と続いてきたその風習がいつからのものなのかは彼らの誰も知らなかった。終わりがあると思った事はなかったが、終わりにできると思い始めていたのは確かだった。

「とにかくこの子を病院へ…」

 昭伸が屈んで涼真に手を伸ばした時、ばしゃあと激しい水音が鳴った。しぶきを上げて、鱗を立てて、鉤爪のような指先を振り上げて川の中から躍り出る。

 息が止まる。瞬きをする暇もなかった。おんちさま、そう穂高が頭の中で呟いた時には、祖父の頭が無くなっていた。噴水のように血が噴き出る。頭部のない男の体は暫くその場に頑健に立っていたが、やがてゆっくりと前に倒れた。盛り上がった肩と肩の間から、いつまでも血が流れていた。

 ふしゅう、という音に穂高達三人はそちらを見た。

 首の埋もれた独特の体型。異常に長い手の片方に球体に近い何かを握っている。ぽたぽたと液体を垂らすその物体を口元に持っていき、噛み付いた。

 おんちさまは昭伸の頭部の約半分を一口で口に入れ、音を立てて咀嚼した。残りの半分を飲み込むまで一分もかからなかった。ひい、と伸之が座り込んだまま後ずさる。小夜子は反射的に穂高を再び抱き込んだ。しかしおんちさまはそちらを見ようともせず、ぺたぺた音を立てて倒れた昭伸の方へ歩いていく。正確に言えば昭伸ではなかった。漸く気絶から戻りかけて小さく呻く、転がった涼真のところだった。

 おんちさまは涼真の足元まで行くと、たいして屈みもせずその長い手を伸ばして彼の足を片方掴んだ。そしてずるずると川へと引きずって行く。あ、う、と呻く涼真が目を開いたが、そのまま川へと引き摺り込まれて行った。尻の辺りが水に当たったところで、涼真がこちらを向いた。固まっている穂高と、確かに目が合った。

「ほた…」

 名前を呼ぼうとした途中で、涼真は川に沈んだ。



 ただいま、と勝手口から入った穂高は台所の小夜子に声をかける。お帰り、明るい声で返された。

「中学校、どう?慣れた?」

「まあ。知ってる奴多いし」

 地元の公立中学校は、三校のそれぞれ約半数が合同になる。詰襟にはまだ慣れないが、毎日着る服を選ばなくていいのは助かる。

「部活どう?」

「将棋部、思ったより人数多いわ。顧問の先生がアマ何段とかで結構真剣やねん。去年の大会もいいとこいったらしいし」

 そうなん、とわかったようなわからないような顔で小夜子は頷く。父と違って母は将棋には興味がなかった。ぱちぱちと油が跳ねる音がした。今日は揚げ物らしい。香ばしい匂いに腹が鳴る。

 中学生になって、穂高は急激に背が伸びた。成長期に入ったらしい。声も少し低くなり、近く母の身長を越すだろうと思っている。少年の愛らしさが無くなりつつある穂高を小夜子が偶に複雑そうな顔で見てくるのだった。その顔になんとなくバツが悪くなって顔を逸らした後、この上なく愛しそうな目を母がするのを穂高は知らない。

 着替えてきた穂高が食卓に着く頃には、夕食が並んでいた。大皿に盛られた何種類もの料理。相変わらずの光景だった。食卓に着くのも小夜子と穂高のふたり。これももう相変わらずになってしまった光景だ。取皿に食べたいものを取る。小学生の頃より食べる量は格段に増えたとは言え、まだまだ残っている。勿論これも当たり前の光景で、この後小夜子と共に奥の座敷に運ぶのもいつもの事だった。

 立ち上がって盆を持つ。重い方を穂高は持った。ゆっくりと歩く小夜子の後を、同じようにゆっくりついて行く。暗い和室を通り過ぎ、一番奥の座敷へと向かう。襖の外に座り、ひと声かけて襖を開けた。灯籠の頼りない明かりが漏れ広がる。

 仏壇に向かうように座る人物の背中が目に入った。ひょろりと伸びた撫で肩の背。穂高の父、伸之だった。

「置いとくで」

「ああ」

 こちらを見ずに返ってきた応えに母はまた音もなく襖を閉めた。明かりを失った薄闇の中、小夜子はよっこいしょと重い腰を上げる。襖に手をつき立ち上がる姿に、穂高は慌てて母を支えた。思いの外力強い息子の腕に、小夜子はありがとうと微笑む。照れ臭そうに首を振って俯いた穂高の目に、母の大きく迫り出した腹が入った。予定日は来月だった。生まれてくる子が男だともうわかっている。

 

 十数年後の事を考えて、重い腹をさする小夜子は時折鬼女の顔になり、毎夜仏壇に向かう伸之はどうにか正気を保ちながら懺悔の経を読み、身重の母を支えて歩く穂高は気の遠くなる程長く続くであろう己の人生を、あの川のように底深く呪うのであった。

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川の裔 神谷 公 @ham-chan

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