スーパーノヴァ

馬場ナナ

スーパーノヴァ

 真綿で首を締めるように、俺の行く手は狭められてきた。

 芳しくない結果が羅列された模試の成績表を無造作に丸めてリュックに放り込む。自習室に入る友人に軽く手を挙げて別れを告げ、塾のポスターが一面に貼られたガラス戸を押し開ける。

 重い気持ちとは裏腹にあっさり開いた扉をくぐれば、思ったとおりに母が立っている。鈍く光るシルバーカラーのファミリーカー、ノアを進学塾の前に躊躇なく路駐して、もう一六歳にもなる息子を迎える愚かな母が。

「お帰り」

「……ん」

 目を合わせずに後部座席に乗り込めば、夕闇に包まれる街へと車は滑り出す。

 繁華街のネオンに集るサラリーマンが目に入り、今日は金曜日だったことを思い出した。窮屈なスーツに身を包みオフィス街の歯車として動くだけの男にはなるまいと、少し前まで見下していた。

 若さゆえの万能感だったのだろう。あらかじめ敷かれたレールの終わりが見えてきた今となっては、真っ当に道を築いた彼らに畏敬の念しか湧かない。

 目標もない。夢もない。社会人となって働くビジョンも思い描けない。それでも親に言われるがまま歩む人形にもなりたくはなかった。

「ねえ」

 ハンドルを握った母が振り向くことなく問いかけてくる。

「夕飯、何か食べたいものある?」

「別に。つーか、もう迎えにこなくていいから」

 何度断っても、変わることはないと知っている。それでも黙って受け入れるのは癪に障るのだ。せめて、不快だと伝わって欲しいと思う。

「夜、遅いし」

「ガキじゃねーんだから」

 呟くように返してから、随分子供じみた言葉を放ったなと嫌悪感が湧いた。

 胸に残る後味の悪さを掻き消すために、ささやかな理由を付け加える。

「自習室で勉強してーし」

「家でしたらいいでしょう、お父さん、心配するわよ」

「……っせーな」

「この前の模試、どうだったの」

 バックミラーに映る母の瞳に気づかぬふりをして目をそらす、幼い自分が嫌いだ。

 

「なんだ、この成績は」

 人好きのする笑顔を崩さぬまま、柔らかな声で父は責め立てる。

 怒らせようとも失望させようとも貼り付いたままのその表情が、いつからか、笑顔だとは思えなくなった。

「……うっせ」

「僕は航の将来を思って言ってるんだ」

 目を合わせることを拒んでもなお、細まった瞼の奥の視線を感じる。声を荒げて叱られた記憶がない。手を上げられたこともない。どんな時も穏やかに諭す父を知る友人には羨まれることもあった。

「いい大学に行って、まっとうな仕事につく。そんな当たり前の幸せを手にしてほしいだけなんだよ。父さんと同じ苦労をしてほしくないんだ」

「困るんすけど」

 父と話していると、俺はいつも、霧に満ちた湖畔に迷い込む。鏡のように穏やかな湖面にさざ波が広がる様を見たくて、石を放り込む。

「なんだ」

「自分が苦労したからって、子供の人生でやり直そうとすんなよ。俺のためとか言いつつ、結局、自己満だろ」

「確かに、そうかもしれない」

 奈落へ吸い込まれるように、音も飛沫も立てずに石は消えゆく。乱暴な言葉を放っても、父の表情は乱れることがない。俺の言葉も態度も、父には響かないのだ。

「それでも父さんの言うとおりに努力すれば、後悔はしないはずだよ」

「努力できなかった奴に言われても何の説得力もないんだが」

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。一度きりの人生、後悔してほしくないんだ」

 天井からぶら下がる電気の紐に殴りかかるような虚しさを感じ、俺は口を噤む。

「この夏は重要だ。周りに遅れをとらないように――」

 コンコン、コンコンと部屋の扉が叩かれる。

「ねぇあなた」

 いつものことだ。家に帰れば父が俺の部屋で説教を始め、頃合いを見計らって母が中断させる。食卓を共にして、何気ない母の会話でリラックスして、また明日も頑張れる。

 そんな、両親が必死で築き上げようとする、幻想。付き合ってらんねぇや。

「めぐみ、今話し中だから待っててくれ」

「――あなた! 早く来てってば!」

 昨日までとは違う、切迫した扉の叩き方に不安が煽られる。

 そういえば先程、固定電話のベルの音が聞こえた気がする。どこからの電話だったのだろうか。自分は今日、何かやらかしてしまっただろうか。

「お義母さんが!」

 父の顔色が変わる。椅子を蹴り飛ばすように立ち上がると、慌てた様子でリビングへと向かっていった。

 俺は、揺れる湖面を初めて見た。

 

 祖母は、料理上手だったように思う。

 得意料理と言われてもこれといったものは思い浮かばないが、何を食べても美味しかった。

 どんぶりめしと沢庵だけの昼食ですら夢のように美味しくて、米だけを何杯もおかわりした記憶がある。

 おそらく、米を炊くのが上手だったのだろう。忙しなく家事をこなしていた小さな身体は今、寝台に寝かされていた。食べ盛りの俺のためにどデカいオニギリを握ってくれた小さな白い手は力なく横たわっている。

 祖母の危篤の瀬に立った今、思い浮かぶのは他愛もないことばかりであった。

「かーちゃん、僕だよ。大地だよ」

 臓器の動きを知らせる電子音が鳴り響く病室にて、父は祖母の手を握りしめる。

 おびただしい数のチューブが繋がれ、医師や看護師が慌ただしく出入りする状況に、祖母の容態を何となく察してしまう。

「義兄さん、あの、お義父さんは?」

 何度も電話してるんだけど、来ようとしないんだ、と伯父は言う。

 仕事が忙しいんだろうと続ける伯父の声を父の荒々しい言葉が遮った。

「親父はそういうやつだ。家族のことなんて、何とも思ってない」

 父は振り向かずに続ける。

「航、じいちゃんのこと、呼んできてくれ」

 答える前に、そばに立つ母が声を上げた。

「私が行くわ。夜も遅いし」

「航、行ってくれ」

 言い含めるように、穏やかだが強い調子で父は繰り返す。反論を受け入れたくない時の父はいつもこうして、有無を言わさぬ口調で俺に命令するのだ。

「だから私が」

「親父がめぐみの言うことを聞くわけないだろ」

 母が目を瞠る。

「そんな、こと」

 狼狽えた母の呟きの先は言葉にならずに消えていく。

 ややあって。

「……そうね、航にお願いするわ」

「……まあ、いいけど」

 母からタクシー代を受け取り病室から出る。廊下も消毒液の匂いに満ちているが、先程まで感じていた息苦しさからは多少解放された。自分の意思とは関係なく部屋から放り出されたが、あまり不愉快ではなかった。

 祖父に会いたいわけではない。仕事一筋で愛想のない祖父は昔から怖かった。あまり二人きりで過ごしたこともない。

 でも、このまま病室に留まるほうがずっと嫌だった。死の匂いが濃密に漂う空間で、頑なな父の姿が崩れゆく様を見るのは躊躇われた。

 おそらく父も同じ理由で俺を迎えに出したのだろう。親の威厳とか貫禄とか、そんな虚構の城が消え去らないようにと。老人介護施設に併設された病院を出て、タクシーに乗り込む。深夜の道は人気もなく、一五分程で祖父の自宅に辿り着いた。

 家の灯りは消えている。インターホンに指を伸ばしたところで、ふと、伯父の言葉を思いだす。確か、仕事が忙しいと言っていた気がする。

 ざく、ざくと砂利の道を歩く。しんと静かな夜にこの音は存外に響いた。家の裏手に周り、祖父の作業場へと向かう。自宅より一回り小さく、しかしずっと頑丈なつくりの作業場からは、微かな灯りが漏れていた。

「……じーちゃーん」

 インターホンがないので仕方なく外から声をかけてみる。返答はない。やはり、中に入るしかないのだろう。気が重い。

 祖父の作業場に入ったことが一度だけある。幼い頃、近所の子供とかくれんぼをしていて、俺はこの建物の一室に潜り込み、粉まみれになりながらも最後まで見つからずに済んだ。

 そして、こっぴどく怒られたのだ。二度と侵入する気が起きないほどに。今となっては怒られた理由がよくわかる。自分が命の危険に瀕していたということも。

 ガラガラガラ、とやかましい音を立てて引戸は開く。今の音で祖父が気づくことを期待したが、しばらく待っても返事はなかった。

「……じーちゃーん、入るよー」

 なるたけ大きな声を張り上げて、暗い廊下を進む。灯りが漏れていた部屋の扉を叩き、ゆっくり押し開けた。

「馬鹿野郎! 勝手に入ってくるんじゃねぇ!」

 祖父の怒鳴り声が、昔の記憶を呼び覚ます。

「悪い、でも、ばーちゃんが」

「そんな格好で入ってくるんじゃねぇよ馬鹿野郎が」

 大きな金ダライを前にして汗をかきつつ作業する祖父は、振り返らずに言葉を続ける。

「そっちに防護服あるから着替えて入ってこい、マスクもしろよ」

「星作ってんだ、危ねえからな」

 辺りを見渡せば、扉の隣のスチールラックに埃を被ったツナギが置かれていた。服の上から身にまとい、そばにぶら下がっていた防塵マスクを装着する。

「なぁ、じーちゃん。ばーちゃんのとこ、行ってやれよ」

「見てわかんねぇのかクソガキ。仕事中だ」

 手を止めることなく、顔を上げることもなく吐き捨てる祖父の姿に、どうしようもなく苛ついた。

 初めて着ける防塵マスクは自分の息が籠り口の周りが湿る。それもまた不快だった。マスクに声が消されぬよう、精一杯声を張り上げる。

「仕事仕事って、ばーちゃん、死にそうなんだぞ!」

「オメーがわざわざここまで来るんだからそうだろうな」

「死ぬ時くらいそばにいてやれよクソジジイ」

 俺がクソジジイと罵っても、祖父の表情は変わらなかった。俺の言葉って、どうしてこうも影響力がないのだろう。父にも祖父にも俺の声は響かないのだ。いつだって。

「今更行ったって、もう意識もねーだろが。全くクソ忙しい時期に死にやがって、迷惑なババァだぜ」

「ひっでーな、仕事とばーちゃんと、どっちが大事なんだよ」

「オメーほんっとクソガキだな、仕事に決まってんだろ」

 悩むことなく即答され、苛立ちはさらに増した。祖母の死すら、祖父の心を揺らすことはできないのだろうか。父の心を動かせない自分の境遇と重なり、余計に腹が立った。

「頭湧いてんのかクソジジィ」

「それはオメーのほうだよ。仕事放り出す男に何の価値があるってんだ」

 そう言ってフンと鼻で笑う祖父。

「まあオメーはハナッタレのクソガキだがちょうどいい時に来てくれたじゃねーか。手伝え」

「嫌に決まってんだろ。ジジィこねーなら俺だけでも病院に戻るわ」

 頑固一徹な祖父に背を向け、マスクを外し、ツナギを脱ぎ捨てる。扉のノブに手をかけた所で、祖父の声が聞こえた。

「クソガキ、ババァの名前、知ってるか」

 予想外の質問に驚き、振り返る。防塵マスクを外した祖父は、作業の手を止め、まっすぐにこちらを見ていた。

「……シューばーちゃんだろ」

「字、書けるか」

「は?」

「アイツの名前は秋と書く。秋生まれなんだよ」

「……だから何」

 妻の命の灯火が今にも消えそうな瞬間に、一体何を言い出すのであろう。

「花火が好きな女だった」

 シンプルな一言は、俺の足を止めるのに十分な威力があった。

「夏の終わりを告げる花火は、恵みの秋を迎える祝いだとか言ってな。俺が花火を打ち上げるたびに、これから米の季節が来ると喜ぶ、そんな女だったよ、アイツは」

 不意に、電話の音が鳴り響く。深夜の作業場に、明るい電子音が虚しく響き渡る。腰ポケットからスマートフォンを取り出す。震える手で通話ボタンを押し、取り落としそうになりながらも耳へと押し当てた。

 祖父は何かを察したのだろう。壁にかかった飾り気のない時計に目をやり、そして、祈るように瞼を閉じた。

祖母の訃報を告げたのは、母の静かな声だった。

「……死んだか」

「……ん」

 実感が伴わないせいか、涙は出なかった。棒立ちになったままの祖父を見る。この部屋には、一粒の涙も存在しなかった。年月によって深く刻まれた目尻や口元の皺が、より一層険しい渓谷を築き、祖父の代わりに泣き叫んでいた。骨ばった手は、震えていた。

「なあ、クソガキよ、手伝ってくれねえか、俺の最後の仕事と」

 何かを続けようと唇が開き、そして閉じる。祖父の瞳が言葉を探して揺れ動き、そして、まっすぐに俺を貫く。

「ババァへの餞を」

 花火師として、夫として。二つの強い意志を湛えた瞳に圧倒された俺は、ただ、頷いた。

 祖父は今、無数の星を作っていた。

 火薬を練り上げ、丸めて乾かしたものは星と呼ばれ、やがて紙玉に収まり花火の飛沫の一つとなる。

「何、すればいい」

 作業場に忍び込み、火薬を頭から被って隠れていた幼少の記憶がまた蘇る。無知とは恐ろしい。あの日、静電気の起きやすい服でも着ていたら俺は今ここにいなかったかも知れない。

「あぁん? あ、オメー触んじゃねーよ。オメーがやんのはこっち、こっち」

 指で示された先にはシルバーカラーの小ぶりなノートパソコン、レッツノートがあった。

「は? パソコンで何すんのさ」

「わかんねぇ」

「ハァ?」

 分からないとは何だ。

 一体、俺に何をさせようと言うのだろう。

「わかんねーんだよ。だから代わりにやってくれ」

「だから何をやんのか……」

「今時、花火の着火はな、パソコンでやるらしいんだ」

「で?」

「俺にゃさっぱりわからん。だからやってくれ」

 全く説明になっていない。呆れた俺は、ため息をつくしかなかった。

「つーか、今まではどうしてたんだよ」

「近頃は仲間の花火師にお願いしてたんだ、共同で打ち上げてたからな。自分で着火したのはもう、随分前のことだァ」

 花火玉を仕込んだ打ち上げ筒から伸びる着火線に花火師が直接火を灯していたのは随分昔のことらしい。

 近頃では、遠隔操作で一度に着火でき、人手も危険も少なくて済む電気着火が主流だという。

 コンピューターに疎い祖父は、電気着火が主流になった頃から一線を退いたようだ。

「何で今回はその人に頼まなかったんだ?」

「大会に出すからよ」

「大会?」

「最初で最後の、創作花火をやる」

 聞けば、近頃は仲間の依頼通りの花火玉を作り、納品するだけだったらしい。

 今さら何故急に、創作花火を作ろうと思ったのだろう。使えもしないパソコンまで用意して。

 パソコンの脇には手書きのマニュアルらしきものがあった。祖父の機械音痴を見兼ねた仲間が用意してくれたのだろう。随分丁寧に記されている。ダウンロードされていた花火の電気着火をプログラムする専用のソフトウェアも、そう難しそうな作りではなかった。

「……仕方ねえな、手伝ってやるよ、クソジジイ」

 答えてから、父の顔が脳裏に浮かぶ。祖父の手伝いに時間を費やして、勉強時間が減ることに、おそらく良い顔はしないだろう。いつもの笑みがいびつに歪む様を思い描き、少し笑った。

 

 祖母の葬式までに星を仕込みたいのだと、祖父は言った。葬式で仕事ができない間に乾燥させておきたいから、と。

 金ダライを回しながら、酸化剤や可燃剤をふるいにかけて混ぜ合わせ、糊を練り込む。少しずつ水を足して練り上げ、菜種の周りに纏わせて丸めて、ひとつの星が出来上がる。鮮やかな手つきで次から次へと星を生み出す祖父の手元に、しばし作業の手を止め見とれてしまっていた。

「星が気になるか」

「いや、別に」 

 俺の素っ気ない返事で会話が終わる。しばしの沈黙が訪れた。

 ふと思いついたように、祖父は口を開く。

「超新星爆発って知ってるか、クソガキ」

「ああん? しらね」

「宇宙で光る星はな、死ぬ間際、ぐぅっと大きくなって明るく輝くんだ。そんで、爆発する。少し前、テレビで見た」

「……で?」

「花火みてーだなーと思ってな。俺も死ぬ前に、一花咲かせたるかと思ったわけよ」

 急に亡くなった祖母のように、祖父もいつか、そう遠くないうちに亡くなるだろう。分かってはいても、言葉にされると重い現実だった。

「年寄りの棺桶に足突っ込んだジョークは笑えねえよ」

 苦し紛れに憎まれ口を叩けば、祖父は何故か嬉しそうに笑うばかりだった。祖母の葬儀が終わったその足で、俺と祖父はそのまま作業場に来ていた。祖父は玉皮と呼ばれる半球型の容器に、乾燥の終わった無数の星を並べていく、玉詰めという作業に取り掛かるらしい。

 手書きのマニュアルを一通り読み終えた俺は、祖父が紙に記した創作花火の計画書を手にパソコンとにらめっこを始める。

「さっさと終わって帰らねーと。あんまりジジイの手伝いしてると親父にどやされる」

「アイツ、厳しいのか」

 ピンセットを手に小さな黒い粒を並べる祖父は、作業の手を止めずに声を返してきた。

「厳しいつーか、なんつーか、過保護?」

「そうか」

 祖父の手が止まる。しばらく押し黙っていた。

「悪いな」

「なんだよキモチワリーな」

 悪いな、とは。思いがけない謝罪に面食らい、つい、口が悪くなる。

「死ねクソガキ」

「ジジイが先に死ね」

「オメーに言われんでも死ぬさクソガキ、死ね」

 ふと視線が合い、無性におかしくなり笑う俺を祖父はニヤニヤしながら眺めていた。

「アイツが過保護なのぁ、多分俺のせいだろうな」

「は?」

「俺はホラこの通り仕事人間だしな、ババアと二人で子供ほっぽり出してたんだ」

「でもあのクソガキ、マザコンだろう?」

「は? 誰が?」

「てめーの親父だよ」

「親父が? マザコン?」

 にわかには信じがたい言葉に、思考がフリーズする。あの唐変木のクソ親父が? 母親大好きちゅっちゅ~な、マザコンだったと?

「ババァはな、忙しかったんだよ。家事もして、こっちも手伝わせてたからな。あのクソガキは生まれたときから甘ったれでな、ババァが少しでも自分をほったらかすと、そりゃもう泣きわめいてよ。夜なんかババァと一緒じゃないと寝れなかったんだ、中学上がるまでな。おかげで二人しかガキこさえられなかったんだよ全く」

「へー」

 初めて聞く、幼少の頃の父の話にただ頷く。頷いてから、祖父の言葉の意味に気が付いた。

「孫に何言ってんだよ死ね」

「孫ったってオメーももう毛の生えそろったクソガキだろが」

「キショイ」

 祖父の仕事の手が止まり、キョトンとした顔でこちらを見つめてくる。その表情がだんだんと崩れ、満面の笑みへと変貌していくのがおぞましかった。

「まさかオメーまーだ童貞か? お?」

「ジジイ、死にてーのか」

 ふん、と鼻で笑われる。会話は終わりだとでも言うかのように作業に戻る祖父に、続きを促した。

「で?」

「あん? なんだよ」

「さっきの、親父が過保護な理由」

「ああ、甘ったれのクソガキを自立させるためにな、もうめちゃくちゃに放任で育てたんだよ。ババァもな、えらい突き離してなあ。俺なんか全く口もきかなかった。だからじゃねえか」

 祖父らしい適当な説明だったが、言いたいことは何となく理解できた気がした。

 つまり、一言でいえば。

「反面教師、ってわけか」

「そんないいもんじゃねぇよ」

 ひとつ、首を横に振って否定を口にした祖父の表情はどこか寂しげであった。

「アイツにとって俺は、ただの悪役だ。アイツの大事なババァをさらった、悪役だ」

 過去に思いを馳せているのだろうか。俯き、押し黙ったままの祖父に、俺はまた声をかける。

「ジジイのせいであんな過保護だってんなら、ジジイ、どうにかしてくれよ」

「ハァ? ほんっとオメーはクッソガキだなバーカ」

 急に顔を上げ怒鳴り散らす祖父の唾が、離れて座る俺の顔まで飛んでくる。

「アイツが歪んだのは俺のせいかもしれねーけどな、オメーとアイツの問題だろそれは。自分でどうにかしろやクソガキ」

「役に立たねぇクソジジィだなほんと」

「自分のケツくらい自分で拭け」

「いや、え? 今の話からいくとジジイのケツじゃねーの親父のことは」

「俺がボケて糞たらすようになったら拭いてくれな」

「は? マジで何の話だよ、ボケてんのかジジイ」

 目を合わせ、ひとしきり笑って。星を並べる微かな音と、キーボードを叩く音だけが作業場に満ちる。祖父と二人きりの夜が、また一つ過ぎて行った。

 数日がかりで星を並べた半球の中心にそれぞれ、割薬と呼ばれる玉を破裂させるための火薬を仕込み、二つの半球を左右ぴったり合わせ、球体が出来上がる。

 玉の周りに糊で紙を貼る、玉貼りと呼ばれる作業を二人でひたすらこなしていた。紙を貼っては乾燥室に運んで数時間乾かし、その間に仮眠を取り、目が覚めたらまた紙を貼り重ね、乾燥させ。丸四日ぶっ通しで、花火玉と過ごした。

 中でも一番大きな二〇号玉、直径六〇センチほどの馬鹿でかい花火玉を祖父は隅々まで確認していた。

「ん、いいな。完成だ」

 竜頭と呼ばれる、花火玉の持ち手を祖父が丁寧に取り付ける。棚からサインペンを取り出し、蓋をとり、そのまま暫く固まっている祖父を眠い頭でぼーっと見ていた。

 不意に黒い物体が俺を襲う。

「うわっ」

 慌てて顔の前に出した掌に、蓋が外されたまま放り投げられたサインペンが黒い線を残す。

「何すんだよジジィ」

「コイツの名前、つけてくれ」

「え、俺、玉名はよく知らないんだが」

 玉名、つまり花火の名前の付け方にはルールがある。

 例えば、大きな菊の中に小さな菊が開く花火には、「芯」の文字が入る。燃焼中に色が変わるものは「引先」の文字がつくし、消える寸前にピカリと光を残すものには「光露」の名がつく。趣向を凝らした花火玉の特徴を並べ立てて、長ったらしい漢字の名前がつくのだ。花火師の家の孫に生まれたからには、そんなルールの存在は知っている。

 が、名前を書けと言われてすぐに思いつくほど勉強はしていない。ふと、違和感に気がついた。

「ジジィ、今、名前つけろって言ったか。玉名を代わりに書け、じゃなくて」

「創作花火だからな、玉名の付け方なんて気にせず、若々しい名前をつけてくれや」

 寝不足で隈の出来た疲れ切った顔で、祖父はニヤリと笑って。

「どうせなら、ハイカラな横文字がいいな俺ァ」

 明日、晴れ舞台を迎える、この花火玉。ジジィの人生最後の作品、俺の初めての作品。

 ババァに贈る、餞。

「責任重大すぎるだろうよ」

 紙で固められた物騒な球体は、間もなく孵化する卵のように胎動しているように見え、薄気味悪く思える。何が生まれてくるのだろう。

 明日で尽きる命だと定められていても、破裂する前のこの姿に、無限の可能性を感じた。この作業場にて祖父と過ごした短くも濃密な時間を思い返しつつ、サインペンを持ち直す。

 程よい太さの油性ペンは、案外、書き心地がよかった。

 

 日の高い時間は蒸し暑く、汗が止まらなかったが、夜の帳が下りた今はそれなりに過ごしやすい。さらさらと音を立てて流れ行く川も、涼しさに一役買っているのだろう。

「最後の仕事がクソガキと二人きりとは、色気ねぇ終わりだな」

 汚れた作業着の上に紺地のハッピを纏った祖父が、また憎まれ口を叩く。

「クソッタレな人生だぜ」

「ジジィ孝行した孫にもう少し感謝しろや」

「老体をおして孫の子守をした爺に感謝しろやバカタレ」

 子守なんてさせたかよ、と、言い返そうとしたが、大きな音を立てて花開いた花火に声をかき消される。金色と紅色の菊が仕事を終え、枝垂れ柳のように流れ落ちて消えていく。僅かな後に、祖父の花火がお披露目される順番がくる。

 家に帰らず、祖父の家に泊まり込んで、汗だくで手伝った日々。祖母が亡くならなければ、あの日、祖父を迎えに行かなければ、俺は今ここにいなかっただろう。

 貴重な夏休みを勉強に明け暮れ、友達と遊び、女子と青春を謳歌していたかもしれない。もしかしたら、今日、川の対岸で、花火を見上げて笑い合っていたかもしれない。

 そんな、あり得たかもしれない可能性を思い描いても、今ここでハッピとヘルメットを身に着けている自分が嫌ではなかった。

 もしかして、俺の道はここにあるのかもしれない。

「なあ、ジジィ」

 花火師になるにはどうしたらいい? そんな問いが、祖父の声でかき消される。

「俺も近いうちに死ぬだろうけどよ」

「おう。ボケずにポックリ逝ってくれよ」

「オメーの顔に糞ぶん投げてやるからな覚えとけ」

「そのまま飯にかけて出してやるぜ」

 恩知らずの馬鹿野郎が、と笑って、祖父の横顔が少し寂しげに歪んだ。

「死ぬのは怖くねぇし、残していく家族のことも心配してねぇ。透も大地も、立派になったしな」

 寂しげな表情のまま、祖父はこちらの方を向いた。

「なぁ、クソガキ、間違っても花火師になんてなるんじゃねぇぞ」

 胸がヒヤリと痛む。冷たく言い放った横顔に、否定された理由を聞くのが少し怖い。

「……何で」

「俺はずっと後悔してるぜ、手元に何か残る仕事をすればよかったなぁなんてよ」

 そう言って花火の打ちあがる空を見上げる祖父。

「必死で作った花火玉は一瞬で燃え尽きて何も残りやしない。作品見て喜ぶ顔も見れねーし」

 打ちあがった花火が散ったのを確認すると、祖父は視線を手元に落とす。

「なぁ、オメー、料理人にでもなれよ。自分の作った飯をうまいうまい言ってる姿見てたほうがずっと幸せだろ、なぁ?」

 掌を見つめ、絞り出すように呟く祖父にかける気の利いた言葉など、俺には思いつかない。

「……しらねーよ」

「さ、そろそろ順番だな。着火、頼むぜ」

 祖父は踵を返し、打ち上げ筒の最後の確認へと向かっていく。

「ババァが喜んでくれたから、俺は花火を作っていられたのよ」

 雑踏のざわめきや、川のせせらぎに紛れるように小声で呟いたのだろうけれど。

 俺の耳には確かに、そう聞こえた。

 バタバタバタ、と音を立てて近くのテントの屋根がはためき、少し遅れて俺の髪を舞い上げる。一筋吹き込んだ強い風は、川面に波を立て、頭上を白く曇らせる煙をどこかへ運んでいく。祖父が声を上げて笑った。

「ハッハァ! 煙が晴れやがったぜ、絶好のタイミングだ! クソガキ、準備はいいか?」

「……おう!」

 俺に話しかけながらも、祖父の視線は頭上に向いていた。目元がきらりと反射して見えたのは、気のせいではないだろう。

「ババァ、しっかり見てろよ。空の上の特等席でな」

 頭上に広がる真っ黒に塗りこめられたキャンバスは、祖父の為に用意されたとっておきのステージだ。

 描いてやろう。一瞬限りの永遠を。

 祖父が頷いた。

 俺は、エンターキーに置いた人差し指を押し込む。

 

 燃え尽きろよ、スーパーノヴァ。


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