第13話 二つの茶会

「ああ、藍晶らんしょう様!」


 茶席の誂えられた小庭園に足を踏み入れると、先に到着していたさい環林かんりん姫はこちらを目にするなり駆け寄ってきた。

 長いまつげに縁取られた黒曜の瞳が潤み、白磁のように白い頬は薔薇色に染まる。


「ご無事なお姿を拝見できて、とても嬉しく思います!」

「ありがとうございます、蔡姫」


 私は微笑んで礼を言う。

 蔡姫は私の手を握りしめたまま、少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「申し訳ございません。わたくしったら、はしたないところをお見せしましたわ。ああでも、本当に心配で。急に王宮の宴に向かわれたと思ったら、その夜には伽に召されたと聞きましたから……」


 私たちのやりとりを見ていたとうがすこし困った顔をしていたけれど、気にしないことにする。

 それよりも、いまの話だ。

 私は自分の胸の内だけにこれを留めておくことができなかった。


「そう、そうなんです蔡姫! あの男――いえ、皇太子様ったら、なんの前触れもないままに!」

「ええ、ええ、お気持ちはわかりますわ、法姫。わたくしも伽の話を聞いたときは驚きました。ひと月前はあんな風にも言っていらしたのに、いったいどういうお心変わりがあったのかと」


 互いに手を握ってうなずき合う。

 そんな私と蔡姫の姿を見て、陶は少し複雑そうに首を傾げる。一言申し上げるべきか、と迷っているようだが、私たちの絶え間ないさえずりは止まらない。


「ああ、でも、ようございました。なんとか乗り越えられたご様子で」

「それがそうでもないのです……。丞相方の策略かなにかは知りませんが、皇太子様は変なことも仰ってましたし、なんだか私だけ何も知らないで置いてけぼりみたいで……」

「まあ……その、わたくしから昨夜のことをお訊ねするのはさすがに不躾かと思いますが、法姫の気が少しでも軽くなるのであれば、どうぞわたくしにお話してくださいまし」

「ええもちろんです! 私、ひとりで抱えておけなくって!」


 私たちは互いに手を取り合ってその場でぴょんぴょん跳ねる。二人しかいないのだから無礼講だ。いや、一応女官たちはいるのだけれども。

 とりあえず席についてお茶とお菓子をつまみながら、昨日の朝からの出来事を説明する。朝に帝の勅使から伝えられたこと、それに合わせた演目の準備と実際に舞ったときのこと、そして丞相たちの話とその後に伽へ呼ばれたこと。

 そうして一から順に説明していると、ふと蔡姫が可愛らしく小首をかしげて言った。


「ええと……法姫は、国祖邂逅の舞について、ご存知なかったのですか?」


 彼女の言葉に私はひとつため息をつく。

 そう、問題はそこだったのだ。私の大きな勘違いと、計算違いがあったのは。


「いいえ、もちろん存じておりました。本来は舞の後に一晩をともにすること。それが国の験担ぎとして行われていることも知っていました。けれど……その、これはもう、言い訳になってしまうのですけど」

「なにか、思い違いが?」

「そうなんです。実は、私の母が入内の際にあの舞を披露したことを、父からよく聞かされていて」


 父は、かつての母のことは何でもよく口にしていた。だから顔も知らぬ母が同じ舞を得意としていたことも、何度も耳にしていた。

 問題はその点。母はもともと後宮に入内した身でありながら、父に下賜された姫。

 つまり、帝からの『お手付き』がなかった姫なのだ。

 一度でも伽に呼ばれた娘は、よほどのことがない限り宮に留め置かれ、下賜されることはない。けれど母は、実際に私を産んでいるのだから父に下賜されているのだ。

 すなわち、入内の儀で国祖邂逅の舞を披露しても、彼女は伽に呼ばれなかったのである。


「だからてっきり、あの伝統はもう廃れたものかと思っていたのです」


 私はちらりと陶を見る。陶はそっと目をそらした。

 蔡姫は困ったように眉尻を下げ、少し考え込んで、おずおずと口を開いた。


「わたくしは、珠玉の姫について詳しく存じませんが、たしかにそれは妙なお話かと思いますわ。下賜される姫は主上に手つきをされていない、というのは当然のことです。いくら当時から丹皇后様に寵愛を注いでいたとしても、それが国の伝統である以上、当時の皇太子様……主上がそれを蔑ろにするわけがないでしょう。けれど、それではどうして、『珠玉の姫君』だけが特別だったのかしら」


 蔡姫の言葉はもっともだ。私自身も、その点が納得いかない。

 私たちは揃って首をひねるけれど、その答えを知っている者がいないのだから結論は出ない。

 やがて蔡姫は気まずそうに顔を伏せると、ぽつりと言った。


「わたくしは、このお話はきっと、もっと根深いところにあると思いますわ」

「根深いところ……ですか」

「ええ。もしかしたら、わたくしたちが知ってはいけないような、とても恐ろしいことかもしれません」

「蔡姫様、あまりご無理はなさらぬよう」


 陶が心配そうに言うと、蔡姫はちいさく微笑んで首を振る。

 

「いいえ。もっともおつらいのは法姫ですもの」


 蔡姫は真剣な表情を浮かべ、私に向き直る。

 私はそんな蔡姫をじっと見つめ返した。

 そうしてしばらく見つめ合ったあと、私たちはどちらともなく吹き出して笑ってしまった。


「ふふ。ここで考え込んでいても結果は出ませんね。法姫、あまりお気になさらないほうがよろしいかと」

「そうですね。確かに、これ以上考えても仕方ないのかも」

「ええ、そうですよ。あ、それともうひとつ」


 ぽん、と手を叩いて、綺麗な黒曜の瞳が私を映す。


「皇太子様、もう遠慮しないって仰ったのでしょう? でしたら本日から龍宮へ顔を見にいらっしゃるかもしれません。ご覚悟だけはしていてくださいましね」

「えっ」


 思わず素の声が出てしまって、慌てて口を押える。


「蔡姫……他人事だと思って楽しんでますね?」

「あら、人聞きの悪い。だって本当に他人事なんですもの」


 ころころと笑う蔡姫を見て、私は半分諦めのため息をついた。

 まあいい。どうせ今日は予定もない。暇を持て余して悶々としているよりは、こうして話を聞いてくれる友人がいるだけありがたいものだ。

 それに、蔡姫の言ったとおり、今から緊張して構えていても意味はないのだから、覚悟だけしておけばいい。

 上品に可愛らしく、口元を団扇で隠しながら目を細める蔡姫は、楽しさを隠せない声色で続ける。


「それにしても『毎日会いに行ってあげる』なんて……皇太子様ったら熱烈ですわ。もしかして、本当に法姫のことが好きになってしまったんじゃありません?」

「ええー……さすがにそれはあり得ないと思います……」


 蔡姫の言葉に、私は目を丸くする。

 好きになるというのはつまり、そういうことだ。愛しているということ。

 でもそれこそ突拍子もなさすぎる。

 つい昨晩、喧嘩腰で言い合った相手にそんな感情が湧くものなのだろうか。

 しかも相手はこの国の皇太子。いくらなんでも無礼が過ぎるような行動した覚えがあるし、さすがにあり得ないと思うのだが。


「でもそれ以外に考えられますか? 市井しせいであればじゅうぶん愛の告白になると思うのですが」

「まあ、市井であれば確かにそうですが」


 私は釈然としないながらも首肯してみせるしかなかった。だって他にそれを覆せる説が思い浮かばないのだ。ほかに好きな人がいると公言していたのだからあり得ないとは思っていても、現状それ以外に否定できる説がないのだから、彼女にこれ以上否定の言葉をかぶせることはできない。

 けれどやはり納得いかない気持ちはあるわけで。なので私は、子どものように頬を膨らませながら茶菓子をかじる。


「そんなことがあるのかしら……」

「何事も前向きにお考えになったほうが良いですよ。皇太子様も人の子だということです」

「人の子ねえ……」

「ええ、きっとそうですわ。それに本当に貴方のことを好きになったのだとしても、あの方はああいうお立場の方ですから、すぐにどうこうということはないはず。ほら、伽には呼ばない、とも仰っていたのでしょう? ならば、きっとしばらくは大丈夫です」


 そう言ってもらえると、少し気持ちも楽になってきた。

 確かにそうだ。あの男は皇太子なのだ。

 いずれ国を統べる人間として育てられた男。本当に恋をしたからといって、父である皇帝が存命のうちには急いて事を進めることもない、はずだ。

 それに、もしも本当に皇太子様が私を好いているのだとしたら――。


(……ん?)


 はて、やはり。胸になにかが引っ掛かる。

 心臓の脈に合わせて、手首にずきんとした痛みを感じた。

 私は思わず眉根を寄せてしまう。

 これはなんだろう。今朝の傷痕が、やけに痛く感じる。

 蔡姫は私の表情の変化に気づいていないのか、安心させるように微笑んでみせた。


「法姫、どうかお気に病まれませんよう。皇太子様は、心根のお優しいお方。きっと法姫を悲しませることはなさいませんわ」

「……ええ、わかっています。蔡姫」

「それに、もしそんなことがあったら、わたくしたち全力で抗議しに参ります」


 そう言って、蔡姫は口元を隠しながらまたころころと鈴の音で笑う。いたずらっぽいその笑みに、私もつられて笑った。

 蔡姫の言うとおりだ。いまはただ、平穏を信じて待つことにしよう。

 ――そう思った矢先のことだった。


「あらあら、楽しそうですわね。あたくしも交ぜてくださらない?」


 突然背後から鈴の音のように軽やかで、しかし高らかな笑い声が聞こえてきた。

 驚いて二人同時に振り返ると、そこには朱衣の女性が佇んでいる。その背後には主と同じ色で揃えた女官たちがずらりと並び、その道を華やかに彩っていた。

 朱衣の女性は口元を団扇で隠しながら、化粧に縁どられた目元を下弦に弛ませて笑う。

 艶やかな黒髪に彩られた白磁の顔肌。そこに浮かぶのは、瑠璃のような双眼。

 齢は私たちよりずっと上だが、若々しく、そして刺々しい視線を送ってくる彼女――後宮四妃、らん淑妃しゅくひがそこにいた。

 朱の衣を揺らめかせてこちらへ歩み寄るその姿を見た瞬間、背筋に悪寒が走る。

 なぜ、後宮からは遠いこの庭に彼女がいるのか。後宮四妃はあまり人前に出てこない、とくに皇太子の宮である龍宮に訪れることはほとんどないはずなのに。

 それに、この妙な威圧感。

 まるで蛇に睨まれた蛙の気分だ。身体が動かない、というのはこういう状態なのかと息を呑む。

 けれども、それはほんの一瞬だった。

 私がなにも言えないうちに、蔡姫がふわりと立ち上がり、私と淑妃の間に進み出た。

 彼女は四妃を前にしても臆することなく、いつものように優しく微笑んでいた。

 私も侍女たちも呆然とするなか、蔡妃は恭しく腰を屈めて礼を示す。


「淑妃様におかれましてはご機嫌麗しく。本日もご尊顔を拝することができ光栄に思いますわ」

「ふふ、あなたたちこそ元気そうじゃない。ねえ、法姫?」

「は、はい、おかげさまで――」


 まさか話を振られるとは思わず、私も慌てて立ち上がり返事をする。

 その返答に淑妃は口元に笑みを浮かべたまま、すうっと目を細めた。ぞくりと背筋が凍る。

 私は咄嵯に蔡姫の背中に隠れるようにして縮こまった。

 それを見て淑妃はまた愉快そうに笑い、それから、私と蔡姫を見比べながら言った。


「まあまあ。あの法丞助の娘ときいたから、どんなものかと思っていたけど。なかなかどうして――噂通り、可愛らしいお嬢さんだこと」

「お、恐れ入ります」

「いいのよ。褒めているんだもの。そうかしこまらないでちょうだいな」


 淑妃は団扇をひらりと揺らす。

 そして今度はしっかりと私の方に向き直り、つい、とその足を進めた。

 びくりと肩が震えてしまうのを自覚し、私は無意識に奥歯を噛み締める。


「うふふ、やっぱり可愛いわねぇ。あたくしも欲しいくらいだわぁ」


 目の前に立った淑妃は、その長い爪先で私の頬に触れようとする。しかしすぐに蔡姫がその間に入り、にっこりと有無を言わさぬ笑顔を浮かべ、その小さな体を盾にした。


「淑妃様のお宮からすれば、お散歩というには些か遠い庭かと存じますわ。なにか、御用があったのでは?」

「あら、そうだったわ」


 淑妃はあっさりと手を引き、そして再び私と目を合わせる。

 先ほどまでの鋭利な視線ではなく、どこか誘うような色香のある瞳。こんな視線を向けられれば、市井の男連中など一瞬で虜になってしまうだろうというほどに、彼女のそれは艶めかしく美しかった。

 しかしやはり、それと同じくらい、目の奥にあるものが恐ろしい。


「ねえ、法姫。あなたに時間があるのなら、これからあたくしと一緒に来てくれない? 皇后様がね、お茶会を開いてくださるの。そのお茶会に参加するひと、みぃんな、あなたに興味津々なのよ。なにせあの東宮様を虜にしたのでしょう?」



 間髪入れず一息に告げられたその言葉に、私は息が詰まりそうになった。

 反射的に出かけた言葉をなんとか呑み込む。


「……それ、は……」

「うふふ、そんなに警戒しないで。別に取って食おうってわけじゃないの。ただ、少しだけお話ししたいだけ。ね、いいでしょ?」


 蔡姫が私たちの間にいることも気にせず、淑妃はぐいっと身を乗り出す。その勢いに押されて思わず仰け反ると、彼女はくすくす笑いながら私から離れた。


「さあさ、行きましょう。大丈夫、あなたのことはちゃんと守ってあげるわ。それに、蔡姫もね。ほら、味方は多いほうがいいでしょう?」


 淑妃は私たちの間をすり抜け、歩き始める。そのあとを追うように、朱衣の女官たちが動き始めた。

 なんて強引な人だろうか。あれほど気が強くなければ四妃なんて務まらないのかもしれないが、それにしたって強引すぎる。

 どうしよう、と私が困っていると、背後から蔡姫が囁いた。


「法姫、ここは彼女に従いましょう」

「しかし――」

「どちらにしろ、夜伽の話が広まれば避けられぬこと。早いうちに済ませたほうがよろしいわ。わたくしも、貴方とともに参ります」


 華奢な手が私の手を握る。私はごくりと唾を飲み込み、それから小さく首肯して、蔡姫とともに淑妃の後を追った。

 後ろで途方に暮れている侍女たちに、内心で謝罪を述べながら。


 第十三話、了。


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