第12話 無の足音

 そういうわけで、龍宮の一室。

 寝台の上でもこもこと毛布をかぶり、お山になっている私ことほうらんしょう。内側からうーうーと唸り声が聞こえるその山をつつき、侍女頭のせんは困ったように話しかけた。


「姫さま。なにがあったかはお聞きいたしませんので、せめてお食事を摂ってくださいまし」

「……いらないです」


 くぐもった返事を聞き、茜はさらに言い募る。


「龍宮に戻ってから何も召し上がっていないではありませんか。このままでは身体を壊してしまいますよ?」

「食欲がないんです……」

「姫さま」


 さらに強く言われてようやく顔を出した。

 恥じらい、というには強すぎる羞恥で耳まで真っ赤になっている私に、茜はとりあえずというようにほんのり湯気をまとった布を差し出す。


「まずはお顔をどうぞ。すぐにご準備いたしますので」

「……うん、ありがとう」


 ふわっと香るのは、少し甘酸っぱくて爽やかな匂いだ。柑橘のオイルを入れた湯に浸してあるのだろう。

 その香りに誘われるようにして布を手に取った。

 ぽふりと顔に触れさせると、強張っていた表情筋がじんわりとほぐれていく。


(あ……気持ちいい……)


 ほっと息を吐きながら目を閉じれば、まるでお日様の下で日向ぼっこをしているような心地になる。

 そのまましばらくじっとしていると、先ほどよりずっと楽になった気がした。


「もう大丈夫そうですか? よろしければ、こちらもお飲みになってくださいませ」


 そう言って差し出された器の中には、乳白色をした液体が入っている。

 鼻先に近づけると、かすかに花の蜜のような甘い匂い。


「これはなぁに?」

「桃の果汁に蜂蜜を足して温めたものです。桃は万能の美容薬ですし、蜂蜜は喉に潤いを与えます。どちらも疲れた時には良いですよ」

「へえ……」


 桃と蜂蜜。たしかにどちらも有名な、栄養が多く含まれた食材だ。それはよさそうだと思って口に含むと、想像よりもずっと甘くて美味しかった。

 こくり。嚥下すると、のぼせていた外側はすうっと冷え、内側がぽわっと温まる感覚がある。

 ゆっくりと時間をかけて飲んでいるうちに、少しずつ気分が良くなってきた。まだ思い出すとつらいものがあるが、それでも心なし胸の奥にあった重苦しいものが軽くなっていくようだった。


「―――ふう。……おいしい」

「よかった。もう少し飲まれますか?」

「ううん、今はこれでじゅうぶんよ。ありがとう」

「かしこまりました。では、こちらのお食事も食べられそうなものだけで構いませんので、どうぞ」


 そう言って、今度は小皿に盛られた料理を差し出される。

 野菜と小貝柱の粥、魚のすり身の団子、そして豆と玉子のスープ。どれも消化の良い食べ物ばかりで、だからこそ今の自分に必要なものだと分かる。

 ああ、彼女たちも心配してくれていたのだ。それを感じ取り、なんだか嬉しくなって口元が緩む。

 とりあえず、スープの器を手に取ってみる。

 匙で掬い一口含んでみると、出汁がきいた優しい味がした。


(あぁ……しみる………)


 じんわりとした温かさが胃に落ちていくのを感じる。

 そのまま匙を口に運ぶと、二口目はもっとおいしく感じた。

 次に、粥に手を伸ばす。

 これは見た目通りというべきか、味付けは塩だけだ。だが、野菜だけでなく小貝柱がはいっていることで、こちらも素材の旨みがよく出ている。

 米は玄米なので粥にしては歯応えがあるが、それがまたいいアクセントになっていた。


「……ふー」


 思わず漏れてしまった声に、茜はほっとしたように微笑んだ。


「良かった……。お口に合いましたか」

「ええ。このお粥、すごく美味しい」

「ふふ。お気に召されたようで何よりです」

「こんなにたくさん食べれたら、ほんとに元気になっちゃいそう」

「まあまあ、それはようございました」

「――ねえ、茜」


 もぐもぐと口を動かし、飲み込んでから手を止める。

 振り返った茜に顔を向けて問うた。


「茜は、私のこと、どれくらいしってる?」

「どれくらい、ですか?」


 私の言葉に、茜は少し困ったような顔になる。

 意図をはかりかねている様子だ。なので、私はもう少し付け加えた。


「……皇太子様が、変なことを言っていたの。私に関わることだと思うんだけど」


 そう言って、袖を捲ってみる。そこにはやはり、朝見たときと同じ、黒ずんだ痕が残っていた。

 茜はそれを見て焦った声を上げる。


「お、お怪我ですか、姫さま……!」

「ああ違うのよ。怪我ではないの。……たぶん」


 慌てて首を振って、それから、この痕のことは自分でもよく分からないのだと正直に伝えた。

 茜の顔には気遣わしげな雰囲気が滲んでいる。私が不安になっていると思っているのだろう。

 けれど私が不安を感じていることはこの痕のことではない。

 正確にいえば、まあこれも入ってはいるけれど、それ以上に気になっていることが多いのだ。


「皇太子様はこれについてご存じのようだし、きっと何かあるはずなの。でも私自身は、父からこれといって聞かされていないし。茜たちは龍宮女官でしょう? そういう、姫たちの噂とかお話とか、聞かされていないかしら?」

「ううん、そうですねぇ……」


 茜は首をかしげて腕を組む。

 そうしてしばらく思案した後、彼女はゆっくりと口を開いた。


「あくまで噂、というものであれば、いくつかは」


 茜は、私についての噂はいくつか耳にしたことがあったという。

 最も有名なのは、王城勤めであれば誰でも知っている、あの『珠玉の姫君』の娘であるということ。

 それは間違いない。私自身も父から、耳に胼胝たこができるほど聞かされた話だ。大っぴらに話すようなことではないが、だからといって隠すことでもない真実ほんとうの話。

 次に、その父が皇帝陛下と懇意であるために、私が龍宮へ参内することになったということ。これもまた事実だ。

 だからこそ私は今ここにいる。私自身は詳しく聞いていないが、私が龍宮に入ることになったのは父の意思だけではなくて、皇帝陛下からもそれを望まれたかららしい。

 そして、そんな周囲からの寵愛を受ける娘ということで、妬みや嫉みの対象にもなっている、ということ。

 これに関しては――言われてみれば確かにそうだ、という程度の認識だった。

 もちろん父の立場もあるからか、まだ面と向かって悪意をぶつけられたことはない。ただ陰でひそひそと嫌味や皮肉を言われていることは知っている。参内の初日にも、道行く後宮妃たちがじろじろと視線を向けてきていたことを思い出して、ちょっとだけ苦笑いした。


「……でも、それって、私のことっていうより、父上のことよね」

「はい。姫さまのお父上が、月下殿げっかでんの主であったから、という話ですね」


 月下殿、という言葉が出てきて、私は少し頭を悩ませてしまう。

 その名前は知っている。月下殿は、父が宮仕えになる前に、身を置いていたという場所だ。母を下賜する代償として父はその月下殿を離れ、丞相の補佐として官吏になった。

 そういえば、父は母のことを語るとき、それについてもよく口にしていた。

 月下殿は特別なところ、だと。

 特別というのはどういう意味なのかと尋ねたことがある。すると父はこう答えたのだ。


 ――あれはね、第二の龍宮城なんだよ。


 あれは確か、私が七つのときのことだったと思う。

 そのときは意味が分からなかった。龍宮はこの国の、皇太子のための場所だ。それは国の誰もが理解しているし、幼かった私でさえ知っていた。

 なのにどうして、『第二の龍宮城』なんて言葉が出てくるのか。そもそも、この国には龍宮以外の龍宮城があるのだろうか。

 疑問に思ったまま訊ねると、父は苦笑しながら教えてくれた。


『龍宮はね、昔は独立した宮殿だったんだ。この国にはもともと、そのひとつしかなかった』

『けれど、その名を持つ場所が王宮にも造られた。後宮の一角に、皇太子のための妃を集める場所として。それが今の龍宮』

『そしてかつての、独立した宮殿だったころの名残が、月下殿だ。今はもうなくなってしまったけれどね』


 月下殿がどのようなものだったか、当時の私は想像することしかできなかった。

 いまの龍宮は絢爛豪奢な後宮にある。ならば、月下殿も、それはそれは煌びやかな場所だったのだろう。

 そう思いながらきいてみたのだが、父は笑って首を横に振った。


『違うよ。月下殿は、そんな華やかな場所じゃない』

『あそこは、もっと暗くて、寂しい場所さ』

『だから、第二の場所なんだ』


 そう言って、父は悲しそうな顔をした。

 なぜ、そんな顔をするのだろうと不思議に思った記憶がある。

 父が悲しい顔をするとき、私はいつも理由を知りたいと思った。何が彼を哀しくさせるのだろうと考えて、知りたいと願っていた。

 けれど、その理由を知ろうとしても、父はかたくなに語ってくれなかった。


「でも……やっぱりそれも、私じゃなくて、父上のことなのよね」


 ぽつりと呟く。

 茜も顎に指をあてて考えながら黙っている。

 改めて考えてみれば、私自身、自分のことをよく知らない。

 いろんなことを学べる場所だったから、知りたいことを知り、学びたいだけ学んできた。恵まれた環境で育ったと思いはすれど、こうしてみれば、私はまだまだ知らないことが多いのだ。


「あの……」


 ふいに茜が顔を上げた。


「お聞きしてもよろしいでしょうか。……姫さまは、姫さま自身のことが、あまりお好きではないのでしょうか?」


 茜の言葉は真っ直ぐで、とても素直なもののように聞こえた。

 私はすぐに答えることができなかった。

 だってそれは私自身にもわからない。私は自分のことを、好きだとか嫌いだとか、考えたことがないのだ。

 父のことは――まあいくつか指摘したいところはあるけれども、好きだった。昔から優しかったし、私のことを大切にしてくれていることはわかっていたから。

 ほかの人たちについても、好悪があるかと問われれば返せる。同じ龍宮で過ごす姫たちや、皇后様のことは好きだ。逆に、丞相や皇太子のことはあまり好ましいと思えない。皇帝陛下についてはできるだけ言及を控えるが、無礼が許されるのであれば……あまりいい印象ではないと言うことになるだろう。

 では、私自身はどうか。

 自分自身について考えるとき、真っ先に思い浮かぶのは、母の面影だ。

 母によく似ていると言われ続けてきた自分の容姿。鏡に映っているそれを見て、それが好きかと問われると……やはり、私は答えられない。

 自分のことを考えるとき、薄皮一枚、なにかに当たるような心地がある。

 その薄皮の向こう側にあるものが見えなくて、感じられなくて、私はそれ以上考えることができなくなるのだ。


「――わからない、かな」


 だから私は、そう言った。


「嫌いではない、と思う。でも、好きなわけでもない」

「姫さまは、ご自身をどのように思っておいでですか?」

「どうって……」


 問われて、少し言葉に詰まる。

 そんなふうに、誰かに尋ねられたことはなかった。

 自分が自分であるとはどういうことなのか。

 そんな問いが内側に広がる。

 その一瞬に。


「――ひとがた」


 口からこぼれ出た言葉に自分でも目を丸くした。

 しかし一度出てしまったものは戻らない。そして、私の口からは、私の意思ではない言葉が続く。


「ひとがたの、ひとでない、なにか、そんなもの」


 それはひどく抽象的な表現だった。

 けれどいま、私でないなにかが内側から喉を通って出ていった、そんな気がした。

 なにが起きたのかわからなくて、私も茜も、しばらく黙りこんでしまった。茜に至っては驚きのあまり慄いたような姿勢で硬直している。

 先に我に返ったのは私だった。


「――ええと、なんだか、変なことを言ってしまったわ。ごめんなさい、気にしないで」


 慌てて取り繕うと、茜はぎこちなく首を動かしてこちらを見る。

 このままでは彼女たちに不安を与えてしまう。どうしたものかと悩んでいると、ふいに部屋の扉が叩かれた。


「藍晶さま。とうでございます」


 ちょうどよいところに助けが来た。

 かけられた声に顔を上げて答える。


「どうぞ、お入りください」

「失礼いたします」


 入ってきたのは、龍宮女官長のとうだった。昨日のこともあって私はまだ彼女の顔をうまく見られないけれど、陶もそれがわかっているので態度は変えないままでいてくれる。

 陶は入り口から数歩踏み入って頭を下げた。


「お休みのところ申し訳ありません。至急、お伝えしたいことがありまして」

「いえ、構いません。それで、何かしら?」


 私が問うと、彼女は顔を上げ、後ろにある扉のほうを指しながら言う。


「龍宮第二席、さい環林かんりん様が、ほう藍晶らんしょう様にお会いしたいと仰っております。よろしければ茶席を設けさせていただきますが、いかがでしょうか」


 私は茜と目を見合わせた。

 すこし不安そうな彼女に微笑みを向けてから、私は首を縦に振った。

 茶会といっても正式なものではない。それに、蔡姫がこちらを心配しているだろうということは想像できていた。こちらから一言無事を伝えに行けばよかったのだが、昨晩から今朝のことを考えるといろいろ頭がいっぱいになってしまって、結局動けなかったのだ。


「わかりました。すぐに向かいますと、お返事をしてちょうだい」

「かしこまりました」

「茜、何人か侍女を呼んで。蔡姫をお待たせするわけにはいかないから、早く準備を済ませましょう」

「はい!」


 茜は元気よく答えると、すぐに部屋を出ていった。

 私は立ち上がる。


「それじゃあ、私は着替えてきます。陶は、先に行って蔡姫にお伝えして。お茶席の準備も頼むわね」

「はい。承知いたしました」

「ありがとう」


 一礼して陶は踵を返す。

 彼女が扉をくぐろうとしたとき、ふと思いついて声をかける。

 ひとつ、どうしても気になることがあったのだ。

 私を見る陶の顔はいつもどおりの表情だ。それでも、どこか心配そうな気配を感じた。

 だからきっと、私の思い過ごしではないはず。


「ねえ、陶は……この痕について、知っているかしら」


 私はさきほど茜に見せたように袖を捲って、手首の痕を見せた。

 すると陶は大きく目を見張り息を飲んだ。少し視線を揺らめかせて何事かを躊躇い、それからおずおずとこちらを見上げてくる。


「……皇太子様は、これについて、なにか言っておられましたか?」

「いいえ。傷薬はくださったけど……きみは知らないのか、とか言って、わかっているそぶりをしていただけで」

「そう、ですか。それなら……わたしから申し上げることは、控えたほうがよろしいでしょう」

「やっぱり、そうよね」

「藍晶さま」


 かぶせるように発せられた陶の声は硬い。

 まるで咎めるような響きだった。そのことに少し驚いて目を瞬かせると、陶はすぐにはっとして頭を下げる。


「申し訳ございません。差し出がましい真似を致しました」

「ああ、ううん。構わないわ。私こそ、余計なことを聞いてしまってごめんなさい」

「……いえ」


 陶は俯いたまま動かない。

 しかしやがて小さく首を振り、もう一度私を見てから、今度こそ部屋を出ていった。


「うーん、あの様子……」


 間違いなく、がなにかを知っている。

 そしてそれは、やっぱり私の身に関わることなのだろう。

 私自身は、あの痕の原因も、それをつけた人物にも心当たりはない。そもそも傷のようなものではあったけど痛みはなかったし、あのとき隣にいたのは完燦様だけで、彼がそんなことをする理由はなかった。

 けれども彼はこれのことを知っていて、その対処として傷薬が効くことを教えてくれた。それを考えると、やはり彼がこの傷をつけたとは思えない。

 私に、なにが起きているのかしら。

 完燦様は私の問いに答える気はないようだった。その代わりに、言っていたことがある。


『どうしても知りたいなら――後宮の四妃にでも聞いてみるといい』


 後宮の四妃。すなわち、皇后の下に座する四人の上級妃。龍宮妃より位の高い、本来なら私が話しかけることなど許されないような、もとより高貴な身分の方々。

 入内の儀で少し拝見しただけで話したことはない。けれども完燦様がそう言っていたのだから、彼女たちはなにかしら知っていて、それを話してくれるかもしれない。

 私はふっと息を吐き、自分の腕に目を落とす。


「とりあえず、蔡姫にも聞いてみましょう。できることから一つずつ、よね」


 蔡姫に会うのは数日ぶりだ。目を閉じると、心配そうに眉を下げる彼女の顔が思い浮かぶ。

 早く会って、昨日のことを話したい。彼女のためにも、自分のためにも。

 やってきた侍女たちに手伝ってもらいながら手早く着替えと化粧を終わらせると、私は茶会に向かうべく部屋を後にした。


 第十二話、了。

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