第11話 異変の徴

 朝が来た、らしい。

 無駄に体内時計のしっかりした体である。昨日は舞まで踊っていたからいつもよりもぐっすり眠った気がして、それなりにすっきりとした目覚めといえるだろう。

 とはいえ頭はまだぼうっとしていた。上掛けの中でもぞもぞと動く温かな塊を撫でる。もふもふとした猫のような塊がすぐそばにあって、私はあくびを隠すこともなく大きく口を開けながらそれを引き寄せ抱きしめた。


 ――ん?


 しかしそれは、猫のような毛ざわりではあるのだが、それほどやわらかいものではない。どちらかといえば、丸いなにかに毛皮をはりつけたみたいに、その下には硬い骨のようなものがある。


 ――んん?


 まだうまく開かない目をこすりながら上掛けをめくり、自分が手を伸ばしていたその毛の塊がなんなのかを確認してみる。

 それは少しくすんだ色をしていた。長毛で、クセがついた毛先はくるんと跳ねながら寝具のうえをのたうっている。そして、それを追いかけるように視線を動かすと……そこには、見覚えのある顔があった。

 ぱちり、と。

 私を見つめている。

 いや……正確に言えば、私の胸の上にいる男の顔が、こちらを見上げていた。

 あろうことか。


 私は、この男の頭を抱きしめるような形で眠っていたのだ!


 一気に脳が覚醒して、心臓が大きく音を立てた。

 思わずがばっと飛びのいて彼から距離を取る。兎もかくやという勢いに寝台がぎしりと軋み、上掛けが翻って彼の頭を覆った。


「んむ」

「あ、あの、すみませんっ!」


 慌てて謝るが、彼は――完燦かんさん様はまだ状況がよくわかっていないのか、瞬きを繰り返しながらこちらを見てくるだけだ。

 しかしすぐに自分の置かれていた状況を理解したらしく、じわじわと目がまあるく開いていって、その頬がぽわわと赤くなる。

 互いに何も言えなくなって黙り込んだ。寝ぼけていたとはいえ自分の胸に彼を押し付けていたのだ。失敬にもほどがある。

 昨日の今日どころか、たかだか数時間前までその赤い頬を引っ叩いてしまおうかというような相手だったのに、無意識とは恐ろしいものである。


 ……あれ?


 私はもう一度、今度はゆっくりと彼に近づいていく。


「ちょ、なに――」

「んん? あれ?」

「だからなに?」


 やはりそうだ。間違いない。

 ぺたぺたと無遠慮にその頬に触る。まだやわらかい、もちもちとしたほっぺが手のひらに当たる。

 目の前にいるのは間違いなく完燦様だ。眠る前にその顔を見ていた記憶もちゃんとあるし、昨日のあれこれ――まあ半分喧嘩と言っても差支えのない問答のことも思い出せる。


「あれぇ……?」


 それなのに、嫌悪感が、まるっとなくなっている。

 昨日の夜はあんなに、触るのも触られるのもいやだったのに。

 どういうことだ。

 私が首を傾げていると、完燦様もまた同じように首を傾けてきた。

 それから、そろりと手を持ち上げると、私の頬に手を当ててくる。

 そういえば、彼の手にも触れたことなどなかった。だから、今更ながらそれに気付いてどきりとする。

 まだ若いけれど、男らしい手。初めて会ったときに差し出された手を取ることはなかったが、いまこうして改めて見てみると剣だこやら擦り傷やら、ただ年相応なだけではない手であることがわかる。

 あ、意外と大きいかも。

 指は長くてすらりとしているし、爪の形もいい。私の頬に当てられた手は私よりも熱くて、まるで子供のように高い体温を伝えてきていた。

 なんだか恥ずかしくなって目を逸らすと、彼が不思議そうな声でいう。


「今日は、嫌がらないんだ?」

「……ううん……それ、なんですけど……」


 どう説明したものか。

 自分でもうまく感情を理解できない。

 そもそも私はなぜこうもすっきりと目覚めたのだろう。普通に考えれば、昨夜の問答で頭の中はぐちゃぐちゃになっていたのだし、眠れなくなっていたはずだと思う。しかし気づいたらこうしてぐっすり眠っていて、そのうえ無意識ではあったが彼にくっついて、その頭を抱え込んでいた。

 なんだか胸の内にもやもやとしたものを感じる。自分のものとはちがう感情や意識がそこにあるような気がしてならない。

 あまりに感情や感覚の乱高下が激しすぎるのだ。いろいろと忙しい日々で、ここまで精神的に揺さぶられていたとはいえ、たかが一晩眠っただけでそれが解決されるはずはない。現に私と彼の関係は何も変わっていないのだから、まだまだ考えなければならないことはたくさんある。

 それなのに、なんだか自分の内側にある感情は、彼が隣にいて一緒に眠っていることに対して違和感をおぼえていないのだ。

 私が思考を巡らせながら言いよどんでいると、完燦様がふいに立ち上がった。

 そのまま寝台を離れていく背中を見てなんとなく、彼も男の人なんだなあと感じる。


「ねえ、きみのそれ、昨日はなかったと思うんだけど、平気なの?」


 少し離れたところの棚を見ながらそういう完燦様の言葉に私は首をかしげる。

 なんのことを言っているんだろう。数拍置いて目的のものを見つけたらしい彼が振り返り、こちらを指さした。


「いや、だからそれ。腕に変な……模様みたいなもの、ついてるでしょ。腫れてる、やつ」


 言われてみれば確かに。

 よく見れば手首あたりが赤く腫れているように見える。引っ掻いたような傷にも見えるけれど、それにしてはおかしな形だ。

 例えるなら、海辺で砂浜に打ち寄せる波の跡のようなものが、いくつかずれて重なっているような、おかしな傷。

 けれど痛くも痒くもない。触ってみても、ミミズ腫れのように少し縁が盛り上がっているだけで、血が出ているわけでもない。


「あら本当、いつの間に。こんな変な怪我を負ったおぼえはないんですが」

「……自覚ないの?」

「ええ……」

「……そう」


 完燦様は呆れたように小さく息をついて、棚から持ってきた小瓶を渡してきた。

 丸っこい香水瓶のようなそれには、少しとろみのある液体が入っているようだ。渡されたはいいものの開けていいのかと迷っていると、彼はその瓶のふたをひょいと開けて「使いなよ」と促してきた。

 いや、使えと言われましても。

 なんの液体なのだろう。彼の様子からすればおそらく薬か何かだろうが、それは軟膏なんこうではなく液体だ。しかもこの独特のとろみの感じは、塗り薬というよりも、どちらかといえば飲み薬に近い感じがする。


「あの……これは?」

「毒じゃないよ。傷薬。知ってるでしょ」

「傷薬……?」


 それを聞いてますます困惑してしまう。

 こういう傷に使う薬って、塗るものじゃないのだろうか。

 けれど手の中にある瓶には、どこからどうみても液体が入っているのだ。

 飲めばいいんだろうかと戸惑う私を見ていた完燦様は、怪訝そうに眉を寄せる。


「もしかして、使い方しらない? 父親に教わってないの?」

「いえ、こういう薬は使ったことがなくて。……軟膏ならわかるんですけど」

「軟膏って――」


 今度は完燦様が困惑の表情を浮かべている。

 そんな顔をされても、知らないものは知らないのだ。この国で使われている薬といえば、たいてい傷口に塗る軟膏か、飲むものなら粉か丸薬。それなら私も使った経験がある。

 けれどもこういう、なにかの蜜のようなとろみがある液体を、外傷にかける薬として使ったことがない。王宮で使われているのは、市井にある一般的なものとは違うのだろうか。

 私が黙り込んでいると、完燦様は諦めたような顔になった。そして私の手から瓶を取ると、蓋を開けたまま差し出してくる。


「ほら、腕出して」

「はあ……」


 言われるままに袖を捲って腕を差し出す。

 完燦様はその腕を下から支えて液体がこぼれないようにしながら、そうっと傷口にかけた。

 とたんにじわっと熱が広がり疼痛とうつうを感じる。消毒液のように滲みる感覚ではなく、かけられたところが遠火であぶられたような、妙な痛みだ。

 思わずぎゅうと目を瞑ると、完燦様は少し驚いたようにしながら腕を握っていた力を弱めた。


「えっと、痛い?」

「いえ、少しだけです」


 実際、その痛みはすぐに消えた。

 恐る恐る目を開けると、そこにはもう傷口らしき腫れはなく、代わりに赤黒い痕が残っているだけだった。

 その奇妙な模様を眺めていると、完燦様が苦笑する。


「今まではどうしてたのさ。まさか放っておいてた?」

「外傷であれば軟膏か、浅いものであれば水と薬草で処置しておりました。病であれば薬を飲むこともありますが……」

「いやいや、そうじゃなくて。これのことだよ」


 そう言いながら手首の痕をとんとんと指す。


「今までもあったでしょ、こういう傷。軟膏塗ってたの?」

「え? いえ、ミミズ腫れならたまにありましたけど、こういう変な傷は……」


 初めて、ですね。


 そういうと、完燦様はさらに怪訝そうな顔をした。

 瓶をもったまま寝台に腰掛けて、なにかを考えるように顎に手を当てている。

 私はというと、その隣で自分の手首を見つめていた。

 本当に不思議だ。

 指でなぞっても、触った感じではやはりミミズ腫れのよう。しかしもう赤っぽいところはなくなっていて、黒っぽい痕は残っているがそれ以外はただの肌色に戻っている。

 しばらく考え込んでいた完燦様は、ふいに視線を上げてこちらを見た。

 その瞳はなにかを探ろうとしているようにみえた。ただ、昨日までの猜疑ではなくて、もっと別の、私の感情とかそういうものではない何かを知ろうとしているように思える。例えば―――――


(…………?)


 はて、なんだろう。

 一瞬だけ、何かが頭をよぎったが、それが何なのかわからないうちに消えてしまった。

 やっぱりちょっと、最近の私は変なのかもしれない。首を傾げながら彼の次の言葉を待っていると、彼はまた少し考える素振りを見せたあと、おもむろに立ち上がった。

 そして、 いきなり、私の腕を掴んだ。

 掴まれた瞬間びくりと体が震えたが、その手が予想していたよりずっと優しいものだったので、すぐに力が抜ける。

 いったい何事だろうとその顔を見つめていると、彼もまた黙ってこちらの顔を見ていた。

 おもむろに。

 私の手を、持ち上げる。

 …………ん? あれ、なにか……?

 その行動に疑問をもったときには、既に彼は動いていた。

 完燦様は、もう片方の手で持っていた瓶の中身を、私の手にぶちまけたのだ。

 ぽたたっ、と、冷たい液体が手の甲にかかる。ちょっとだけ粘度のあるものが腕を伝って、肘から二の腕のほうへ垂れていった。


「……は?」

「うーん……?」


 こいつ、なにを考えていやがりますか。

 そう思って睨みつけると、完燦様はなぜか真剣な顔をして、私の手のひらのあたりに顔を近づけて、くん、と匂いをかいだ。

 いや、だから。何をやってるんだ。犬か。

 不可解さに眉を顰める私をよそに、完燦様はまだなにか納得いかないことがあるようで、薬をかけた部分をじいっと観察している。

 そして今度はしげしげと全体を眺める。なにか気になることがあるのはわかるが、持ち上げられている腕がつらくなってきた。

 いい加減にしろと言うべきだろうと口を開いたとき、完燦様は私の手を握ったまま、ぼそりと言った。

 まるで独り言のように、しかしそれは、確かに私に向けられた疑問符だ。


「まだ早い、ってことなの? それとも――」


 言葉の意味がわからず、何事かと問い返す。

 すると完燦様は、ゆっくりと顔を上げた。

 その表情にはもう先ほどの迷いはなく、むしろ確信めいたものが浮かんでいる。


「なるほど。父上の言う通り、あんたは僕を認めないんだね」


 その声音も、どこか晴れやかなものに変わっていた。

 私はその突然の変化についていけずに、呆然としたまま彼を見上げている。

 しかしそんなことはお構いなしに、完燦様は私の手を握る力を強めた。

 痛くはない。けれど、離すつもりもない。そんな握り方だ。


「よし決めた。僕はもう、きみに遠慮しないことにする」

「え?」

「これから毎日、会いに行ってあげる。きみをここに呼ぶことはしないけど、顔を見に龍宮に行ってあげるよ」


 なんだそれは。死刑宣告か。


「はあ……?」

「あはは、なんだいその顔。まさか嫌だとでも?」

「えー……いきなりすぎて、ついていけないんですけど……」

「そりゃそうだ。ああ、ついでに僕のことも名前で呼んでくれて構わないんだよ。ほら、言ってごらん」

「ナメてるんですか」


 なにをどうしたらそういう発想に至るのか。

 思わずそう言い捨てると、完燦様は心底おかしそうに笑った。

 その笑顔は今まで見たどの表情よりも屈託ない、子どものようなそのままの感情だ。この人はこんなふうにも笑うことができるのかという驚きとともに、なぜだか少しだけほっとした。

 完燦様はひとしきり声を上げて笑う。やがて満足したらしく、目尻に浮かんでいた涙を拭いながら立ち上がり、私の目の前に、再びあの瓶を差し出した。


「これ、また持っていってあげる。そのうち必要になるからね」

「それについてのことを、私はなにも存じ上げないんですけれども」

「そのうちわかるさ。どうしても知りたいなら――後宮の四妃にでも聞いてみるといい」


 そう告げたあと、彼は私の手を軽く撫でて、踵を返した。

 扉に向かって歩きながら、思い出したというように振り返る。

 その瞳は、やはり昨日までとは少し違う色をしていた。

 でもなんだろう。

 どうしてだろう。

 その変化に、なぜか胸の奥がちりりと、危険信号を鳴らす。


「じゃ、また後でね。月陰つきかげのお姫さま」


 ――――その瞬間、 また何かが、頭の中で閃いたような気がしたが、それが何なのかわからないうちに消えてしまった。

 完燦様はそれだけを言うと、ひらひらと手を振って部屋を出ていった。

 


第十一話、了。

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