第10話 思うほどに

 ――いま、私の顔は最低最悪の状態だと自覚している。

 

 汗を拭くだけと言ってもいいくらいの簡易的な湯浴みをして、香油を塗りたくられた肌はつややかに輝き、唇には紅が引かれている。

 髪には豪奢な連環のかんざし。冠にも似たそれはずっしりと重く、既に首に鈍痛を感じる。

 衣装は先ほど舞に使用した青の衣から真っ白なものへと変えられ、まるで花嫁のような装いだ。いやたしかにそういう逸話に寄せたものであるのだから当然ではあるのだけれども。

 そう、すべては皇太子のために整えられたもの。これからねやという地獄に捧げられる私のことなんてこれっぽっちも考えられていない。


「……行きたくない」


 思わず口から漏れてしまった本音だったが、誰も聞き咎める人はいなかった。

 しかしいつまでもこうしてはいられない。

 覚悟を決めて立ち上がろうとした瞬間、部屋の扉が勢いよく開かれた。


藍晶らんしょう!」

「……え?」


 そこに立っていたのは、普段と違って焦りと憂慮をはっきりと浮かべた父だった。


「藍晶、だいじょうぶかい」

「とう……いえ、父上」

「ああよかった。まだ間に合うようだね」

「なにが、ですか」

「お前に渡さなければならないものがあって――」


 そこまで言いかけた父は、ふと視線を横に滑らせた。

 その先には、いつもよりずっと豪華な着物を着たとうの姿がある。後宮ではなく皇太子の寝所へ連れて行く渡し役である陶も、いつもとはまた違う装いになっていた。

 しかしその顔を見て、父はすうっと目を細め、口をつぐんでしまう。

 その表情の変化に気づいた私は、慌てて彼の袖を引いた。


「だめよ、父上。陶は悪くありませんから」

「……そうか。そうだね。うん、わかっているよ」

「ありがとうございます」


 父の大きな手が差し出される。

 それに掴まって立ち上がると、ぐいっと力強く引き寄せられて抱きしめられた。


「すまない。わたしの力不足だ。許しておくれ」


 頼りない、震えた父の声に胸の奥がぎゅうっと締め付けられるような心地になる。

 この人は昔から私に優しかった。宮中では冷たくて顔色の読めない男であるが、家族の前では優しい父親だった。

 ときおり遠くをみては、私にも厳しいことをいうひとだけれど、心の底から私を愛して心配してくれる。

 きっと、いまは本当に後悔しているのだろう。


「謝らないでくださいませ」

「けれど、まさか東宮殿下がここまで強引なことをなさるとは」

「いいのですよ。どちらにしたって、いずれ訪れることですもの。それが少し、ほかの姫たちより早かっただけです」


 いまも龍宮で私の帰りを待っているであろう友人たちのことを思い出す。

 彼女たちは、いまごろどんな気持ちでいるだろうか。

 こんなときなのに、彼女たちのことを思うと涙が出そうになる。

 まだたったひと月。それでも苦楽をともにする、かけがえのない友人たちなのだ。

 そしてこんな私にも、心配して手を差し伸べてくれるひとがいる。

 それはとても幸せなことだと思う。だからこそ覚悟を決めなくてはいけない。

 そう思い、なんとか笑顔を作る。


「だいじょうぶです。いってきます」


 その言葉に父は目を見開いたあと、悲しげに眉を寄せた。

 それを隠すように再び私を強く抱き寄せてから、耳元に唇を寄せる。

 囁かれた言葉は、予想していた言葉ではなかった。


 ――『早い』と思ったなら、使いなさい。


 陶に聞こえないように本当に小さな声でそう言って、私の服の袖になにかを入れる。

 そろりと手を忍ばせてみると、そこには美しい細工の施された不思議な球があった。触ってみるかぎりではひやりとしていて金属でできているようだ。女の手のひらでも隠せてしまうくらいの、小さな球。

 なぜ父がそんなものを持っているのか。そもそもどこで手に入れたのか。これはいったい何なのか。

 一瞬にして様々な疑問が浮かんでくる。しかしそれを尋ねることはできなかった。

 私が口を開く前に、父は私から離れ、背筋を伸ばしてしまう。

 そして、いつもと同じ感情のない顔に戻して踵を返した。


「娘を頼んだよ」

「はい、お任せくださいませ」


 陶にひとつそう伝えてから、父は部屋を出た。

 扉が閉まる音が響くと、私は思わず深いため息をつく。

 なんとも言えない沈黙がその場を支配する。

 なにか話さなくてはと思うのに、うまく頭が回らない。

 どうしようと思っているうちに、陶のほうが先に声を発した。

 しかしそれも、私にとってはあまり良いものではなかった。


「ご準備は整いました。お部屋へお連れいたします」


 ああ、ついにこの時が来たのだ。

 覚悟は決めたはずなのに、やっぱり足が震える。

 私はもう一度だけ深く深呼吸をして、それからゆっくりと歩き出した。





 それは後宮でも王宮でもない場所、であるらしい。

 どうしても無防備になってしまう時間を過ごさなければならない以上、王や皇太子が過ごす自室は奥まったところにあり、限られた一握りの侍従たちしかその場所を知らない。後宮はあくまで妻たちが住むためにある囲いであり、顔を見せたり訪れたりといったことはあるけれども、基本的に閨事はすべて妃側が行われる。

 薄布をかぶせられ、それを目隠しがわりに足元だけを見ながら進んでいく。石造りの床が木に変わり、何度も何度も角を曲がって、ふたたび石の床を踏む。そのたびに少しずつ不安が増していく。

 これから自分はどうなるのだろう。この先にあるのは、皇太子が待つ閨。そこで私はどんな扱いを受けるのか。

 怖い。

 嫌だ。行きたくない。

 今更ながらに恐怖に駆られて、思わず立ち止まる。

 すると立ち止まったことに気づいてか、陶が振り返った。

 ああ、もう戻れない。引き返せない。

 このまま進めば、私はひとつの結末を迎えることになる。

 それは、あの日、私が父に望んだものとは違うかもしれない。

 それでもその未来は避けられない。そのことが怖くて仕方がなかった。

 ふと袖の中でそれが触れた。ひんやりとした金属の球。父がくれたそれが私の決意を鈍らせる。

 けれど、もう進むしかない。

 たとえどんな結果になろうとも、私は前に進む。

 そう決心して、立ち止まっている陶に一歩を踏み出す。陶はひとつ頷き、眉を下げて微笑んだ。

 彼女なりに私の緊張を和らげようとしてくれているのだろう。きっと、この子も私の知らないところでつらい思いをしている。

 私のために、そして彼女自身も。

 だから私も精一杯の笑顔を浮かべ、再び歩き始めた。

 やがてひとつの扉の前にたどり着く。

 扉の前には衛士らしき青年が控えていて、こちらをじっと見つめてきた。

 俯いている私は、かぶせられた布のせいでその顔をはっきり窺うことはできない。ただカグライ殿とはまた違う、どこか異国風の雰囲気をまとう青年だ。


「――ほう藍晶らんしょう姫、ですね」


 彼の言葉に、私と陶はこくりと頷く。

 それを確認した彼は扉に手をかけ、ゆっくりと開く。

 そこは、不思議な空間だった。

 窓がないのに昼間のように明るい室内には、大きな寝台といくつかの家具があるだけだ。

 そしてその中央で、ひとりの男が立っていた。

 その男こそ、私を呼び出し、これから私を手篭めにしようとしている、あの皇太子。


完燦かんさん殿下。法藍晶様がお見えになりました」


 青年の言葉に、完燦様はゆるりと振り向いた。

 私は顔を上げることができなかった。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 私はこんなことを望んでいたわけじゃない。

 できることならいますぐここから逃げ出してしまいたい。

 そう思っても、足は動かなかった。

 身体中から血の気が引く。なんて声をかければいい。あるいはかけられた言葉に、なんと返せばいい。

 ぐにゃりと目の前が歪みそうになったとき、もう聞きなれてしまった彼の声がすとんと落ちてきた。


「そう。じゃあお前たち、下がっていいよ」


 退屈そうな色の声。

 かけられた声に、私の背後にいた陶と青年は一礼して部屋を出ていってしまう。ぱたん、という音とともに部屋には私と彼だけが残された。

 私はまだ顔を上げられない。

 けれど彼が近づいてくる気配だけは感じて、思わず肩が跳ねる。


 ――どうしよう、どうしよう!


 混乱する頭で必死に考える。

 しかしいくら考えたって当然いい案が浮かんでくるはずもない。ぐるぐると目が回る。喉の奥から吐き気がせりあがってくる。

 そうこうしているうちに、とうとう皇太子は私のすぐそばまで来ていた。

 そして私の視界を覆う薄布を手に取り、それを剥ぎ取った。

 ようやく見えた皇太子の顔。

 そこにあったのは、予想していた表情ではなかった。

 興味なさげな、面倒くさそうな、あるいはこっちに猜疑と憎悪に近いものを向ける――そんな想像していた。もともと彼の表情なんてその程度しかみたことがないのだ。しかしそこにあったのは、もっと別のものだった。

 それは苦悩と――罪悪感、だろうか。彼は苦しそうに眉根を寄せて、口を引き結んでいた。

 まるで、自分の犯した罪を悔いるかのように。

 そんな彼に驚いている間に、私を覆っていた布はほとんどすべて取り去らわれてしまう。

 簪も、帯紐も、耳と首の飾りも外されて、下着代わりの薄衣一枚だけ。

 私は呆然としながら、彼を見上げた。

 視線が合う。

 そんな顔ですることじゃないだろうに、彼は苦笑を漏らし、それから私にそっと手を伸ばしてくる。

 その手が頬に触れる寸前に、私はハッとして身を引いた。

 触れられたくないと思ったわけではない。ただ、反射的に避けてしまった。

 だって、怖いのだ。

 この人は、完燦様は、私を壊そうとしている。私が守ってきたものを、奪おうとしている。

 この人のことを私は知らない。この人が何を考えているのかわからない。

 だから怖い。だから嫌なのだ。

 こんな、たったひと月前まで見も知らぬ相手に暴かれなければならないなんて。


「……きみ」


 私の行動に驚いたのだろう。完燦様は少しだけ目を見開いて、そして小さくため息をついた。


「……わかった。じゃあとりあえず、座ろうか」


 そう言って、彼は寝台へと腰掛ける。

 私は戸惑ったまま、けれど逆らうこともできずにその隣にぽふりと身を下ろした。

 直後に聞こえてきたため息に、私はびくりと身体を震わせ、それから恐る恐る顔を上げる。

 そこにあったのは、いつも通りの完燦様の表情だ。猜疑と、退屈と、呆れ。

 先ほど一瞬見せた、あの感情はもうどこにもなかった。


「……嫌ならしないよ。僕だってしたいわけじゃないし」

「え……?」

「あれ、知らないの? 男には無理やり女を手篭めにする趣味があるとか、そういう面倒な輩の話、聞いたことない?」

「あ、いえ、はい」


 曖昧に返事をする。

 正直、こういう世界で私の耳に届くのは悪い話ばかりだ。嫌がれば嫌がるほど盛り上がるやつもいるのだとか、そういう類の噂。


「ふぅん。まぁ、どっちでもいいけど」


 完燦様は気のない声でそう言い、それから寝台の上で片膝を抱えて顔だけを私のほうに向ける。


「きみにその気があるのかと思ってたけど、違うならいいや。ただ一緒に同じ部屋にいればいいんだし、てきとうにその棚にある本でも読んでいなよ。きみなら読めるでしょ」

「え、えっと……」

「ああ、その前に服着ないとね。そのまま寝たら風邪ひくから」


 そう言うなり、彼は立ち上がり、ついさっき脱がせた私の服をひょいっとこちらへ放りなげると、自分は部屋の隅に置いてあった衝立の向こう側へ行ってしまう。


「あの、あのっ!」

「なに」

「あの、わたしは、その」

「別にきみに不利益になるようなことは言わないから安心して。頭の固い連中が納得するために必要なだけさ。リュイにはもともと言い含めてあるし、この部屋でなにがあったかなんて僕ときみが口裏を合わせれば簡単にごまかせるんだから」


 衝立の向こうでさっさと寝衣に着替えてしまった完燦様は、もう髪を適当に編み束ねて眠るための準備をしているらしい。


「あーはいはい。そう睨まないで。とにかく今日一晩だけだから我慢してくれないか。明日になったらちゃんと帰してあげるから」


 そう言われても、素直にうなずけるはずもない。

 私はむうっと口をつぐみ、そして自分の身を守るように自分の肩を抱き締めた。


「……あなたにとってこれはただの遊びなんでしょうけれど、私にとっては大事な役目なんです。そんな適当なことを言って、責任感ってものがないんですか」

「その言い方だと、まるで僕はろくでもない人間みたいじゃないか。それじゃあなに、そんな小動物みたいに怯えてるクセに律儀に抱かれたいわけ?」

「うぐ……」


 私の不満に、はっと乾いた笑いを浮かべる完燦様。思わず私は口ごもってしまった。

 そうだ、わかっている。私は怖くて仕方がないのだ。

 彼が何を考えているかわからなくて、不安で、それがとても恐ろしい。

 だからって、それをここで口に出すことはできない。

 私が望んでここにいると、そういうことにしなければならない。でなければ、私に価値はないのだから。


 ――それにしても。


 私は自分の胸に手を当てて、首を傾げる。

 どうして私はこんなにも、彼に触れられることを拒んでいるのだろう。

 私はただ、彼に言われた通りにすればいいだけのはずだ。そうしなければならないし、そういうお役目であることも理解している。

 もちろん怖い。怖いから嫌。それもわかる。

 でもなんというか、ちょっと、いまの自分に違和感があるのだ。

 あんまりにも、今まで感じたこともないくらいに大きな拒否感を覚えている。隣にいるぶんにはまったく問題がないのに、触られそうになったら反射的に彼の頬を引っ叩いてしまいそうな予感すらある。

 さすがにいくら妻でも皇太子の顔を叩くなんて不敬は許されない。それはようくわかっているのだが、想像してみると確実にそうなるとしか思えないのだ。


「……そんなに嫌なら、今すぐここから出て行ってもいいんだよ。もともと無理強いするつもりなんてなかったんだし」


 考え込んでいる私に完燦様はそう言って苦笑した。


「逃げ出したいくせに我慢ばっかりしてさぁ。女って難儀だよね。自分のお役目だからとか言って、やりたくないことさせられて。……ああそっか、きみは一応、父親のためにやってるんだっけ。あの男、父上だけじゃなくて僕にも取り入っておきたいのかな?」

「……ええ。ですから、私の気持ちなどどうでもよいのです。完燦様はただ、私の身体を拓けばよいだけですから」


 そう答えた声は、自分でも驚くほど冷たかった。

 自分からこんな冷たい言葉が出るとは思わなかった。

 でも、本当のことだ。

 私がどんな思いを抱えていようと、それは関係ない。私の役割は、彼を満足させること。それだけなのだから。


「へぇ……? ああ、なるほどね」


 私の言葉を吟味するようにしばらく黙っていた完燦様は、やがて何か納得した様子で小さくつぶやく。

 そして肩をすくめてからごろんと寝具に横たわると、ぽんぽんと自分の隣を示した。


「じゃあそういうことにしといてあげるから、とりあえず服着て寝てれば。僕も眠いし、これだけ広ければくっつかなくても寝台から落ちたりしないしね」

「……」


 私は無言で服を拾い上げ、寝衣を身につけた。服の中に埋もれた小さな球を握りこみ、それをお守りのように大事に袖にしまい込む。

 寝台の上に座り、寝転がったままの彼を見下ろしながら、そっと唇を噛んだ。

 やっぱり、この人のことは嫌いだ。

 好きになれるはずもない。

 それでもこの人の隣で眠るしかない自分が、ひどく惨めだった。



第十話、了。

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