第9話 双璧の策略
盛大な拍手喝采に囲まれ、床に足を下ろした私はにっこりと微笑んでみせる。
建国伝承に記された出逢いの物語を模した演舞。あれだけ立派な木柱と青い衣を探すのは大変だったけれど、そこはさすが勅命を受けた使者である。カグライ殿はよくやってくれた。
宴まで時間がないというのに都の端から端まで駆けまわって見つけ出してきたというそれを見たときには、疲れきった彼の頭を思い切り撫でて差し上げたい衝動に駆られたものだ。
――まぁ、そんなことはさておき。
舞台袖に下がって自分に割り当てられた席へ向かう。途中口々に賞賛を与えてくださる皆様にそれとない返事をしながら、ようやく辿りついたそこには一人の男が立っており、こちらに一礼した。
「
「いえ、とんでもない」
「本当に素晴らしい、どんな言葉でも足りぬほどのものです。まるで天女のような美しさだ」
「あら、お上手ですのね」
にこやかに言葉を交わしてはいるものの、内心では冷や汗をかいていた。この男の顔を、私が知らないはずもない。
内務責任者の太丞相こと、
父から聞いた話では、この方は普段はとても穏やかな方らしい。あまり人前で感情を表すことはなく、いつも静かに微笑んでいるような印象だという。
だが、その実態はどうだろう。
いま私の目の前にあるのは、満面の笑みを浮かべながら瞳の奥にどろりとした欲を隠している蛇のような男である。
彼は律令に詳しく厳しいために賄賂や阿りといったものを好まないが、何事にも貪欲で狡猾な一面を持ち合わせている。この立場に上りつめるためにいったい何人を蹴落としてきたのかと尋ねてみたいくらいには、敵も味方もとにかく多い人物だ。
――これは……まずいかもしれない。
背中にじっとりと嫌な汗が浮かぶ。
演舞を終えたばかりの高揚感など、とっくにどこかへ消え去っていた。この男に狙われては逃げようがない。なにせ四十もいかぬうちに丞相まで登りつめた別名『名が無き鳥のお気に入り』、つまりは王の寵臣なのだから。
しかし私とて演舞が終わったあとのことを考えていなかったわけではない。
いくら自分が直々に呼ばれるほど王に目をかけられているとはいえ、その盾が絶対でないことは理解しているつもりだ。いつだって権力というものは無慈悲で理不尽なものだということを知っている。
だからこそ、いざというときのために色々と準備はしていたのだけれど、それも詮無き事のよう。
――ああ、もう、自分の上司くらいちゃんと抑えておいてよ父さん!
思わず叫び出したくなった気持ちをぐっと堪えて笑顔を保つ。そんな私の心中を知ってか知らずか、太丞相はそれは楽しそうに言った。
「これほどまでに完成された舞を見せられては、我々もますますあなたの王佐に期待してしまうというもの。……そういえば、建国伝説にはこの演舞からの続きがありますよね」
含みを持たせてそこで言葉を切る。
ほらきた。この男、まさか私にその続きを言わせようとしているのか。
さすがにそれくらいはわかる。というか、この状況で他にどんな意味があるというのでしょう。
本当に品がございませんこと、と舌打ちしたい気分になる。
だがここでそんな態度を取ってしまえば余計に面倒なことになってしまうのは目に見えていたので、なんとか我慢して私はにっこりと微笑み、あえてそれ以上の言葉がないように団扇で口元を隠した。
「……ふふ、なんのことでしょうか」
「あれ、お忘れですか? たしか、演舞のあとは――」
わざとらしく首を傾げれば、太丞相は笑みを深めて言葉を紡いだ。
「一夜を共に過ごすのですよ、法藍晶殿」
言った。言いやがった。
人があえて言わなかったことを口に出しやがりましたこちらの男。
しかも声を潜めることなく、あろうことか周囲に聞こえるように。
ざわめきが大きくなる中、太丞相はさらに続ける。
「これは我が国の祖王が建国に至るまでの物語、その再演です。そしてあなたはこの国で一番の舞い手となり、主上からも太子様からも強い関心を得ている。ならばこの場であなたを望まぬ者などおりますまい。ましてや演舞を観た後であればなおさら」
「…………」
「ですからぜひ、この後は我らと共に過ごしてくださいませ」
有無を言わせない口調だった。
その表情は相変わらず笑っている。しかし、瞳の奥にあるのはこちらを値踏みするような冷たい光だ。
国祖邂逅の舞には二つの意味がある。一つは国史記に記されている伝承再現という験担ぎ。もう一つは、暗に現主上の御代を称賛し、従属を示すというもの。簡単にいえば皇帝や王族に対して『あなたに逆らうつもりはありません』『あなたの決定に従います』と伝えるのだ。
ゆえに伝承後は一夜を共に過ごす、ということになっている。とはいえほとんど廃れた伝統だ。単純に目前の男が言いたいのは、いくら廃れたものとはいえ『伝統を無視して豪商やら宦官やらと過ごそうなどとはお考えになりませんよね?』という脅しなのだろう。
わざわざそんなことを言わなくても、私は指示されてここに来たわけなのだから、役目を果たしたら父の隣で大人しくしておくつもりだったのだけれども。
ずいぶんと――良い表現をするならば用心深い人だこと。
「さぁ」
「……」
「いかがいたします?」
「……わかりました」
一応当てつけのためにも大きめにため息をついて、覚悟を決める。
団扇を下ろしてにっこりと笑顔を張り付けた。
「もちろんお受けいたしますわ。ですが、どうか先に父を呼んでいただけないでしょうか」
「お父上、
「ありがとうございます」
「ではこちらへ」
太丞相に先導されて人波を割るように移動する。やがて宴の席から少し離れ、玉座へ続く階段近くに辿り着いたところで、彼は振り向いて言った。
「ああそうだ、ひとつお願いがあるのでした」
「なんでしょう?」
「いえ、これはどうかご内密にしていただきたいのです。なにせ、私にも妻がおりますもので……ええ、これを知れば怒り狂ってしまうでしょうから」
だったらあんな言い方するな、この変態。
そう怒鳴りつけてやりたかったが、喉まで上がってきた罵声を呑み込んで頷いた。
「承知しております。我が身はこの国のものであれば、それを違えることはありません」
「それはよかった。では、またのちほど」
それだけ言うと太丞相は踵を返してその場を離れた。
どうやら近場にいた他の方々にも同じことを言い含めるつもりらしい。
――まったく、なんて人かしら。
思わずため息が出る。
どうもあの男は昔から苦手だ。父と似た穏やかそうな人柄ではあるものの、言葉があけすけというかなんというか。
腹の内を見せているようで見せていない、本当に不気味な男なのだ。
「藍晶」
「……父上」
かけられた声に顔を上げると、いつの間に来ていたのか父がそこに立っていた。
相変わらず宮中では色のない顔をしている。その無表情な瞳で見つめられるだけで背筋が寒くなるのは、きっと私がまだ幼いせいだろう。
「話は聞いているよ」
「……はい」
「あんな言い方をしているが、太丞相を信じてやってほしい」
「……はい?」
父の口から飛び出した言葉に耳を疑う。
まさか父までもがあの男の肩を持つというのだろうか。
「父上は、それほどまでに太丞相のことをよく知っているのですか?」
「……この国の政を取り仕切っている人物だからね。それに、彼がどのような人間かは、そばにいればすぐにわかる。……お前が感じているような怖さではないよ」
「どういうことです?」
「そのままの意味だ」
父はそれ以上何も答えてくれなかった。
ただ、私を見下ろしたまま黙ってしまった。
おそらく私が納得できる説明をする気はないのだろう。まったくこの人は、あの丞相とは違う意味で内側が黒い。
「それよりも……お前は
「盧丞相……
「ああ。あの方は、太丞相とは違って、本当に人が分からないから」
「はあ」
それきり会話は途切れてしまった。
父と二人並んで階段の上へと視線を向ける。
そこにはすでに太丞相の姿があり、その横にはあの
遠目でもわかる長身の美丈夫。年は太丞相よりも上らしいが、髭も蓄えず、結い上げた豊かな髪が若々しい印象を与えていた。
しかしその表情は父よりものっぺりとした感情のわからないものだ。流し目ひとつで女を射殺せるであろうほどの美男だが、その冷淡さが彼の魅力を打ち消してしまっている。
――あれが、太丞相と並び称されるもう一人の丞相、
ゆるりとその視線が動き、私のほうを見た。
その瞬間、ぞくりと背筋を冷たいものが伝った。
まるで深い闇に見込まれたかのような感覚に息が止まる。
「……――――」
目が合ったのは一瞬だった。
それでも、彼から向けられた眼差しは、さきほどの太丞相よりもずっと冷たいものだった。
何か嫌われるようなことをしてしまったかしら、と記憶を辿ってみるも心当たりがない。そもそも父の直属上司である太丞相と違い、盧丞相とは話をしたこともない。
――もしかして、太丞相と一緒にいたことに嫉妬しているとか?
あの二人、けっこう仲がいいという話もあるし、もしかしてそういうことだったりするのかしら。
「……さすがに考えすぎよね」
そんなわけないか、と苦笑する。女性だけの世界にいるとどうしてもそういう話題で盛り上がる面々がいるものだ。出会いの少ない後宮女官なんてとくに、根も葉もない妄想話で日頃の鬱憤を晴らさねばやっていけない。
少し前に誰かがしていた噂話に当てられすぎたな、と私はひとり肩をすくめる。
けれど一度抱いた違和感を拭うことなどできず、私はしばらくその場で立ち尽くしていた。
「……藍晶?」
「ん、大丈夫よ、父上」
「そうかい? 無理はしなくていい。気分がすぐれないなら私から言っておこう」
「なに言ってるの、もう龍宮妃なんだからそんな気遣いは不要です」
「そうだったね」
父は困ったように微笑む。
けれどそれはどこか嬉しげでもあった。
「じゃあ、行こうか」
「ええ」
父とともに階段を進み、彼らの前へと足を踏み出す。
「……殿下、ご挨拶申し上げます」
軽く膝をつき頭を垂れる。
父も同じようにして礼をした。
にっこりと笑う太丞相の隣で完燦様はすこし戸惑ったような顔をしている。そして盧丞相はといえば、相変わらず何を考えているのかわからない顔で私を見つめていた。
こわい。
その眼差しがただひたすらに怖い。
父や太丞相のそれと違って、彼は何一つとして自分の内面を見せていない。それがまた恐怖感を募らせている。
しかし恐れている場合ではない。皇太子である完燦様がいらっしゃる以上、怯えて声も出せないなんて粗相は許されないのだ。だから私は腹に力を入れて顔を上げた。
すると、今度はまっすぐにこちらを見る彼と目が合う。
――あれ?
感じていた違和感の正体に目を瞬かせる。
もしかして、この人。
――目が見えていない?
「……父上」
「なんだい」
「盧丞相って、もしかして目が見えていらっしゃらないの?」
「……どうしてそう思ったんだい」
小声で隣にしゃがんでいる父に声をかける。
完燦殿下がいるのであまり大きな声で話し合うことはできないが、この距離であれば多少の会話くらいできる。
それにしても、どうしてこんなことに気がつかなかったのだろう。
「あの目、たぶん義眼よ」
そう口に出した瞬間、目前に影が落ちてきた。
「あ……」
「
すぐ目の前に、盧丞相の顔があった。
「……っ」
「動かないほうがいい」
「あの――――」
「下手に動くと首が落ちる」
耳元で囁かれた言葉に全身の血の気が引く。
しかし、次の瞬間にはその顔は離れていった。
「冗談だ。よく目のことにお気づきになられた。しかし、黙っていてもらいたい」
「な、なぜです」
「彼の目が見えないことは秘密だからですよ」
太丞相がひょこりと割り込んできて張り付けた顔の口角を上げる。
その表情に思わず一歩あとずさるが、背後にいた父がそれを許してはくれなかった。
「貴女が気づいたということは、他の者たちにもそのうち知れてしまうかもしれないが、しばらくは内密にしておいてほしい」
「ええと、しかし――」
「これもまた弱点であると思われかねない。私の立場を知っているのですから、聡い貴女ならご理解いただけましょう」
「……なるほど」
たしかに丞相ともなれば弱点になりかねないことはできるだけ伏せておきたいものだ。特に、書類仕事もあるのだから目が不自由だとわかればなおさら付け込まれかねない。
そういうことなら、と私は納得した。
――でも、目が不自由なのが、本当に彼の弱みになるのだろうか。
ちらりと視線を向けると、盧丞相は先程と同じように感情の読めない瞳のまま佇んでいた。
その視線は私に向けられているが、しかし何も見てはいない。
盲目であることを隠している理由がそこにあるような気がした。
「それよりも、です」
私の考えていることを見透かしているような鋭い声が耳に刺さる。
びくりと肩を震わせてそちらを見れば、太丞相がにっこりとした笑みの仮面を貼り付けたまま、私を見ていた。
ああ、やっぱり、苦手だわ。
こういう笑顔を浮かべる人は、どうも信用ならない。
けれど父がああ言っていた以上、はじめから悪いひとだと決めつけることもできないので、彼の意図するところである完燦殿下を見てみる。
また不満そうな顔をしているのだろうと思っていたのだが――予想とは裏腹に、彼は俯いたままでなにやらぶつぶつと独り言をつぶやいていた。
その様子はあきらかにおかしいものだ。
――体調が悪いのかしら。
それとなく彼に近づこうとするが、それは父の手によって阻まれてしまった。
私が近づくのはよくないのか。
そう思って動きを止めてみるが、しかし視線の先にいた太丞相はその行動を止めることなく、むしろそのまま進めというように手で彼を示す。
どちらを優先すべきか
そして。
(あ、目が合った)
完燦殿下は私を視界に捉えるなり、なぜか泣き出しそうな顔をした。
どうしてそんな顔をするのだろう。私、なにかしたかしら。
演舞自体は成功しているんだから笑ってくれるならまだわかるんだけれど。
戸惑っているうちに彼は踵を返してしまった。
その背中を追いかけようとすれば、今度は盧丞相に腕を引っ張られる。
振り払おうとしても、相手は文官であっても男性なのだ。そのうえ体格もよい。当然力ではかなわない。
掴まれている腕と盧丞相を交互に見ながら困惑している間に私は完燦殿下の姿を見失ってしまった。
――ええと、なんだったのかしら。
「……なんだったんです?」
思ったことを素直に口にすると、太丞相は実に楽しそうにくつくつと喉の奥で笑った。
「いやあ、皇太子様も年頃の男の子ですからね」
「……」
若い、若い、と口にする太丞相。
なんだかよくわからないが、この人にとっては面白い展開らしい。
「さて、そろそろ戻ろうか。宴もたけなわだ」
「はい」
父の言葉にうなずいて立ち上がろうとするが、しかし再び強い力で引っ張られ、その場に崩れ落ちかけてしまう。
私の腕を引いていたのは先ほど私を引き留めた盧丞相だ。彼はそのままずっと腕を握って放そうとしない。
「あの、盧丞相……?」
「もうすこし、お待ちを」
言葉と同時に父のほうへ向き、空いているほうの手で階段下を指してみせる。
「……」
「法央殿、
「……そうですか」
なにかを察した父は小さく息をつくと、「それじゃあ私は先に行っているよ」と言い残して去っていった。
父が去ってからも、私と盧丞相の間に会話はない。ただ腕はがっしりと掴まれたまま、隣にいる太丞相は相変わらずくつくつと笑っているだけで、真意を語ろうという気はないらしい。
けっきょく、大の男二人に両側を挟まれた状態で私は立ちつくすはめになる。しばらくの間、皇帝陛下と皇后様は一足先にお戻りになったとか、貴方の舞はやっぱり素晴らしかったとか、太丞相だけがべらべらと一人で喋っているのを適当に相槌を打ちながらきいておく。
そうしてようやく解放されたのは、宴が終わりに近づく頃合いになってからだった。
ずっと黙っていた盧丞相が急に大扉のほうを見やり、一つ頷く。
「では、行きましょう」
「え? どこへ?」
「完燦殿下のところです」
「……え」
なぜ私まで行かなければならないのだろう。
さっき思い切り逃げられたのだけれども。
そう思って首を傾げていると、太丞相がまた笑う。
――本当にこの人、何がそんなに楽しいのかしら。
私には理解できない。
私よりも背の高い二人が両脇を固めるように立っているせいか、まるで連行されているかのような光景だ。
大広間を出て回廊をしばらく進むと見慣れた女官の姿が目に入った。
みんなは私たちの姿を見ると駆け寄ってきた。
「ああ、姫さま。お疲れさまでございました」
「完燦殿下にお会いしに行くのですよね」
「え、ええ。でも、どうしてわかったの? 貴方たちは龍宮で待っているって……」
「それは、だって」
言い淀む彼女たちの視線は自然と盧丞相のほうに向けられる。
「……ご準備を」
「え?」
「お召しが、下されております」
盧丞相の言葉に驚いて自分の身体を見下ろす。
青色の衣に銀の帯飾り。演舞のために急いで見繕ってもらった衣がそこにある。
「ま、まってください。お召しって、それは」
「……演舞の後は、」
一夜を過ごす決まりですので。
彼の言葉にざあっと血の気が引いていく。
「待ってください!」
思わず声を上げてしまったが、これは仕方がないと思う。
龍宮で整えてからならまだしも、今からいきなりなんてあんまりではないか。
まだ湯浴みも済んでいないし化粧も変えなければならない。宴で着崩れた衣だって直せていないのに。
というかどうしてそんなことになるのか。だって、私の知っている話では、いまはもうその伝統は廃れているって。
「お許し下さいませ、藍晶さま」
「謝ってもだめです! ねえ茜、いまから断れないかしら。古典柄のそれはそれは古い衣があったはずよね、それだったら宮中の礼儀に反するはずだわ。太子様に合わせる顔がございませんとかなんとか理由をつけて――」
「逆効果でございます。今回の演舞が最古典のものであったことをお忘れですか」
「そう、だったわ。ああどうしてこうなるの! というかその言い伝えまだ効力あったんですか⁉」
「はい。東宮殿下の御代になりましたら、おそらく近いうちに廃止となるでしょうが」
「つまり……」
つまり、どうあがいても私は今夜、皇太子の閨で夜を過ごさなければならないらしい。
絶望的な気分になっている私を引きずって、陶は容赦なく支度用の部屋へ押し込んでいく。
後ろからついてくる侍女たちも、どこか楽しげな表情を浮かべていた。
ああ、たしかに彼女たちは楽しかろう。自分の仕える龍宮妃が初めて自分の夫に呼ばれ、夜を過ごす日を整えられるのだから。
「さあ、お早く。湯殿の準備はできておりますよ」
「いやです。私、お風呂くらいゆっくり入りたいです」
「なりません。お疲れのところをさらにお待たせするなど、言語道断にございます」
「だって、だって……、それは、知ってたけど、廃れた伝統だって言ってたじゃない……」
普段なら上級妃らしく振舞おうと努めることができるくらいの余裕はあるのだが、今日ばかりはそんな仮面も剥がれ落ちて子どものように駄々を捏ねてしまう。
なんで。なんで。なんで。
いろいろと回らなくなった頭がずきずきと痛みを訴えてくる。
齢二十四にして、今まで守ってきたものをこんな急に失えと言われている身にもなってほしい。
「完燦殿下がどれほどお待ちかねか」
「……」
その名前を聞くだけで、私の心は千々に引き裂かれそうになった。
最悪の出会いだったのに。散々な言われようをしてきたのに。そのうえさっき顔を見たあと逃げられたのに。
なぜ私が、たかが言い伝えの舞を踊っただけで夜伽までさせられることになってしまうのだ。話が違うじゃないか、とあまりの理不尽さに涙さえ浮かんできた。
それを察したのか、盧丞相が口を開く。
けれどそれは私にとって救いの言葉などではなく、むしろさらなる追い打ちをかけるものだった。
彼は至極落ち着いた声で、とんでもないことを口にする。
――御子ができれば一度で終わりますので。
ああ皇后陛下。入内の儀で見たあなたの笑顔だけが私の心の救いでございました。
どうかもうしばらく、いろいろな行事のたびでいいのであなたさまとお会いすることができますように。
切に願うが、願い事というのは往々にして叶わないものなのだ。
結局、私にできるのはただ黙って涙を耐えることだけだった。
第九話、了。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます