第8話 花を咲かせた対価

 楽団員たちが楽曲を奏で始める。出席した商人、貴人、後宮妃、みなが口々に笑みを浮かべ、酒を片手に歓談を始める。

 その様子を下に見ながら、この国の皇帝は顔色を変えない我が子を見てふっと笑った。


「退屈そうだな、かんよ」

「退屈ですよ、父上」


 そう答えて、皇太子は父を睨むように見上げる。


「いったいなにを企んでいるのです?」

「ん? 別になにもないぞ」

「母上と妃嬪だけならまだしも、わざわざ自分まで呼びつけておいて、なにも考えていないなんて言わせません」

「…………」


 くいっと杯を傾ける皇帝を睨み続け、そこに沈黙が降りる。


「……なにが望みです?」

「ふっ……」

「なにがおかしいんですか」

「お前は本当に聡いと思ってなぁ。その歳でよくそこまで頭が回るものだ」


 くすりと笑って皇帝は我が子の頭を撫ぜる。

 その手を払い除けてから完燦かんさんはぎゅっと眉を寄せた。

 その様子にもう一度高らかな笑い声を上げた後、皇帝は静かに言う。


「よく見ておけ。お前の選ぶべき者が舞う姿をな」


 その言葉の真意を探る前に、大扉からしゃなりと娘がひとり、広間へ足を踏み入れた。

 結い上げられた絹のような黒髪はわずかな風に揺れている。

 透き通るような白い肌に薄紅の差した頬、赤く色づいたつややかな唇、星の瞬きを映した瞳。

 きらびやかな衣に身を包んだ姿はまさに天女のようで、その姿を見たものは男女問わずに感嘆の声をあげた。

 彼女はそんな視線を浴びながらも、臆することなくまっすぐに玉座の前へ進み出る。

 そしてしずしずと膝をつくとその白魚のような指先を床につけ、顔を上げてにこりと微笑んでみせる。

 それはまさしく、花が綻ぶような笑顔。一瞬にしてその場にいた者たちの心を鷲掴みにして、花はその場に麗しく咲いた。

 それから立ち上がると優雅に礼をしてくるりと踵を返す。

 彼女が身にまとう青い衣がひらりとはためいて、まるで花弁が宙を舞っているようだった。

 そのまま中央へと進み出ると、玉座に直って再び一礼。


「此度は直々のお招きをいただき、恐悦至極に存じます。このほう藍晶らんしょう、これより宴におわす皆々様のため、両陛下のため、そして皇太子殿下の御為に――――献上披露させていただきます」


 そしてゆったりとその身を翻すと、中央に用意された一つの柱の前に移動した。

 それは一見して、おおとりが羽を休めるための止まり木のようであった。

 武骨で歪みの残る木の柱。その柱の下に立つと、藍晶は数度足先をとんとんと鳴らし、次の瞬間ふわりと空へ飛びあがった。


「え――」


 誰かが思わずといったふうに驚きの声を漏らす。

 それも無理はなかった。

 彼女は高い天井の中腹まで届こうかというその止まり木を、するする、くるくる、回りながら上っていく。

 まるで人のそれではない動きに、その場にいたほとんどの者が呆気にとられた。もちろんそれは完燦も例外ではなく、ぽかんと口を開けて彼女のことを見ている。

 やがて止まり木の頂へと到達した藍晶は、そこで一度静止してまっすぐに立つ。そうしてその場でたんっと飛び上がり、数度くるくると縦に回転して再び木柱の頂点で着地し、静止する。

 そこには重力などまるでない。その場から一歩たりともずれていないのだ。まるでそこが平原の中心であるかのように、ただ一歩ぶんの幅しかない柱の上で彼女は飛び上がり、ひらりひらりとまわる。


「これは」


 その光景を目にしていた太丞相が、はっと目を見開く。


「どうだ、見事なものだろう」


 皇帝の言葉に太丞相はこくりと唾を飲み込む。


「あれは……いやまさか、そんな」

「ああ、余も聞いたときは驚いた。あの珠玉の姫君と同じ演目を披露しようとはな」


 皇帝はふっと笑ってまた杯を傾けた。

 そう、これは彼女の母が入内の際に披露したものと同じだった。

 『珠玉の姫君』と謳われた、この世で最も美しいとされた娘。彼女は数えきれないほどの才覚に恵まれていて、それを惜しげもなく披露した。

 そのころはまだ年若かった二人の丞相もおぼえている。

 建国龍女の伝承に記された演舞。

 千年の湖のほとりで後の王と出会った龍は、湖の真ん中にひとつ伸びた枯れ木の上で、彼との出逢いを喜び舞った。ひらりひらりと青い光をまとい、やがてその光を衣に変えて、龍は娘の姿に変わる。

 二人の出逢いの物語が、いまこの場に再演されているのだ。

 完燦はただじっと目の前の天女に魅入っていた。

 楽士たちの奏でる楽曲に合わせて彼女は舞い踊る。

 高く、低く、大きく、狭く、速く、遅く、縦横無尽に、軽やかに、重厚に、艶やかに、妖美に、可憐に、勇ましく、美しく――――……


「あ……」


 ふと目が合い、藍晶がこちらに向かって微笑んだような気がした。

 胸の奥底から何かが込み上げてくるような感覚を覚える。

 それを誤魔化すように、完燦はぐいっと杯を傾けた。


「どうだ、美しいだろう」

「……はい」


 うっとりとした表情を浮かべる皇帝に完燦は短く答える。

 その返答に皇帝は満足げに笑った。


「あの演舞がどれだけ難しいか、お前ならわかるだろうな。本来ならばおよそ人の身に成しえないものだ。どれだけの研鑽を積めばあの頂へたどり着けるのか、余には想像すら難い」

「……はい」

「しかしあの娘は見事やり遂げた。今宵、その力を我らに見せてくれたのだ。それがどれほど喜ばしいか、お前にはわからぬであろうなぁ」


 くつくつと笑うと、皇帝は再び杯を干す。

 それからふっと真顔に戻ると、静かに語り出した。


「あれが欲しいと思わないか?」


 突然の問いに、完燦はぴくりと眉を動かす。


「あれは、国を統べるに相応しい。我が息子に嫁がせれば、きっとこの国はますます栄えよう」

「…………」

「それに、もし万が一にもあれが子を成せば、それはこの国のさらなる宝となる」

「……それは」

「ああ、まだ早すぎたな。なに、急がずともよい。ただ……考えておけ」


 それだけ言うと皇帝は立ち上がった。


「しばらくはひとりで見ていることだ。余は丞相らと話があるゆえな」


 そう言って皇帝はそのまま席を外し、離れた彼らのもとへと行ってしまった。

 後にはぽつりと完燦だけが残される。

 視線のさきで舞う彼女はようやく木柱の上へ腰かけ、地上へと戻る場面へ移行していた。なにも履いていない白く美しい足先が動き、ひらりと青い衣を翻して、柱を撫でるようにして優雅に降り立つ。

 腕を広げて一礼する彼女に、空間が割れんばかりの拍手と称賛の声が投げかけられる。その声に圧倒されながら、それでも完膚なきまでに叩きのめされた気分だった。

 そうだ。彼女の演舞に、完全に打ちのめされていた。





 舞が終わって彼女が設けられた席へ下がると、人々は再び元のように酒や食事を楽しみ始める。

 そんな中で、完燦だけはいまだに先程の衝撃から抜け出せずにいた。


 ――まさか彼女がここまでできるなんて。


 これまではせいぜいその器用さゆえになんでもこなすことができるのだとばかり思っていた。育ちにも恵まれていたし、何事も学ぶ機会はあったわけで、実際それは間違ってはいないだろう。

 ただ、それだけではなかったのだ。

 彼女は生まれ持った才覚に胡坐をかくことなく、ひたすらに己の技芸に磨きをかけてきた。そうして得たものを惜しみなく使う。

 だからあんなふうに、誂えられた大舞台で見事にやってのける。誰の期待にも応えられて、それ以上のものを見せることができる。


 ――自分とは違う。


 完燦はふっと自嘲気味に息をつく。

 そもそも自分は何をしていた?

 ただ酒を飲んで、たまに町へ出て、だらしない日々を過ごしているだけだった。それでいて、未来を考えているなんていいながら、自分のことしか考えていない。

 藍晶彼女のことを何も知らなかった。

 努力も、想いも、覚悟も、なにも知らない。知っているのはこれまでの立場と、思い込みと、噂だけ。


『あれは、国を統べるに相応しい』


 父の言葉を思い出す。

 そして、この場にいる誰もが同じことを考えていることに気付く。


「殿下!」


 はっと顔を上げると、そこには慌てた様子で駆け寄ってくるリュイの姿があった。


「おひとりで、どうされたのです」

「……いや、なんでもないよ。ちょっと一人になりたかっただけ」

「そうですか……それならよいのですが」


 ほっと安堵したように微笑むと、彼は完燦の隣に腰をかがめた。


「あちらはよろしいのでしょうか」

「ああ、大丈夫だ。父上は丞相たちと話すと言っていたし、邪魔はしないほうがいいだろ」


 完燦がそう言うと、リュイは珍しく小さく笑っていた。

 それから少し遠慮がちに口を開く。

 その様子から、おそらく自分に何か言いたいことがあるのだろうと察する。しかしなかなかその続きが聞こえてこないので、完燦は不思議に思って彼の顔を覗き込んだ。

 目を伏せて口元を緩ませた彼の表情に浮かんでいるものを見て、思わず目を見張る。

 いつもは生白い頬がほんのり赤く染まっているのだ。

 珍しいこともあるものだと思っていると、やがて意を決したように顔を上げた彼が言葉を発する。

 その口から出てきた内容を聞いて、完燦もまた同じように顔を赤らめることとなった。


「――――いやいやいや! さすがにそれはダメだろ⁉」

「しかし、そうでなければ」

「いやだって、そんなの……おかしいって……」


 そう言って慌てて首を横に振ると、リュイは悲しげに眉を寄せた。彼としては、本当ならこんなことを言うのはお門違いだと思ってはいるのだろう。

 それでもこれまで彼が言うことが間違っていたことなど一度もなかったのだから、完燦は苦悶する。


 ――いやでも、それはいくらなんでも……。


 心の中で葛藤を繰り返しながら、彼は恐る恐る口に出す。


「本当に……いいのかな」

「……それが伝承ですから」

「いやでもそれってやっぱり、なんかこう、そういうのに乗っかってるって感じで……」

「本当にする必要はありません。ただ、そうであるという事実を周囲に見せることが大切なのです」

「いやまぁ、そりゃそうなんだろうけどさ」


 完燦の戸惑いは続く。

 確かにそれは昔から言われてきたことではあるし、この国で婚姻を結ぶ男女には必要なことであるのだが、それにしても今更それを自分がするのかと思うとやはりどうしても抵抗がある。

 だって相手はあの法藍晶だ。今まで散々な態度で接してきた自覚もあるのに、ただあの舞を見たからといって手のひらを返すようなことをするのはさすがにおかしいだろう、と頭の中の自分が叱責してくる。


 ――というか、そもそも。


 これまでずっと気にしないようにしていたが、実はもうひとつ気になっていることがあった。


「……リュイは、それでいいわけ?」

「はい。むしろ光栄なことだと思いますが」

「いや、でもさ。お前は」


 ――お前には、王才があるのに。


 喉まで出かかった言葉を呑み込む。自分の隣を並んで歩いてきた侍従リュイ。異国人の母を持つ乳兄弟。

 本来なら彼こそが王になってもおかしくない才覚を持っている。なにひとつ間違ったことを言わない、正しい道を指し示し、共に歩んでくれる。


 ――それなのに、お前はそれでいいのか?

 こんな中途半端でなにもできない自分よりずっと、お前は強くて相応しいのに。


「リュイ、お前は――」

「自分は、あなたの臣下です」


 迷いのない目で真っ直ぐに見つめられる。

 青くて澄んだきれいな瞳。彼女が着ていた衣と同じ色が自分を映しこんでいる。

 そのことに、どうしてか泣きたくなってしまった。


「……ありがとう、リュイ。じゃあ、お願いしてもいいかな」

「はい、承りました」


 恭しく礼をする彼に、完燦はふっと息を吐く。

 それからもう一度前を見た。先程彼女が舞ったあの止まり木が、名残のようにそこにある。


 ――ごめん。


 胸の内で謝罪しながら、完燦はそっと席を立った。



***



 演舞の成功は喜ばしいことだった。

 だが、その後のことはあまり思い出したくはない。

 宴の翌日、藍晶は自室に引き籠っていた。

 別に体調を崩したとかそういうわけではなくて、単純に恥ずかしかったからだ。

 昨日のことを思い出すだけで顔が熱くなる。できることなら穴があったら入りたい。いやいっそのこと、自分で穴を掘ってその中に埋まってしまいたかった。しかしそんなことできるはずもなく、結局布団にくるまってうーうーと声にならない声で悶えるしかない。


 ――どうしてこんなことになった?


 それに関しては、あの演舞を成功させてしまったことがすべての原因であることに違いない。

 自分でもどうかと思うくらい完璧にできてしまった。しかも、おそらく今までで一番上手くできた気がする。

 だからだろうか。つい調子に乗ってしまったのだ。

 普段だったら絶対にしないであろう行動に出て、その結果がこれだ。


 ――いやでもまさか、あんなことになるなんて思わないじゃないですか!


 そうだ。あれは完全に予想外のことだったのだ。


 完燦に、夜伽を命じられたのである。



第八話、了。

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