第7話 宴の花はつくるもの

 ――子どもであるうちは子どものように振舞いなさい。


 父にそう言われたことを思い出している。幼心に、なにを当たり前のことを言っているのだろうかと不思議に思ったものだ。

 大人になったいまはその言葉の意味が理解できる。子どもは子どもらしくあれ。それが私に対する父の願いだった。

 人波にもまれてはぐれたときも。書庫で本の山に押しつぶされかけたときも。階段を踏み外したときも。転んだ拍子に頭を打って昏倒したときも。

 父はいつだって駆けつけてくれた。そして抱き起こしてくれて、「怪我はないかい?」と優しく微笑んでくれるのだ。

 その笑顔を見るたびに思う。ああ、私はこのひとの大切な娘なんだと。

 父が笑う。お人形のように張り付けた能面をくしゃっと崩して。


『お嬢さん、なにをしているんだい。こんなところで』


 そうやって声をかけてくれることが嬉しくて、私はわざと何度も同じことを繰り返した。

 そのたび父は呆れたような、それでも嬉しそうな顔をしながら私の手を取って、一緒に歩き出してくれるのだ。

 その背中を眺めながら、やっぱり自分は父の特別なんだと実感する。

 そんな父が、他者からどう思われているかもしらないで。


「……夢」


 目が覚めて最初に見上げた天井が変わったのにはもう慣れた。けれど、見る夢だけはどうしても変わらない。

 幼いころの記憶。まだ私が、自分の立場を理解していなかったころのことだ。


「……」


 身を起こして寝台を出る。鏡台の前に座り、引き出しの中から櫛を取り出して髪をとかしていく。

 窓から差し込む朝の光を受けてきらきらと輝く黒が、するりと櫛の歯を通り抜けていくのが見えた。

 侍女たちが起こしに来るにはまだ早い。もう少しだけ時間があるはずだ。

 眠気でぼうっとした頭でそんなことを考えながら、ふと視線を感じて窓の方へと目を向ける。するとそこには驚いたように目を見開いた何者かの姿があった。


「…………」

「…………」


 目が合う。目が合っている。

 ぱちくりとまんまるい瞳が私を見ていて、じっとりと半分覆われた瞳がその人を見ている。


「…………」

「…………」


 すうっ、と息を吸い込んだまさにその瞬間、次に起きるであろう行動を予測したそれが勢いよく窓から飛び入ってきて、私の口をふさいだ。


「むぐっ」

「しぃーーっ!」


 私の口元を覆ってそう囁く人物に見覚えはない。

 日に焼けた褐色の肌、焦茶色のくりくりっとした丸い目、女官たちのそれとは違う仕立ての官服。おそらく異国出身の官吏なのだろう。

 そこまでは今の一瞬で私も理解ができた。問題は、この人がなぜこの場所にいるのかということ。

 曲がりなりにも後宮の内側。何度も何度も言っているが、ここに帝と宦官かんがん以外の男性は入ることが許されない。

 それすなわち、彼は――


「落ち着いてください、ほう姫。自分は暗殺者でもなければ貴方を害しにきたわけでもありません」

「……」


 こくり、と無言のままうなずく。

 口元を覆う手が離れたのを確認してから、私は改めてその人の方を見た。

 明らかに武人然とした体格の男だ。男性機能を失うと自然と中性的な様子に近づいていくことを考えるに、彼は宦官ではないだろう。


「あぁ、よかった。大事にしたくはなくて……」

「……ご用件は」

「あっ、大変失礼いたしました。主上の命でこちらへ参りました、自分はカグライという者です」


 カグライと名乗った男は私から数歩距離を取り深々と頭を垂れる。

 私はその言葉を聞いて内心ほっとしていた。

 彼が帝の指示で来たということならば、なにかの密命を得た者なのだろう。まだ警戒を解くことはできないものの、カグライの態度と様子は暗殺者や陰謀を抱える者とはまったく思えないほどに純粋でまっすぐそうに思える。

 話はきいておこう。さすがに主上の名を出されておきながらこのまま放りだすことはできない。


「それで、主上はなんと?」

「はい。実は……」


 そう言って顔を上げた彼の表情はなぜか曇っていた。


「本日、王宮にて催される小宴に花を添えてほしい、とのお達しです」


 瞬間、目の前が真っ暗になる心地がした。


「……なんですって?」

「詳しいお話はこちらの書状に……まずはお目通しください」


 そう言って懐から取り出した封筒を手渡された。

 上質な草紙で作られたそれを慎重に開くと、中には二枚の書簡が入っている。

 一枚目には『親展』の文字が書かれていて、宛名はもちろんこの私の名前。差出人は『天与の人』――すなわち皇帝陛下その人のことだ。


 開きたくない。ものすごく開きたくない。


 その気持ちを汲んでいるのかカグライも眉を下げて困ったように笑っている。しかしこれは彼の仕事であり、私の仕事でもあることだ。

 覚悟を決めろ私。もしかしたらただ顔を出せというだけかもしれないし。


 ぴらり。


「……そうよね、そんなわけないわよね」

「申し訳ございません……」


 そこには今日の昼から開かれる小宴の仔細が書かれていた。ご丁寧に出席者の代表名まで並んでいる。

 要するに、そこに集まる貴人たちの前で何かしら芸をしてみせろということらしい。

 でも、よりにもよって。


「……どうして後宮妃じゃなくて私なのです」

「えぇと……」


 思わず口から漏れ出た不満の声に、カグライはますます困ったような笑顔を浮かべて頬をかいた。

 彼に当たりたいわけではないのでこほんとひとつ咳ばらいをする。


「いえ、すみません。なんでもありません」

「はい。その、法姫はとても美しい方だと聞き及んでおりまして……」

「それはどうも。……それで、その話には続きがありますね? まさかそれだけではあるまいと」

「さすが法姫さま、お話が早うございます。えぇと、どこから説明すればよいのか――――」


 カグライはひとつふたつとその太い指を折りながら、事の発端を話し始めた。

 そもそもこの小宴がなぜ開かれることになったのか、ということである。

 この国では、宮中で開かれる大小さまざまな催し物すべてに丞相府じょうしょうふの許可が必要だ。そして当然、許可を出したのならば丞相府はその責任を負わなければならない。そういった習わしなのだ。

 つまり今回の宴は丞相府が許可を下ろしたのちに、その問題点が浮き彫りになったということ。


「本来であればいつもの宴と大差なく、何の問題もなく終わるはずのものでした。けれど、今回の主催役である王都の大商人たちが、どうしてもその宴席に後宮の妃たちを招きたいと言ってきかなくて……」


 ようは金を握らせて丞相府の役人たちを頷かせたわけだ。

 父が補佐を務めるたい丞相は自分を含めて汚職に厳しいため、それを許すはずはない。ならばそれを袖の下に入れたのはもう一人の丞相――丞相のほうだろう。彼自身は汚職に手を染めているとはきかないが、なにぶん自分の仕事以外には目もくれない偏屈人だ。自分の部下たちが誰から賄賂を受け取っていようが興味もないのであろう。そうなれば下に広がる土壌にそれらが蔓延っていてもおかしくはない。


「そこで、主上はお考えになられました。もしこの企みが露見した場合、大商人たちは太丞相らによって確実に罰せられるでしょう。しかし彼らはこの国の経済を握っています」

「……そうですね」

「ええ、ですから主上は彼らを見殺しにすることはできない。それらを覆い隠す必要がある、と」

「……ええ、それはわかります。そこまではわかります。わたくしが言いたいのはですね」

「はい、わかっております。なぜ後宮妃ではなく龍宮妃である法姫様が、ということですよね」


 そうなのだ。後宮妃を招くならまだわかる。彼女たちは帝の寵愛を競うライバルではあるが、同時に帝の妻。妻ならば帝の意向に逆らうことは許されないし、一目帝へ視線を向けてもらうためにもこぞって色めき立つことだろう。

 しかし後宮妃はあくまでただの帝の妻であって官吏ではない。時季ごとに行われる大宴会であれば彼女たちも必ず参加することになるが、商人たちが主催できるのはあくまで王宮中での小宴。自分たちが呼んだ見世物芸者を披露するならまだしも、正式な理由もなしに後宮の女たちを呼ぶわけにはいかないのだ。

 だから私に白羽の矢が立った。もっとも近日に入内の儀を行い、帝に目をかけられている龍宮妃が一芸披露すれば、それは帝だけでなく皇太子への献上にもなる。


「――と、いうことです」

「……」


 私は無言で頭を抱えた。

 そしてもう一枚、封筒に入っていた書簡をめくる。


「……父上……」


 そこには我が父からの指示書が入っていた。

 ああ、わかってしまった。

 すべては帝の差し金。いかに汚職に厳しい太丞相とはいえ、自分の補佐官である法央が宴の余興にと娘を推薦して、それを帝が『見たい』と言えばそれに従うほかはない。

 そうすれば私を招いたのはあくまで帝と我が父であり、宴の主催を務める大商人たちではないということになるのだ。

 そうなれば私が一芸披露する姿をひとめ見ておきなさい、とほかの後宮妃たちも招くことができる。

 確かに、確かに理に適っているように思える。けれど、けれど……!


「……っの、狐狸化生こりけしょうが……」

「え?」

「いえ、なんでもありません」

「は、はぁ」

「それで、肝心の演目は何にすればよいのですか? 準備する時間がほとんどない以上、あまり華々しい演目はできませんよ」

「ああいえ、それは法姫様にお任せするとのことでございます。舞でも楽曲でも詩作でも、なんでも構わないと」


 私は再度頭を抱えることになった。

 本当に、あの人たちは私をなんだと思っているのか。そんなことできるはずがないではないか。そもそもそんなことをしたら、私の教養の高さが露呈してしまう。これでも科挙問題を主席と同じ成績でこなした女だぞ。

 それは困る。とても困る。私は目立ちたくない。後宮妃を敵に回したくない。下手をすれば仲良くなった龍宮妃たち丸ごと後宮妃たちに目をつけられるかもしれない。

 そうなったら居場所がまるっとなくなってしまうではないか。

 無意識に唸るような声が漏れてしまって、カグライが不思議そうに首をかしげる。


「どうされましたか? ……あ、もしやお加減が悪く⁉ そうであれば申し訳ございません、一度下がらせていただきます!」

「いえ、そういうわけではありません。しかし、ええ……」


 ふむ、と顎に手を当て考える。

 なにか方法はないか。当たり障りなく誰もが知っていて、しかし献上としてふさわしい見世物芸。

 できるだけ古典的で、面白みに欠けていて、でもそれなりにがんばらなければ誰も彼もが簡単にできるわけではない、くらいの。


「…………あ、そうだ、あれ」


 頭に浮かんだ思い付きにパッと顔を上げる。

 そうだ、あれはまだ試したことはなかった。うまくいくかわからないが、物はためしにやってみよう。

 成功すれば万々歳。失敗すれば私への評価が落ちるだけで、自室に引きこもる理由になる。


「カグライ殿」

「はい、なんでしょうか」

「お招きいただいた以上、その小宴、わたくしは出席いたします。ですからその前に、いくつかご準備をしていただきたく思います」


 その言葉に、彼はぱちりと目を瞬かせた。



***



 それから数刻後。

 王宮の大広間には宴の準備が施され、すでに多くの貴族が集まってきていた。

 いつもの小宴とは違い、今回は後宮妃を招いてのものだ。そのためいつもよりも華やかに飾り付けられ、料理も普段より豪勢に並べられている。


「……しかし、まさかこのようなことになるとはな」

「ええ、まったく。主上もなにをお考えなのやら」

「どんなことをお考えであろうと、我らはただ従うのみ。いまは口を慎まれよ、たい丞相」

「わかっておりますとも、丞相。此度の件は不問にする、それで結構でしょう?」


 一段上がりの自席に腰かけた二人の丞相は互いに顔を見合わせて口々に言った。

 今回の一件、本来ならば太丞相にとって見逃せるものではない。しかし、相手はほかの誰でもない帝が招いた龍宮妃。帝と皇太子の寵愛を一身に受ける、この国でもっとも美しいと謳われた姫君の娘である。

 さらに入内の折からひと月も経たないうちに龍宮妃嬪すべてを味方につけたという噂もあるのだ。いま龍宮を敵に回すような真似をすれば、この国の経済を牛耳ることなどできなくなるうえに、自分自身の立場も危ぶまれることとなるのだから、いかに汚職に厳しい太丞相であっても簡単に手出しはできない。

 ゆえに今回ばかりは帝の意向に従うほかなかったのだ。


「それにしても、今宵はまたずいぶんと賑やかなものですね」

「ああ。しかしまぁ、それも仕方あるまい。何しろ今日は小宴と称されながらも特別なものであるのは間違いないからな」


 そう言って盧丞相は大広間の奥へと視線を向けた。それにつられて太丞相も奥を見る。

 そこにいるのは皇太子、完燦かんさんだ。


「あの御方までいらっしゃるとなれば、それはもう特別以外の何ものでもないでしょう。しかし、それにしても――」


 太丞相はちらと横目で隣を見た。そこにはかの龍宮妃の父である法央ほうおうの姿がある。

 彼はまるで人形のように整った顔を無表情にして前だけを見ていた。そこには娘を想う父の情は感じられない。


(……相変わらず何を考えているのかわかりませんね)


 部下の腹の底を探ろうと思考を巡らせるものの、結局なにも掴めないままに、大扉の方から聞こえてきた鈴の音によってかき消された。

 開かれた大扉の前には一人の女官が立っている。彼女は桃色の髪を揺らしながら深々と頭を下げ、宴の開始を告げる鈴を広間に鳴り響かせる。

 そしてゆっくりと頭を上げると、手に持っていた扇で口元を隠しながら、朗々たる声で高らかに告げた。


 ――さぁ皆々様、宴のはじまりでございます。



第七話、了。

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