第6話 才媛たちの思い

 庭園机の上に広げられた色とりどりのお菓子と軽食。良い香りのするお茶に口をつけながら、わたしは目の前の青年を見つめていた。


「――それで、どういうおつもりですか?」

「うん?」

「とぼけないでください。わざわざ後宮にまで足を運んで、いったいなんのおつもりです?」


 昨日の茶会での一件、後宮入りしたばかりの娘が皇太子の寵愛を一身に受けているという噂。

 そして今朝聞かされた昨晩の件。夜遅くに何者かが後宮内に入り込み、妃たちの部屋を荒らした。幸い大事には至らなかったようだが、犯人は捕まってなお口を割ることもなく牢で過ごしている。

 おそらく、この男が関わっている。

 でなければ、こんなタイミングで現れるはずがない。

 しかし、彼は相変わらずの笑みで答えてきた。

 まるでそれがどうしたという風に。むしろどうしてそんなことを気にするのか、という様子だ。

 それがひどく腹立たしい。そのせいでこちらは昨日、ただでさえ少ない体力を消費して朝までぐったりしていたというのになんと責任感のない男だろうか。


「……まあいいでしょう。それより、お聞きしたいことがあります」

「うん? それはいったい何かな」

「もちろん、噂のことですわ」

「噂……噂とはどのような?」

「とぼけなくても結構です。貴方がわたくしを寵愛しているなんて根も葉もない話を、どうして流しているのかと尋ねているのですよ」


 ぴくりと眉が動くのが見える。

 やはり噂を知っていた。そしてこの反応は、明らかに彼が噂の出どころであることを示している。

 つまり、彼があの茶会で囁かれていた噂をばらまいたということだ。


「なぜそのような回りくどい真似を?」

「…………」

「なにか言いたいことがあるのならはっきり仰ってくださいな」

「うん、そうだね」


 彼はわざとらしく顎に手を当てて考え込むような素振りを見せた。


「僕はきみに興味があるんだ」

「興味、ですか」

「そう、とても強い好奇心だよ。きみはいったいどんな女性なのかと思って」

「……なんですって?」


 思わず耳を疑いそうになる。

 なにを言っているのだ、この男は。

 しかめっ面になっているであろうこちらを見て彼はふっと笑う。


「だってほら、きみが言ったんじゃないか。『あなたのことをもっと知っておきたい』ってさ」


 入内の儀、その食事時に言ったことを蒸し返されてよけいに眉が寄る。きっと今の私は妃にふさわしくないあまりにも不細工な顔で目前の男を凝視していることだろう。


「……それは確かに口にしましたけれども」

「だから僕もね、きみのことを知っておこうと思ったわけ。お互いを知るためには、まずは相手を理解するところから始めなくちゃいけないだろう? だからこうして会いに来たんだよ」


 その言葉に周囲の姫たちがきゃあっと黄色い声を上げる。口々に『やっぱり最愛のお方なのね』『気にかけていらっしゃるんだわ』とちゅんちゅんさえずっているのが耳に入ってくる。

 思わず口の端が引き攣るのを隠せなかった。


「……左様でございますか」

「もっとも、僕の方はすでにきみのことをよく知っているけどね。藍晶らんしょう姫、きみのことはちゃんと調べてあるから」

「……それは、どういう意味でしょうか」

「言葉通りの意味だよ」


 軽口のように話していた彼の表情から笑みと温度が消える。


さい姫、えん姫、姫――いずれも名家の出身であり、その実家には潤沢な資金があることは間違いない」

「……?」

「そして、きみ自身についても同じことが言える。いや、彼女たち以上のことがね」

「わたくしが、ですか」

「そう。きみの父親は法央ほうおう、この国の丞相じょうしょう補佐官。我が父に絶対の忠誠を誓い、後宮で最も美しいと謳われた花の姫を下賜かしされ、人生のすべてをこの国に捧げることになった者。その子であるきみは周囲に期待され、それに応えられる実力をもった才媛。そして、父が直々に龍宮参内を命じた異例中の異例――」


 茶をひと口含み、彼はひとつ息をつく。


「いまのきみは名目上龍宮第四席だけれど、その実態は明らかにこの世界の頂点だ。蔡姫、袁姫、李姫――いずれの姫もきみに逆らうことはできないし、逆らうつもりもない。彼女たちはただひたすらにきみの機嫌を取り、気に入られることだけを考えている。そんな女たちを束ねているのが、いま僕の目の前にいる存在なわけ」

「……」

「きみの父は現帝にかしずく四人の妃たちをうまく使いこなしている。そして同時に、それにおもねる貴族の娘たちにもそれを学ぶように仕向けた。そんなことができるのは、我が国広しといえどたったひとりだけ。あのたい丞相さえも頭の上がらない補佐官がどれほどの力を持っているか、いまどき言葉を話せない赤子でも知っているよ」


 ああ――まったく嫌になる。本当に嫌になる。


 この男の言うとおりなのだ。

 私の父はこの国に生きるすべての人間にとって恐怖の象徴だった。父の一声でどんな貴族も立場を失い、ただの民草になり果てる。

 誰もが父の顔色をうかがい、少しでも不興を買わないよう日々を過ごす。

 それが当たり前の光景。

 それを見てきたからこそ、私は結婚をしなかった。自分の力だけで生きていけるように、誰にも媚びず、誰からも侮られないような力を身に着けたかった。

 その努力の結果が、これだ。

 自分よりも遥かに格下のはずの女に頭を下げ、へつらい、なんとか許しを得ようとする哀れな人々。

 そうか。そうだったのだ。後宮でありながらやけに好意的な姫たちも、けっきょくは私の後ろにいる父の影におびえているだけにすぎない。

 本当の好意なんて、私には向けられていないのだ。


「――お言葉ですが、太子様」


 静まり返った庭園のなか、言葉を紡げなくなった私の隣で口を開いたのは蔡姫だった。


「わたくしたちが藍晶姫と仲良くしたいと考えているのは、ただ彼女の後ろにある権力に従ってのことではございません」


 きっぱりと言い放つ。その視線はまっすぐに彼へと注がれていた。

 彼女の凛とした佇まいに周囲の姫たちはしんと黙り込み、二人に視線を集中させる。

 彼は目を細めて彼女を見つめ返した。

 蔡姫は怯むことなく続ける。

 この場にいるすべての姫たちを代表していると、堂々と胸を張って。


「藍晶様は貴方様の光となる御方。導きの龍女となる御方。貴方様が歩まれる道に、貴方様に寄り添い支えていく者に、彼女は必ず相成ります」

「……」

「わたくしたちは藍晶姫を敬愛しております。そして、その隣に立つ貴方様にも敬意を払っております。だからこそ、わたくしたちは波風を立てたくはありませんし、共に歩んでいきたいと考えております」

「……なるほどね」


 彼は小さくため息をつくと、蔡姫に向かって微笑んだ。


「わかったよ。きみたちの気持ちはよく伝わった」

「お分かりいただけましたか」

「うん。でもね、僕はまだこの場所を信用しているわけじゃない。だからもう少し様子を探らせてもらうことにするよ。藍晶姫のことも合わせてね」


 ぐっ、と碗に残ったお茶を飲み干して、彼は席を立った。

 さっきまでちゅんちゅんと囀っていた小鳥たちは人波を割って彼の道を開く。彼が背を向けた瞬間、姫たちの間にほっと安堵の空気が流れた気がした。

 その中を悠々と歩いていく彼を目で追いながら、蔡姫はなにかをぽそりと呟く。

 その表情はどこか悔しそうでもあった。

 その背中が見えなくなってから、蔡姫はこちらを見て眉を下げて微笑んだ。


「……大変失礼いたしました、法姫」

「いえ……」

「わたくしたちも、まだまだ未熟なのです」


 それは、どういう意味なのだろう。

 私が首を傾げると、蔡姫は困ったように俯いた。


「龍宮は広いようで狭い場所です。そしてその広さと狭さゆえに、龍宮の姫たちはお互いに支え合わなければ生きてゆくこともできません。皇太子様の流された噂に惑わされたことも事実です。それが貴女様にひどい苦痛を与えることなど知らず――わたくしたちは配慮が足りませんでした。どうか謝らせてください」

「いえ、いいえ。気になさらないでください。皇太子殿下を前にしてお伝えしてくださったこと、嬉しく思っています」


 慌てて首を振る。

 蔡姫は悪くない。実際に彼女はこの宮を代表してその意を伝えてくれた。私に向けられているものがただの諂媚てんびではないと言ってくれたことだけでも、私の心はちゃんと救われたのだ。


「しかし――」

「それに、私はもう大丈夫ですよ。私だって、龍宮妃の一員なのですから」


 そう言って彼女に笑いかける。

 すると蔡姫は少し驚いたように瞬いてから、にこりと微笑み返してくれた。


「ありがとうございます、法姫。けれど、無理だけはしないでくださいましね?」

「ええ、蔡姫さまも」


 私たちは互いに手を取り合って、ぎゅっと握り合う。それを見ていた袁姫と李姫、他の姫たちも私たちを囲んでぎゅっと身を寄せてくれた。

 これからどうなっていくのかなんてわからないけど、きっとみんなうまくやっていけるはずだ。

 あの底意地の悪い皇太子を相手に、私たちは心を一つにして決意を固めたのだった。



***



 そんな少女たちの戦場を後にした皇太子は、後宮のとある一室へ足を踏み入れていた。

 ほかの妃嬪たちとは区切られた場所に存在する、後宮上級妃たちが過ごす一角からも離れた場所。


「やあ、待たせちゃったかな」

「……別に」


 卓を挟んで向かい合った青年に、少年はそっぽを向いて答えた。

 そんな態度に苦笑しつつ、完燦かんさんは椅子を引いて腰かける。ちらりと彼の手元を見やると、そこには編みかけの襟巻きが糸巻きとともに置かれていた。


「相変わらず上手だね。誰にあげるの?」

「かあさま」

「そっか、きっと喜ぶよ」


 にっこり笑って言うと、彼はますますむっつりとした顔になる。

 その様子にまたくすくすと笑うと、彼はさらに機嫌を損ねてしまったようだ。

 ぷいと顔を逸らし、黙々と手を動かしはじめた。

 器用なものだ。糸の長さと張り具合も、すべてちいさな両手の指に絡めるだけで済ませている。乳母でさえ棒編みがせいぜいだと言っていたのに、この子は指編みで職人と同等といっても過言ではない品を作り上げていくのだから。

 その様子をしばらく眺めてから、完燦はおもむろに口を開いた。


「もうすぐお前も離宮するんだね」

「……ん」

「今のうちにたくさん甘えておくんだよ。大人になったら、母と会うことも難しくなる」

「……わかってる」


 ぶっきらぼうに答えるその声には、わずかな寂しさが滲んでいた。

 そのことに気づかぬふりをして、彼の頭を撫でてやる。さらさらと指の間をすり抜けていく黒髪は絹のように滑らかで心地よい。

 彼はされるがままになっている。

 その姿を愛おしげに見つめて、完燦はふと窓の外へと視線を移した。

 この部屋からは後宮のなかでもっとも大きな中庭がよく見える。

 今は花壇の花も枯れ、色とりどりの葉もすべて落ちてしまっているが、春になれば一面に咲く美しい花園を見ることができるだろう。

 そこにいるはずの姿を探す。まだ幼いあの子は、今日も元気にしているだろうか。

 そうして庭を見下ろしているうちに、ふと気づく。

 いつもなら真っ先に目に入るはずの姿がない。人目を引く華やかな衣をまとった幼い少女が、どこにも見当たらないのだ。

 そのことに気づいた途端、完燦の顔から血の気が引いた。

 まさか、と慌てて立ち上がる。

 そのまま駆け出すように窓へ向かおうとしたとき、少年の声に引き留められた。


「今日は父上のところに行ってるよ。だいじょうぶ」

「……そう、なんだ」


 ほっと胸をなで下ろす。理由があっていないのであればよいのだ。昔のように、危ないめにあっていないのならば。

 そう思いながらそれでもやはり心配なものは心配で、完燦はなかなか落ち着きを取り戻すことができなかった。

 その様子を見かねたのか少年は小さくため息をつく。


「会いたいなら行けばいいじゃん。ぼくみたいにさ」

「それは、そうなんだけど」

「じゃあ行ってきなよ。あんたはいっつもそうだよね。なんでもかんでも自分だけの力でどうにかしようとして。それで失敗したことも一度や二度じゃないでしょ」

「痛いところつくなあ」


 はあ、と大きく嘆息して、完燦は肩を落とした。

 少年は編み物の手を止めてこちらをじっと見上げてくる。その瞳はどこか不安げに揺れていた。

 そんな彼に完燦は静かに語りかける。


「……大丈夫だよ。僕はちゃんとできる。父上みたいにはならないから」

「どうだか」

「本当だって。だから安心して」


 そう言って笑いかけると、ようやく彼も納得してくれたようだった。

 ふん、と鼻を鳴らしながらも、その表情は穏やかである。


「まあ、いいけどさ」


 そう言って彼は再び手元に目をやった。

 彼が編んでいるものは母親への贈り物。形が残る大切な親孝行。それが完成する頃、彼はここを出て行くことになる。

 母から離れてひとり、外の世界へ踏み出していかなくてはいけないのだ。

 だからそのときまで、こうして穏やかな時間を過ごせることを願わずにはいられなかった。


 ――この国を、よりよく導くために。


 そう自分に言い聞かせるように心の中で呟いて、完燦は再び窓の外へと視線を移すのだった。



第六話、了。

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