第5話 龍女

 ――コンッ、コン。


 まだ朝日が昇る前。控えめなノックの音に目が覚める。

 ゆっくりと起き上がって扉を見つめれば、外から小さく声がかかった。

 リュイが扉を開けると、そこには二人の女官の姿。

 一人はいつも僕を出迎えてくれる側仕えの女官長で、もう一人は見たことのない子だ。年は僕と同じくらいか少し下といったところ。桃色の髪がよく似合う可愛らしい少女だった。

 女官長は僕を見ると恭しく礼をして口を開く。


 ―――曰く、 昨晩、何者かによって后妃さまのお部屋が荒らされたとのこと。


 幸いにも、賊は既に捕縛されている。けれど犯人はいまだ口を割っておらず、差し向けられた計画の全容は不明。

 故に、しばらくの間は王宮外への外出を控えるように、とのことだ。


 ――なんだよそれ。


 思わず眉間にシワを寄せてしまう。

 なぜそれを自分に伝えに来るのか。お忍びに対する戒めのつもりか。しかもこんな早朝からわざわざ伝えに来るなんてどういう了見だ。

 そう思うと同時に、これはチャンスかもしれないと考えてしまった。


 ――そうだ。


 これを理由にすれば逆に外に出られるんじゃないか?

 そんな考えを巡らせているうちに、もう一人の子が僕の元へやってきた。

 そして、深々と頭を下げてこう告げる。


「ご準備は整っております。いつでもお申し付けください」

 その言葉にリュイと顔を見合わせる。


 彼が頷くのを確認して、僕はにっこりと彼女に笑いかけたのだった。





 こんなに堂々と後宮を歩くのは久しぶりだった。本来なら父である皇帝以外は宦官しか入ることが許されない場所。皇太子である自分ですら父の許可が必要なこの場所は、いまは別の理由で人が溢れている。

 後宮と僕らの警備を担当する衛士たちはみな一様に青い顔をして緊張しているようだ。

 それも当然だろう。

 なにせ今回の事件の主犯は、他でもないこの僕なのだから。


 ――ああ、楽しいなあ! こんなに気持ちが昂るのは本当に久しぶりだ!


 だって今回は大義名分がある。部屋を荒らされたという妃たちの見舞いという名分が。

 そう、すべては彼女に会うための算段。本来なら近づくことも許されない、父の妻のひとりである彼女に。


 ――彼女は龍女りゅうにょなのだ。


 建国神話に登場する、導きの龍が姿を変えた女人。

 帝の寵愛を受け、国を守る存在。

 そんな彼女のことを人々は伽藍がらんの姫君と呼び、尊ぶべき者として敬っている。だから彼女の部屋には、帝以外の誰も近づけてはならないのだ。

 彼女の身になにかあっては、国の一大事になるのだから。

 そんなことはわかっていた。

 でも、それでも僕は彼女と会いたかったのだ。一目見て運命と知った彼女。籠の中に閉じ込められたかわいそうな龍の姫。

 僕が救わなければ。

 僕だけが彼女を救い出せる。僕こそが彼女にふさわしい。そう思ってやまない。

 数々の障害も天が僕を試しているに違いないのだ。彼女を救い、王に相応しいかどうかを見極めるために。


「殿下。お顔を引き締めなさいませ」


 リュイの言葉にハッとする。いけない。つい思考に没頭してしまっていた。

 慌てて表情を取り繕い、足早に進む彼のあとを追う。


 ――そして、ついに辿り着いた。


 後宮の最奥に位置する一室。

 そこに彼女はいる。

 部屋の前には事前に到着を知らされている衛兵たちが数人立っていた。彼らは僕たちの姿を確認するなり、すぐに扉を開けて中へと促す。


「……」

「殿下」

「わかってる」


 リュイの声を無視して内へ踏み込む。

 そこはまるで小さな庭園のような場所だ。色とりどりの花々に囲まれて中央には噴水があり、石畳の道の先には大きな寝台が置かれている。

 明らかにほかの後宮妃とは違う、特別に手厚い待遇。それはすべて彼女のためにあるのだ。


「……誰だ?」


 凛とした声が空気を揺らして響く。

 視線を向けた先にあったのは豪奢な寝具の上に横たわった女性だった。後宮のなかではまだ若い、齢三十にも届かないくらいの瑞々しさをまとった娘。

 美しい黒髪を波のように広げ、薄衣のみに白い肌を晒したその姿は、まさに神が創り上げた至高の美そのもの。

 彼女が伽藍の姫君――その名を応翠おうすい。皇后でも上級四妃でもなく、ただひとりの存在として後宮の頂点に立つ者。

 息を呑む。待ち望んだ光景がそこにある。

 けれど同時に、どこか違和感を覚えた。

 それがなにかわからないまま、気づけば彼女の足元に跪いていた。


「お久しぶりです、我らが国母、応翠様。当代帝が第一の皇子、完燦かんさんがご挨拶に参りました」


 恭しく礼をする。すると、すぐに返事が返ってきた。


「……ああ、完燦。あの丹皇后の子か。しばし見ぬうちに大きくなったな。よい、面をあげなさい」


 鈴の音のように可憐でいて、そよ風のように優しく、それでいて芯のある声音。

 その声に導かれるようにして顔を上げると、そこには想像していたよりもずっと穏やかな笑みがあった。

 慈愛に満ちた瞳がこちらに向けられている。まるで実の母のように。

 ああ、そんな目でみないでほしい。僕があなたに向けている情を知らぬわけはあるまいに。

 けれど、ここで引くことはできない。

 いまは従順に、そして慎重に振る舞わなければならないときなのだ。

 僕はゆっくりと口を開く。

 そして、いま最も欲しいものを手に入れるために、まずはこの場を乗り切ろうと動き始めたのだった。



***



 外部の喧騒で目が覚めた。

 いったい何ごとだろう。本来なら訪れることなどないはずの王宮衛士たちが女官に付き添われながらバタバタとあちらこちらに移動しているのが窓から見えた。

「……男がいるなんて、許されないんじゃなかったのかしら」

 寝台の上で大きく背伸びをしながら息をつく。正直まだ眠い。昨晩のこともあって気を利かせてくれた侍女たちが朝礼後は昼近くまで眠らせてくれていたのに、こんな騒ぎで起こされてはたまらないじゃないか。

 とはいえ、このまま寝ていても仕方がない。仕方なく起き上がり、軽く身支度を整えて部屋を出る。

 すぐそばで忙しなくしている女官のひとりを呼び止めて尋ねた。


「なにかあったの?」

「あ、姫さま!」


 彼女はわたしの顔を見るなり、目を輝かせた。


「よかった! 姫さまもいらっしゃいましたね! 実はいま、大変なことが起きているんです! 姫さまのお耳に入れておきたいことがあるのですが、いまよろしいでしょうか⁉」

「え? 大変って……」

「なんと皇太子さまが正式に後宮訪問なさっておられるのです!」


 ――皇太子が、後宮に。


 それは確かに大事件だ。

 後宮に皇太子が訪れるなど、本来ならあり得ない。入り口で顔を見せることだけならあるのだが、いくら皇帝の子とはいえ男性である以上彼も相応の理由と直々の許可がなければ足を踏み入れれば厳罰に処される。

 しかし、よりによってこのタイミングで。


 ――どうしよう。


 嫌な予感がする。

 だって、昨日の今日だ。あの茶会で囁かれている噂。誰に会いに来たかは知らないが、万が一自分に会いに来たなんてことを言われては、さすがに無視できない。

 いや、そもそも彼は本当に会いに来てくれたのだろうか。

 あれ以来、一度も顔を見せていないというのに。


「……いや、さすがにそれはないか」


 とすれば、もしかすると、やはりあの話は本当なのか。

 朝礼の際に知らされた事件。龍宮妃たちに被害はなかったが、後宮に賊が入り込んだという話。

 それが事実だとしたら――彼が、龍宮妃たちを助けようとしてくれたのではないか。


「……まさか、それもないわよね」


 自嘲気味に呟く。

 仮にそうだとしても、それではあまりに都合が良すぎる。きっとなにか別の目的も存在するに違いない。龍宮妃たちの間で広まっているあの噂だって、けっきょくは彼の本命を隠すための偽りに決まっているのだし。

 そう思うのに、なぜか胸の奥がざわついて落ち着かない。

 もし、もしもだ。


 ――彼が、本当に自分のところへ来てくれたとしたならば。


 自分はいったいなにを言うべきだろう。どんな顔をすればいいのだろう。

 わからない。

 わかるわけもない。

 目を輝かせている女官に肩をすくめて息をつく。


「……龍宮にはいらっしゃるのかしら」

「ええ、ええ! きっとお見舞いにいらしゃいますわ。すぐにでも準備をはじめましょう!」


 やっぱりそうなりますよね。

 わかっていたけれど気が重い。

 でも、彼が来るならば会わないわけにもいかないのだ。


「わかりました。すぐにでも取りかかるから、あなたたちも手伝ってちょうだい」

「はい、姫さま!」


 元気よく返事をする彼女とともに歩き出す。

 とりあえず準備は済ませておかなくてはいけない。彼女が呼び集めた侍女たちにてきぱきと仕上げられて、化粧から着替え、髪結いからお茶の準備に至るまで滞りなく行われていく。きっと私以外の龍宮妃たちも同じように、彼の訪れを心待ちにして用意を進めていることだろう。

 すべては、いつ彼が訪れても良いように。

 やがて、すべての支度が整うと、女官が恭しく告げた。


「姫さま、皇太子殿下がいらっしゃいました」

「……わかった」


 覚悟を決めるしかない。

 ゆっくりと深呼吸して立ち上がる。

 そして女官に案内されて向かった先、昨日龍宮妃たちのお茶会が行われた庭園へ導かれる。

 そこにはすでに他の龍宮妃たちが勢揃いしていた。さい姫、えん姫、姫、それに――昨日はいなかった下級妃たちまで一堂に会し、その中心に見慣れない様相の彼が佇んでいる。


「ああ……殿下、いらっしゃいましたわ。貴方様の最愛のお方が」


 蔡姫の声に一斉に視線が向けられる。姫たちだけでなく、涼しげな目元がすうっと動き、私の姿をとらえた。


「――やあ、藍晶らんしょう姫」


 張り付けられた笑顔がこちらを見る。

 なんだ、やっぱり彼は変わっていない。猜疑と欺瞞と明らかな攻撃性を伴った内側を、綺麗に繕ったパッチワークで隠しているだけ。

 だから、こちらも微笑みを浮かべながら口を開いた。

 まず、なによりも先に。

 この場にいる全員の前で、はっきりと宣言しておく必要があると思ったからだ。 


 私があなたの寵愛を受けているという噂について、説明していただけます?



第五話、了。

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