第4話 ちいさな手

 それから数時間後。

 そろそろ日も暮れる頃になって、私はようやく解放された。


「疲れた……」


 自室に戻った私はぐったりとしていた。

 こんなに長時間人と話すのは初めてかもしれない。それも、あんなに大人数で。

 実家ではつねに引きこもって家人くらいとしか話さなかったぶん、緊張の連続で、精神的疲労も大きかった。


「はー……」


 私は寝台の上に寝転ぶ。

 いつもよりずっと身体が重い。今日一日のことを考えると、無理もないと思う。


「……」


 天井を見上げながら、私はぼんやりと考える。

 あの噂と、姫たちの真意がどこにあるのか。皇太子の変化が起きた理由はなにか。考えれば考えるほど、思考は深みへとはまっていく。


 ――ああ、だめ。


 このままでは頭がおかしくなってしまう。

 私は一度頭を振って、気分転換のために外へ出ることにした。女官たちは既に下がってもらっているから、散歩をするにしても部屋の周りをぐるっと回る程度のものだけれど。

 外はすっかり夕焼け色に染まっていた。もうすぐ陽が落ちてしまうだろう。

 私は裾を引きずらないように注意しながら薄暗い回廊を歩く。

 すると向こう側から誰か歩いてくる気配を感じた。


「――あれは」


 思わず声を上げる。

 視線を向けた先にいたのは、先ほどの茶会で顔を合わせたばかりの少女――えん辛桃しんとうだった。彼女は私の存在に気づくと驚いた様子で目を丸くする。

 五夫人のなかでもっとも若い、幼いともいえる齢の娘は人目もはばからずこちらへ走り寄ってきた。


「法姫さま!」

「袁姫様、どうしてここに」


 この場所は私の自室に近い場所。彼女の自室からはずいぶんと離れているはずだ。当然彼女はいままで一度もこの辺りに来たことはなかったし、そもそも自分の領域以外でひとりきりで行動できるような立場の子ではない。

 いったいなにがあったのか。そう思い尋ねてみれば、彼女は嬉々として答える。

 その表情はとても晴れやかだ。

 まるでなにかに吹っ切れたような清々しい笑顔で私に微笑みかけてきた。


「法姫さまを、もうすこし見ていたくて。お邪魔にならないようこっそり抜けだしてきたんです」


 悪びれずに言う彼女に、私はつい苦笑した。

 きっと彼女なりに悩んだ末の行動なんだろう。でもまさかここまでひとりで来るとは思わなかった。

 袁姫は上級妃のなかでも最も若い。齢は十かそこらの幼子だ。お化粧だってまだ早いくらいの年頃なのに、そんな彼女が大人びた仕草をしていることに少しだけ違和感を覚えた。

 とはいえ、もともと利発そうな子だし、もしかしたら見た目よりもずっとしっかりしているのかもしれないけど。

 それでも心配になる気持ちは変わらない。

 だから私は念のため、釘を刺しておくことにした。

 いくらなんでも無防備なのだ。私自身が遭遇した命の危機もある。彼女を狙う者でなくとも、巻き込まれないとは限らないのだから。


「ありがとうございます、袁姫様。しかしおひとりで出歩かれるのはやはり危険です。せめて侍女を二人はつけてくださいませ。わたくしはあなたがいつ訪れても迷惑だなんて思いませんから、どうか御身を大切に思ってください」

「……はい、申し訳ございません」


 袁姫は素直にうなずく。

 私は気を取り直すと、改めて彼女と向き合った。


「それで、なにかご用事ですか?」

「ええ、あのね、法姫さまにふたりでお会いしたかったの。わたしの姉さまと同じくらいのお年でしょう? 恥ずかしい話なのですけど、わたし、お家が恋しくて……どうしても寂しいときは法姫さまのことを思い出しては元気づけていたのです。先日は遠目からしかお伺いできませんでしたけど、今日はこんなに近くで会えたからうれしくって」

「まあ……」


 どうりで、彼女の視線は他の姫たちと違うと思ったのだ。

 茶会の最中もあまり話に加われなかった袁姫は、きっと後宮のなんたるかをまだよく理解できていない。この年齢で身内に無理やり押し込められた世界だ。兄弟姉妹と離されて縋る相手もいない場所で、どんなに寂しい思いをしていたか。

 私は納得すると、彼女を安心させるべく微笑んだ。


「わかりました。いつでも遊びに来てくださいませ。あなたがわたくしに会いたいと思ってくださっているうちは、喜んで相手をさせていただきますよ」


「ほんとう? 嬉しい!」


 袁姫は本当に嬉しそうにはしゃぐ。

 その姿はまるで子供そのもので、私は思わず笑みを深めた。たった一人の娘である私に弟妹はいないけれど、彼女を妹に持つ姉はきっと心から彼女を愛して心配しているのだろう。


「そうだ! ねえ、法姫さま。ひとつお願いがあるのですが」

「はい、なんです?」

「その……手を、つないでもいいかしら?」


 はにかみながら聞いてくる彼女に、私は一瞬戸惑う。


 ――手をつなぐって、私と?


 驚いてまじまじと見つめると、袁姫は眉を下げてしゅうんとしぼんでしまった。


「だめならいいのです。やっぱり不躾、ですよね。忘れてください」

「いえ、そういうわけでは」

「ごめんなさい、ずうずうしくて……」

「謝らないでください。驚いただけです。もちろん構いませんとも」

「……ほんとう?」


 袁姫の顔にぱっと笑顔が広がる。

 彼女は私よりずっと背が低い。屈んで視線を合わせると、すぐに小さな手が触れてきた。


「ふふ」


 子どもらしいもちもちころんとした手。それはとても温かく心地よくて、家族というもののぬくもりを思い出す。


 ――ああ、そういえば。


 昔、同じようなことがあった気がする。

 あれはいったいどこだっただろう。


 ――そうだ。


 あれは、そう。私がまだ袁姫と同じくらいの年のころ。

 父に連れられて初めて王宮へやってきたときだった。

 そのときもこうして、父と手を繋いでいたっけ。

 父はなにも言わずに私を連れて歩き、私はただその大きな背中を見上げていた。父の顔は見れなかった。普段とまったく違う様子がまるで別人みたいで、なんだか恐ろしくて心細くて、私は背中だけを見ていた。

 そんな私の視界の端に映ったのは、父の隣を歩く美しい少女の姿。

 おそらく十代も半ばくらいの少女。彼女の瞳は不安げに揺れていて、手はわずかに震えていた。

 でも、決して目を逸らすことはない。

 きっと彼女もこの世界に入ることを恐れていたのだろう。でもそれでもまっすぐに踏み出したのは、きっと心の底からの勇気を振り絞ってのことだったに違いない。

 だって彼女は、この国の頂点に立つ皇帝陛下の妻になるひとなのだから。

 私はそんな彼女の姿をみて、この国の厳しさと女性の強さを知ったのだ。

 ああ、彼女の顔をはっきりと思い出すことができない。まだ生きているのなら、同じ後宮で過ごしているはずだけど。


 ――お話をしてみたかったな。


 そんなことを思いながら袁姫の手を握る力を強める。

 すると彼女もまたぎゅっと握り返してきた。


「ありがとうございます、法姫さま」

「こちらこそ」

「わたし、もっとがんばりますね」

「ええ、わたくしもがんばります。さみしくなったら袁姫様とのお時間を思い出しますわ」

「はい! ぜひそうしてくださいな」


 私たちは笑い合う。

 そしてどちらからともなくそっと手を離すと、私たちの間に流れる空気はとても穏やかなものになった。


「――さあ、もう夜が近づいています。侍女たちを呼びますから、お戻りになりましょう」

「……はい。ありがとうございました、法姫さま」

「こちらこそ、袁姫様」


 私は立ち上がり、改めて頭を下げる。

 袁姫もふわりと笑って同じように礼をした。

 彼女が回廊から出ていくのを見送る。

 開かれた扉の向こう側、後宮へと続く道で心配そうに待つ女官たちが見えた。

 彼女たちに付き添われ、袁姫はゆっくりと歩いていく。

 何度も振り向いて名残惜しそうにする彼女がやがてその背を曲がり角の向こう側に消したころ、ようやく私も息をついた。


 ――私も、帰ろう。


 ほんのりとあたたかくなった胸の内。

 今日はよく眠れそうだ。



***



「……ねえ、リュイ」

「はい、殿下」


 そばに控える侍従に酒の入った杯を傾ける。


「あの女たち、いま何してると思う」

「後宮内のことは一侍従には分りかねますので、お言葉は控えさせていただきます」

「…………」


 素っ気ない返事に僕はむっとする。


「おまえさあ、僕にもう少し優しくできないの?」

「申し訳ありません」

「悪いと思ってもないくせに」

「思っていますよ。ですがそれが仕事なので仕方がないかと」

「ちぇー」


 リュイは昔から変わらない。

 物静かで口数も少なく、いつも冷静で淡々としていて、だけど必要なことは必ず口に出す。

 そんな彼が、僕のお気に入りだ。

 彼はいつだって正しくて、僕が正しいと信じることを肯定してくれる。そして間違っていることは訂正して、道を逸れれば教えてくれるのだ。

 だから彼の言うことはいつだって正しい。


 ――でも、それは。


 それこそが、王にとって最も大事な資質であるということを、きっと彼だけは知らない。

 なぜならそれは、この国では、決して求められることのないものだからだ。


 ――ああ、退屈だ。


 毎日のように繰り返される王宮での暮らし。贅沢をすることだってできるし、ほしいものは何だって手に入る。そんな立場にあってなお――いや、その立場にあるからこそ、この渇きは決して満たされることがない。

 そう、これっぽっちも。


 ――つまらない。


 後宮という場所は、ひどく窮屈だった。

 そこでは誰もが顔色を窺って、本音を隠して生きている。

 誰ひとりとして心からの笑顔を見せることはなく、みな仮面を被っているかのごとく笑みを浮かべていた。

 僕の母であるたん皇后も同じ。父の愛を手放さないように、弱った身体に鞭打って生きている。

 そんな彼女に対して、誰も同情していないわけではない。むしろみんな彼女のことを憐れんでいて、だからこそ表立って彼女を非難できずにいる。いまでも正妃の座を狙い続ける上級四妃だって、その様子をみているからこそ、あまりに憐れな彼女に強く出られないのだ。

 なんて馬鹿げた話だろう。

 権力争いなどくだらない。

 こんなものになんの意味がある? 誰がどう動いたところで、結局はなにも変わりはしない。

 どうして、この国は変わらないんだろう。


 ――きっとこのまま腐っていくだけだ。


 聡明だと謳われる父だって、蓋を開けてみればただの人。欲に生きて、欲に溺れて、佞臣ねいしんが誰だかわかってもいない。

 そんな奴らにいつくいを求める自分もまた愚かしい。

 そう、なによりも一番腹立たしくて許せないのは――そんな無能な男たちに従って生きるしかない自分自身だった。


 ――誰か、助けてくれないだろうか。


 そう願うようになったのは、いつの頃からだったろう。

 最初は小さな願いだった。幼い心がその世界に気づいてしまったのが始まり。でも、一度抱いた望みは日に日に大きくなって、いつしか抑えきれないほどになっていた。

 そしてあるとき、その願望は唐突に叶ったのだ。


『――あなたは、だれ?』

『私は、――――』


 そう言って彼女は微笑む。

 その瞬間、僕は彼女こそ運命だと理解した。そして同時に、彼女以外に自分の心を満たせる者はいないと悟ってしまった。


 ――ああ、彼女さえいれば。


 彼女は何も言わずともわかってくれる。

 僕の心の内を理解してくれて、僕のために動いてくれる。

 僕が欲しいものをすべて与えてくれる。あの建国伝説の龍女の如く、王となる自分を導いてくれる。

 だから彼女さえいればいいのだ。龍宮なんてくだらない。後宮なんて意味がない。彼女がいなければ、すべてが虚しくなるだけなのだ。


「殿下、そろそろお休みください」

「え~」

「ええ、ではありません。お時間です。明日も早くにお声かけいたしますよ」

「はぁい……」


 リュイに叱られ渋々寝台に入る。

 するとすぐに睡魔に襲われて瞼が落ちてきた。冷え切った毛布のなかなのに、彼女を想うと不思議とあたたかくて心地いい。


「……殿下」

「んー?」

「どうかご安心なさってお眠りください」

「……うん」

「ここは安全でございます。私が必ずお守り致します」

「……」

「――おやすみなさいませ」


 心なしか穏やかなリュイの声をききながら、ふわりと浮かぶ意識に任せてそのまま眠りについた。



第四話、了。

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