第2話 惨憺たる出遭い
いよいよ
朝早くから支度を終えた私はふうと大きくため息をつく。
これから、いよいよ本番が始まるのかと思うと、今更に緊張で体が強張ってくるようだった。
「……少しくらい、散歩でもしたいけど」
ひとり呟いてみるも、部屋を出るわけにはいかない。
せっかく整えてもらった化粧も衣服も、勝手に出歩いて台無しになっては女官たちの顔も立たないことだろう。
なにしろ儀式で目前にする相手はあの皇帝陛下と皇后様。さらには将来の夫となる東宮、皇太子殿下まで揃い踏みになるのだ。
正直、気が重い。
だってこれまで一度も会ったことがない人なのである。
噂では、皇帝陛下はとても聡明で素晴らしい人物。一方で皇后様は、御子を産んでからというもの病弱になりあまり表に出ることがなく、政治に関わることもほとんどない。まして皇太子殿下のことは噂すらなかなか耳にしないのだ。
そんな方々と対面して、一体何を話せばいいというのだろうか。
「……形式通りの挨拶をするだけで済ませてもらえればいいけど」
けれどもし仮に、皇帝陛下が私に対して興味を持っていたら?
きっと私の出自のことを聞いてくる。大勢の文武官と妃嬪たちのまえで、私が『珠玉の姫君』の娘だと伝えなければならなくなる。
そうなったとき、どんな反応をされるかなんて考えたくもない。
――やっぱり、憂鬱だ。
もう一度小さくため息をつけば、ちょうどその時扉の向こう側から声がかかった。
「失礼致します。本日のご予定をお知らせに参りました」
女官の声と衣擦れの音。
そしてゆっくりと開かれる扉。そこから顔を覗かせたのは
彼女は私の顔を見るなりほっとしたような表情を浮かべる。
「ああ、よかった。お加減が悪いわけではないんですね」
「大丈夫です。それより……今日の予定って?」
「はい。一通りは昨晩ご説明した通りでございますが、もう一度確認をと思いまして」
彼女の気遣いにほっと胸をなでおろす。記憶力には自信があるほうだが、やはりこうして何度も確認ができるのはありがたい。
「ありがとう。ではお願いします」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げた陶は、今日一日の流れを説明し始めた。
まずは朝の儀。これは後宮の妃嬪が全員参加するものだが、私は入内の儀が済んでいないので今日のところは免除されるそうだ。
昼前になったら
そのあとは昼食をとりながら歓談、その後に龍宮妃のみが集まる茶会に参加して夕方まで過ごす。
ざっとこんな感じらしい。
「……以上となりますが、何か質問などありますでしょうか」
「そう、ですね……」
うーんと考えるふりをしながらちらりと窓の外を見やる。
早くに起きてしまったこともあり、まだ夜明けからそれほど時間が経っていない。朝の儀が免除されるのであれば、私は入内の儀まで暇を持て余すことになってしまう。
――どうしよう。散歩でもできればいいんだけど。
それを思案していれば、陶はすぐに察してくれたようだ。
「それならば庭園散策はいかがでしょう? 今はまだ早い時間ですし、庭師たちが手入れをしている最中なので見られるものは少ないかもしれませんが」
「……よいのですか?」
「はい。この時間であれば朝露が輝いて美しい様子が観られましょう。それに……ぜひ見ていただきたいのです。これから過ごす世界を、少しでも身近に感じていただくためにも」
ふっと陶がはにかむ。彼女の言葉を受けて、私は嬉しさを感じるとともにそっと視線を落とした。
それはつまり、窓から見える景色だけでなく後宮の世界そのものを見てほしいということなのだろう。
確かに、私にとってここは未知の世界だ。
だから本当は少し怖い。知らない場所で過ごすことにも、多くの人と関わることに対しても。……だけど、期待している自分がいるのも事実だった。
「では、案内してくださいますか」
「もちろんです」
陶も優しく微笑んでくれる。
――うん、大丈夫。
私はきっとうまくやれるはずだ。だって私は、『珠玉の姫君』の娘なんだから。
◆
陶に連れられて向かった先は、庭園の一角にある小さな池のほとり。
先客もいない静かな場所だった。後宮の外周を囲む壁がすぐそばにあるところをみると、ここは本当に最も外側にある場所なのだろう。
「……静かですね」
「はい。こちらであればほかの姫さまがたもめったに訪れませんから、ごゆるりとお過ごしになられるかと」
私の言葉に応えてくれたのは、先導してくれている陶ではなくその後ろについてきてくれている私付きの女官長だった。
名前は、たしか
そして、そんな彼女の背後にはさらに二人の女官がついてきている。彼女たちは私の化粧道具を持ってくれていて、万が一化粧が落ちたときにすぐに直せるように準備をしてくれているということだった。
さすがにそこまでしてもらうのは気が引けるのだが、彼女たち曰くこれもまた仕事のうちなのだとか。
――……やっぱり、落ち着かない。
普段と違う状況に緊張してしまうのは仕方がないとはいえ、やっぱり気疲れするものだ。私は小さくため息をつくと、気持ちを切り替えるように陶へと顔を向けた。
「ここで、朝礼が終わるまで待っていてもいいのでしょうか」
「もちろんです。ここなら誰にも邪魔されませんので、お好きなだけご覧になってください」
「ありがとうございます」
「いいえ、とんでもないことです」
ふわりと笑う陶につられて笑みを浮かべる。
すると、そのタイミングで池の方から水音が聞こえてきた。何かが跳ねたか、木の実でも落ちたのだろうか。そう思って視線を向ければ、池の上にはなにかその景色には似つかわしくないものが浮かんでいた。
あれはなんだろう。手拭いのような、襟巻きのような、長方形の布が先端になにか括りつけられた状態で浮かんでいる。
「……なんでしょう、あれ」
「え?」
私の疑問に陶と茜も池へ視線を向ける。そして、三人揃って目を丸くした。
そこにあったのは、予想通りの手拭いと襟巻のようなもの。ただしそのどちらも真っ黒に染まっていた。
さらによく見れば、その近くには人の頭が水面に浮かび上がっているのが見える。
「ひっ!? 人……っ!?」
思わず揃って悲鳴を上げる。
誰かが壁を乗り越えて、さらには池に落ちたのだ。しかも、あの様子だと溺れてしまっているかもしれない。
「ど、どうしましょう……!」
慌てる茜たちはあまりの驚きに足がすくんでしまっている。
私は驚きはしたものの、次の瞬間には袖と裾をまくって池へ入ろうとしていた。
そんな中、陶だけが冷静に口を開いた。
彼女が口にしたのは意外な言葉だった。
「お待ちください。どうかそのまま動かずに」
助けに行かなくていいのか、と問おうとした私はしかし、次の瞬間に目を見開いた。
――だって、目の前に突然人が姿を現したからだ。
そう、文字通り空中から降ってきた。池に落ちた誰かときっと同じように、壁を乗り越えてそれは現れた。
頭に浮かぶのはいくつもの疑問符ばかり。
「……え?」
それは一瞬の出来事。
空中から現れた人物は、音もなく静かに着地をした。まるで鳥が羽ばたくかのように軽々と、体重のなんたるかを知らないかのように。
そして驚く私たちのことなど気にすることなく、彼はまっすぐこちらへ向かってきた。
(……だれ?)
それが第一印象だった。
歳は私の少し下くらいだろう。背が高く体格も良い。濃い茶色の髪に明るい橙の瞳、精巧な人形のように整った容姿をしているが、どこか表情は幼くて子どものような無邪気さを感じる。
「……あなたは」
「はじめまして」
呆然と見つめていれば、不意に声がかけられた。彼の口から発せられた言葉に驚いて陶を振り返れば、彼女はなぜか顔を強張らせていた。
「……どうしてここに……」
絞り出すような声で陶が呟く。その声に、彼が本来ここにいてはいけない人物であることは容易に想像がついた。
そもそもここは最も端に位置するとはいえ後宮だ。帝以外の男性が訪れるのはまず禁忌とされる場所。男性機能を喪失させた宦官ならまだしも、目の前にいる彼のような武人ともとれる人物が入っていいところではない。
――なのになぜ?
「――……あぁ、なるほど」
そんなことを思っていると、ふと、彼は納得したように声を上げた。
そして私に向かって恭しく頭を垂れると、そっと右手を差し出してきた。
「お初にお目に掛かります、龍宮第四妃殿。なに、鼠が一匹おりましたもので……すぐに駆除いたしましたから、ご安心ください?」
その瞳に宿るのは冷徹な光。
ぞわり、と全身が粟立った。
「……ま、待ってください」
慌てて止めようとすれば、背後に立っていた人物に遮られる。
それは先程まで陶の後ろに控えていたはずの茜たちだった。
「姫さま! いけません、すぐに離れてください!」
ぐいっと腕を引っ張られて体勢が崩れる。けれど、倒れる寸前に茜が支えてくれたおかげでなんとかその場に落ちずに済んだ。
「大丈夫ですか?」
心配そうに尋ねてくる彼女に頷く。それよりも、今の状況の方が気になる。いったい何が起きようとしているのか、まったく理解できない。
混乱する中、私を助けてくれている二人の女官の後ろで陶が小さくため息をつくのが聞こえた。
「……余計なことをするんじゃないよ」
「お黙りなさい。いくらなんでも、この地を踏むことはまだ許されていませんよ」
「ふん。相変わらず頭の固いやつら」
吐き捨てるように言う彼に、茜が眉根を寄せながら言い返す。
「そういう問題ではありません。それに、許可なくここへ侵入するなど貴方様であっても言語道断です」
「はっ、なにをいまさら。ここの警備はザルすぎるんだよ。暗殺者ひとりだって、お前たちに止められたの?」
「っ……それは」
茜の言葉に、今度は彼が鼻を鳴らした。
そうして再び私の方へと視線を向ける。その鋭い眼差しに見据えられて思わず身構えれば、彼は小さく笑みを浮かべて口を開いた。
その笑みはひどく妖艶で、同時に恐ろしさを感じさせるものだった。
「きみがどんな場所に足を踏み入れたか、理解できた?」
「……どういう意味でしょうか」
「わからないかな。じゃあ言い方を変えようか」
一歩、二歩。
ゆっくりと近付いてくる彼に対して、私は思わず後ずさった。
「この国の中枢。将来を決める場所。ここの女たちはみな皇帝の子を産むために存在している。――きみはいま、殺されかけていたんだよ。あの池に浮かんでいる、どこかの貴族が雇ったならず者にね」
―――……え?
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
しかしすぐに、私の脳裏には池に浮かんでいた黒い布と人の頭が思い浮かんだ。
この人の言葉がほんとうならば、つまり、そこに存在していたのは。
「……うそ」
無意識のうちに震えた声が唇からこぼれる。
「嘘じゃない。あいつはおそらく、金さえ払えばなんだってやる連中だったはずだ。実際、きみは狙われていたし、そのせいで他の妃嬪も危険に晒された。場合によっては死ぬよりつらい目に遭ってたかもね?」
淡々と語る彼の言葉が鼓膜に響く。
頭の中でぐるぐると思考が渦巻いて、それがやけに遠く感じる。
――でも。
それではおかしい。
だって、私は。
「……私は、ただの、龍宮妃ですよ……? 皇后さまとは、身分が違うのに」
「だからなに? それがどうしたのさ」
「え……?」
「ここは後宮だ。誰が主上に目をつけられるかわからない。手をつけられれば、子を産めば皇后になる可能性だってある。皇后だって、主上からの愛が薄れれば没落なんてあっという間。可能性の芽をつぶそうとすることなんて当然だろ?」
「そんな」
「それにきみがたとえ下級妃であったとしても、周りからどう思われるかなんてわからないんだよ。後宮に住まう者たちはみぃんな平等。たとえ皇族でも、後宮の中では誰よりも弱い立場にあって、いつ狙われてもおかしくはないんだ」
彼の声が耳を通り抜けていく。
まるで水の中にいるみたい。息を吸っても苦しくて、うまく言葉を発せない。
「――……それでも、こんなことが許されるわけがない」
ぽつりと、陶の声が響いた。
彼は顔を上げ、まっすぐに目の前の人物を見つめると、その表情に怒りの色を見せた。
「お前は本当に融通が利かないね。命を助けたんだ、褒められたっていいくらいだろう?」
「ふざけたことを言わないで。ただでさえ踏み入れたことが禁忌だというのに、流血沙汰ですって? 後宮をなんだと思っているのよ!」
「おー、怖いこわい」
「茶化さないでちょうだい! ……貴方、自分が何をしているのかわかっていて?」
「もちろん。僕は僕なりに最善の選択をしたつもりだけど?」
「…………」
「そんなに睨まないでくれないかなぁ。別にきみたちにとって不利益なことは何もしていないだろ? 暗殺者は退治されて、僕の姿はきみたち以外誰にも見られていない。きみたちが黙ってさえいれば、これはなかったことになるんだよ?」
ねえ、と首を傾げる彼に、陶たちは顔をしかめた。
確かに、彼の言うことは間違っていない。
けれど、私にとっては大きな問題だった。
私のせいで人が死んでいたかもしれない。それは紛れもない事実だ。
「……私が、ここに来たから」
ぎゅっと胸の前で両手を握る。
「私が、いたから」
そうだ。
きっと、私がここに来なければこんなことにはならなかった。
「……姫さま」
「ごめんなさい。私、の、せいで、みんなを危険に晒してしまった」
「いいえ。貴方様のせいではありません」
茜たちが背を擦ってくれた。体は震えて、喉がぎゅっと絞られるような心地になってしまう。
目の前にいる彼はそんな私をみて眉を顰めた。
「馬鹿じゃないの」
「っ、ちょっと!」
「きみがいようがいまいが関係ないんだよ。こんなの後宮じゃあ日常茶飯事なの。思い上がらないでくれる?」
心底呆れたようにため息をつく彼に、私は目を大きく開いた。
茜が何かを言いかけるのがわかったが、私はそれを遮るようにして首を振った。
「……助けてくださって、ありがとうございました」
私は深々と頭を下げた。その行動に驚いたのは彼も同じようで、戸惑っている
のがよくわかる。
「……急になんの真似?」
「私の不注意で危ないところを助けていただいたこと、感謝しています。貴方のおかげです」
「……きみさ、まさかとは思うけど、僕のことを知らないのかい?」
「存じ上げません。申し訳ありませんが、どなたでしょうか」
そう告げれば、彼が言葉を失ったのが分かった。
困惑する彼がなにかを言う前に。
「……失礼します」
私はもう一度頭を下げると、彼の横を通り過ぎた。
振り返ることなく、そのままその場から立ち去る。
背後から私を呼び止めようとする声が聞こえたけれど、それに応えることはしなかった。
急いだ様子で陶と茜、それに二人の女官が追いかけてくる。やけに長く感じる帰路を進みながら、私はひたすらに考えた。
あの人は何も知らなかったのだろうか。私のことを龍宮第四席と知っているなら、私が法丞助の娘であることも知っていたはずなのに。
――いや、そもそも、あの人はいったい何者なのか。少なくとも宦官でないことは確かだと思うのだけど。
疑問がぐるぐると頭の中を巡る。陶たちに訊ねようか。けど、でも。
しかしいくら考えても答えは出ず、私は小さく頭を振った。
ついさっき出てきたばかりの部屋に戻り、椅子の代わりに寝台へ腰を下ろす。
「お疲れでしょう。すぐに湯浴みとお着換えの支度をいたします」
「お願い」
短く返事をすると、茜たちは深く一礼してから出て行った。
室内には私一人だけになる。
「……」
そっと胸に手を当てれば、鼓動が速くなっていた。
殺されかけたという事実だけではない。彼の言葉が、どうしようもなく私を傷つけるのだ。
『――……きみがいようがいまいが関係なく、こんなの後宮じゃあ日常茶飯事なの』
「……っ」
ぎゅうと心臓が締め付けられる。
その痛みに耐えられず、私は寝台に横たわって身を縮めた。
脳裏に蘇るのは、先ほどの光景ばかり。
池に浮かんだ誰かの頭。冷たく見下ろす彼の視線。
彼は確かに言った。
「私がいたから」
後宮では日常茶飯事だと。
でも、それはつまり、ああいうことが、死と常に隣り合わせの生活が、これから続いていくということ。
「……」
怖い。怖い怖い怖い。
あんなことが、これから何度も起こるというのか。
「……帰りたい……」
ぽつりと、そんな言葉が零れ落ちた。
ずっと我慢していたのに。こんなところで泣くわけにはいかないと思っていたのに。
一度口に出してしまえば、もう止められなかった。
ぼろりと涙が頬を伝っていく。嗚咽を殺すように、口元に手をあてた。
――お父さん。私、ここに居たくない。
そう思った。母がいたはずの世界がこんなに恐ろしいところだったなんて。
こんなところに母はいたの? こんな世界に、父はいるの?
私が母の子だから? 私が父の娘だから?
こんな場所に、父も、母も。
そう思ってしまうと、怖くて仕方がなかった。
――帰りたいよ。
――家に帰らせて。
ここに来るまで、一度も願わなかった願いを、今さら強く望んでしまう。
けれど、それが叶わないことを知っているからよけいに、悲しみと絶望だけが波のように押し寄せる。
「……おかあさ、ん」
胸のあたりを押さえて、必死で耐えた。
ここで泣けばきっと、私は本当に帰れなくなる。
そんな気がした。
◆
ぼうっとした頭で湯を済ませて、女官たちが施すままに着替えと化粧を変えた。
髪を結われ、薄く紅を差して鏡台の前に座らされる。
女官たちの手によって整えられていく自分の姿を見ながら、私はぼんやりと思考に耽った。
あの人の言う通りだ。
ここは、私の知る場所じゃない。
私の居場所じゃない。
ここには私の味方はいないし、私が安心できる場所なんてない。いくら実家のあの部屋と同じ形に揃えても、そこに安全地帯なんて存在しないのだ。
だってここでは、私がただの私でいることなんて許されないのだから。
「……姫さま」
「大丈夫です」
「……何かございましたか?」
「いいえ。なんでもありません」
心配そうに声をかけてきた茜たちに微笑む。上手く笑えたか自信はないけど、彼女たちに心配をかけるのはいやだった。
もうすぐ龍宮入内の儀が始まる。
私はこの日のために準備された衣装に身を包み、儀式用の髪飾りを挿して立ち上がった。
「行きましょうか」
「はい」
陶を抜いた三人の女官と共に、広間へ向かう。
扉の前で待っていた護衛官が私の姿を認めると、恭しく頭を下げた。
ゆっくりと開かれた扉の向こうに大勢の人々が集まっている。
後宮と龍宮の妃嬪。文武両官。玉座には、皇帝陛下と皇后様。
ざわめきが聞こえるのに、不思議と静寂に包まれているような不思議な空間だ。
私は一歩を踏み出した。
その瞬間、空気が変わるのを感じる。
――さあ、ここからが本番だ。
気を引き締め直し、まっすぐに前を見据える。背を伸ばして、胸を張って、堂々と。
私は、龍宮五夫人の一人として、この場に立つのだから。
「……これより、龍宮第四妃、
朗々と響く声が厳かに宣言する。
皇帝陛下が立ち上がり、一段高い壇上へと上がった。
「我が后、
周囲からはっと息を飲む音が聞こえた。
視線を向けると、そこには揺籃の妃と称される姫、
彼女は優雅な仕草で立ち上がると、私に向かって小さく手を挙げてひとつ頷いた。
それに合わせて、私も礼をする。
さあ、ここが正念場だ。
これから私は後宮内の争いに巻き込まれていくことになるだろう。
そしてそれはおそらく、避けられないものになる。
でも、それでも。
私は負けられないのだ。
私は、父の名にかけて、必ず生き残ってみせる。
そのためにも、まずはこの入内を成功させなければ。
私は大きく深呼吸をして、再び顔を上げた。
視線の先にひとりの男性がいる。
その人は私を見て不機嫌そうな表情を隠そうともせずにこちらを睨んでいた。
――……ああ、あの人が。
一目見てわかった。彼が私の夫となる人なのだ。
その顔には否が応でも見覚えがある。つい先刻、後宮の隅で出会ったあの青年。
彼こそが東宮。皇太子、
彼は私を憎々しげに見つめていた。
私は彼に見つめられながら、そっと目を伏せた。
――……あなたが、私を殺すのね。
ぞくりと肌が粟立つ。恐怖が蘇ってくる。
でも、もう大丈夫だ。
――……もう、覚悟は決めたから、平気。
視線を上げてまっすぐに彼を見つめる。
最悪の出会いだった。最低の邂逅だった。
これから私たちは、互いの命を削り合うようにして共に生きていくことを強要される。
誰かの前でともに笑い合いながら、誰もいないところで互いを疑い続ける。そんな日々を送ることになる。
それが王宮に生きる者たちの人生。
決して結ばれることのない運命共同体として、私はこの世界で生きていかなければならない。
私は彼の目を見た。
猜疑に満ちた橙の瞳の奥に、微かな動揺の色が見えた。
「……ふん」
鼻を鳴らして、彼は私から顔を逸らした。
私はその横顔を見ながら心の中で呟く。
――……あなたこそ、死なないようにがんばって頂戴ね。
こうして、私の後宮での生活が始まった。
第二話、了。
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