龍宮珠玉の娘

高田あき子

第1話 龍宮珠玉の娘

 この国は成り立ちに龍が関わっている。

 のちに建国の父王となった青年は、千年の湖で龍と出逢い、玉を授かった。そしてその龍は、青年を王へと導き、建国の後は女生にょしょうの姿となって妃として王を支えたという。

 導きの龍女りゅうにょ。それはいまも歴代の妃たちが過ごす後宮の一角にある次期国母の選定場所『龍宮りゅうぐう』として名が残っている。


「――――それで、我が父上はこの嫁ぎ遅れをその龍宮へ入内させたいと仰せですか」

「ああ、そうだよ。おまえには悪いけれどね」


 粉微塵も悪いなどとは思っていない顔でつらつらと述べる父に、こちらも心にもないことをお伝えする。


「いいえ、滅相もないことでございます。この二十歳を過ぎた枯れ女を受け入れてくださるなど、身に余る光栄ですわ」


 私も今年で齢二十四。『年頃二十まで』などという、女性に対して大変失礼な文句が存在するこの国では、既に嫁の貰い手もない明らかな嫁ぎ遅れだ。

 端的に言えば女性の結婚適齢期は二十歳までであるという風説。おおよそ十代半ばには婚姻相手を見つけて家同士の結びつきを深め、その家の女主人としての自覚を強めるためであるとされている。残念ながらその風説に合わなかった私は、未だ独身のまま実家の片隅でひっそり暮らしているわけだが。

 そんな私が、何故突然後宮入りを命じられたのかといえば、それは父の策略らしい。

 私の父は王宮に仕える官吏かんり。それも筆頭として名を挙げられることもあるほどの、丞相補佐を任された最上級貴族の一員である。

 そんな父がいるからこそこうして何不自由ない生活ができていたわけであるから文句を言える立場ではないのだが、娘としてはやはり、ここまで自由にさせてくれたのだから最後までゆっくりさせてほしかったというのが本音だった。


「まあ、そう言ってくれるな。……それにしても、おまえは本当に母上にそっくりだね」


 しみじみと言う父に、思わず眉根を寄せてしまう。


「またそれですか? もう聞き飽きましたわ」

「何度でも言ってしまうものさ。珠玉しゅぎょくの姫君であったあの人のことを思い出してしまってね。……しかし、まさかこんなところまで似るとは思っていなかったが……」


 遠い目をして呟く父の言葉を聞いて、先ほどよりも更に顔をしかめる羽目になる。

 私の母は私を産んだ際に亡くなっているため顔すら知らない。けれど幼い頃より何度も聞かされてきたのだ。私の容姿は、誰がどう見ても母譲りであると。

 艶やかな黒髪に、明るい星色の瞳を持つ美しい娘だったらしい。性格も穏やかで優しく、そして聡明であったという。

 だからこそ父が私を後宮に入れると言い出したときも反対する者はいなかった。

 きっと後宮に入っても、この子ならうまくやれるだろう。誰もが口を揃えてそう言うのだ。


 そして迎えた後宮――次代の皇后を選ぶための龍宮入りの日。

 見慣れた自室から出て、初めて目にしたそこはまさに別世界だった。

 漠々とした広間の端から端まで、ずらりと並んだ何百人という妃嬪ひひんたちと絢爛豪華な調度品の数々。そのどれもが今まで見たこともないような豪奢なものばかりで、一瞬ここが自分のいる場所なのか分からなくなってしまったくらいだ。

 そんな中でもひと際目を引いたのは、広大な庭の中央に建てられた荘厳な姿。

 これが噂の後宮の守り神――建国けんこく龍女りゅうにょの像。その麗しい姿にうっとりと見惚れていると、突如後ろから声をかけられた。


「――もし、そちらの姫さま」


 振り返ればそこには、頭の上に小さな冠を乗せた一人の少女がいた。


「あなたは?」

「わたくしは、東宮殿下のお妃候補の皆様をお世話させていただいております女官でございます。名をとうと申します。どうかお見知りおきを」


 そう言って恭しく頭を垂れる彼女の年若さに驚く。

 まだ十三、四。そのくらいだろうか。とても大人びていてしっかりしているように見えるが、実際はもう少し幼いかもしれない。輪郭は丸く、あどけなさの残る表情は、およそこの絢爛な小都にふさわしいとは思えないほどだ。


「これはご丁寧にありがとうございます。わたくしはほう藍晶らんしょう。このたび入内する法央ほうおう丞助の娘でございます。どうぞよろしくお願いいたしますね」

「こちらこそ、なにとぞ。藍晶さまのお部屋の準備は既に整っておりますので、早速参りましょう」


 彼女、陶に促されて建国龍女のそばから移動する。

 後宮の中は思っていた以上に広大だった。道行く人々の中には煌びやかな衣装を身に纏った貴婦人の姿も見受けられ、改めて自分がとんでもないところに来てしまったのだと思い知らされる。

 立場の高い父の後ろ楯があるとはいえここは女の戦場と名高い後宮。おそらく現主上の妃嬪であろうが、不躾な視線を向けてくる者も存在する。棘をぞんぶんに纏った鋭いまなざしは相手を牽制するどころか竦み上がらせるほどのものだが、私は彼女たちではなく東宮の妻として選定される龍宮の者となるので、その攻撃はお門違いだとため息をついた。

 やがてそういった花道を過ぎしばらく歩いてたどり着いたのは、これまでとは違った雰囲気の建物だった。

 そこだけまるで時の流れが違うかのように、他の建物よりも遥かに質素な造りをしている。

 そのことに少しほっとしていると、その建物の中へと通された。


「こちらが藍晶さまのお部屋となります。……たいていの姫さまは入内の際に気に入りの家具を運び入れているものですが、本当にこれだけでよろしいのですか?」

「ええ。もとより絢爛な生活は気質に合いません。少しの戸棚と寝台があれば充分です」

「左様ですか。それでは何か足りないものがありましたら、すぐにおっしゃってくださいませ。わたくしども女官一同、全力をもって対応させていただきますので」

「分かりました。なにから何までありがとうございます」

「いえ、滅相もないことです」


 陶はたおやかに一礼して下がっていった。

 一人の女官もいない、自分だけの空間が目の前に広がる。

 茶壷と茶器一式だけが置かれた小棚と、羊の毛で編まれた毛布が置かれただけの木の寝台。たしかにこれだけしかないこの部屋が、かの高名な法央の娘の部屋などと誰が思うだろう。それほどまでにこの部屋は簡素で飾り気のかけらもない世界だった。

 しかしこれが私の落ち着く空間だ。実家と同じ配置、同じ家具。窓の外に見える景色だけは違うけれど、慣れない場所でも安心感が抱けるのはよいことだった。

 これからここでどんな暮らしが始まるのかは分からない。

 けれどもし、万が一つらいことがあったとしてもきっと耐えられる。

 ここには私の世界がちゃんとある。誰かに望まれるだけでなくて、誰かに見られるだけでなくて、私が気を許しているこの家具たちが、この世界を地続きのものにしてくれるのだから。


「……さて、一通りを終えたら、国妃にご挨拶だったかしら」


 忙しいスケジュールになっている入内の流れを頭の中で一度確認する。

 入内の日は後宮生活のなかで最も忙しい日と言っても過言ではない。本来なら分刻みになってもおしくないほどの過密予定を、父の口添えで前乗りさせてもらってなんとか緩やかにしてもらっている現状。

 つまり本番となる明日はこの国の皇后――つまり後宮の最高権力者である現帝の最高妃にご挨拶にいかなければならないのだ。

 とはいえそれも仕方のないことだ。相手は皇帝陛下が心を砕き寵愛するお妃さま。入内でもしないかぎり、私のような小娘がおいそれと会えるような存在ではないのだから。

 それに、私にはそんなことよりももっと大切なことがある。


「――珠玉の姫君、か……」


 それは父から何度も聞かされてきた我が母の尊称。

 美しい容姿と教養の高さ、そしてその類い稀なる万の才知によって宮中の貴婦人たちから憧れの存在とされたという母。本来であれば父に下賜かしされるはずもないくらいに完成された女性だったというが、その才能を惜しんだ父が無理を言ってあらゆる奉公と絶対の忠誠とを引き換えに手元へ置いたのだという。

 そんな母の尊称を、この部屋に至るまでに何度聞いただろう。既にこの世にいない姫でありながら今もその名が轟いているなんて、本当にすごい人だったのだと思う。

 もちろんその血を継ぐ私にも期待されていることは分かっていた。

 だからこそ、私はここにいるのだから。


「……考えても仕方がないわね。明日のことを考えなければ」


 気持ちを切り替えるために頬をぱちんと叩く。

 そのために、まずは身の回りの整理をしなければ。

 そう思って立ち上がったところで、部屋の扉が控えめに叩かれた。


「はい、どちらさまでしょう?」

「失礼します。陶でございます」

「どうぞ、お入りください」


 声をかけると、陶がそっと扉を開けて入ってきた。

 そしてその後ろに、ぞろぞろと十名ほどの少女たちがついてくる。


「藍晶さま、お付きの女官たちを連れてまいりました」


 並んで一礼する少女たちに目を瞬かせる。

 お付きの女官。確かに私はひとりも連れてこなかったので、必要だということは分かる。

 とはいえ、その数の多さは想定外だった。


「……こんなにたくさん、ですか?」

「はい。藍晶さまはいずれ東宮殿下にお召しなされる方ですので、これでも少ないほうです。既に入内されている姫さまなど、何十人、百人近くお連れのかたもいらっしゃいますよ」

「……そんなものなのですか」

「左様にございます」


 改めて後宮というものの規模の大きさを実感する。というより、本来ならそれに慣れていてもおかしくない私自身がそういった生活を好まなかったこともあり、身の回りのことをすべて自分自身でやっていたことが原因だろう。


「……分かりました。では、よろしくお願い致します」

「はっ!」


 一斉に返事をした女官たちは、すぐにてきぱきと動いてくれた。

 湯浴みの準備、新しい衣服の用意、化粧道具の確認、茶器と茶葉の種類、食事の時間と内容、それから――たくさんの冊子。


「あの、これはいったい何でしょうか?」

「は……ああ、こちらは後宮のしきたりをまとめた冊子になります。なにか分からないことなどありましたら、こちらをお読みになってくださいませ」

「……なるほど。ありがとうございます……」


 ずしりと重い冊子の山を前に思わずげんなりとする表情を隠せない。しかしもとより本を読むのは好きな部類だ。一冊を手に取って中を読んでみる。

 内容としてはここにくるための前準備として学んできたものとさして変わらなかった。妃嬪の順位付けと名称、廊下で会った際の道の譲り方、挨拶の型、言葉遣い、贈り物の贈答方法と避けたほうがよい品々の種類、等々。

 無意識に上がっていた肩がほっと息づくとともに下りる。


「……意外と覚えることが多いですよね」

「ええ。主上の後宮妃嬪の方々とはできるだけ関わらないように分かたれておりますので、最低限の礼儀さえ守ってくださればそれでよいのですが……。それでもやはり、将来の皇后となる方々として、学んでおいて損なことはなにもございません」

「それは、そうですね」

「それに、藍晶さまはお若いので、これから覚えてゆけばいいこともたくさんあります。焦らずとも大丈夫ですよ」

「……! ええ、頑張ります」


 にっこりと笑って励ましてくれた陶に笑顔を返す。二十四の嫁ぎ遅れと呼ばれて久しく、この場で若いなどと言われては浮かれてしまうのも無理はない。

 とはいえ、そんな私の心情を見抜いたのか、陶が少しだけ苦笑したのも見逃さない。さすがはこの部屋を整えてくれていた女官長といったところだろうか。


「とりあえず今日は湯浴みの支度をして、ごゆっくりなさってください。明日は入内の儀がございます。比べものにならないくらい忙しくなりますよ」

「はい、分かりました」


 促されて、女官たちに手伝ってもらいながら身辺を整える。

 そしてその日は早々に床についたのだった。





「おはようございます、藍晶さま。よく眠れましたか?」


 翌朝、陶に起こされた私が寝ぼけ眼を擦ったのは夜明けより数刻も前だった。


「んー……おはよう、ございます」

「ふふ、お疲れになったでしょう。もう少しお休みになられますか?」

「……いえ、起きます」


 本当はもう少し眠っていたかったけれど、そういうわけにもいかない。

 入内の儀が行われる今日。できることなら準備は早く済ませておいたほうがいい。そのほうが心にも余裕ができるだろうと寝台から降りる。


「お着替えのお手伝いをさせていただきますね」

「はい、よろしくお願いします」


 陶の言葉に頷き、女官たちの手を借りつつ身支度を整える。

 髪結いと化粧も彼女たちに任せればあっという間に終わった。自分でやるのとは大違いな仕上がりに「いかがでしょう」と向けられた鏡の中でほうっと息をつく。

 ずっと鏡を覗き込んでいたいくらいだ。まるで別人になってしまった自分自身に驚く。


「藍晶さまはもともとお美しいですけれど、きちんとお手入れをするとさらに映えるのでお化粧のしがいがありますわ」

「そ、そうでしょうか……」

「ええ、もちろんです」


 陶と女官たちに微笑まれて、なんだかくすぐったい気持ちになる。

 袖を通したこともないような美しい衣をまとい、いつもより丁寧に髪を結われ、顔に施される薄紅の粉。

 今までの自分からは想像もできない姿だ。


「……本当に、私は龍宮妃なのですね」


 ぽつりと呟いた言葉には実感が伴わない。

 昨夜まで、まるでずっと夢のなかにいるようだった。それが今朝になって突然現実だとたたきつけられ、戸惑いばかりが胸を占めている。

 そんな私を気遣ってくれているのだろう。陶が静かに口を開いた。


「不安なお気持ちは分かります。しかし、もう戻れぬ道へ踏み出されたのもまた事実。どうか、前向きに考えてください」

「……はい」

「大丈夫です。主上はとても聡明なお方。その御子みこたる東宮さまも、きっと藍晶さまを大切にしてくださるはずですよ」

「そう、ですね」


 陶の言う通りだ。

 既に道は踏み出した。ここでの生活に馴染むため、そして少しでも快適なものとするため、まずは己を磨かなくては。


「では、参りましょう」

「ええ」


 陶の声に導かれるように立ち上がる。

 一歩を踏み出した先は、まだ見ぬ未来へとつながっていた。



***



 星々の瞬く夜。

 深い藍色の空を見上げてため息ひとつ。

 自分用に誂えられた部屋のなか、この国の東宮すなわち皇太子である男は浮かない顔をしていた。


「―――嫁選び、ねえ」


 はあ、と再び漏れるため息。

 それは彼の悩みの種についてだ。

 現皇帝、父の寵愛を狙う者たちが跋扈ばっこする後宮。その一角につい数年前、第二の後宮『龍宮りゅうぐう』が建てられた。

 そこで行われるのは皇太子である自分の妻となるものを選出する花嫁収集。しかし、その実態はといえば、娘を送り込む貴族たちの派閥争いの場。

 そのなかでも特に熾烈な戦いが繰り広げられているのは、皇后の座を争う五人の皇后候補たちだ。

 現在その座にいるのは龍宮妃嬪第二位のさい環林かんりん、第三位のえん辛桃しんとう、第五位の釆香はんこう。そして明日、丞相補佐官であるほう家が送り込んできた娘が暫定第四位に君することとなる。

 とはいえ、それはあくまでも名目上のこと。

 実際のところは、候補者たちの優劣ははっきりしている。

 けっきょくのところ第一位は、今代で一気に勢力を伸ばしてきた新興貴族の家の娘、ほう藍晶らんしょうとなるのだろう。

 彼女はなんと昨年の科挙試験問題を一席と同等の結果で収めた才媛だ。お固い風習にとらわれない自由な家風で育った彼女は、父親である法央が官吏になるための勉強に使用した多くの書物を読み、その知識を蓄えたのだという。

 しかもそれだけではない。

 彼女の生家は新興貴族と言えど古くから続く名士で、歴史ある書庫を所有している。そこには様々な分野の書籍が収められているのだが、それらすべてに目を通すだけでなく、実際に手に取って内容を吟味できるのだとか。

 つまり、彼女にとってはどんな内容の本であっても読みこなすことができるということだ。

 加えて、彼女は礼儀作法や刺繍といった教養にも優れているらしい。なんでも、彼女が幼いときから仕えてくれていた乳母から教わったのだという。

 さらには、彼女はその見た目も申し分なかった。

 透き通るような白い肌に光り輝く星のような瞳、艶めき豊かな黒の髪、華奢な体つきは触れれば折れてしまいそうなほど繊細で、見る者すべての視線を集めるような麗しさがある。

 まさに完璧を絵に描いたような娘なのだ。

 そんな彼女を妻に迎えられれば、間違いなく自分は安泰だろう。

 しかし、それは同時に大きなしがらみを生み出す。なにせ彼女の母はあの『珠玉の姫君』。母譲りの美貌を持ちながら、その出自ゆえに表舞台に立つことのできなかった彼女。

 本来ならもっと早く宮入りしていてもおかしくはなかったはずの存在だ。それを我が父である皇帝が許さなかったせいで、今まで龍宮に入ることができなかった。

 だからこそ、彼女は躍起になっているのかもしれない。

 自分がこの国で確固たる地位を築くために。そして何より自分の息子を皇位につけるために。

 どんな気の強い女だろうか。あんがい噂にあるような、優しい子だったりして。

 ――なんてね。

 そこまで考えて、思わず苦笑してしまう。

 だってあまりにも馬鹿げている。

 そもそもの話、皇后になりたいと思うような人間にまともな神経をしている者などいないのだ。

 腹に一物を抱えたような連中ばかりだから、いつ寝首を掻かれるかも分からない。

 そんな危険な場所へ自ら望んで行くわけがない。嫁選びだとか言われているが、魔窟と相違ない後宮に歩みを向けようなど思ったこともない。

 それに、自分には夢があった。

 この国の民が笑って暮らせる世を作る。子どもたちが飢えず、親に守られて、愛されて大人になる。そんな世界を作るのが、幼いころからの目標だった。

 そのために必要なことはなんだってしてきたつもりだし、そのために自分にできることは惜しまない。その夢に賛同する娘でなければ、皇后として選ぶつもりなどないのだ。

 そんなことを考えていれば、ふいに扉の向こう側から控えめに声がかけられた。


『――殿下、よろしいでしょうか?』


 そう言って入ってきたのは、幼い頃から側に仕えている侍従のひとりだ。

 彼は恭しく礼をして、こう続けた。


「先程、主上より文が届きました」

「文? 言伝じゃなくて?」

「はい。文として、したためられております」


 差し出されたそれを受け取り、さっと目を走らせる。

 それは予想通りのものだった。

 明日の龍宮入内の儀について、必ず出席するようにとのお達し。

 ずいぶんと目をかけているあの法丞助の娘を一目見ておけ、と。

 どうやら父は、あの娘に興味を持ったらしい。

 確かに、彼女の母親も噂によればかなりの美女ではあったけれど。

 ――まあ、でも。

 父の気持ちも分からなくはない。

 なにせ、彼女の母親はこの国の――の血を引いているのだから。

 もちろん、自分に血筋云々は関係ない。ただ自分もこの国の皇子である以上、この国の皇帝の命令は絶対のことだ。命じられたからには必ず実行しなければならない。

 見極めるべきは、相応しさである。

 それがどんなに美しい容姿をしていたとしても、中身が伴わなければ意味が無い。

 自分の隣に並ぶに相応しい人物かどうかを見定めなければならない。

 そのためには、やはり彼女のことをよく知る必要があるだろう。

 明日、儀式の前に彼女と話す機会を作っておくべきか。

 そう考えながら顔を上げれば、なにも言わずとも侍従はこくりと頷いた。


「……お忍びに、なられますか」

「うん、そうだね。そうしようか」


 皇太子である自分にとって、お忍びとは息抜きのようなものだ。

 そこで出会うのは身分や立場を気にすることなく接してくれる人々。彼らは、決して自分が皇子であることを知らず、それゆえに忖度を口にしない。

 ありのままの国がそこに広がるのだ。

 だからこそ、自分はその場所が好きだった。

 特に、今日のような鬱屈とした気分のときこそ。


「準備をするから少し待っていてくれるかな。ああ、それと……」


 侍従を下がらせようとしたところで、ふと思い出したように付け加える。


「あの子にも伝えておいてよ。……明日はよろしく頼む、ってね」


 その言葉を受けて、侍従は深く頭を下げた。


第一話、了。

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