愛してください

一布

愛してください


 妻が死んだ。まだ二十四歳だった。


 結婚二年目。俺と同じ歳の妻。


 妻は、もう歳を取ることもない。棺の中で、静かに目を閉じたまま。これから火葬され、小さな骨壺の中に入ることになる。


 飾られている遺影は、何事もないように微笑んでいた。


 俺には不釣り合いなくらいに美人だった妻。


 でも、告白は妻の方からだった。当時は、こんな美人がどうして俺なんかに、と戸惑ったものだ。


 そんな俺の疑問を払拭するように、妻は、付き合っている当時から愛情を示してくれた。実家にも度々呼ばれた。


 妻の妹──義妹は、俺の高校時代の後輩だった。バスケットボール部。二学年下の後輩。


 実家に呼ばれて、家族にも紹介されて。俺との将来を考えているのかな。そう思うと、真面目に一生懸命生きようと思った。だから、大学在学中は必死に勉強した。


 妻は、高校卒業と同時に就職した。実家を出た。学生の俺と、社会人の妻。時間が合わないことも多かった。妻は、残業で週に二回ほど終電まで仕事をしていた。それでも、仲がこじれることはなかった。


 俺が大学卒業と同時に結婚して、一緒に暮らし始めて。二人の人生は、これからのはずだった。


 それなのに。


 すべて終わってしまった。俺と妻の関係も。描いていた二人の未来も。抱いていた愛情も。


 すべて、壊れた。


 俺は、妻を愛していた。心から。妻と生涯を共にするために、頑張ってきた。


 それなのに、涙が出なかった。妻の遺影を目にしても。妻の遺体を前にしても。最愛の人を永遠に失ったというのに、全然泣けなかった。


 ただ、現実感のない絶望に包まれていた。


「先輩」


 呼ばれて、俺は声の主を見た。この場で俺を「先輩」と呼ぶ人物は、ひとりしかいない。妻の妹──義妹。俺の、高校時代の後輩。


「どうした?」

「ちょっといいですか?」

「ああ」


 義妹に促されて、俺は妻の前から離れた。葬儀場の廊下に出た。立ち止まって、義妹と視線を合わせた。


 義妹も泣いていなかった。俺と同じように。涙の痕もなかった。むしろ、いつもより冷めた顔をしていた。


 そんな義妹の表情が、少しずつ変化していった。少しだけ目に力を入れたのか、涙袋が浮き出てきた。目が潤んできた。気のせいか、頬が赤くなっているように見えた。


「こんなときにこんなことを言うのも、おかしいですけど──」


 義妹は、一旦言葉を切った。一瞬だけ俺から目を逸らした。再び、視線が俺に戻ってきた。


「──ううん。こんなときだから、伝えたいんです」

「えっと、何だ?」


 馬鹿みたいに、俺は聞き返した。


 妻と義妹は似ていない。妻は、誰もが振り返るような美人だった。だが、義妹はそうじゃない。でも、だからこそ、心情によって変化する義妹の表情が、俺は好きだった。もちろんそれは、義妹としてであり、後輩としてだが。


 義妹の唇が、一瞬だけキュッと結ばれた。直後に、言葉が出てきた。


「先輩のこと、ずっと好きだったんです。高校のときからずっとです」


 今日は、妻の葬式。


 俺は、妻を失った夫。

 目の前にいる後輩は、姉を失った妹。

 俺たちは、義理の兄妹。


 他殺によって命を失った、妻の葬式で。

 異性として見ていなかった、義妹の言葉に。

 俺はただ、呆然とした。



 ◇ ◇ ◇


 私は、昔から姉が嫌いだった。


 姉は美人で社交的。どれくらい美人かと言えば、アイドルなんかに興味がない男子生徒でも姉の顔は忘れない、というレベルの美人だった。しかも、スッピンのままでも、だ。


 私と姉は二つ歳が違う。だから、小中学校では、一時的とはいえ同じ校舎内で学校生活を過ごしていた。


 美人の姉は、自分の学年だけではなく、上級生にも下級生にも名が知れていた。


「あの先輩の妹なんだよな?」


 同級生によく聞かれた。特に男子生徒から。


 正直に答えると、かなりの高確率でこんな言葉が返ってきた。


「お姉さん、凄ぇ美人だな」

「姉妹なのに、全然似てないな」


 ひどいときは、馬鹿にされた。


「姉ちゃんはあんなに美人なのに、お前は可愛くないな」


 私と姉を比較する言葉達。言葉は針のように鋭くて、私の心を突き刺した。


 刺された心からは、玉のような血が浮き出ていた。チクチクと痛かった。何度も何度も刺されて、心に血が流れた。まるで涙のように。


 同級生とは反対に、両親は優しかった。姉よりも私に優しくしてくれた。でも、その優しさは、愛情ではなかった。


 私は、両親に同情されていたんだ。


『お姉ちゃんはみんなに可愛がられているから、せめて自分達だけは、妹の方を可愛がろう』


 深夜に両親が交わしていた会話を、私はたまたま聞いてしまった。そんなときに限って、夜中にトイレで目が覚めるのだ。


 両親の気遣いすら、私にとっては、心に刺さる針だった。


 姉が高校に進学したときは、心底ホッとした。これでもう、校内で姉と比較されることはない。あとは、私が、姉と別の高校に進学すればいい。


 姉に遅れること二年。私も高校生になった。もちろん、姉とは違う高校だ。


 同情から姉より私を可愛がる両親とは、あまり一緒にいたくなかった。だから、練習時間が長い部活を探した。バスケットボール部。


 練習は厳しかったが、楽しかった。なかなかの強豪で、三年生も、秋の国体が終わるまで引退しない。でも、昔ながらの体育会系な雰囲気は皆無だった。


 私の高校のバスケットボール部は、男女混合で練習する。当然、男子バスケットボール部の人とも交流ができる。


 私は、二つ年上の先輩に恋をした。誠実で、優しい人。男子バスケットボール部のレギュラー。でも、決して偉そうじゃない。エースではないが、チームを支える要として必要な人だった。


 私はしばしば、先輩にお願いした。


「居残り練習に付き合ってくれませんか?」


 それほどバスケットボールが好きだったわけではない。ただ家に帰りたくないから、居残りたい。そんな目的。


 けれど、いつからか、目的が変わっていた。


 少しでも先輩と一緒にいたい。


 鈍感な先輩は、私の気持ちに気付かない。あくまで先輩として、優しく真摯に接してくれた。


 それでも、先輩と一緒にいられるのが嬉しかった。楽しかった。幸せだった。


 私の日記には、毎日先輩が登場した。先輩の一挙一動を日記に書いた。そのときに感じた気持ちが、日記には溢れていた。


 それくらい先輩が好きなのに、私は、告白できずにいた。振られるのが恐いから──じゃない。


 先輩と付き合えば、いつかは、彼と姉が遭遇するときがくるだろう。


 美人な姉を見て、先輩が心変わりしてしまうのではないか。そう思うと、恐かった。最悪な形で失うくらいなら、最初から手に入れたくなかった。


 そんな私の予感は、別の形で現実となった。


 大学受験に備えて、三年生は、だいたい十一月から練習に来なくなる。完全に部活の世代が交代する時期。


 先輩がいない寂しさを胸に抱えて。校内で運良く見かけたときは、とにかく少しでも話題を振って。ほんのちょっとでも、一緒の時間を過ごそうと思って。


 冬休みに入って。完全に、先輩との接点が途切れて。


 冬休み明けの時期に、姉が、先輩を家に連れて来た。


 二人にどんな繋がりがあったのかは分からない。ただ、姉は、恋人として先輩を紹介してきた。


 大好きな人が、大嫌いな人のものになる。年明け早々、私には、最悪の現実が突きつけられた。


 高校を卒業してからも、姉と先輩の付き合いは続いた。姉は、しょっちゅう、先輩を家に連れて来た。


 二年になり、新しい人と知り合うことがあっても、次の恋なんてできなかった。


 好きな人が度々家に来る環境で、次の恋を探せるはずがない。目の前に餌を置かれた動物が、別の餌を探しに行くはずがない。それと同じように。


 先輩が大学を卒業して就職すると、二人は籍を入れた。


 その頃になると、二人が実家に来る頻度は減った。理由は分からない。ただ、それでも、夫婦としての二人を見るのは、辛かった。


 辛い恋を忘れたくて、私は実家を出た。でも、長年に渡って染みつけられた恋心は、なかなか消えてくれなかった。心に深く突き刺さって、どんだけ引っ張っても抜けなかった。


 大学生活も、就職活動も、ひとりのときも、私の心には先輩の幻影がいた。


 そんな、ある日。


 姉が死んだ。


 死因は他殺。殺されたのだ。犯人は、姉が高校卒後に就職した会社の上司。


 妻と二人の娘がいる上司。同時に、姉の不倫相手でもあった上司。


 二人の仲は、姉が就職して一年ほどしてから。つまり、先輩と結婚する前からの仲だったんだ。


 殺害の動機は、別れ話のもつれ。


 姉が、上司に別れを切り出した。


 本気だった上司は、納得しなかった。激高の果てに、姉を絞殺した。


 姉の葬儀の席で、久し振りに先輩に会った。


 顔を見た瞬間に、感じた。好きだ。まだ、この人のことが好きだ。


 先輩は憔悴し切っていた。そりゃそうだろう。最愛の妻に、結婚前から裏切られていたのだから。それなのに、夫として、葬儀の場で責任を果たさなければならない。


 私は先輩が好きだ。だから、今まで彼氏もできなかった。ずっと忘れられなかった。憔悴する先輩を、支えたいと思った。


 姉という邪魔者が消えて、目の前には弱った先輩。もう、躊躇ためらう理由はなかった。


「先輩のこと、ずっと好きだったんです。高校のときからずっとです」


 先輩は呆然としていた。


 葬儀場の廊下が、沈黙に包まれた。


 永遠とも思えるほど長い沈黙の後、先輩の唇が動いた。


 ◇ ◇ ◇


 昔から、妹が大嫌いだった。


 こいつさえいなければ。こいつさえ産まれてこなければ。いつもそんなことを思っていた。


 妹は、お父さんやお母さんの愛情を一身に受けていた。私の分の愛情なんてなくなるくらいに。

 

 参観日が重なったら、両親ともに妹の方に行った。

 私の方が年上なのに、お年玉は同額だった。

 習い事なんかも、妹の方が優先してやらせてもらえた。


 私がすねると、決まって言われる言葉があった。


「お姉ちゃんなんだから」


 耳元を飛び交う、羽虫のような言葉。


「お姉ちゃんなんだから」

「お姉ちゃんなんだから」

「お姉ちゃんなんだから」


 ブンブンと、耳障りな音。


 お父さんもお母さんも、妹の方が大事なんだ。私のことなんて、どうでもいいんだ。


 両親にとって、私を「どうでもいいもの」にした妹。そんな妹が、大嫌いだった。


 高校に入ってから、妹はバスケットボール部に入った。バスケットシューズもボールも、決して安くない。それでも両親は、当たり前のように妹に買い与えた。


 妹を見ていると、苛立ちが募った。視界に入れていなくても、その存在だけで腹が立った。だから、何か弱みでも握って絶望させてやりたかった。


 高校に入ってから、妹は、部活の練習で帰りが遅かった。彼女の部屋を家捜しする時間は十分にあった。


 妹の日記を見つけた。部活の先輩のことが、たくさん書かれていた。○月○日、先輩が──。×月×日、先輩と──。▲月▲日、先輩から──。


 妹がその先輩を好きなことは、一目瞭然だった。だから、思った。


 奪ってやろう。妹の好きな人を。


 私は、自分の容姿が好きではない。よく「美人」だの「可愛い」だのと言われるけど、この容姿のせいでストーキングされたり、変質者やチンピラに絡まれることもあった。世間で言われるほど、美人は得ではない。


 でも、今回ばかりは自分の容姿に感謝した。妹の好きな人を奪える武器になる。


 高校卒業と同時に就職することが決まっていた私は、勉強もする必要がない。時間は十分にあった。妹の学校まで足を運び、物陰から彼女の様子を探った。


 妹と、たびたび一緒に帰る男子生徒がいた。妹の様子から、彼が「先輩」であることは明らかだった。


 とはいえ、妹と彼は、いつも一緒にいるわけではない。


 私は、彼がひとりでいるときに声を掛けた。あの子の姉です、と名乗って。妹がいつもお世話になってます。


 妹の気持ちを、彼に伝えたりしない。当たり障りのない会話をした。妹に怒られるから私と会ってることは内緒で、と釘を刺した。


 妹のことで相談があるなどと言って、度々彼との時間をつくった。彼が完全に部活を引退した後は、さらに時間を共有できた。


 適度に距離が縮まった頃に、告白した。


 何度も会って気付いたが、彼は、外見で人の優劣をつけるタイプではなかった。私と会っていたときも、特に「美人」だの「可愛い」だのといったキーワードを出すことはなかった。あくまで、後輩の姉として接していた。


 だから彼は、私の告白に驚いたようだった。


 驚きながら、彼は私を振った。そんなふうに見ていなかったから、と。


 それでも私は諦めなかった。彼との時間を作って、何度も会って。彼の受験勉強の手伝いをして。


 二度目の告白で、付き合うことができた。


 彼を家に連れて行ったときの妹の様子は、滑稽だった。泣きそうな目をしているのに、無理矢理笑顔を浮かべていた。その様子に、心が踊った。驚くほどの爽快感があった。


 私の本心も知らずに、彼は、私を大切にしてくれた。彼に惚れた妹の選球眼だけは、褒めてやりたかった。


 高校を卒業した後、彼は大学に進学し、私は就職した。


 就職した会社の、直属の上司。三十歳。その上司には、娘が二人いた。スマホのトップ画面は、娘達の写真に設定されていた。


 娘達を平等に愛している父親。そんな様子を物語る上司を見ていると、なんだか苛ついた。


 本当は、好きな順番があるんでしょ? どっちかは、いらない娘なんでしょ? もしくは、両方共いらなかったりして。


 試すように、私は上司に色目を使った。気のあるふりをして、上司に接近した。


 でも、彼氏と別れたりはしない。せっかく妹から奪ったんだから。


 上司は簡単に落ちた。すぐに私に夢中になった。あんなに、娘達を愛しているアピールをしていたのに。娘達との時間を捨てて、私と逢瀬を過ごした。


 やっぱり、娘達を愛しているなんて嘘。ただ単に、娘達を愛している自分に酔っていただけ。上司の本質を知ると、この不倫が喜劇のように楽しくなった。


 それでも、彼氏との関係は順調だった。私が就職、彼氏が進学してから、二年が過ぎ、三年が過ぎ。


 彼氏の就職先が決まった頃に、プロポーズされた。


「俺が卒業して就職したら、結婚しよう」


 真面目で真摯な人だ、と心から思う。誠実に私と付き合い続け、結婚も視野に入れていた。その証拠に、彼は、決して高くないアルバイト代を貯めて、私に婚約指輪をくれた。


 私の心に、彼と付き合い始めた頃とは別の感情が生れてきた。それが何なのかは、よく分からなかった。ただ、この時期から、彼を連れて実家に行く頻度が減った。


 実家に連れて行って妹を交えて会うよりも、二人きりでいたかった。


 不倫相手の上司に、結婚することを伝えた。これからはW不倫になる。


 私の結婚を聞いたとき、上司は青い顔をした。


「結婚しても、俺達の関係は続けるんだよな? 別れたりしないよな?」


 娘達を愛しているという顔を見せながら、妻でも娘でもない女に縋る男。そんな上司が滑稽で、面白かった。だから、上司と別れるつもりなどなかった。


 ただ、なぜかこの頃から、上司と会っているときに、滑稽さ以外の感情を抱くようになった。


 結婚式は、身内だけで挙げた。予約や準備で時間がかかり、籍を入れてから一年ほど経っていた。


 ウェディングドレスを着た私が、タキシードを着た彼と並んだ。見つめ合った。


 その光景を見た妹は、泣いていた。それが感動の涙でないことは、分かっていた。


 分かっていたけど、楽しいとも嬉しいとも思えなかった。妹よりも、目の前にいる彼を見ていたかった。


 指輪を交換して、誓いの口付けをした。


 何度もしたはずの、彼とのキス。自分の唇で、彼の唇を感じる。


 幸せだ、と思った。今までの人生の中で、一番幸せ。妹が悲しむ姿を見るよりも、上司の滑稽な姿に笑うときよりも、はるかに幸せだった。


「あ、そうか」


 このときになって、私はようやく理解した。


 私は、彼が好きなんだ。いつの間にか、こんなに好きになっていたんだ。結婚式での、彼とのキス。その瞬間が、人生で一番幸せだと思えるほどに。


 自分の幸せに気付いた瞬間、胸を締め付ける感覚に襲われた。恐怖にも似た感情だった。自分が、どうしようもなく醜い人間に思える感情。


 すぐに気付いた。これは罪悪感だ。


 私は、彼を裏切っているんだ。大好きな彼を。


 彼と結婚する前から、妻子ある男と不倫をしている。上司に家族と過ごす時間をないがしろにさせ、楽しんでいる。


 大好きな彼を裏切って。他人の家庭にヒビを入れて、楽しんで。


 なんて薄汚い女!


 自分を罵る言葉が、呪いのように溢れた。吐き気がした。


 決意は、すぐに固まった。上司と別れよう。あんな男とは、もう唇も肌も合わせたくない。


 別れを告げたとき、上司は取り乱した。別れたくない、と縋ってきた。


 愛する家族がいるのに、不倫相手の女に夢中になる男。なんて醜悪な姿だろう。夫を裏切ってこんな男と付き合っていた自分は、なんて薄汚いんだろう。


 もう、嫌悪感しかなかった。上司に対しても、自分に対しても。


 別れ話がもつれた。上司は関係継続を望み、諦めなかった。私は、別れの一択だった。


 話し合う声は、徐々にトーンが上がってきた。激高した上司は、両手を私に伸ばしてきた。


 私の、首に。


 中年とはいえ、上司は男だ。何の運動もしていない女である私が、対抗できるはずがない。


 上司の指は私の首に食い込み、呼吸と血流を止めた。


 涙を流す上司を捕らえていた、私の視界。そこに、七色の線のような光が飛び散った。視野は、少しずつ狭くなっていった。


 目の前は、いつの間にか真っ暗になっていた。意識が薄れていった。


「別れるくらいなら──俺以外の奴のものになるくらいなら、殺してやる」


 最後に聞こえたのは、上司の、そんな言葉だった。


 ──そして、気が付くと、私はここにいた。自分の葬式の場。


 私は宙に浮いていて、自分の遺影と死体を見ていた。


 彼は──夫は、虚ろな目をしていた。涙を流すわけでもなく、取り乱すわけでもなく。魂が抜けたような顔をしていた。


 絶望と失望に打ちひしがれる顔。


 夫の顔を見て、私は悟った。私の死因から、夫は全て知ったのだと。私が、結婚前からずっと上司と関係があったこと。夫を裏切っていたこと。


『ごめんなさい!』


 呼吸困難になりそうな、息苦しい感情。呼吸をする体もないのに、私は、強烈な窒息感に襲われていた。


 夫に知られた。醜い私を。薄汚い私の裏切りを。それが、どうしようもなく苦しくて、悲しかった。


『ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!』


 私は何度も謝罪の言葉を繰り返した。夫を愛している。夫も、私を愛してくれた。


 夫の愛を失いたくない。たとえ両親に愛されなかったとしても、夫にだけは愛されたかった。夫は、人生で一番、私を幸せにしてくれた人だから。


 妹が夫に近付いた。二人で、葬儀場の廊下に出た。


「先輩のこと、ずっと好きだったんです。高校のときからずっとです」


 夫に、妹が告白した。高校のときから続いていた、妹の気持ち。


『嫌だ!』


 もし生きていたなら、私は大粒の涙を流しただろう。髪を振り乱しながら懇願しただろう。


『私から夫を取らないで! あんたは、全部持ってるじゃない! お父さんからもお母さんからも、昔から大事にされてたじゃない! 夫だけは……その人だけは、私から取らないで!』


 私の声は届かない。どんなに願っても、どんなに祈っても。いくら縋っても、届くことはない。


『お願いだから、その人だけは……』


 夫はしばし呆然とした後に、妹をじっと見た。彼らしい、真摯で真剣な表情で。


 私はもう、耐え切れなかった。抱える絶望の大きさが、私自身の許容量を超えていた。


 夫の唇が動き出す前に、私はその場から逃げ出した。


 これ以上、何も失いたくない。


 命まで失った私には、もう、夫の愛しか残っていないから。

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