釣瓶落としの後始末
錦魚葉椿
第1話
花凛は自分の胸の内に生まれた仄かな好意を気づかないフリをして終わらせるつもりだった。彼女には大学時代から交際する婚約者もいた。
波佐間課長は素敵に見えた。
スーツのシルエットが同年代の男性とは全く違っているのは気のせいではないとしばらくして気が付いた。スーツの生地は繊細な織りがはいっており、きちんと採寸して仕立てられている。流行に乗り過ぎず遅れ過ぎず計算されつくした型だった。
遠くから見たらただの紺のリクルートスーツにしか見えないかもしれない。
襟の手縫いのステッチは主張を抑えた繊細な仕上がりだし、無造作にまくり上げたカッターシャツも無駄な皺が一切なかった。
さほど服装に執着してこだわっているわけでもなさそうな、むしろ仕事に熱中している様子なのに、それだけの水準を維持できるのは彼のことを熱烈に愛している人がいるからだということを、若い彼女は思い至る歳ではなかった。
―――――すべてが突然、急速に落下して砕けて壊れた。
確実に実務経験を得るために、花凛は派遣会社に就職し希望の仕事を得た。
外資の会社なら実務経験の方が重視される。どんどん昇っていけると思っていた。
このプロジェクトを終えたら、履歴書に書けるような経験になる。
派遣という身分ではあったが、プロジェクト内では差別なく発言権もあったし、アイディアもたくさん採用された。中心的な立場にあったと言えるはずなのに。
迂闊だったのは波佐間課長の好意が踏み込まれてはいけないラインを超えていることに気が付かなったことだろうか。
彼女はもうほとんど完遂まぢかのプロジェクトをはずされ、保存期間の過ぎた古い書類のシュレッダーをさせられていた。資料室の照明をつけることも許されずに。
派遣会社からは「能力不足として人材の入れ替えを求められた」と通告された。
今後、希望する職種への次の派遣先はないと通告された。
能力不足。それが本当の原因ではないことはわかっている。
派遣先の人事部、派遣元、実家の親、婚約者に至るまで、「課長をストーキングしている証拠」をつけた書類が同時に送り付けられた。送付したのは波佐間課長の妻だった。
ストーキングなんかしていない。
だが、人には言えないような不適切な関係であることは確かだった。
一瞬の思い出にするつもりだった。
遠距離の恋人との隙間に入り込まれたことは否めない。
一瞬の思い出にして、元の日常に還れると思っていた。
背徳を楽しんでみたかったのかもしれない。
「愛している」と言われつづけて何かが麻痺した。
刹那であるが恋ではなかったのか。
それを言っていいのかいけないのか、口ごもっている間にすべてが壊れてしまった。
父親に殴られ、母親になじられて。
婚約者だった恋人には別れと慰謝料請求を突き付けられた。
婚約者の怒りはもっともだと思った。
恥ずかしくて別れないでほしいと言えず、ただ泣いた。
世界はどっちが地獄かもわからないほど真っ暗だった。
それでも毎日職場に行く。
それ以外のどこにも行くところがないから。
―――――針の筵であったけれど。
手の先から離れた紙は切り刻まれていく。
マイクロカット裁断されたシュレッダー屑はまるで雪のようだ。
「みじめたらしい姿をさらして毎日会社に来れるもんだな。感心するよ」
自分には後ろ暗いことは何もないかのように、課長はそう言った。
何があったのか知っている者も、事情を詳しく知らない同僚たちもその様子を遠巻きに見守っていて、誰も触れようとしない。書庫には処分期限を過ぎた書類が積み上げられたままだったので、彼女が一日中シュレッダーを続けても尽きることはなかった。心もプライドも希望もその古い紙類と一緒に粉々になっていった。
給湯室に置いていたマグカップを片付けていた花凛は幸乃に呼び止められた。
幸乃は真っ黒い髪に黒縁の眼鏡をかけて、いつも同じ量販店の黒のパンツスーツを履いた同僚。豊かとはいえない量の髪をいつも同じ位置で分けて撫でつけている。
彼女は部屋に入る時は背筋を伸ばし、必ず扉を叩いて、失礼しますと声をかける。
そんなことをする社員は誰もいない。異質感を意識的に出しているのかもしれなかった。特に目立って何かできることもない、普通の派遣社員。
いつもにこやかに張り付いたような笑顔の無表情を崩さない。
その彼女が片眼を半分だけ細めた。
冷ややかな蔑んだ顔だった。
彼女は給湯室の棚から自分のカップも出して、給湯室で湯を沸かし、ドリップコーヒーの袋を自分と花凛の分を準備した。コーヒー粉の上に熱湯を回しかける。
香り立つコーヒーのその匂いにだけ現実感があった。
「あなた、私の事、つまらないと思っているでしょう」
反論を許さない断定。
特に反論する余地もなかった。
楽しそうな仕事を避けて、目立たなくて面白みのなさそうな部分を拾う人だと思っていた。
今、初めて、どうしてだったのだろうと顔を上げる。
照明を消されたままの給湯室は暗く、逆光の彼女の顔はよく見えない。輪郭だけが白く、影絵のように浮かび上がっている。
「あなたは気が付いていないと思うけど、課長はあなたのアイディアをすべて自分の成果として上に報告していたわ。あなたと私は、同レベルだと」
ぽたっぽたっ。
彼女の言葉の間に水滴の音が響いていた。
「私はあなたの味方ではないし、正直関わりたくない。気の迷いだとしてもあんなクソと関係を持つような女だもの。でも、あなたひとりだけがすべてを背負うのも筋の通らない話だと思う」
給湯室の横の廊下を幾人も通り過ぎていく。
花凛の顔を見てわざとらしく避けていく者もいた。
「あのクソ男があったことをすべてなかったことにしたように、あなたもまた、なかったことをあったことにすることもできる」
刺し違える覚悟があるなら、使うといいわ。自分も無傷では済まない覚悟があるなら。彼女はそう言って一枚の名刺を、スーツの胸ポケットにそっと差し入れた。
足を得る毒薬を人魚姫に授ける魔女のように。
課長とのメールのやり取りを全部自宅に転送しておけと言う。
自分もプロジェクトが終われば、また別の職場に流れていくから二度と会うことはないだろう。そう言い残して。
花凛の心の底に昏い火が灯った。
その日を最後に、田村花凛は派遣契約を打ち切られ、職場を離れた。
―――――波佐間毅は上司に打ちあわせ名目で会議室に呼ばれた。
通常使っている部屋が空いていなかったからか、15人定員の広い部屋を指定されたと思っていたが、楕円形の円卓の向こう側に4人。すでに座っていた。
好意は感じられない尖った空気。
上司と人事部長とコンプライアンス部長、そして見慣れない顔の人間が会社の顧問弁護士だということは名刺を差し出されて知った。
「珍しいメンバーですね。私はなぜ呼ばれたのでしょうか」
椅子を引いて勝手に座る。
「プロジェクト成功おめでとう。私が君を呼び出すときはもっと喜ばしい内容になると思っていたよ」
人事部長が静かに、これからの話が喜ばしくないことを告げた。
「端的にいうと、先だって、コンプライアンス部に手紙が届けられてね。君の希望で先日派遣契約を打ち切った田村さんの代理人からだ」
上司は組んだ指を机の上にそっと乗せた。
「私は君の奥さんから、君がストーキングで困っているから何とかしてほしいということで相談を受けた。私が君に確認したところ、ストーキング行為は事実であり、勤務態度が悪く能力不足でも困っているということだったから私が契約の中途打ち切りを人事に依頼した。以上、間違いないね」
上司が苦々しい顔で確認を取った。
波佐間はその通りですとやや仰々しく答える。
男は若い女との関係が疑われたとき、妻に対してそう言い訳した。
一度魔が差して関係を持ってしまったが、その後ストーキングされて困っていると。
妻の機動力は素晴らしかった。
田村花凛の実家と婚約者の住所を突き止めて、不貞行為を告発する手紙と訴状を送り付けたのだ。それにより、彼女は婚約がダメになったと聞いた。
気の毒だが仕方ない。
男は妻と別れる気はさらさらなかった。
若いころから家族ぐるみで付き合っている上司とは妻同士がとても仲がいい。妻は上司の妻にも状況を「相談」した。
波佐間は妻にしたと同じ説明を上司に繰り返した。
そして、この場でも同じ説明を再び繰り返す。
泥酔した田村花凛の肩を抱きながらマンションに入っていく防犯カメラの画像のコピーを何枚か会議テーブルに並べられた。
それから、日付の異なる画像のプリント。いずれも波佐間が一人でそのマンションの来客者ボタンを押している姿が写っている。
「代理人から提示があったのはこの画像と、あなたが彼女に業務時間内におくったメールのコピー、そして退職前に彼女に声をかけた内容の音声データ、発注元の担当者の皆さんからの意見書の写しです」
コンプライアンス部長は、中学校時代の国語の教師を思わせるいけ好かない無機質な女だ。自分よりいくつか若いことも余計不愉快な気持ちにさせられる。
「それで」
波佐間は不躾に言葉の先を促した。
二人の間に役職の格差がないかのように。
「あなたは自分のスマートホンに証拠を残さないように社用メールで彼女にやり取りをしていますね。奥様の管理が厳しいようでお気の毒です」
これまでもときおり火遊びがばれたせいで、妻は頻繁に唐突にスマホの中身を確認する。都合の悪いやり取りは私用のスマホでは行わないようにしていた。
それは彼女も同じだ。
だが、言われてみれば、業務以外の内容で彼女からメールで返事はなかったような気もする。
「あなたから彼女に送られているのは、明らかに業務を逸脱した内容のメールですが、彼女からはあなたに業務の内容のメールしか送られていません。ネットリテラシーについて学校で教育される世代の子ですからねえ」
ぺらぺらとわざとらしく紙をめくる。
そして男の口から音声が出る前にさっと制した。
「説明は不要です。私は彼女の代理人が提示した内容を確認するために、あなたが出したメールのログを全て確認させられました。本当に不愉快な仕事でした」
関係が始まったのは、発注先との接待のあった夜の事だった。
プロジェクトの最後の山が無事に終わった打ち上げも兼ねていた。
意見書には「酷く泥酔していた」「意識が無いように見えた」と遠慮がちに事実だけが書かれている。
「あなたに酒を飲まされて意識もうろうとした状態で関係を結ばされたことについての準強制性交等罪について告発する予定であること、地位を利用して雇用の継続を引き換えにその関係を継続させられ、最終的に契約を打ち切られたハラスメント行為についての説明を求められました」
頭の中で視界が黒くなっていくように感じた。
まるでリバーシの角を取られたときのように。
自分の陣地がパタパタと音を立ててひっくり返されていく。
波佐間は敵意をむき出しにして足を投げ出した。
彼の頭の上で点滅する黒い半球の機械が録画装置で、現在も稼働中であることに気が付いていない様子だった。
「わかりました。白状しますよ。ただの不倫です。よくあることでしょう。妻にばれて面倒になったんで派遣契約を打ち切ってもらったんです。ただそれだけのつまらない話ですよ」
「―――――残念だが、だいぶつまらなくない話になってしまっているんだよ」
彼の上司は、いつもは温厚な顔で波佐間を見守っている。その彼の口調は聞いたことのない苛立った色調だった。人事部長に視線で制され、上司は口を噤んだ。血圧が上がってほんのり上気した顔を横に逸らせた。
コンプライアンス部長は髪を耳にかける。大ぶりのイヤリングが覗いた。
「彼女のメールのログを全て確認しました。懸命に仕事に取組み、いくつも提案書を出していますね。彼女はプロジェクトの中でも優れた人材であったと認めます。私的な部分で彼女は確かに軽率だったでしょう。ですが、二、三年前にまだ学生だったような子供にすべてを押し付け逃げ切ろうとしたあなたの卑劣さが大変不愉快です」
コンプライアンス部長という立場を超えた罵倒を行ってしまいそうになって彼女は目を閉じ、視界から不愉快な男を排除した。
弁護士が彼女が置いたバトンを拾う。
「強制性交等罪が成立すればあなたは犯罪者です。彼女は被害者となるので、おそらく婚約者への慰謝料については払わなくても済むでしょうね。実損は式場のキャンセル料ぐらいですむのではないでしょうか。もちろんあなたの妻が彼女に請求した慰謝料も支払う必要はないでしょうし、むしろ慰謝料を請求するつもりかもしれません」
明るい青のスーツには白の細いストライプがはいっている。
弁護士の調子はどこまでも明るく、やや軽薄に見えた。
「会社はあなた方の争いには参加しません。代理人には能力不足と判断した理由が非常に不十分であったことについて謝罪し、契約満了までの料金と解決金を払いました。業務時間中にこれだけの私用メールをおくったことについてのあなたに懲戒を行うこと。強制性交等罪について成立した場合は改めて懲戒が行うことでとりあえず納得してもらいました」
波佐間は人事部長から懲戒処分通知の原本を渡された。
これと同じものが全事業所の掲示板と社内電子掲示板に掲示されると通告される。
「彼女は自分に非がなかったと記録に残したいと思いますので、裁判は望むところかもしれません。これだけ物的証拠がそろってしまっていますので、あなたがいうところの普通の不倫であった証拠を出すことができなければとても不利でしょうね」
残らないように気を付けていたし、可能な限り全部消した。
極めて念入りに。
遂に青ざめた顔を隠し切れなくなった男の顔を眺め、コンプライアンス部長は冷ややかに苦笑した。
「―――――ただの恋愛だった証拠をだしたら、奥様はさぞお怒りになるでしょうね」
釣瓶落としの後始末 錦魚葉椿 @BEL13542
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