【短編】思わぬ形でクソ男と再会した話

夏目くちびる

第1話

 大学時代に、別れた男がいる。



 彼は、顔が良くて背も高くて、他の人よりも頭がよかった。それは、決して勉強が出来るというワケでもなく、頭の回転が速いという感じの良さだった。



 彼は自分がモテている事を自覚していたし、私もそんな彼をカレシにできたことには多少の優越感があったことは否定出来ない。

 噂になっていた彼が、講義室で私だけに挨拶をしてくれるだけで嬉しかった。何の価値もないその当たり前を誇る私が、空っぽなんだと自覚するのに時間はあまりかからなかった。



 そんな関係だったから、当たり前だけど彼にはいつも余裕があって、私はそんな彼に嫌われたくなくて。選択の自由も主導権も、いつも彼にあった。



 はっきり言って、私はバカで哀れな女だったと思う。



 喧嘩になっても、どうせ勝てないのだから泣いて謝ることしかできなかった。一人になりたい日でも、呼ばれれば何も考えずに会いに行っていたし。何も興味のない事を、彼が好きだからなんとか理解しようとして空回りしたり。



 そんなストレスが募って、なんだか疲れてしまった。だから、私の方から別れを告げたのだ。



 彼は、二つ返事で別れを了承した。呆気なさ過ぎて、やっぱり私は愛されていなかったんだって実感してその日は泣いたのを覚えている。



「ありがとうございます、お疲れ様です」

「こんばんは」



 とはいえ、今となっては別の人と結婚しているのだからただの思い出だ。

 にも関わらず、たまに思い出してセンチな気分になるのは一体どうしてなのだろう。



「どちらまでですか?」

「千葉の松戸まで」



 やっぱり、顔かなぁ。エッチも上手だったし、お金とか生活とは関係のないところの魅力が大きかったのかなぁ。



「随分遠いですね、高速使いますか?」

「それでお願いします」



 ……まぁ、違うってことは分かってる。



 未練なんて今更ないけれど、あれだけ好きだった彼が私に少しも思いを抱いてくれていなかった事が、すごく悔しかったんだって。



「かしこまりました、安全運転で出発します。シートベルト、お願いします」



 ただ、愛してるの一言も貰えていなかった事が心残りなんだって。本当にそれだけを、こうして酒に酔った日は思い出してしまうのでした。



 ――カチャリ。



 私がシートベルトを締めると、間もなくしてタクシーは動き出した。



 新宿の歌舞伎町から松戸まで、タクシーのチケットがあるから出来る贅沢だ。

 今日は、久しぶりに友達と女子会に出てきて、気が付いたら終電もなくなってしまったから、こうしてすぐにタクシーが捕まってくれたのは助かった。



 運転手さんも、何だか物腰が柔らかいし。今日は、本当にいい日――。



「……え?」



 ふと、ダッシュボードに刺さっている乗務員証に目をやると、そこには先程まで思い浮かべていた名前が書かれている。

 間違えるハズがない、彼だ。彼の名前は、滅多にない珍しい名前だったし。写真も、少し歳をとっているけどあの頃の面影がある。



 き、気まずい。彼は、私に気がついているのだろうか。



「あの、すいません」

「はい、なんでしょうか」



 バカ、どうしてわざわざ声なんて。



「松戸まで、どのくらいかかります?」



 すると、彼は大袈裟に耳を傾けて「んむむ」と呟き。



「そうですねぇ。今の時間でしたら、一時間くらいで着くかと思いますが。あまり確かな事は申せないんです。すみません」

「い、いえ。そうですよね、もし到着しなければクレームになっちゃいますもんね」

「そのとおりです。お気遣い、感謝いたします」



 バックミラー越しに、彼が私の目を見たのが分かった。しかし、彼はあの大きな目にシワを寄せると、あの時と変わらない笑顔で微笑みかけた。



 ……やっぱり、イケメンだ。決して遊んでるふうに見えないのが、本当にズルい。

 というか、私のこと全然気付いてない。髪は切ったけど、少しくらい期待したのに。



「眠らないなら、ラジオとか聞きますか?」

「いえ、いいです」

「そうですか、失礼いたしました。車内は寒くないですか?」

「大丈夫です」

「かしこまりました」



 ゲートを潜って首都高に乗ると、高くなっているカーブから代々木の風景が見えた。ここから赤坂を経由してトンネルへ潜るのだろう。



「う、運転手さん。お若いですね」

「今は若いドライバーも増えてますからね、業界的にもそういう人材を積極的に雇ってるんですよ」

「そうなんですか。なんで、タクシーの運転手になったんですか?」



 ダメだ。どうしても喋りかけてしまう。それにしても、本当にどうしてタクシーなんだろう。はっきり言って、全然似合わない。



「大した理由はありませんよ。ただ、興味があったからやってみたんです」

「そ、そうですよね」

「お客様は、何の仕事されてるんですか?」

「私ですか!? わ、私は事務員です」

「そうですか。なんの業界の会社なんですか?」

「えっと、銀行です。晴海通りにあるヤツ、知ってます?」

「ほぇ〜。凄いですねぇ。こんな時代ですから、保険や手当の関係で忙しそうですね」

「そうなの!」



 酔っ払ってることもあって、私はついつい彼に愚痴をぶち撒けてしまった。

 ぶっちゃけ、友達と会っても私は聞く側に回ることが多いから、さっきもストレスを解消出来たとは言えなかったのだ。



「だから、本当に大変なの。しかも、上司もセクハラを怖がって当たり障りのない事しか言わないし。切羽詰まってても、イマイチ緊張感がないんだよ」

「はは。お客様も大変ですが、上司の方も世情と板挟みで辛いでしょうねぇ」

「女だって分かってるんだから、よっぽど酷くなければセクハラ認定なんてしないのにさぁ」

「その道のプロでもなければ、女の人の気持ちは理解出来ないかもしれないですねぇ」



 ……酷い。



 顔がカッコよかったとか、背が高かったとか。それだけの男だって思わせてくれたからちゃんと失恋出来たのに。どうして、今更そんなに親身になるのよ。



 一見の客にすらこんなに優しくしてくれるのに、どうしてずっと好きでいた私の事は見てくれなかったのよ。



 バカ。



「運転手さんも、何か心当たりあるの?」

「そうですねぇ。ワタクシは、恋愛からは遠い存在なのであまりないですかねぇ」

「嘘つき! 絶対にあるでしょ〜。さっきいっぱい聞いてくれたから、今度は私が聞いてあげるよ」



 外を見ると、レインボーブリッジから台場を経由して京葉道路へ入るところだった。

 前にこの景色を見たときはなんてことなかったのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう。



「そうですねぇ、謝りたい人ならいますかねぇ」

「謝る?」

「えぇ、大学時代に付き合っていた子がいたんですけどね。あんまりにも酷いことをしてしまったので、一言謝りたいなぁと」

「なんでですか?」

「本気で不安だったのは知ってたんですけど、ワタクシ自身も子供だったので気遣いが出来なかったんです」



 ……。



「そのせいで、何度か泣かせてしまったんですけどね。思い返してみれば、他の子には本気で怒るほど感情を動かされたこともなかったので。今となっては、ワタクシが彼女に依存していたんだろうなぁと思ってます」

「そ、そっか」

「なので、たった一言。ごめんなさいと言って、あなたがいないとダメだって素直になればよかったと後悔してます。それ故の謝罪です」



 信じられない。そんな素振り、まったく見せなかったくせに。



「じゃあ、謝ってあげればよかったじゃん。大人になってからでも、ラインとかすればよかったじゃん」



 もう、10年近くも経つのに。キャンパス内ですれ違っても、一言も声をかけてくれなかったのに。



「ワタクシ、昔は虐められてたんですよ」

「は、はい?」



 知ってるよ、だってその話してくれたもん。



「それが、成人式の日にそのいじめっ子たちに謝られたんですよね。『あの時は悪かった、許してほしい』って」

「うん」

「それを聞いて、ワタクシは本気で腹がたったんです。あれだけ酷いことをしておいて、今更謝るだなんて。そんなの、自分たちの罪悪感を打ち消す為の謝罪じゃないかって」



 ドキリ。心臓が、大きく跳ねたのが分かった。



「悪者は、最後まで悪者でいるべきだというのがワタクシの哲学です。なので、悪者サイドに回ってしまった自分を例外にしてはいけないと思ったんです。謝ったら、きっとあの優しい彼女はワタクシの事を赦してしまったでしょうから」

「……そんなこと」



 言い返そうと思った瞬間、長いトンネルに入った。アスファルトを刻むタイヤの音が大きくて、他には何も聞こえない。ここで何かを言っても、彼には届かないって理性的になった。



 だから、自分が思わず若返った気になって、タメ口を使っている事にも気が付いた。恥ずかしくて、顔から火が出そうだ。



「こちらから高速を降りますね」

「は、はい」



 彼がピッとスイッチを押すと、機械音声が流れて車内に響いた。駅へ向かう途中は、さっきまでの轟音が嘘みたいに緩やかで心地よいスピードだ。



「もしも、もう一回やり直せるとしたらどうしますか?」

「依存体質のワタクシですから、きっとどこかで痛い目を見ないと今みたいに穏やかでいられなかったでしょうし。また、同じことをするんだと思います」

「答えになってないですよ」

「すみません、確かなことは申せないんです」



 そう言って、彼は静かに笑った。

 小さな声が愛おしくて、同時にどうして自分も彼を分かってあげられなかったんだろうって気持ちになって。



 でも、今の夫が好きだから。私は、何も言わずに深く息を吐いた。

 悪者が悪者でいるべきならば、善者は善者でいるべきだ。私は、被害者でいるべきだ。



 あの恋に、ケジメなんて必要ないのだ。



「長いご乗車、お疲れ様でした。料金は――」



 私は、機械に表示された金額をタクシーチケットに書き込むと彼に手渡して鞄に手をかけた。



「……なら、今のその人に言いたい事とかないんですか? 謝る以外に」

「いい人でしたから、きっと結婚しているでしょうし。『末永くお幸せに』、といったところでしょうか」



 その時、彼は鏡越しではなくまっすぐに私の目を見ていた。白いマスクと、アイラインを引いてるみたいな大きな目。

 ライトが点って、随分と白髪が増えたんだなぁって思った。ずっと、不器用なままで失敗し続けて、その先でタクシーの運転手に辿り着いたんだなって、なんとなく思った。



 ……余計なお世話だ、バカヤロウ。



「ありがとうございました」

「えぇ、おやすみなさい」



 そして、私が降りると彼はチケットの裏に何かを書いてしまい走っていった。なんの余韻もなく、目配せする事もなく、私の家を見るワケでもなく。ただ、東京へ。



 私は幸せだ。だって、今は他の人が一緒にいてくれるし、彼にはずっと後悔させられていたのだから。

 あんなに泣かされて、酷い目に合わされて、ならばその報いと罪の重さをずっと心に抱えて生きていけばいい。



 きっと、時間が巻き戻ったとしても、私は彼の内面なんて見ている余裕はないと思うから。



 ……私は、少しだけ涙を流して夫に抱き着いた。

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