12-2 魔の手の及ぶ先 2

 海を流されていたはずの鎮波姫がゆっくりと目を開けると、そこは知らない部屋であった。

「姫様! お目覚めになられましたか!」

「永常……? ここは……?」

「ちょっと待っていてください。破幻はげん殿!」

 鎮波姫の問いには答えず、ベッドの横に座っていた永常はドタバタと部屋の外へと出て行った。

 周りを見回すと、部屋のつくりや家具の趣、寝具の様式などが明らかに倭州とは違っていた。

 石造りの壁や天井、地面がむき出しの床。質素ながら並べられた家具に施された意匠は、倭州のモノとはデザインが全く違っている。

 一目で異国だと気付く。

「ここは……ルヤーピヤーシャなのですね」

 数は少ないが、家具などのデザインはルヤーピヤーシャのものである。

 実物を見るのは初めてであったが、書物や人伝などから見聞きした情報と合致する。

「本当は列島へ戻るつもりでしたが……」

 鎮波姫が海へ落ちる間際、使用した魔術には列島へと帰れるように願った。

 だが、魔術は中途半端に成功し、鎮波姫と永常を無事に岸へと渡したものの、望みの場所へは連れて行ってくれなかったのだ。

「やはり、征流殿の陣がなければ、充分に発動は出来ませんでしたか」

「失礼」

 ドアがノックされた後、永常とともに見慣れない男性が部屋へと入ってきた。

 年恰好は鎮波姫や永常よりも少し年上のようだ。とは言っても白臣ほど老けているようでもない。人生において今が隆盛の時、と言った感じだろうか。

 細い目をしており、開いているのか閉じているのかわからないぐらいであったが、全体的な表情は柔和さがうかがえる。

 また黒く長い髪はポニーテールのように結われ、女性のように手入れが行き届いているようにサラサラであった。

 その若い顔立ちや長髪がかなり中性的な印象であるため、最初は女性かと思ったが、声は間違いなく成年した男性のモノ。ゆったりとした服を着てはいるが、体つきも確かに男性に見えた。

 また基本的な顔立ちや浅黒い肌を見るに、やはりルヤーピヤーシャの人間であることもわかった。

「お目覚めになられたようですね」

「あなたが私たちを助けてくださったのですか」

「いかにも。私は破幻と申します」

「倭州の名前……?」

 顔つきはルヤーピヤーシャの人間なのに、名前は倭州のモノ。

 そこに違和感を覚えるなという方が無理だ。

不躾ぶしつけな質問ですが、あなたはどちらの出身なのですか?」

「私が生を受けたのは確かにルヤーピヤーシャです。ですが、倭州に住まわせていただいて、かなり長くなります。それこそルヤーピヤーシャに住んでいた時間よりも」

「理由をお聞きしても?」

「アスラティカに住みづらくなってしまったので、逃げたのですよ。海へ逃げて誰にも知られない天地で過ごそうと思ったのですが……まさか先人が文化を築いている倭州へたどり着くとは思いませんでした」

 住みづらくなった理由について、それ以上何も言ってくれなかったということは、その辺は話しにくい事なのだろう。

 鎮波姫もそれを察し、それ以上突っ込んで聞かないことにする。何せ相手は命の恩人だ。

 しかし、だとしたら謎なことが増える。

「確認したいのですが、今、私たちがいるこの場所は、倭州なのですか?」

「いいえ、ルヤーピヤーシャです。あなた方は海を渡ってアスラティカ大陸へと渡って来られました」

「……あなたはアスラティカに住みづらくなったのでは?」

「そうです。ですが、理由あって……いや、隠す必要もありますまい。あなた方を助けるため、私は数日前からルヤーピヤーシャへ戻り、この場所でお待ちしておりました」

「まるで私たちがここへやってくるのを、最初から知っていたような言い方ですね」

 何もかも計画通りだというのなら、もしかしたら破幻という男も、金象たちの仲間かもしれない。

 そう思って鎮波姫は少し警戒を強める。

 だが、破幻は笑って手を振った。

「怖い顔をなさらないでください。申し上げたように、私はあなた方を助けるためにここにいるのですから」

「では、どうして私たちがここへ来るのを知っているのですか?」

「私は少し、占いというのが得意でして。……いえ、ぶっちゃけると、占いというのも神火宗の魔術の一環なのですが」

「神火宗……魔術……」

 それを聞いて警戒するなというのが無理な話だ。

 鎮波姫たちは神火宗の息のかかった人間に追いやられて、今この状況に陥っているのだから。

 怖い顔を崩さない鎮波姫を見て苦笑しながら、それでも破幻は話を続ける。

「私は元々アスラティカの人間ですから、神火宗の魔術にも馴染んでますからね。そしてたまたま、私にも魔術を扱える才能があった」

「そんなアスラティカの、神火宗の人間が、私たちを助けてどうするつもりなんですか?」

 鎮波姫にとってみれば敵である要素しか持ち合わせていない破幻。

 答えによってはここで刃を交えることになるかもしれない。

 だが、そんな鎮波姫に対して、破幻は常に穏やかだった。

「単刀直入に言いましょう。私はとある人物を敵視しています」

「とある人物というのは……?」

「あなたも名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれません。蓮姫という人物です」

「蓮姫……ッ!?」

 倭州で聞いた忌むべき名前。

 鎮波姫たちを今、こんな状況に追い込んだ黒幕の名前であった。

「あなたも蓮姫を知っているのですか?」

「ええ、先ほども申し上げた通り、私は占いに長じておりまして。それによって世界中に仇なす存在が示唆されたのです。それが蓮姫」

「世界、ですか……?」

「はい。そして、私の占いによれば、蓮姫の企みを挫くのに、あなたの存在が大きく関わると出ました。ゆえに、あなたたちを助けるのは蓮姫を打倒するのに当然の行動なのです」

 急に規模が飛躍してきて、鎮波姫も少し困惑する。

 倭州の支配を狙っているだけかと思いきや、どうやら蓮姫の狙いはもっと大きいらしい。

 しかし、その話の根拠は破幻の占いとやらである。どこまで信用できるか怪しいものだ。

 怪訝な顔をしている鎮波姫を見て、破幻は少し苦笑した。

「急にこんなことを言われても、信じられませんよね。大丈夫です、すぐに信用してもらう必要はありませんから」

 自分でも突拍子もない話をしているという自覚があるのだろう。

 困ったように頭を掻いた破幻は、沈黙を嫌うかのように言葉を続ける。

「とにかく、あなたたちを助けるのは私にとっては先行投資であり、当然の行動なのです。なぜなら私は私の占いを信用しているから、それこそが私の利益につながるからです」

「つまり、あなたはあなたの利益のために、私たちを助けた、と」

「海から回収しただけで終わると思ってもらっては困ります。これからも支援させていただきますよ」

「具体的には?」

「お話を聞いてくださるのなら、場所を変えましょう。もうすぐ食事時ですから」

 そう言って、破幻はドアを開ける。

 奥にはリビングダイニングのような場所があり、テーブルには食事が用意されていた。

 確かに、言われてみれば前回の食事からだいぶ時間が経っている。

 話を聞くなら食事をしてからでも遅くはあるまい。


****


 破幻が用意してくれた食事はルヤーピヤーシャの地元料理ではなく、鎮波姫たちにも馴染みのある倭州料理であった。

 ルヤーピヤーシャにはないような食材まで用意してあり、どうやって調達したのかは謎であったが、特に毒が盛られている様子もなく、味も大変美味であった。

「破幻さんは、料理もお上手なのですね」

「まぁ、一人暮らしも長いですから、必然とそうなりました」

 改めて家の中を見回しても、この家には三人以外に誰もいないようだ。

 この料理も破幻が用意したもので、永常にこっそり尋ねても、全く手伝いをしていないという。

 調理場を眺めてみたが、恐ろしくきれいに片付いており、きっと料理中もかなり手際が良かったのだろうと推察される。

「食器、下げてもよろしいですか?」

「は、はい」

 空になった食器を、破幻がてきぱきと片づける。

 その間、鎮波姫も永常も、破幻の様子を注意深く窺っていたのだが、やはり敵意のようなものは全く感じられなかった。

「姫様、やはり支援して下さるというのは、本心なのでは?」

「その確認も含めて、改めてお話させていただきましょう」

 二人で声を潜めて短く相談する。

 未だに破幻を手放しで信用しきれないが、少なくとも敵ではないのだろう、というのはわかる。話をするぐらいなら全く問題ないだろう。

「さて、ではお話の続きをしましょう」

 片づけを終えた破幻が再び椅子に座り、鎮波姫に向き直る。

「私が行える支援についてですが、とりあえずは舟をご用意できます」

「舟、ですか? それは何に使うのです?」

「ルヤーピヤーシャを、出来るだけ早く離脱していただきます」

 破幻は真面目な顔をしてそんなことを言う。

 確かに、鎮波姫の目的は蓮姫や金象に復讐すること。ルヤーピヤーシャにいてもそれは叶わないだろう。

 だが、そんなに急いで出国する理由もない。

「私がここにいては危険なのですか?」

「鎮波姫さまは倭州で蓮姫の手の者に襲われたのでしょう? それはこの国でも起こりえます」

「つまり、ルヤーピヤーシャにも蓮姫の手下がいる、と?」

「その通り。そして、あなたに地の利のないこの国で襲われれば、今度こそ命を落としてしまうでしょう」

 破幻の言う通り、鎮波姫はルヤーピヤーシャの土地勘などないし、知り合いも全くいない。

 全く見ず知らずの土地で敵に囲まれてしまえば絶体絶命であろう。

 ならばここをすぐに離れるというのには理がある。

「では、倭州に戻って蓮姫の手の者を打倒する、と」

「いいえ、それも難しいでしょう」

「どういうことですか?」

「あなたは姫の血脈でありながら、このルヤーピヤーシャに流れ着いた。道理で考えれば征流殿に戻るのが筋であったのに、です。……察するに、あなたは条件が整わなければ、征流の力を十全に使えないのではありませんか?」

「そこまでご存じでしたか」

 代々の姫が水の流れを操ることが出来るのは、倭州でもごく一部の人間しか知らないことである。金象が海へ落ちる鎮波姫を見て自決を選んだと勘違いしたのも、そこに起因している。

 その姫の力は征流の力と呼ばれ、列島の守士や姫に近しいものにしか教えられていない。

 破幻がそれを知っていることは、まずあり得ない事であった。

「貴様……その秘密を知っているのならば、タダではすまんぞ」

 永常が立ち上がり、拳を握る。

 征流の力は倭州でもトップシークレット。市井しせいの者が知っていていい情報ではない。

 破幻の素性は定かではないが、鎮波姫も永常も彼のことを知らないとなれば、とりあえず列島の人間ではあるまい。

 外部の者に秘密が漏れているなら、まずはその秘密を知った人間を消すのが手っ取り早い守秘の方法であった。

 しかし、落ち着いた様子の破幻は、片腕だけで永常を制する。

「落ち着きなさい、永常さん。守士としての使命を全うする気概は素晴らしいですが、私はあなたたちと敵対しないと言ったはずです」

「問答無用……ッ!」

 床を蹴り、天井すれすれまで飛び上がった永常は、テーブルを飛び越えて破幻へと殴りかかる。

 大きく振り上げられた拳は殺意を乗せて、破幻の顔面へと降りかかった。

 ……のだが、

「もう一度言います。落ち着いてください」

「……なっ!?」

 永常の驚きの声が上がる。

 鎮波姫も信じられないようなものを見たような表情で、少し腰を浮かせた。

 一瞬で、永常と破幻の立ち位置が変わっていたのである。

 永常の拳が振り抜かれた瞬間、破幻は目にもとまらぬ速さで永常の拳を回避し、さらには彼の背後に回って床へと抑えつけたのであった。

「ぐっ……」

「動くと痛みますよ。落ち着いて、私の話を聞いてください」

 完全に腕を極められた状態の永常。反論の余地もなく、ゆっくりと離れる破幻に対して、それ以上の攻撃を加えることも憚られた。

「もう一度、しっかりと宣言しておきましょう。私はあなたたちに敵対する意思はありませんし、むしろあなたたちを支援したいと思っています。私が征流の力の事を知っているのは確かに怪しいでしょうが……おそらくは蓮姫もそのことを知っています」

「永常、座ってください。ここは破幻さんのお話を聞きましょう」

 鎮波姫にも促され、永常は椅子に座りなおした。

 状況が落ち着いたのを見て、破幻は一つ咳払いを挟んでから話を続ける。

「鎮波姫さまの征流の力は、倭州では特級の秘密に当たるのでしょうが、アスラティカでもその力を知っている人間は、極々少数ですが存在しています」

「どうして、アスラティカに私の力の存在を知る者がいるのですか? 倭州とアスラティカが交流を始めたのはつい最近……その中で征流の力を知る由などないはずです」

「征流の力も、神火宗の扱う魔術と同じような力であるからです。術式を読むのに長けた人間ならば、稀に海の様子がおかしいことは察します。……それが海の魔物の仕業なのか、人間の魔術なのかを判断するのは、私のようにその鉾を見るまで確証は得られないでしょうが」

 つまり、破幻はたまに起こる海の変化、征流の力の影響による流れの不自然さに気付き、そこに魔術が発生していることを確認し、破幻はたまたま鎮波姫を拾ったことで戴冠の鉾に付与されている術式のことを確認できたため、鎮波姫が征流の力を持っていると思った、ということであろう。

 おそらく、最初に姫が持つ力と断定したのは、半分はカマかけに近いものだったのだろう。

 永常が激しい反応を見せたことで、その確証を得た、というところか。

「お話を続けます。鎮波姫さまの征流の力が不完全であるなら、ここから列島へ帰るまでの航路の安全は確保できますまい。私が用意できる舟も、それほど強固なものではありませんから、長距離の航海にも不安がありますしね」

 それに、もし万が一、無事に倭州へ渡れたとしても、金象や蓮姫の手下が支配する州へ渡ってしまえば、すぐに鎮波姫は殺されてしまうだろう。

 それでは意味がない。

「では、どうすればよいのですか?」

「未だ蓮姫の影響が薄い、アガールスへと渡るのです」

「アガールス……さらに西の国ですね。そこにはまだ、蓮姫の手下がいないのですか?」

「断言はできませんが、私の知る限りではルヤーピヤーシャより安全であると言えましょう。そして、こちらをご覧ください」

 そう言って破幻は小さな紙をテーブルの上に広げる。

 そこには簡単に筆を走らせた地図のようなものが描かれている。

「アスラティカから離れた場所に描かれた地が倭州。我々の現在地はルヤーピヤーシャの南部、この突起のような半島になります。そして、この半島から西にある内海を挟んだ先にあるのがアガールスです」

「この地図で見るならば、確かに倭州へ渡るよりも航路は短いようですね」

「加えて、内海であれば沖合にいるような強力な海魔も存在しません。小さな舟であっても、征流の力が発動できれば対岸へ渡ることは可能でしょう」

「しかし、破幻さんのいう通り、私の征流の力は完全に海の流れを操るものではありません。いくら倭州より近いとはいえ、この距離を渡ることは出来るでしょうか?」

「征流の力が半端な理由は、おおよそ察しがつきます。神火宗の魔術と同じようなものであるなら魔力不足、もしくは術式不足なのでしょう。ならば私が助力できます」

 神火宗の魔術では、強力な魔術を操る際に大量の魔力か、複雑な術式を要求される。

 これらの不足を解決する方法がいくつかある。

 一つは複雑で長大な呪文の詠唱。声による呪文でもジェスチャーによる呪文でも、複雑な言い回しや発音、身体の動きなどを複数要求する呪文を、半日や一日などの長い単位で詠唱し続けるものだ。途中休憩など許されないので、相応に体力を必要とする。

 もう一つは複数人による魔力や術式の負担。複数人によって魔術成立に必要な魔力を工面したり、呪文の詠唱などを共同で行う方法。

 そして最後に複数の詠唱方や魔法陣による多重詠唱。これは実際に鎮波姫が征流殿で使う魔法陣を使用する詠唱法であったり、ベルエナ防衛時に見せたベルディリーの多重詠唱がその例となる。

 実際、鎮波姫が倭州から逃げ落ちた際、征流の力の発動が不完全であったのは、魔法陣がなかったからである。それは術式不足であるということだ。

 ならば、その不足した分を破幻が補えば、倭州へ渡るような強力な魔術は発動できなくとも、アガールスへ渡る程度の魔術なら成功させられる可能性はある。

「そして、私の占いによれば、あなた方は無事にアガールスへと渡ることが出来ます」

「……よしんばアガールスに渡れたとして、そのあとはどうすればいいんですか? 私たちは敵に復讐する機会は得られるのですか?」

「ご安心なさい。占いではアガールスにあなたを強力に支援してくださる存在が現れると出ています。その人間には全幅の信頼を置いてよいでしょう」

 にっこりと笑って断言する破幻。それだけ自分の占いに自信があるのだろう。

 一通りの話を聞いて、鎮波姫は静かに思案を巡らせる。

 だが、何度考えても結果は同じであった。

「永常、この話に乗りましょう」

「姫様……!」

「どの道、我々はこの土地では誰かの援助なしにまともに歩くことも叶わない……。であるなら、破幻さんの助力は渡りに船です」

 ルヤーピヤーシャは全く未知の土地である。

 本や伝聞で見聞きしたことはあるものの、実際にその土地の土を踏むのもこれが初めてだ。

 そんな場所で、敵が潜んでいる、と言われたなら、いつ命を落としてもおかしくあるまい。

 誰よりも先に破幻が鎮波姫たちを見つけてくれたのは僥倖ぎょうこうであったのだ。

 破幻が鎮波姫を見つけなければ、いずれは蓮姫の手下が鎮波姫を見つけ、殺しにかかっていただろう。

 それを破幻のお蔭で回避できたならば、この命は破幻に預けても良い、という判断だ。

 もし破幻が鎮波姫を殺すつもりだったなら、この短時間でいくらでも機会はあったはずだ。

 だが、鎮波姫はまだ生きている。それは破幻が信用に足る存在であるということ。

 最早、破幻の策を疑う余地もない。

「破幻さん……いえ、破幻様。これまでの数々の無礼をお詫びいたします。我々を助けてくださったこと、改めて深く感謝申し上げます」

「いえいえ、これも私の利益に繋がることですから」

「いずれ、この御恩は必ずお返しいたします。その時まで、この鎮波のかんざしをお持ちください」

 そう言って、鎮波姫は髪を結っていた簪を破幻に手渡した。

 これにもまた術式が付与されているのは、破幻にはすぐに分かった。

「これは……貴重なものなのでは?」

「だからこそ、感謝の印としてお受け取りください」

「……わかりました、お預かりしておきます」

 破幻が簪をしまうのを見てから、鎮波姫は永常に向き直る。

「永常、小刀を」

「え? はい」

 何に使うのかはわからなかったが、永常は言われた通りに懐から小刀を差し出す。

 受け取った鎮波姫は、全く微塵も躊躇なく、簪を外したことによって解かれた長い髪へ、その刃を通したのだ。

「ひ、姫様!」

「まとめておけないのであれば、長い髪は邪魔になります」

 彼女の腰まで伸びる髪は、その一太刀でバッサリと切られ、鎮波姫のうなじが見えるほどとなった。

 倭州の女性はとにかく髪の毛を大切にする風習がある。長い髪は美人の条件でもあった。

 鎮波姫は倭州の女性代表である。女性を象徴する姫には、女性のあこがれを体現するのも仕事の一つとしてあったのだ。

 だからこそ、その髪の毛には丁寧に手入れが施されており、長く、美しいまま保たれていたのだが、今、ここでそれが絶たれた。

 これは鎮波姫の決意の証でもある。

「破幻様も永常も覚えておいてください。私はこの髪が元の長さに戻るまでに蓮姫を討ちます」

「はい、しっかと」「御意」

 頭を垂れる二人を見ながら、鎮波姫はこの光景をしっかりと胸に刻んだ。

 未だ顔も知らない仇敵である蓮姫を必ず討つ覚悟と共に。


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