2ー1 破滅から始まる 1

2 破滅から始まる


 フレシュの村を訪れたボロボロの男。彼が馬を借りてベルエナに向かってから丸一日が経過した。

 その日もフレシュは平和なもので、昨日の一件を気にした風もなく、村人たちは日々の生活を全うし、野良仕事に精を出している。

 ただ一人、村長だけがじっと家の中で何かを待つかのように動かなかった。

「村長様。昨日のこと、気にしてらっしゃるんですか?」

「おや、ミーナ様。……気にもなるだろうよ」

 この日も村長の家に泊まったミーナ。じっとして動かない村長を心配して声をかけたのだが、彼はそれどころではなさそうだった。

「昨晩も話されていましたが……ルクスくんに魔術をかけた僧侶が言った預言の事ですね」

「ああ、昨日、あの男の話を聞くまですっかり忘れてしまっていたが、鮮明に思い出してしまいましたよ」

 十年前、村長も十歳ほど若かったあの頃。

 神火宗の僧侶に媚びを売るため、あの男のいうことを丸っと信じ、ルクスに魔術をかけることを許してしまったあの日。

 その時から村長の心には後悔の念が絶えなかった。

 ルクスに重いかせを背負わせてしまったこと、それによって彼の家全体が歪んでしまったこと、それらすべてが自分の若気の至りによって引き起こされてしまったこと。

 いくら悔やんでも悔やみきれなかった。

 だが、今この時、不穏な影を感じながら、あの預言が本当のことになりそうな状況に、また複雑な思いを抱いてしまう。

 預言が本当になれば、後悔の念は軽くなる。だが、預言はフレシュだけでなくアガールス全体に対する危機を示していた。

 それを手放しで喜べるはずもない。

「十年前の当時、あの僧侶もアガールスと協力して困難に立ち向かう、と言っていました。あれも本当であるなら、きっと今回の危機に対する手段を講じているはずです。……ですが、今にして思えば、あんな与太話、領主様がたがどこまで信用するものか……」

「そこまで不安に思うのでしたら、村ごと避難してしまっては……? ベルエナの方へ向かえば少しは安全なのでは?」

「そうしたら、この村はどうなります? 本当に魔物が発生しているのかも、いつまでこの村を放っておけば良いのかもわからない現状、安易に避難を呼びかけるのも憚られます……」

「ですが、人命には代えられません」

「それは正論ですな。ですが、私も含め、村人はやすやすと自分の畑を捨てませんよ。何せ先祖代々の土地です。そこに金銭的な価値以上のモノを抱いている村人は多いのです」

 旅する僧侶であるミーナには、その気持ちは少し理解しがたかった。

 一所で生活を続ける人間にとって、安住の地である我が家や我が土地というのは命と同等に大事なものだ。何せ、自分の土地があればこそ自分の命がそこに成り立つのだから。

 土地を捨てることと命を捨てることは、ほぼ同義と考えるものまでいるだろう。

 そこに加えて、先祖から受け継いだという付加価値もつけば、なおさら捨て渋る。

 だが、それでもミーナは説得を続ける。

「しかし、私も昨日、西の方を見てきましたが、確かに様子がおかしかったです」

「と言いますと?」

「明らかに様子のおかしい雲が、西の山脈を越えてきていたのです。通常、あり得ませんよ、あんなこと」

 昨日、村にやってきた男のことを聞いたミーナは、そのあとに単身でフレシュの西に赴き、見晴らしのいい場所で偵察を行っていた。

 アガールスは平地の多い国であるため、少し小高い場所からならかなり遠くまで見通せるのだが、その時、ミーナが見たのはあり得ない光景であった。

 高度の低い雲が次々と山脈の稜線りょうせんを越えてこちら側へやってきているのである。

 本来ならば高度の低い雲は山を越えられず、稜線の向こう側で停滞しているはずだ。よしんば山頂を越えてやってくる雲があったとしても、少量のはずである。

 しかし、ミーナはその目でしっかりと見たのである。

 まるで雪崩のように山の斜面に沿ってこちら側へとやってくる奇妙な黒雲を。

「あれが魔物と関係しているかどうかは明言できませんが、しかし異常事態が起こっていることは確かです。件の男性の話にも信憑性が増すでしょう。私はベルエナ方面へ避難することを進言いたしますわ」

「そうは言いますがな、ミーナ様。村にも村の事情というものが――」

「た、大変だ、村長!」

 村長が反論しようとした時、家のドアが勢いよく開け放たれ、外から村人が転がり込んできた。

 血相変えた様子の村人は、荒い息を落ち着けるのも忘れて村長へと駆け寄る。

「ど、どうしたんだ、そんなに慌てて」

「昨日のヤツの話、本当だったんだ! 西の空がおかしいんだよ!」

「空が……!?」

 言われて、村長もミーナも、すぐに外へと出た。


 外に出てすぐに気が付く。

 辺り一帯が妙に暗い。

 昼間であるはずなのにどんよりとした雲が上空を覆い、日の光を遮断してしまっているのだ。

「あ、ああ、雲がもうこんなところまで!」

 それを見た村人は、あわあわと狼狽し、腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。

 ただの天候の悪化ならばこれほど狼狽ろうばいすることもあるまい。だが、奇妙なのは村上空を完全に覆ってしまった雲の色である。

「赤い雲……こんな色、初めて見たわ」

「夕刻にはまだまだ遠い。日の光に染められたわけではなさそうですな」

 つぶやく村長であったが、夕日に染められたのならば、もう少し明るい橙色でもおかしくない。だが、今見えている雲はどちらかと言えば赤黒い。

 まるで血液が空中で滞留し、それが雲となってしまったかのような色に見えたのだ。

「村長様、もはや議論の余地はありませんわ」

「……そのようですな。すぐに村人を集め、東へ逃げましょう」

「私はルクスくんのところへ向かいます」

「お願いいたします」

 手早く算段をつけ、村長とミーナはそれぞれ行動に移った。


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