なにもかもわすれたよ

草森ゆき

ALL NOTHING

 冬は大気が乾燥するから火事が多い。だから火元には充分に注意してほしい。そんな話をスピーカーから垂れ流す車が町内を走り回っている。それはそうだと俺は思う。火事は確かに冬だった。凍えそうな夜は燃え上がる俺の実家のお陰で夏のように暑かった。

 窓の外を見るがもう車はない。でも注意喚起は遠くから聞こえてくる。カーテンを閉める。俺ではなく後ろから伸びた長い腕がそれをする。

「寒くないのか」

 見上げると義兄が立っている。

「もう暗いし、外見てても仕方ないだろ」

「……星とか」

「今日は、曇ってる」

 義兄はカーテンと俺の背後から離れて歩いていく。キッチンの方角だ。冷蔵庫を開ける後ろ姿は何を考えているのかわからない。五年経っても、わからない。

 この人は燃えた姉の旦那で、つまり嫁が亡くなった。義理の実家も、義理の両親も失った。俺は実の姉と実の両親と、大事に飼っていた亀のセッタを失った。

「野菜炒めで、いいか」

 冷蔵庫からもやしを出しながら義兄は言う。なんでもいい。なんにもいらない。どっちも言わないまま俺はソファーに体を沈ませる。

 冬場は大気が乾燥すると、無機質な注意喚起がまた聞こえる。


 姉とは年齢が離れていた。彼女が結婚した時の俺は中学生で、その一年後に家は燃えた。不審火が多発していたと後から聞いた。話したのは義兄で、身寄りのなくなった俺を引き取った二年後に、急に話した。

 放火だった。犯人は捕まらなかった、いや見つからなかった。

 そして犯人はもうどうでも良かった。燃える火の大きさを俺は何度も思い出す。冬の夜は橙色に染まり続ける。姉は偶々実家にいる、俺は偶々バスケ部の友達と遊んでいる、義兄は職場で仕事をしている。

 何度も思い出す。しつこいくらいに脳裏をよぎる。考えないように思考を閉じれば夢として現れて、俺は汗だくで飛び起きる。


 そんな夜に限って、義兄が俺の様子を覗きに来る。


 はじめは不気味だったがなんのことはない。俺が魘されていただけだった。うめき声を聞いてから、自室にいるはずの義兄はそっと、俺の部屋にやってくる。俺が飛び起きると、何も言わずにまた出ていく。でも感触がある。体は汗だくでも、額や頬を流れる汗は拭かれている。

 寝直しながら、魘される俺のそばにいる義兄の姿を、想像する。

 義兄は火事の現場を見ていない。ほとんど燃え尽きた、黒ずんで脆くなった木製の骨組みだけを、翌日に見たらしい。視線を定めずそう話していた姿を思い出す。あの目はあの日の残骸を、現在越しに見つめる目だった。

 姉の遺体も黒かった。


「進路、どうするんだ」

 高校三年生の俺に、義兄はそう聞いた。

「どうもしない、就職する」

「いや、それは、」

「勉強は好きじゃない」

「それでも……それでも、金くらい払えるから、大学には行ったほうがいい」

「行かない」

「……、俺への負担が気になるなら、奨学金制度を」

「行かない」

 義兄は口を閉ざし、俺は立ち上がって部屋にこもった。反抗したわけではない。本当に、行きたくはなかった。

 違うかもしれない。

 生きたくはないのかもしれない。

 なんだか全部、馬鹿らしいんだ。

「なあ」

 追いかけて来た義兄が部屋に入ってくる。

「大丈夫か、おまえ」

 心配そうな顔をして、ベッドに転がる俺の元まで歩いてくる。

「まだ、夢に見るんだろう」

 ベッド下に膝をつき、

「中々言えなかったが、心療内科に行ってみるか」

 そう聞いてきたから、俺は起き上がって義兄の首に両方の掌を押し当てた。

 がたりと大きな音がした。義兄は目を丸くして、馬乗りになった俺を見上げていた。中学生の頃は大きく見えた義理の兄は、今では背丈が変わらなかった。首にかかる俺の手に義兄の掌がそっと乗った。悪かった、と義兄は言った。悪くないよ義兄にいさん、俺も悪いわけではないし、ただ単純に、燃える前に燃やしておきたいだけなんだ。

 腕に力は入らないけど、俺は息を吸い、ゆっくり吐いて、出来るだけ強く目を閉じる。

 瞼の裏には燃える家が鮮やかに花開く。夜空を舐める真っ赤な炎。その中で今、黙ったままの義兄も同時に燃えたことにする。燃えたことにする。燃えたことにする俺が燃やしたことにする。


 なあ、俺は親としても兄貴としても、不甲斐ないかなあ。

 聞こえたぼやきに目を開けて、

「そんなのわすれた」

 なにもかも燃やし終えれば、義兄は少し、いやかなり、諦めたように目を伏せた。

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