「楽園」

@nana-co

第1話


梯子の先には「楽園」がある。

そう信じて、男は登り続けていた。

「楽園」とはいったい何なのか? 正直なところ、それはよく分からない。おそらく、暖かくて居心地がよくて解放的で希望や光に満ちていて…そういった場所なのだと思う。

男は無心に動かし続けていた手と足を止め、梯子の先に目をやった。

白く無機質な梯子は長く長く続いていて、その先は霞のようなもやのようなものに紛れて見通すことができない。それは下を見ても同じだった。梯子は靄に飲まれ、どのくらい登ってきたのか確かめることはできない。周囲はぼんやりと明るいけれど、やはり霧のようなものに包まれていて、遠くを見渡すことはできなかった。

はっきりしないのは景色だけではない。

自分がいつ「楽園」の存在を知ったのか。梯子を登り詰めた先に、それが本当にあると信じたのはなぜだったのか。もうどのくらいの間この梯子を登り続けているのか。記憶にも霞がかかったように、うまく思い出せない。

男は梯子を握り直し、頭を振ってひとつ大きく息をついた。

重要なのは景色でも記憶でもない。大事なのはこの梯子を登り続けることだ。登り続けて、そしていつの日か「楽園」にたどり着くことだ。


それからまたどのくらい登っただろうか。

ふと視界の隅で、青い小さな光のようなものが瞬いた。

ああ、また来た。

男は思わず顔をしかめた。

永遠に続く梯子と乳白色の靄しかない世界に、思い出したかのように時折現れる青い光。小刻みに上下しながら移動するのは、一羽の青い蝶だった。深い青色から明るい青色へ、また濃い青へと自ら光を発するその蝶は、呼吸も忘れて見入ってしまうほどに美しい。

けれど男はその蝶が嫌いだった。

深く青く光の尾を引き瞬きながら、この梯子から手を放すように言ってくるからだ。

必死にただひたすらに登ってきたこの梯子から、降りるように言ってくるからだ。

男はなるべくその蝶を視界に入れないように梯子を登り続けた。速度を少しあげ、その蝶を振り切ろうとした。少しのあいだ身体や顔に纏わりつくように飛び回り、しばらくすると諦めたように去っていく、それがいつものパターンだ。

梯子から降りろだと?

男は両の手に力を込める。今さら放すことなんてできるわけないじゃないか。この手を放すことは、これまでの全てを、ひいては自分自身を手放すことと等しい。

そんなことできるわけないじゃないか。

いつもなら、しばらくすると諦めたように姿を消す蝶が、この度は何故かしつこく男の周りを飛び回った。美しく青い光の尾を引きながら、執拗に何度もその手を放すように言ってくる。

もう憶えてもいないほど長い間梯子を登り続け、男は自分で自覚している以上に疲れていた。そのせいで少しばかり気が立っていた。だから頭で何かを考える間もなく、反射的に身体が動いてしまった。青い光が目の前の横棒に止まり、男に囁きかけたその瞬間、渾身の力でその蝶を叩き潰したのだ。

薄くて繊細なものが砕ける、微かな音がした。

自分のとった行動に驚いて、男はしばらくの間同じ姿勢のまま固まっていた。何が起こったのかを、氷が溶けるようにゆっくりと理解する。それから恐る恐る手を動かして、あの蝶が止まっていたところを確認する。

蝶は梯子の一部になっていた。その姿を崩すことなく青い光も美しいまま、焼き付けられた絵のようになって蝶はそこにいた。ただ、もう動かず何も言わなかった。

男は足早にそこを通り過ぎた。しばらく登ってそっと目をやると、遥か下方にうっすらと動かない青い光が見えた。小さく息をつく。ほっとしたような悔いているような、よく分からない感情を抱えたまま、再び上を目指し始める。

叩き潰す直前、蝶が最後に囁いた音が耳の中でこだましていた。

『この先には、何もないよ』


それからまたどのくらい登り続けただろうか。

あのとき以来、青い蝶に出会うことはなくなった。相変わらず世界には乳白色の靄と梯子だけがあった。

気を散らすものは消え去った。あとは「楽園」を目指し、ただ一心不乱に進んで行くだけだ。きっともうすぐだ。登り詰めたその先に、ついに「楽園」に辿り着くのだ。

男はふと必死にそう言い聞かせている自分に気がついた。説得するように宥めるように言い含めるように、無理やり納得するように。

この先には何もない。

そう言った蝶の囁きが頭の中から消えないからだ。その声が心の中に落とした小さな影に、飲み込まれまいと必死だからだ。

何もない、それはほんとうだろうか―――?

思わず梯子の先に目を向けた男の視界に、青い小さな光が映った。一瞬、息をのむ。動かずにいれば気取られないというかのように身を固くし、男は青い光の様子を窺った。光は動かなかった。男はごくゆっくりと歩を進め、光に近づいていった。

梯子の横棒に、その場所に焼き付けられた絵のように蝶の姿があった。深く青い光を放つその姿は、思わず見入ってしまうほどに美しい。ただそれは動かず、何かを語るようなこともない。

身体の背骨に沿って、何か冷たいものが流れたような感覚があった。それを言葉にするとしたら「嫌な予感」とでも言うのかもしれなかったが、それをはっきりと自覚する前に男は急いでその場を通り過ぎる。蝶の姿が完全に視界から消えるまで足早に登っていく。

今、自分は何に気づこうとした? ほんの一瞬、瞬きをするかしないかのほんの短い間、頭をかすめた可能性は何だった?

いや、そんな筈はない。男は頭を強く振って、浮かびかけた考えを振り払う。偶々だ。偶々、二羽目の蝶がそこにいた。ただ、それだけだ。他にどんな可能性がある? 自分は確実に「楽園」に向かって進んでいる。奮い立たせるかのように、敢えて力強く足を進めていく。

いつの日か、必ず必ず「楽園」に辿り着くのだ。たぶんそこは暖かくて居心地がよくて解放的で光と希望に満ちていて―――

そんな男をあざ笑うかのように、梯子の先に三度みたび光が現れた。


梯子を握る手がじんわりと汗ばんでくる。うるさいほどに身体中で拍動を感じる。

いいや、まだだ。まだ終わりじゃない。同じ蝶だとなぜ言える? これまで何の変哲もなかった梯子の所々に、こうして蝶の模様が現れ始めた。これはもしかしたら、「楽園」が近いという証拠じゃないのか。

その証拠を見つけようと、男は焼き付けられた絵のような蝶の姿をしげしげと眺めた。梯子の一部のようになっても、それでもなお深く青く光を放ち続ける不思議な蝶。飛び回っているときには分からなかったが、深い青の羽根にはうっすらと銀色の糸のような縁取りがあった。引き込まれそうなほどに美しい。

けれど残念なことに、その姿から「楽園」が近いことを示す手掛かりは得られなかった。そもそも、この蝶は梯子から手を放すようにさんざん勧めてきていたのだ。あげくの果てに、梯子の先には「何もない」とまで言っていた。そもそもそれが、この蝶がこの姿になった原因ではないか。

蝶などに手掛かりを求めた自分が可笑しくなって、男はその青い体を指で弾いた。惑わされてなるものか。諦めてなるのもか。この梯子を登りきり、いつか必ず「楽園」に辿り着くのだ。

また繊細なものが砕ける小さな音がした。男の指に弾かれて、絵になった蝶から羽根が二枚、剥がれて霞の中へ舞いながら消えていく。それを見送り、男は再び梯子を登り始めた。


次に梯子に現れた蝶は、羽根が二枚欠けていた。

もう、完敗だった。

ゆっくりと、ごくゆっくりと何かが剥がれ落ちていくように、気力が削がれていくのが分かった。考えることを放棄した頭の中で、蝶の囁きが繰り返し響いている。

『この先には何もないよ』

そんな筈はない。最後の力を振り絞るように、何かが抵抗する。前に進めていないことを知ってもなお、言い続ける。まだ行ける。まだ終わらない。まだこの手は放さない。だってもしかしたら、あとほんの数段登った先に「楽園」があるかもしれないじゃないか。そんなの怖くて放せない。

同時に、別の声がした。

もういいじゃないか。辿り着けないとしても、いいじゃないか。辿り着けない自分を許してやっても、もういいじゃないか。

ふと、手も足も、身体中が悲鳴をあげていることに気がついた。もうずいぶん前から、ただゆっくり休みたいと思っていたことに気がついた。

その瞬間、梯子から手が離れた。


気がつくと、男は仰向けに横たわっていた。

長く深く眠ったような気もするが、実際のところは分からない。ただ気分はとても良かった。

背中をつけて大の字になったのは、いつ以来だろう。何も掴んでいない自分の手を見るのはえらく久しぶりな感じがする。

梯子を掴まない手―――それは「楽園」を諦めたことを意味している。けれども、そこには恐れていたような後悔も絶望もなかった。もう何も目指さなくていい、もう何も求めなくていい。重い荷物を下ろした後のような、安堵と解放感があった。

男の視界に、ふと白い梯子の姿が入った。上へ上へと続く梯子の先は靄の中に吸い込まれていて、どこへ続いているのか見通すことはできない。

自分はいつからあの先に「楽園」があると思い込んだのだろう。「楽園」を目指そうと思ったきっかけは何だっただろう。梯子の一段目を登ったのはいつだっただろう。何も思い出せなかったが、梯子から手を放した男には、それが何であるかが分かっていた。梯子は直線ではなく、巨大な巨大な輪になっていて、それがごくゆっくりと回転してる。そう、だからいくら登ろうとも「楽園」に辿り着くことはできない。そもそも「楽園」は存在しない。

『その先には何もない』

青い美しい蝶は真実を語っていた。

男は仰向けのまま大きく深く息をついた。口元には自然と笑みが浮かんでいる。暖かく居心地がよく光と希望で満ちた「楽園」。

今この瞬間、自分はまさにその「楽園」にいるような心地だった。

男の胸のあたりがふいに青い光に包まれた。かと思うと、そこから一羽の蝶がふわりと飛び立った。青く深く美しく光の尾をひいて、上下に揺れながら高く高く舞うように昇っていく。

ああ、そういうことだったのか。

男は目を細めた。

「楽園」を求め、登り続ける誰かの元へ飛んでゆくんだな。

霞の向こうに消えるまで蝶の姿を見送ると、男はゆっくりと立ち上がる。心も身体も軽やかだ。ひとつ伸びをして、歩き始める。光のような希望に満ちていた。

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