第2話 私が母親になっても
優花と一緒にやってきたのは、新宿の一等地にある大きな高級百貨店。明治創業の老舗であり、三十歳手前になった琴子でもなかなか入るには少し気構えてしまう場所だ。特に、大きな吹き抜けの中を上へ上へと伸びていくエスカレーターは、普通のエスカレーターよりも強い威圧感を感じる。
(化粧品コーナーなら、よく来るけど、やはり高級ブランドが平然と並んでる場所はなかなか……)
逆側にある降りるエスカレーターの方を見るとちらほら若い人もいたりする。しかし、言わばミセスやマダム世代の人達のが多いように感じた。
「で、優花は何買うの?」
「きれいめの服……実は私、今度……彼氏の親に挨拶に行くの。この前プロポーズされて」
琴子の疑問に答えるために、優花は随分おめでたい報告する。しかし、その口調は随分と口淀み、優花の顔も少し顔が強張っていた。
琴子はその様子を不思議に思いながらも、頭の中で優花の彼氏を思い出す。
と言っても、二人は会わなかった時間も最近は長く、最後教えてもらった彼氏は大学から付き合っていた人だったはずだ。
「おめでとう。彼氏? あれ、バンドマンの?」
バンドマンのベースだったよな。琴子は必死に頭の中で、過去の記憶を掻き出した。たしか阿佐ヶ谷や高円寺が似合う古着を着こなした少しロン毛の男、だったはずだ。
しかし、そんな琴子の言葉に優花は顔を顰めた。
「いつの話してるの。とっくに別れてるよ。今は大手商社の営業さん、アレとは違って誠実な人よ」
「ごめんごめん。そうなんだ、でも挨拶に行くから、一張羅買いに来たんだね」
含みのある言葉に、琴子は地雷に触れたことを察し、慌てて話を元に戻す。
それに、誠実ではない元恋人ほど思い出したくないものはない、それは琴子もよくわかるから。
「そう。彼に言われたのよ、両親に会わせるからいつもとは違って、年相応の落ち着いた格好をしてほしいって」
含みを持った言葉に、琴子は思わず顔を顰める。
「落ち着いた格好ねぇ……」
正直に言うと、優花の格好は琴子から見たら落ち着いた格好に含めても良い服だと思っている。可愛いお嬢さんが可愛い服を着ているようにしか見えない。
琴子の服装は、自分の好きなファッショナブルに極振りをしているため、正直に言うと色や柄は派手だ。
そうしている間に、エスカレーターに乗っていた二人は目的の階に到着。
4階、婦人服フロア。
目の前には素材や縫製を重視し、洗練されたデザインの服が並ぶ。絶妙なアースカラー、グレースケール、やわらかなカラー物。
「何を思って、落ち着いたなのかわからないよね……でもさ、彼は、多分こういう服のこと指してるんでしょうね」
優花は、少しばかり諦めに近いような言葉を吐いた。たしかに、目の前にある服で構成されていたなら、それは落ち着いた服装の枠組みに入るだろう。
琴子もこういう服は、割と好きだ。けど、それはあくまでも、ポイントとして使う派手な服とのバランスを取るために好きであるだけ。
なにせ、琴子はナチュラルな服を着ると、途端に垢抜けない印象になってしまうのだ。
また、優花は似合うだろうが、それでもいつもの服に比べて寂しい印象になってしまうだろう。
ここに、服の系統には優劣はない。
あの店で輝く店員はナチュラルな美が似合い、優花は可愛いものが似合い、私はモード系が似合う。
それだけではあるが、世間の目はどうしてもそれを区別し、差をつける。
「で、ここから選ぶの?」
「多分。でも、正直、私はこの階に来てもときめかない」
目的の階に来てみたは良いものの、優花の顔は益々暗くなって行くばかり。琴子はその様子に思わず尋ねたが、やはり返事も良くない状況だった。
「琴子、選んでよ、私に似合いそうな服」
あまりにも投げやりなお願い。思わず、琴子は眉をぐっと寄せたが、ここでまた言い返しても意味がない。仕方ないと言わんばかりに、「少し考えたいから」と優花をエスカレーター横にあるソファまで誘導した。
ただ二人掛けのソファは丁度良く空いてる訳もなく、仕方ないのでエスカレーターの吹き抜けを見ながら、琴子は口を開いた。
「選ぶのは、今回の挨拶の服だけでいいんだよね?」
今の優花にそれは問わなければならない、琴子はそう思ったのだ。この返答次第では、琴子としては、あのカフェでの話も、違った見方をしなければならなくなるからだ。
「……そうだと思いたい。今回だけで、あって欲しいって思ってる。私は、私が好きな可愛い服を着ていたいもの」
振り絞られた優花の言葉は、まるで駄々をこねる子供のようにも見えるだろう。けれど、琴子もそれはよくわかる気持ちだった。
「むしろ、そうしてほしい。そんな苦痛な顔で服を選ばれても、服も困るでしょうしね」
琴子の言葉は、少し棘がある。しかし、優花にとっては、自分の気持ちに寄り添ってくれているのも伝わってくる言葉だった。
「だよね。彼にも言った。そしたら、彼のお母さん、厳しい人らしくて。私の写真見て、服装が嫌らしい。って、話でね、だから何度も彼からもお願いされて」
(優花の服装でだめなら、どんな格好でもイチャモンつけそうだが)
琴子は思わず出かかった言葉を一度飲み込む。まだ、話は続いている。言うのは今ではないからだ。
「そしたら、喧嘩になってさ。最後に彼に言われたの、なんて言ったと思う?」
「……普通なら、『今回だけだから』とか?」
「『母親になったら、そんな格好してられないでしょ?』って」
優花の言葉に、琴子は思いっきり顔を顰めた。
「いや、いつの時代よそれ」
琴子の素直な喉は、その言葉を止めることは出来なかった。そして、思わず「しまった」という顔をして、口を抑える。
女同士の会話において、他人の恋人を悪く言うのは、かなり悪手なことだから。
しかし、優花はその言葉を聞いて、「プッ」と吹き出した後、乾いた笑いをこぼした。
「あははは、本当に、それよね。でも、彼、本気なの。私にさ、お金まで渡してきてさ。この階、お母さんの好きなブランドがあるんだって」
時代にそぐわない言葉は、往々にしてある。
今は色んな母親がいるのが、当たり前となった時代なのに。それを、一番味方でいなければならない彼氏が言うのは、果たしていいのだろうか。
「逆にこんな高い服着て、母親業なんてできるわけがないじゃん」
優花の言葉に、私は静かに頷いた。
「母親になったら、好きな服着れない。好きな髪型にもできない。みたいな呪いはさ、色々あるよね。男よりも、寧ろ女からのが」
「……当事者になるまで、正直思わなかったよ」
二人はエレベーターを上り下りしている人たちを見ながら、二人は思わずため息になりそこなった一息を吐く。その間は、二人の思うところを脳で考えるには必要な時間だった。
琴子はもう一度カフェでのことを思い出す。
多分だが、カフェでの優花の態度は、彼氏の母親から伝えられたとされる言葉のせいだったのかもしれない。
今まで自分の可愛いを信じてきた優花にとって、悲しい言葉だったのだろう。そして、同じ可愛いを共有してきた私が、変わり始めた。
ある種、防衛本能による八つ当たりのようなものだったのだろう。
三十路手前で八つ当たりをするな、とは思うけれど、人間は簡単に成長できない。
そして、その間を先に破ったのは、やはりと言うべきか琴子であった。
「でもさ、私的には『お前を育てるために好きなことを諦めた』って、親に言われる方が堪えるし、それを言ってしまう親になってしまうくらいなら、親にならないほうがいいと思うのよ。正直、私も似たようなこと親に言われたことがあるし」
「親にならない……」
「そう、子供を生んだのは親の重大責任よ。子供に負い目を被せるのは違うでしょ」
琴子は随分昔のことを思い出した。今ではお洒落を楽しむ母親。しかし、琴子が生まれた頃、父親が勤めていた会社が倒産した。その後、氷河期の中なんとか転職した父ではあったが、少ない稼ぎでは、家族3人を養うのがギリギリ。
しかも、不幸なことに幼い琴子は気管支喘息で、母親は生活が落ち着く小学二年生までは大変な日々であっただろう。
後年、琴子の母がその時のことを思い出し、「あの時は自分のことについて、すべて諦めたと思う。だから、今はこうして人生楽しめてるのが嬉しい」と武勇伝のように話していたのを、琴子はなんとも言えない気持ちで聞いていた。ここまで育ててくれた感謝はあるし、立派な母親だと思う。
けれど、それとは別に琴子は「自分が生まれなければ、母はもっと楽だったのか」と思ってしまったのだ。あの時の自分は確実に傷付いたと思うし、その傷は膿を孕み、じゅくじゅくと
今も痛い。だからこそ、琴子はそんな思いを自分の可愛い子にはさせたくはない。
「それはたしかに、そうだね。子供には罪はないからね」
優花は難しそうな顔をしつつも、その言葉に同調する。ただ、その声は思ったよりも、尻窄みになって、彼女の気分が落ち込んだのがよくわかった。「母親になったら諦めなければならない」と心のどこかで思っていたことは、言わば子供のせいにしようとしていたのと同意義だと、優花自身が気づいたからだ。
「だからさ、子供を不幸にしないならば、母親になっても好きな服を着たらいいと思う。まあ、姑さんに合うときは、少しはフォーマル要素ある可愛いセットアップとかにすればいいんじゃない。今のあなたの可愛いを、無理やり他の人に合わせる必要はないわ」
けど、琴子としては、寧ろこちらのが伝えたい言葉だった。彼女がもし結婚するならば、周りの圧で折れる必要はないし、自分の可愛いを守って欲しいと思ったのだ。
「けどさ、彼のお母さんはまだしも、ママ友とかに言われたら? そういうの、子供の仲にも影響があって深刻だと聞くし……」
「寧ろ、他人の私服ごときでゴタゴタ言う人は、最低限の付き合いでいいんじゃない。いい、フォーマルとか、動きやすい格好が必要なときとか、そういうTPOさえ守ればいいのよ」
まだ結婚もしていないのに、ママ友にまで心配を飛躍した優花に対して、琴子はばっさりと切り捨てる。しかし、ここまで言った後、琴子は「あっ」と顔をした後、取り繕うように言葉を続けた。
「と言っても、これについて私は無責任に言ってるからね。なにせ、私は子供いらないし、結婚もしたくないから」
「琴子、ずっと、それ言ってるよね」
琴子の取り繕う言葉に付けられた長年使い古した言葉、それを聞いた優花の言葉は「またか」というようなニュアンスを含んでいた。琴子はそんな反応に、「まあそうだよな」って思うくらいには、大学時代からずっと豪語していた主張ではある。そして、なぜそんな事を言ってるのかも彼女なりの持論がある。
「いやだってさ、この国、結婚に対しても、子育てに対しても、理想が高いのに、手伝ってくれない。金も出さない。
正直、私にはその理想をクリアできるわけがないのよ。絶対に、余裕がなくなるのが目に見えてる。そして、可愛いはずの我が子を可愛いと思えなくなる。それがとても怖くて仕方ない」
琴子は何度も何度も相手を変えて話してきた内容を、すらすらと話す。この年になると、特にこの持論を話す機会は悲しいことに増えてしまった。
世間が求める子育ての理想を、琴子は断片的ではあるが理解している。だからこそ、自分の可愛い子供を犠牲にしてしまう可能性が怖かった。そして、それを逃げることで、結婚相手を傷をつけてしまうかもしれないのも嫌だった。
それならば。誰かを傷つけるくらいならば。
琴子は独り身で、自分だけの享楽的な人生を送ることを選んだ。
そんなことこに対して、優花は明らかにすらすらと話された内容を、一度自分に置き換えてみる。
理想的な結婚。
理想的な子育て。
理想的な家族。
(私は、今の彼の子を産むかもしれない。もし、産めたとしたら、彼はサポートしてくれるのだろうか。義母になる人と、私は仲良くなれるのだろうか)
今回、彼のお母さんからの言葉を聞かなければならないと、優花は思い込んでいた。
何せ結婚するのだからと、嫁に入るのだからと。でも、嫁に入ると言っても、今の仕事は続けるし、共働きすることになるはずだ。相手は商社マンと言えども、会社なんていつ倒産するかわからないのだから。
そして、優花の中で一つの言葉が出てきた。
「そんな余裕ない子育てしかできない国なら、独り身増えて、人口過疎って当たり前よね」
その言葉はストンと彼女の中でハマった言葉だった。
「ねぇ、琴子。下の階で可愛いコスメ買って、駅前のデパート行こう。私の好きなブランド、いっぱい入ってるの。セットアップくらい、一つはいいのあるはずよ」
吹っ切れたように明るい優花の言葉、琴子は少し急展開のようにも感じたが、まるで潤い取り戻した花のように咲いた彼女に、琴子は笑った。
「いいわね、下の階で香水とかも見てもいい?」
「むしろ、そこは絶対に行こう。実は最近出たとっておきの可愛いヤツあるの」
先程までの重苦しい気持ちとはどこへ行ったのか。晴れ晴れとした表情の二人は、つま先の方向を、降りるエスカレーターへと向けた
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます