雨やどり
染よだか
雨やどり
甘く、霞がかったような色調の、ブルーやイエローのお花が細かくあしらわれた、淡いピンク色の下着、なんですよ、今日。ちょっと高かった。あなたはやっぱり知らないまま眠るんですね。もったいない。こんなことならもっとくたびれたブラもパンツもあったのに。
あなたはいつも私より早く眠る。私がお風呂からあがって、化粧水やら乳液やらを顔にべたべた塗りつけていると、隣の部屋から控えめな寝息が聞こえてくる。それがあまりに安らかだから、私はどうすることもできずに、並んで横たわるほかないのです。
疲れているのでしょう。働いているのだから当然ですよね。それは仕方のないことだし、労働の対価に金銭を得るということは、きわめて立派なことだと思います。私は毎日眠ってばかりいる。時間をお金に換えるということを、もうずっと、していない。
仕事を辞めてしまいました。三月の末のことだから、もう二か月も宙に浮いたような生活をしている。毎日がただ過ぎるばかりなのに、お金はきちんと減ってゆくのです。私はあまりたくさん食べる方ではないけど、だからでしょうか、一杯の珈琲がこの世で一番高いものに思えます。
「お金がないのはわかってるんだけど」
私が無職になったその日、マリは入社式でした。去年まで大学院生だった彼女は、今年から社会人になる。就職祝いにアイス珈琲を奢りました。マリの汗ばんだグラスの中で、ミルクが緩やかに帯を引きながら掻き混ぜられていました。
「私って何なんだろうと思って」
可愛いマリの年下の恋人は、マリを一人暮らしの部屋に招くけれど、コンビニに出かけるとき、わざと財布を持って行かないのだそうです。珈琲は白っぽく濁って、マリはそれをいつまでもストローでくるくるやっていました。氷が溶けて、いくらか色が薄まっても、グラスの中身はなかなか減らなかった。私は店員を呼んで水のおかわりを頼みました。
「やりたいだけなんだよね」
マリの呟きに、私はうまく言葉を返せなかった。
店員が来て、空になったグラスに水を注ぎました。私はすぐにそれを飲み干してしまった。マリの方は一向に減りませんでした。いらないなら私が飲んであげるのに。マリは贅沢だと思った。
外の世界は何もかもが高いので、家に居る時間が増えました。家事も少しはできるようになった。洗濯物を干す前に天気予報を確認する癖もつきました。取り込むときは、あなたのシャツに皺を作らないように気をつけています。いけないのはゴミを捨てそびれてしまうこと。一つの袋にまとめるところまではするんです。でも気づいたら眠っている。
朝、あなたを玄関で見送ってから、私たちの寝室に戻ってくると、敷布の上にあなたのぬくもりが、まだくすぶっているような気がします。だからつい横になってしまって、午前が消える。窓から差し込む初夏の陽のあたたかさが、じっとりと肌を濡らすのを感じて、ようやく一日を受け入れることができます。そんな小さな決心ですら、掛け声が必要になるほどです。
そうして毎日、白昼堂々と惰眠を貪っているものだから、夜はいつまでも夜でした。隣から聞こえるあなたの寝息が健やかであるほど、私の身体は抜け殻のように乾き、意識ばかりが冴え冴えとしている。そんな夜は目蓋の裏に一羽の孔雀を見るのです。ただいたずらに美しいだけの羽を広げて、そこに浮かぶいくつもの目玉が、私の空寝を糾弾する。冷たい星々の輝きのようでも、軽蔑する人々の眼差しのようでもありました。刺さった棘を一つひとつ取り除くためだけに、私の夜は存在しているのでした。
あなたが居ない真昼、あなたの敷布の上で、あなたの残り香を手繰り寄せているうちに、その夢を見ます。
「地味な下着ですね」
私のお気に入りの勝負下着を見るなり、孔雀は吐き捨てるように言いました。
「そんなパステルカラーじゃ、彼は欲情しませんよ。もっと派手にいかないと。この羽をごらんなさい」
と、尾羽をいっぺんに広げて、私を見つめるのでした。翡翠色のメノウが後光のように連なって、それは孔雀の身体の何倍も大きく、値踏みする批評家の群れのようでもありました。
「ワタクシ共のあいだでは、羽の美しさこそが子孫繁栄の条件なのです」
「そもそも下着を見せる機会がないんですけど」
「見せればいいじゃないですか。こうやって」
孔雀が凛と胸を震わせたので、背負った羽は細かく揺れていました。引力が働いている。世界のすべてが、目の前の小さな宇宙に吸収されているのでした。
「私は孔雀さんほど美しくありませんので」
「選んでもらう側としての必死さが足りない」
なるほど確かに、孔雀さんほどの美しい鳥ですら、選ぶ側ではないのでした。選ばれるために彼は必死に努力をしていて、私はそれを怠っているのかもしれない。
「そんなに大きくて、飛ぶとき邪魔じゃないですか?」
「飛ばないので問題ありません。それよりも子作りの方が大事でしょう」
「天敵に襲われたときは?」
「それしきで死ぬくらいなら、子孫を残す資格はありません」
資格。私に欠けているものはそれなのだと思います。でも私は子作りのためにあなたを求めているわけではないのでした。孔雀に言わせれば、自然淘汰されてしかるべき存在、ということになります。
「もし私が孔雀なら、どうしますか?」
孔雀はふん、と鼻を鳴らしました。
「どうもしません。こうして、選ばれるのを待つのみです」
また羽を広げている。つらくないのでしょうか。
午後は突然の夕立でした。慌てて洗濯物を取り込むと、窓側にあったYシャツや靴下なんかは無事だったのですが、ベランダ側はすっかり受け皿になってしまったようで、あなたの仕事着も重たくなっていた。しばらく雨止みを待ってみたけれど、気配はありませんでした。仕方ないから部屋に干そうと取り込んでから、それがあなたの機嫌を損ねるようだったらいやだなと思いました。天気予報は確認したのです。でも当たらなかった。
お風呂場に干したら、疲れ果てて帰ってきたあなたは悲しむかもしれない。濡れそぼったあなたの服が、私の胸のあたりを急速に冷やしていました。早く乾かさなくては。白く光る針金の群れが、地平線の上でぱちぱちと閃いていました。
建物や木の幹が黒々と溶けて、遠くに見える信号だけがアスファルトに照りかえり、泣いているように青かった。ビニール傘からこぼれた水滴は、くっついたり離れたりを繰り返しながら、燃やせないゴミ袋の表面を滑っていました。サンダルで水たまりを歩くたび、ヒナドリの鳴き声がする。噎せ返るような、夏の匂いがしました。
家から十分か十五分くらい歩いたところに、銭湯があります。その一角が小さなコインランドリーになっていて、昔よく母とここに来たのでした。湯船にゆっくり浸かっているうちに洗濯が済んでしまうという優れものです。店内は一面に洗濯機と乾燥機が並んでいて、どこか宇宙船めいている。奥のほうには牛乳の自動販売機もあります。
乾燥機の使い方は簡単で、ゴミ袋の中身をそっくり放り込み、コインを入れてスイッチを押せば終了です。重機みたいに大げさな音がしたら、あとは三十分パイプ椅子に腰かけて待つだけ。
飼っていた猫が布団におしっこを漏らすたび、母は文句を言いながらここまで車を走らせました。その猫はアジサイという名前で、もともと野良猫だったのですが、庭で餌を与えているうちに住み着くようになりました。白とグレーが八の字にわかれた、青い目の猫でした。庭にはやっぱり紫陽花が咲いていました。
あの子はどこへ行ったのだろう。中三の夏、アジサイは消えてしまった。氷が溶けて水が気化して飛んでいくみたいに、とてもとても暑い夏の日、居なくなってしまったのです。いつも食卓が賑やかになると、嗅ぎつけたようににゃあにゃあ鳴きながら足元をついて回っていたのに、ある日突然姿を消したのでした。夏休みが終わっても、アジサイは帰ってこなかった。母は、「きっと他にいい人を見つけたんだよ」と私を慰めました。
思えば、父が死んだのも夏でした。アジサイが居なくなってから約一週間後のことで、トラックとぶつかって即死でした。その混乱のうちに、アジサイの捜索は忘れ去られていました。それでも、アパートの前や道の脇に花を見つけると、つい根元を探してしまう。尻尾を丸めたアジサイが、小さくなって眠っているんじゃないかと思うのです。
そのまた数か月もあとでしょうか。母と一緒に父の愛人を訪ねました。隣町の川沿いにあるマンションの、小さな角部屋に彼女は住んでいて、ベランダが大きかった。西向きの窓は見通しがよく、そこから夕陽を眺めるのが好きなのだと、母が席を外した隙に話しかけてくれました。まるで秘密を打ち明けるみたいに、やさしく。
こちらに向かう途中の事故だったようです、と母が言った。そのときの彼女の横顔を、ときおり思い出します。前髪が目元まで重たく覆っていて、毛先の隙間から瞳がうつろに覗き、少しだけ開いた唇が、何かを伝えたいように見えた。
父とは出会い系サイトで知り合ったそうで、もしかしたら年は私とあまり離れていないのかもしれなかった。二人の繋がりはメールアドレスだけだったから、母が告げなければ、彼女は父の死を知らないままだったと思う。
人生って待つことでしょうか。彼女はどのくらいの月日を、待つことによって無駄にしたのでしょう。私も待ってばかりいるのです。待つことは期待と切り離せない。その期待は、いつだって美しいばかりではなかった。
硝子が破れたような音がしました。あとからカミナリだとわかった。雨は勢いを増していました。軒下をはみ出た筒型のスタンド灰皿が、延々とその銃弾を浴びているのを見ました。きっと今にも立っていられなくなる。
少し外の様子を窺おうとお尻を浮かせたとき、びしょ濡れの男の人が駆け込んできました。彼を正面から捉えるかたちになったので、私はばつが悪くて、またパイプ椅子に戻ってしまった。彼は気にしていない様子でした。
「ここの管理の人?」
くせっ毛なのでしょうか。濡れた前髪が、ひじきを貼りつけたみたいにくるくるしている。でもよく見ると端正な顔立ちで、長い睫毛には雫が引っかかっていました。
「違いますけど……」
「そっか。じゃあ今から見ることは、秘密にしてくれるね」
と言うと、彼はおもむろに上を脱ぎ始めるので、私は思わず視線を伏せるしかありませんでした。ぽたぽたと落ちる水滴が、タイルの上であみだくじをやっている。その先頭が、私のつま先まで来ていました。
「――それ!」
ぬらぬら光る太腿が目の前を通過したなと思ったら、あなたの仕事着を我が物顔で着ている。私が語気を強めても、彼は平然として襟元を改めるだけでした。
「これ、きみの?」
「彼のです」
「じゃあ大丈夫」
全くよくないのに勝手に了解して、代わりにとばかりに自分の着ていた服を放り込んでいる。果ては私の下着を取り出して、「色気がないなぁ」と吐き捨てるのでした。
「服を返してください」
「ちょっと借りるだけだから。乾いたら戻すし。風邪ひいちゃうでしょ」
「ひけばいいのに」
「ホントは風呂行きたいとこなんだけど、刺青あるから入れなくて。見たい?」
「いいです」
「えー、ノリ悪いって言われない?」
はい、とコーヒー牛乳を手渡されて、彼のなかではそれで解決になったらしい。満足げに微笑まれてしまいました。
「謝礼ということで」
どういう数式に当てはめればそれとこれとがイコールになるのか、私にはわかりませんでした。彼は構わず先に飲み始めていて、それが存外いい飲みっぷりだったので、思わず見届けてしまった。
「……綺麗でしょう」
一瞬、何のことを言っているかわからなかった。でも、彼が腕をこちらに見せつけるようにしていたので、ブレスレットのことだと気づきました。腰に手を当てる彼を、ぼんやり眺めていたせいでしょう。
「マラカイトって石で、邪気を払ってくれる。ばあちゃんがそういうの好きでくれたんだよ。占いとかも好きでさ、高くてギラギラしてる壺とか、よく買っちゃうの。アヤシーやつ。人がいいんだろうね」
状況的には彼の方がよっぽど怪しいのですが、そんなことはどうでもよさそうでした。一センチくらいの木星を一列に並べてぐるっと腕に巻いたような、鮮やかな深緑。孔雀のような色でした。
「風呂でも入ってきたら。代わりに服見ててあげるから」
「からかってるんですか?」
「全然。さっぱりするかもよ」
乾燥機には下着とタオルが入っている。これは幸運と言っていいのでしょうか。
銭湯はこんな天気だからかほとんど人が居なくて、水の音しかしなかった。ブラのホックを外すとなんだか息がしやすいようでした。こんなヒラヒラした下着ばかり、店員さんに勧められるがままに買ったけど、たしかに趣味じゃなかった。
真っ裸になって湯煙のなかを歩くと解放感がありました。誰のために着飾る必要もないのだと思いました。三十分前に届いていたあなたのメッセージには、脱衣所で気がついていました。でももう、どうでもいい。
このまま帰るのをやめてしまおうか。そしたらどんなに面白いだろうと思いました。あなたは私の帰りを待ってくれるでしょうか。私を選んでくれるでしょうか。それとも忘れてしまうのでしょうか。私がアジサイにそうだったように。
雨は依然として強く降り続けていました。硝子戸を開くと、夜風が一斉に身体の内側を通り過ぎていって、ひゅっと何かをかすめ取られた気がした。鼓膜をじかに叩き始めた雨粒が耳に冷たかった。いったんそれが皮膚に触れると、内側までじわじわと染み込んで、流れてゆく。それが心地いいと思った。
ねえ私、孔雀に生まれればよかったよ。それならこうして洗濯物が乾くのを待ったりあなたの帰りを待ったりしないで済んだかもしれなかった。そう思わずに愛してもらえるのかもしれなかった。雨だって止まないし夜だって明けない、初めからずっとそうだったんです。違いますか。
あなたはいつ私を選んでくれるんですか。
コインランドリーに戻ると、彼の姿はなかった。代わりに、椅子の上に空の牛乳ビンが置かれていて、そこにブレスレットが引っかけてあった。乾燥機の服はちゃんと戻されていて、触れると仄かにあたたかい。
もう外は暗く、蛍光灯がやけに眩しく感じられた。お風呂上がりなのに背中が汗ばんでいる。スマートフォンが手のひらのなかでうるさかった。
アジサイは今どこに居るんだろう。私のことを恨んだだろうか。それから夕陽が似合うあの部屋のことを考えた。あの何か言いたげな唇のことも。
入口に立てかけておいたビニール傘が見当たらない。ブレスレットはそのお礼だろうか。彼はあの自由な足でどこへ行ったのだろう。彼女も父の死を知って、自由になれただろうか。待つことから解放されて、楽になっただろうか。アジサイもそうだといい。
久しぶりに母の声が聴きたいと思いました。
雨やどり 染よだか @mizu432
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