涙の音

翡翠

涙の音

 私は無音になる瞬間が好きだ。だから音楽をしている。とはいえ、それだけが理由ってわけじゃない。そうじゃないけれど、音楽をしていて一番幸せを感じるのはやっぱり、演奏が終わる瞬間のあの沈黙だ。熱いライトと視線を浴びて、私たち奏者の体温は聴き手の興奮と共に上がっていく。滑らかに動く旋律、体に響く低音、確かに聴こえる対旋律、豊かに鳴る和音。クライマックスの高揚をそのままに、最後の一音が鳴る。余韻が残る。


 そして音が消える。


 次の瞬間、弾けるような拍手が会場を包み込む。この僅かな時間が尊くて堪らない。これが私の思う音楽の醍醐味だ。荘厳なハーモニーも、堂々としたメロディも、あの全てが止まったような間には敵わない。もちろん音が重なる空間も好きだけれど。

「花音!」

 見送りのためロビーに立っていると、聞き慣れた声が耳に届いた。振り返ると、そこにはグレーのスーツに身を包んだ大学時代の同期──いや、彼氏の姿があった。

「樹! 本当に来てくれたんだ」

「うん。花音のソロ聴くために仕事全部終わらせてきた」

 一ヶ月ぶりくらいに聞く心地好い低音に喜びが溢れる。締まりのない顔をしている自覚はある。

「えへへ、ありがと~」

 学生時代の同期とはいえ、付き合い始めたのはつい最近。当時も仲は良かったけれど、私にとってはそれだけだった。付き合うことになったきっかけは、卒業から五年経った今年、久しぶりに元サークルメンバーで飲みに行こうという話になったことだ。最初は行かないつもりだったけれど、グループにメッセージが飛び交ううちになんだかんだ懐かしくなって、結局は参加することにした。樹ともそこで再会した。それからたまに連絡を取り合うようになって、二人で飲みに行ったこともあった。変わらない誠実さと年相応に大人びた態度に、気付いたら好きになっていた。

「ねぇ、花音。一緒に帰ろうよ」

「あー……ごめん。これから楽器片付けたりとか色々あるから遅くなりそうなんだよね」

 私だって、可能なら樹と帰りたいに決まっている。けれど、明日も仕事であろう彼の帰宅を遅くしてしまうのは申し訳なかった。

「そっか……仕方ない、よね。じゃあまた」

「うん。来てくれてありがとうね」

 少し寂しそうに微笑む彼に、名残惜しさを押し殺して手を振った。家に着いたらメッセージでも送ろうかな、寝るまでの十分だけでも話せないかなと思案する。彼の姿が見えなくなったところで、私は奥へと踵を返した。

 結局、私が送ったメッセージに既読が付いたのは翌日の朝早く。残念ながら通話は叶わなかったけれど、こんなに早く起きるはずだった人を待たせなくて良かったとも思った。感想とか聞きたかったな、なんて思わなくもないけれど、でもこればっかりは仕方がない。

 返事を送ってスマホを鞄に仕舞う。既読が付くのはお昼くらいだろうか。

「忘れ物は……ない。よし、いってきます、と」

 誰もいない部屋に、形だけの挨拶を残して家を出た。


 その後も幾度となくメッセージを交わした。けれど実際に会ったのは四回。電話が七回。寂しくないと言えば嘘になる。それでも彼の仕事が忙しいことは分かっているし、私の方も簡単に休むわけにはいかないから、やっぱり仕方がないのだと言い聞かせてきた。

 今日は、ようやく八回目の通話をしようとしている。前回会ってから一ヶ月ほど経っただろうか。彼から誘われるのは半年ぶりで、この三日間は今日のために頑張ってきたと言っても過言ではない。約束の時間になって繋がって、当たり障りのない話が始まって。なんとなく緊張していそうな彼の声色を不思議に思う。合点がいったのは、小さく息を吐く音が聞こえた直後のことだ。

『ごめん、花音。別れよう』

 言葉を、返せなかった。頭が追い付かない。今、なんて? 嫌だ待って。もう何も言わないで。

『あまりにも、その……タイミングがさ、合わないじゃん?』

 仕方がない、仕方がないとお互いに諦め合ってきた。彼が休みの日には合奏があって、私が休みの日は普通の平日で。平日でも彼の仕事が終わる頃に演奏会があったり、私が午前中ゆっくりしている日には彼が仕事中だったり。それでも私は彼が好きだった。会えなくても、話せなくても好きだった。中々会えない分、久しぶりに会えた時の喜びはひとしおだ。

『全然会えないし、話せもしないし……寂しいとか通り越して、なんか、もう何も思わなくなってきたんだよね』

 冷めた、と言いたいのだろう。頭では分かる。言葉の意味は理解している。けれど、それと心が追い付くかどうかは別問題だ。久しぶりだった、久しぶりだったのだ。彼の声を聞けるのは。だから楽しみにしていた。楽しみにしていたというのに。

 機械を通した彼の声が何か言っている。私の頭には何一つ入ってこない。頬を伝う雫がスマホに落ちる音は、彼の耳に届くだろうか。ぼーっとする頭で適当に相づちを打っていたら、いつの間にか話は終わっていた。

『それじゃあ、俺はこれで』

「うん」

『一年間ありがとう』

「……うん」


 ピロン。…………。


 私は無音になる瞬間が好きだった。だけど今、初めてそれが寂しいと思った。時を刻む秒針の音も、私を生かす心臓の鼓動も、決して私を慰めてはくれない。ただ彼の笑顔が心底恋しい。ひたすらに彼の声が聞きたい。

「もういや…………」

 無音に、押し潰されそうだ。

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涙の音 翡翠 @Hisui__

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