沈黙は金  (美しい沈黙)

帆尊歩

第1話   沈黙は金

妻の美智が言葉を話せなくなって、一ヶ月が経とうとしている。

あれほどおしゃべりで、マシンガントークの妻がしゃべれない。

いったいどうなるのかと思った。

あれは二ヶ月前だった。

美智がなんとなく喉に違和感があると言う。

それは一大事ということで、すぐさま近くの内科へ。

えっ、なんで内科かって、行きつけがそこだったからだ。

「今日はどうしました」顔見知りの大先生は、でっぷりとした尻を椅子にはめながら言った。

「実は喉が」と言う美智。

美智としては言葉少ない。

なにしろ、美智ほど口から生まれた人間はいない。

テレビなど見ていても。

「このアイドルの子可愛いね」と言う感想があったとする。

そう言えば良いのに、これが美智にかかると。

「この子の顔、均整がとれているんだけれど、何かがあるね。例えば小さいときに両親が離婚して、二人姉妹の妹がお父さんに引き取られ、自分はお母さん。

生活は裕福とは言えないけれど、安定はしていた。

でも妹に会うことは出来ない。

妹に会いたいけれど段々大きくなるにつれて、妹がどう育ったか分らない。

でもいつ再会してもいいように自分を磨く、磨くと言っても外見を磨くのではない。

内面を磨いていく。

そんな事を繰り替えしていくうちにその優しさと誠実さが顔に浮き出てきた。

そんな顔をしている」

「で、この子はどうなの」

「だから。可愛いねって事でしょう。私が説明しているのを聞いていた」

「だったら、この子可愛いねでいいじゃん」

「せっかく説明しているのに」とこんな感じである。


お堅い国会中継なんかでも同じ。

「この人は苦学して大学を出たけれど、その苦労は世の中の歪みを経験して、それを正したい。

そういう正義感がこの人を突き動かしているよう」

「ああ、良い人そう。ということね」

「なんでそんな簡単な言葉で終わらせるの」

「いやそういうことだろ」

「そうだけど」



「うちは内科だから、喉はちょっとね、まあここが無医村とかなら、頑張るけど。

大通り渡ったところに耳鼻咽喉科があるから、そっちに行ってよ」

外に出て美智が言う。

「これも紹介かな。でも紹介状とか書かれなくて良かったね。あんなんでもお金取られるからね」

「違うと思うけど。体よく追い返されたんだよ」

そして言われた通り、大通りをへだてた耳鼻咽喉科に行くと、ろくに診察もしないうちから今度は本当にお金のかかる紹介状を書かれ、大きな病院に行くことになった。


「診察の結果、喉にポリープがあります。

まあ組織を取って見ないと分からないけれど、まあ悪性ではないでしょう。

でもそこそこ大きいし、もう少し大きくなりそうなので切っちゃいましょ」

「大丈夫なんですか」

「まあ、多分」本当かよと心の中で突っ込んだ。

「痛いんですか」と美智

「いや、もちろん麻酔を掛けますよ。ただ一つ問題が」

「えっ」

「一ヶ月声出さないでください」

「出せないということですか」

「それなら良いんですがね。

出せちゃんうんですよ。

だからばい菌とか、傷口とかが問題で、念のため、我慢してくださいね」


そして現在に至る。

言葉を失った美智。


それはあまりに・・・・。


静かな一ヶ月だった。


しゃべりたいのにしゃべれない、美智本人はストレスがたまったようだけれど、まあ一ヶ月だしと思っていたら諦めたのか、五日で美智はしゃべろうとするそぶりを辞めた。

すると今度は、目で物を言うようになる。

潤んだ瞳で遠くを見つめる横顔、憂いの表情、それはあまりに美しい。

えっ美智って、こんなんだったっけ。

どこかに食事に行っても、店で何かを買うにしても、美智は優しい笑みと、潤んだ瞳でスタッフを見つめる。

軽い頷きや、ジャスチャー。

どこに行っても、そんな美智に誰もが魅了される。

言葉がないことが、より想像力を大きくさせ、本来の美智以上に、気高く、慈愛に満ちた、美しい美智がそこにはいた。

それはあまりに、美しい沈黙だったのだ。

そこに言葉は必要なかった。

それぞれの人が美智の美しさから想像してくれた。

美智は、微笑むだけで、

おはよう。

こんにちは。

こんばんは。

を表現できた。

頷くだけで、

ありがとう。

ごめんなさいを表現できた。

そしてその沈黙をまとった立ち振る舞いで、気高さを表現できた。

まわりの人々はそんな美智に、神のような神々しさを感じた。


診察室で、最後に診察をする。

「良いですよ奥さん。もう大丈夫です。声を出して結構です」その主治医の言葉に美智は最後の沈黙で頷く。

その姿もあまりに美しかった。

美智は言葉を出そうとする。

その言葉に、先生も、看護師さんも、僕も。

そこにいる誰もが固唾を飲んだ。

この美しい口、さっきまで固く閉じられていた口から、どんな美しい言葉が出てくるか。


「やっとしゃべれるー。ああー。だるかった」そこに美しい沈黙は微塵もなかった。

「ああー、美智。感想は?」

「感想。

そんなもん。

ああー、一つあるわー。

やっぱ、沈黙は金だわー」

 

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沈黙は金  (美しい沈黙) 帆尊歩 @hosonayumu

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