41 『色変わり』なき者



 まず三拝。それから三拍手。すると鈴が鳴る。はずだ。


 ちりん。


 身の内から震えが這い上がる。音は、思うよりもはるかに高く響き渡った。

 鳴ったら開扉を赦された事を意味する。

 祠の格子戸にそっと両手を掛けた。ばちり、と何かが弾ける感触がした途端、視界が引き延ばされるような奇妙な感覚を覚えた。思わず瞼をぎゅっと閉じる。

 暫くして体感が落ち着き、恐る恐る眼を開いて、八咫は息を呑んだ。嗚呼、招かれるというのはこう言う事だったのか。実際に中に入って、初めてその意味を理解する。



 八咫の頭上には、ねり色の天球が広がっていた。

 布の地色よりわずかに黄味がかったその空には、所々に薄紅うすくれない刷毛はけで刷いたような痕跡が残されている。また、その全体はきらきらとさんざめいていた。まるで宝玉の粉を塗り込めたかのようだ。

 そしてそんな天の下には、巨大な寝殿造りの母屋が堂々と翼を広げ地に伏している。



 圧倒された。

 あまりの光景に。

 ここは正しく――異空間だ。



 背筋をぐっと伸ばし、その寝殿をじっと強い眼差しで見据えた。

 ひさしの奥には御簾みすが掛かり、その奥に人影があるのが分かる。

 すう、と息を吸い込み、その言葉を紡ぐ。


「――白い玉様、白い玉様、白い玉様。本日のお参りを申し上げます」


 御簾が、ゆっくりと上がる。


 初めて目にするその姿に、八咫は息を呑んだ。そこにあったのは、顔面に黒い穴が穿うがたれた銀髪の女だった。その身は一見して高貴な女性が纏うものと思しき装束に包まれていた。

 八咫は、ゆっくりときざはしを渡った。庇を越え、御簾の下を潜った所に文机があった。その上に一冊の本が置かれている。何の気なしに取り上げて、ぱらぱらとめくった。最後までめくり終わった所で、本を元に戻し、漸く白玉の下へ向かった。ゆっくりと白玉の傍らに膝を折る。

 黒く穿たれた顔が八咫の方に向けられる。そっと両手が持ち上げられ、細く白い指先が八咫の頬に触れた。そのあまりに冷たく儚い様に、八咫は胸を痛めた。ちらと見やれば、確かにその素足は白い石で作られた鎖に囚われている。その事実もまた痛々しい。

 懐から布を取り出すと、それでゆっくりと白玉に触れた。細かな光の粒子が飛ぶ。まるで白玉の内側に凝縮された光を、そうやって削り取っているように思われた。

 自分の髪を刺した布を初めて使い、白玉の肌を拭う。それが、こんなに苦しい思いの下で為されるなんて、想像だにしなかった。

 三つの供え物は省いた。用意をしている場合ではなかったのも事実だが、これは本来のお参りではないからだという思いもあった。しかし、ここにきて今更ながら、やはり正しく過たずお参りを成し得る事がならない自分自身に対し失望の念を抱いた。己が思うよりも、己の中には深い鬱屈と忸怩じくじたる思いがあったのだ。

 ゆっくりと撫で削る様に、白玉の身体を拭ってゆく。そして、気付いた。粒子は、一旦は布に吸い込まれるのだが、それはすぐに布をすり抜けて八咫自身の腕に纏わりつき、そこから身体の方へと吸い込まれてゆくのだ。ああ、と気付く。布に刺した髪の色は、一切変幻していない。元の漆黒のままだ。



 そうか。自分は――『色変わり』しない者なのだ。

 


 身の奥に、熱く凝縮された何かがどんどんと渦巻いてゆくのが分かる。これが器に求められる事なのだと体感して初めて理解する。

 八咫は布を下ろし、白玉の髪をそっと掌で直に撫でた。粒子が削れて八咫の掌に吸い込まれてゆく。

「白玉……って、本当はそんな名前じゃないんだよな。力も、体のほうも」

 我知らず、話しかけていた。

「あんた、ずっとここにいて、女達の体を切り刻んで、乗り換えて生き続けて――辛くなかったか」

 黒い空洞の顔に向かい、静かに話しかける。

「辛くない訳ねぇよな……あんたも、偉い奴等に利用されてるだけなんだもんな」

 さらりと、女の肩から銀の髪が零れ落ちた。それに、そっと指を触れさせる。さらさらと流れる。まるで清水のように冷たく儚い。

 八咫は唇を噛んだ。

「俺、本当のとこはちゃんと分かってないのかも知れねぇけど、あんた、すげぇ悲しそうだ。俺にはそう見える。――できるなら、あんたの事も助けてやりたいよ」


〈――うちを……〉


 突然、高くか細い声が届いた。口がないのだから、声ではなく、恐らく思念のような物だろう。

 指先が、その髪に触れた八咫の指先に触れる。


〈うちを、不死ふしとして。お願いや〉


 その表に形がなくとも、そこに涙があるのが分かった。

 そうか、と八咫は理解した。白玉は、ずっとずっと泣いていたんだな。バラバラにされて、ここでずっと一人で泣いていたんだ。

 そっとその体を抱き寄せる。轟轟ごうごうと、身の内の芯に響くものがある。これが死屍散華か。命の打ち寄せる音。ああこれは。

 海だ。

 打ち寄せる命は、邑を囲んだ海の波と同じなのだ。

「わかった。いつか必ずやり方に辿り着くから、俺を信じて待っててくれ」

 眼を閉じ、少しく眉間に皺を寄せた。

「ごめんな、確かめさせてもらう」


          *


「白い玉様、白い玉様、白い玉様。お参り申し上げました。どうぞ、村を永久とこしえにお守り下さいませ」

 下がり口上の後、鈴が鳴る。空間が縮まる体感の後、八咫が眼を開けるとそこはすでに祠の前だった。

 扉を閉めて、三拍手のち三拝。ちりん、と三度目の鈴が鳴った。

 八咫は振り返ると、山の下を見下ろす。

 燃える邑を見下ろしてから、八咫は今度こそ振り返らずに駆け出した。


          *


 これは時を少しさかのぼる。


「――君を邑長代理として処遇する。我が名はこく野犴やかん白浪はくろうよりはくの御子と御母堂をお迎えに上がった」

 長鳴ながなきが裏門で出会った白髪白眼の男は、手にしていた半弓を手に下げ、そう言った。

「私の事は聞き及んでいるか?」

「は、はい。食国おすくにの護衛でいらっしゃったと」

 長鳴の言葉に、一瞬眼を見開いた野犴は「気安い仲の方がおできになられたか」と眼を細めた。

「あ、も、申し訳ございません」

「否、得難い事だ。早々に済まないが、このような事態となってしまった。我々が急ぎえいしゅうを離れる事が何よりもここを守る事に繋がるだろう。東馬とうまの所へ共に来てくれ」

「分かりました」

 野犴に伴われ、長鳴は自邸の回廊を突き切り走った。野犴の腰にはえびらがある。邑では終ぞ見ない形に、ああ、本当に外とは何もかもが違うのかもしれぬと、そんな所で妙な実感をする。

 火の手が収まりかけた表門の下を潜ると、そのすぐ外に父が横たわりじゃく女士に介抱されていた。長鳴が血相を変えて駆け寄る。

「父上! この御怪我は⁉」

 東馬はうっすらと眼を開けて、傍らに膝を突いた長鳴を見た。

「ああ、長鳴か……大事ない」

 父の意識がある事にほっとしたが、次いで長鳴ははっと顔を上げた。辺りを見回したが、視界の届く範囲に八俣やまたの姿は見当たらなかった。恐らくは――その遺体は自宅に運ばれているのだろう。

 痛ましい姿を直接見ずに済んだという思いと、八俣を失った苦しさに、長鳴は唇を噛んだ。

 兄とは違い、武に秀でない己の不甲斐なさを長鳴は恥じていたが、そんな彼の背中をいつも押してくれたのは、他でもない八俣だった。薬師である彼は長邸への出入りも多く、よく奥の間で調合をしていた。八俣の作業が、仕事が大好きだった。その姿を物陰から見ていたら、くるりと振り返り、微笑んで手招きしてくれた。

 多くの事を、長鳴は彼から教わった。

 兄にとっての師が師範であったならば、己の師は間違いなく八俣だった。

 ぎゅっと、膝の上で拳を握りしめた。

「東馬」

 長鳴の背後から歩み寄る野犴に気付き、東馬は無理に体を起こそうとする。雀に止められるも、そこに手を突いて直った。

「黒氏――申し訳ございませぬ。儂が至らぬばかりに、このような事に……」

「否、主の咎ではない。早速で済まないが、お二人を早々に外へお運びしたい。私がここを発つ時に通った山の隧道はまだ生きているか?」

「それは――」

「それでしたら問題ございません」

 横から長鳴が口を挟んだ。息子の言に東馬が眼を見張る。

「お前、あの道を知っている、のか?」

「――はい。梶火と何度か……」

「では、長鳴君、君に供を頼みたい。東馬はここに残り黄師の対応をしなければならないだろう」

 その時、かすか鬨の声が長鳴達の耳に届いた。

「――あれは?」

「黄師だ。一隊まとめて向かってきている」

「なん、ですと……?」

 野犴は自身の髪を手早く纏めると頭部を黒い布で覆った。夜闇に彼の白髪は眼を引き過ぎる。黄師に対しても的となる。

「済まないが急いでくれ。しばらくは不死石しなずのいしの礎石があるが故にこの内へ至るには若干なりとも躊躇ちゅうちょがあろう。しかし、黄師がいつまで二の足を踏むかは予測がつかないのだ」

「あの、彼等は平気なのですか? この死屍散華の充満は彼等にとって害ではないのですか?」

「――無論命に係わる。つまり、それを回避する方法を既に奴等は知っているのだ」

「それはそこまで周知の事なのですか?」

 野犴はちらと長鳴に視線を送り、僅か唇を歪めた。

「――今後は、そうなるであろうな」

「黒氏、それはまさか」

 東馬の愕然とした顔に、野犴は苦虫を噛み潰したような顔を見せる。

「これは私しか知り得ぬ事。そのはずだった」


 ――彼奴きゃつを除いては。


 胸中で小さく呟いた野犴が、次の刹那弾かれたように顔を上げた。それに釣られて長鳴も顔を上げる。

「あれ、は……」

 東の空、山の側に鳥のようなものが浮かんでいる。野犴は遠眼鏡を出すのももどかしく人差し指と親指を丸めてそれを見た。それが何者かを確認した途端、ぎり、と歯噛みした。

「すまない、状況が変わった。東馬、お前が御子と御母堂を連れて東の端へお連れしろ。そこで落ち合う。よく聞け。死屍散華は不死石を口中に含む事でおおよその毒の吸着を回避できる。隧道の海中に没した部分はそうしておけば無事に通過できる。――私は、彼奴だけは決して捨て置けぬのだ!」

 言い終わるや否や、野犴は駆け出した。

 焼け崩れた横木が燃えながら野犴の頭上に振ってくる。落ちてきた物を避ける事すら時間の無駄と腕で跳ね除けて駆け続けた。

 跳躍しては降下し、また跳躍するのを繰り返す者を、野犴はぎりと睨んで目から放さなかった。気付かれぬように夜陰に乗じて地上からそれと並走する。

 黄師がこの死屍散華が充満する邑内へ突入できた理由など、その回避方法を知ったからに他ならない。そして、これまでに野犴がその事を漏らした者は後にも先にも一人しかいないのだ。

 当時の己があれの正体を知るべくもなかった事を如何いかに勘案しようが、かつての自身の軽率は悔やんでも悔やみきれぬ。

 今彼が属する衆の頭領ならば、笑い飛ばして「過ちであったならば挽回すればいい」と言ってのけるであろう。ならば、それは正しく今だ。

 跳躍と降下の果てに、それは崖の一つに抱えていた人らしきものを下ろした。それが何者かは知れなかった。後、一度野犴の視界から消え、やがて再び少し離れた崖の上に跳躍した。

 自身が手にする弓の飛距離では僅か届かない。全力で駆けた。あとわずか、あと少しで届く。二矢を手にしてつがえた。間に合うか、否、彼奴が飛ぶ! 間に合わない!


 ――が、その刹那、跳躍していたそれがふいと背後に意識を向けた。

 そこには奴が先程下ろした者がいたはずだ。その一瞬の隙が間に合わぬはずだった野犴に絶好の好機を与えた。



 届け!



 念じた強さそのままに、二本の矢は真っすぐに彼奴の背へ飛んで行く。捉える、捉える、必ず捉えて――

 どどっ、と音が聞こえた気がした。

 矢がその背を押し、彼奴はそのまま崖から転落した。

 野犴の頬に我知らず喜色の暗い笑みが浮かぶ。



 それは、積年の執着が、ようやくあれを捕らえた瞬間だった。



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