40 約束 


 八咫やあたは一人、闇夜の中、山肌を駆けていた。石段を登れば祠に辿たどり着くのも容易たやすかったろうが、石段の下には見張りが立っていた。黄師こうしだ。あの騒ぎなのに動かないのは、この最中、万が一にも白玉の奪取があってはならないからだろう。火災の騒ぎと悲鳴が上がる中、八咫の焦燥は尽きる事がない。しかしいて仕損じる訳にはいかない。しばらく動きがないか様子をうかがったが、石段を上がるような素振りもないので、八咫は覚悟を決めて木々を抜けて行く事に決めた。


 息を切らしながら、顔の汚れを拭う。あふれる涙と嗚咽おえつを止められない。


 熊掌ゆうひが行けなくなったとかじから聞いて、八咫はまず保管小屋に駆けた。寝棲ねすみは熊掌に逃走時の武器として、死屍しし散華さんげを吸着した布が欲しいと言っていた。ならば『色変わり』した物を少しくすねてこようと言う。「布が無くなっていたらすぐにバレるだろう」と八咫が問うと、「八咫が洗濯中に誤って流した事にすればいい。どうせ発覚するころには君はここにはいないのだから」と言ってのける。確かにその通りだとその時は笑ったのだ。そしてそれが用意できなくなったのだから、自分が自分の布を持って参拝するのが一番間違いないと思ったのだ。

 燃え盛る小屋を目にした時、八咫は一瞬動きを止めた。まさか全て燃えてしまったのかと思った時、「八咫か?」とすぐ近くの大石の陰から自分の名を呼ぶ声がした。

 見れば、近所に住む男が悲痛な顔でしゃがみ込みながら八咫の事を見上げている。男のかたわらには、籠に山と盛られた布や下がりの品があった。焦げがある物、灰を被り汚れた物と様々だが、見たところ、およそ半分近くも持ち出されている。

 八咫は顔を明るくした。

「おっちゃん! これ! こん中に俺の布入ってるか⁉ 俺それがどうしてもいるんだ!」

 籠の中を必死で漁る八咫の様を見て、男は、苦し気に顔を歪めた。

「八咫……お前、聞いてねぇのか? 聞いたから走ってきたんじゃねぇのか?」

「あ? 何が……あ、あった!」

 手にした見慣れた布に、八咫の顔に笑みが浮かぶ。間違いない、これが俺の布だ。八咫は笑顔を浮かべて男の顔を見た。そこで――男の様子が尋常ではない事に初めて気付いた。

「ど――どうした、おっちゃん」

 男が顔を歪めながら、真っ直ぐに腕を上げ、とある一方を指さした。

「お前の、親父さん……」

 その指が差す方へ、八咫は確かに首を巡らせた。



 息を――吸った。肺の限界を超える程に。



 そこには頭部から血を流した男が横たわっている。その男は間違いなく、さっき自分が玄関先で見送った着物を着ていた。男の傍らには母と妹がうずくまっている。泣きすがる母のかたわらにいた八重が、ゆっくりとこちらの方へ振り返る。これまで一度も見た事がない、苦悶と絶望に満ちた顔で、八重は泣いていた。

 八咫は、後退あとずさり、弾かれたようにその場から走り去った。

 駆けながら何度もけつまろびつした八咫の全身は、泥と降り注ぐ灰にまみれた。

 胸の内で、何度もごめんすまんゆるしてくれと叫んだ。

 心臓と目の奥がきしんでつぶされるようだった。


 もう、動けるのは自分だけなのだ。自分が絶対に成し遂げなくてはならないのだ。ここで自分が折れたら――全てが終わってしまう。


 耐え難い痛みと共に、八咫は歯を食いしばって先へと進んだ。

 駆け上がる。祠がある中腹がすぐそこにある。安堵の吐息を漏らして茂みから抜け出ようとしたその時、闇夜に浮かんだ黄色に気付き寸でのところで立ち止まった。

 いた。祠の前にも黄師がいた!


 どうしてだ⁉

 どうしてこうも執拗に立ち塞がるんだ‼


 八咫の全身の血がざわざわと焦燥に乱される。動悸の激しさに喉が詰まる。無理だ。これでは祠の前へ行けない。どうする。どうする。どうすれば――、


「黄師様‼」


 どっと胸が早鐘を打つ。声のした方に目をやれば、石段を駆け上がってくる一人の少年の姿があるではないか。

 八咫の眼が零れ落ちそうな程に見開かれた。

「黄師様! お伝えしたい儀がございます‼」

 少年は黄師の傍に駆け寄ると、その足元に平伏した。一瞬黄師は少年に向けて矛を構えたが、その様子に刃を下げた。

「何用だ。我等が事を知るとは貴様何者だ。邑長の血筋ではあるまい」

「わたくしは邑長傍仕えの下男にございます! 此度こたびの火災、捉えし員嶠いんきょうの残党が引き起こし物!」

「なにっ」

「その事を御報告せんとした矢先に取り逃がし、小屋に火を着けた次第! これを再び引き捉えてございます! えいしゅう叛意はんいはございませぬ! どうぞご確認下さい‼」

「分かった。長は何処いずこぞ」

「残党に撃たれ邑長邸の表にて家人が介抱いたしております!」

「分かった。案内いたせ」

 いた黄師は少年に先んじて駆け出す。石段にその足をかけたところで、少年が先導の役を果たしていない事に気付いたらしい。とがめ立てようと険しい表情を浮かべて黄師が振り返る。


 その眼前に細く白い脚が振り下ろされた。黄師がそれをはっきりと視認する間もなく、少年のかかとは黄師の頭頂部を踏み抜いていた。


 勢い余ったか、少年の頭部からばさりと何かが落ちた。黒い色をしたものだった。その下から、白銀の色が姿を現す。

 それは正に一瞬の出来事だった。

 石段の上に転倒し、身動みじろぎすらしなくなった黄師を、少年はじっと見下ろしている。そして、やおら八咫の方へと向き直った。

「八咫。そこにいるんでしょ?」

 八咫は、噛み殺しきれぬ笑いを漏らしてから、一つ溜息を吐いた。がさりと音立てて茂みから踏み出でる。

「――お前、悪いのは足癖だけじゃなかったんだな。よくもまあそれだけ次から次へと嘘がけたもんだ」


 八咫の言葉に――おすくには常のように、にこりと笑った。


 二人はゆっくりと互いに近付いていくと、拳と拳を打ち鳴らした。

「お前それ、髪、かつらか?」

「そう。夏は蒸れてほんと厭なんだけど」

「今まで落としたとこ見た事ねぇぞ、俺」

「普段は紐でくくりつけてあったから。今はそれどころじゃなくて」

 八咫と食国は、にっと不敵な笑みを交わし合った。

「そんだけ流暢にしゃべれるんなら、本当は聞こえてんだろ?」

「うん。元々聞こえなかったのは左だけなんだ」

 言いながら、食国は左耳に掛かった白髪を掻き揚げた。普段は隠れていたその場所を、八咫も見るのは初めてだった。

「おい、なんだよその赤いの」

「分からない、母がいうには、生まれつき埋まっていたらしい」

 食国の左耳には、それを覆い隠すようにして薄い皮膚らしきものに包まれた赤い勾玉がへばりついていた。

「隠していた理由は?」

「聞こえない、と思わせておけば、僕の目が届かない所でみんな平気で本音を語る。都合が良かったんだよ」

「俺の事も試してたのか」

 食国はぷっと噴き出した。

「試すも何も、君はいつだって僕の顔を覗き込むようにしか話さなかったじゃないか」

「はっ、違いねぇや。馬鹿みてぇに何にも疑わなかったもんな俺」

「八咫の事を疑った事は一度もないよ。それ以外を信頼できなかっただけ」

 つまらなさそうに言う食国の目を、八咫はじっと見詰めた。


「――五百年か」


 静かなその問いかけに、食国は俯いた。

「……そうだね」

「そのうち、たった三年だ。俺等が一緒に過ごしてきたのは」

「うん」

 一呼吸おいて、八咫は僅かに眉を寄せた。

「――淋しかったか」

 食国は応えはせずに、小首を傾げて微笑んだ。

「もう忘れちゃった」

 八咫は一瞬口を開きかけたが、逡巡の後、もう追求する事は止した。

 食国は静かな眼差しを自身の掌に向ける。


「――無力だったと思うよ。だから色んな事を疑ったし、信じなかった。でもこれからは違う。僕達は、今皆を取り囲んでいる支配を破壊しなきゃならない。君達を、この理不尽のうずから必ず解放しなきゃならない。その為になら、僕は世界の王になってもいい」


 食国の言葉に、八咫は顔を伏せて、無理矢理その表情を笑みの形にした。こらえても堪えても、湧き出てしまう涙を隠したかった。

 その思いを汲んだのか、食国が八咫に背を向けた。「食国?」と名を呼ぶと、すい、と指先で眼下を指し示す。その先にあったのは燃え盛る邑長邸と、その更に先に広がる黒い海だった。

「ねえ、八咫。どうせなら、昼間に見て見たかったと思わない?」

 食国の言葉に、八咫は「ああ」とうなずいた。なんとか顔をこすって涙の残滓を手甲で拭い取る。

「そうだな。昼間にここから見える海なら綺麗だったろうな」

「いつか見よう。全部の片が付いたら皆で一緒に。熊掌も、長鳴も、八重も、ついでに梶火も赦してやってもいいな」

「そういや梶火の奴、お前がここに来るっての、ブチ切れてなかったか? 折角お前に害がないようにって皆動いてたのによ」

 食国は苦笑しながら八咫へと振り返り、その首を横に振った。

「寧ろ根性あったなって笑ってたよ。ほんと調子いいよね、あいつ。だから、梶火には荷物を持って先に寝棲ねすみの所へ行ってもらった。僕も今からそっちに向かう。ここは中腹だからまだ煙が届き難いけれど、この死屍散華の量はさすがにちょっとキツイ」

「おう、早く行ってくれ。王がたおれちまったら話にならねぇからな」

「うん」

 食国が再び背中を向けた瞬間、ふいと八咫が「あ」と声を上げた。

「食国。ちょっとまて」

「なに?」

 食国が目を向けると、八咫は自らの左手の手甲てっこうを外していた。

 露わになったその前腕、腕橈わんとう骨筋こつきんの肘に程近い部分に、えぐれたような傷があった。赤銅色の肌の中で、その部分だけが上皮を損傷し、薄桃色の肉が治りかけで僅かに盛り上がっている。

 八咫は食国の目を見ながら、「ん」とその腕を差し出した。



「今の内に少し食っとけ。この先、寝棲ねすみもいる場所じゃ、おちおち口にさせてやれねぇかもだから」



 食国はゆっくりと瞬きすると、こっくりと頷き八咫の傍へと戻った。

 華奢な白い両脚がゆっくりと膝を地に突く。

 両手の白い指先が八咫の腕に這い、そっと自身の口元に運ぶ。ばさばさと長い睫毛に大きな二重の猫目が陶酔したかのように細められ、薄く小さい唇がゆっくりと花開くように開かれる。その狭間に紅玉こうぎょくのような舌がちらりとのぞいた。

 

 ぎりっと傷痕に慣れた痛みが走り、一瞬だけ八咫の身体がびくりとかしいだ。


 微かに眉を寄せながら、右の手で食国の頬に掛かった白銀の髪を掻き揚げた。こんなに綺麗なのに、そのままにしておいたら自分の血で汚してしまうかも知れないと思ったから。

 盛り上がった腕の肉に食国の白い歯が食い込む。わずかな肉をかじり取りながら、主にその血を零さぬように舐め取る。本来色の薄いはずの唇が煽情的な赤に濡れて行く様を、八咫は静かに見守った。

 本当に、食国は飲み込みが早かった。一度教えたら何でもすぐに自分の物にした。傷痕の手当もそうだ。今では八咫がやるより上手くて早くなった。だから――ませた後の傷の治りも早い。

 と、唇が腕から離れた。食国は自分の腰紐に下げていた手拭いを引き抜き、歯で噛んで引き割くとそれで手早く傷痕を覆った。

「そんだけでいいのか?」

「うん」

「あとでやっぱり足りなかったってなっても知らねぇぞ」

「――これ以上はダメ。……とまらなくなるから」

 ばさばさと長い睫毛の下から白い瞳が見上げる。「ああ」、と思い至った顔で八咫は頭を掻いた。

「それは――困るな」

「うん。だから、」

「お前、ほんと我慢しろよ」

「自信ない」

「おいおい」

「だって八咫がおいしいのが悪い」

 苦笑しながら八咫は食国に手を差し伸べた。そこへ食国の白い指先がかかる。ぐっと力を込めて握り、引き上げ立たせた。その勢いそのまま、食国の左頬が八咫の左頬を掠める。まだ血の赤が残るはずの舌先が八咫の左耳朶をなめ、その唇で甘くついばみ――一瞬強く吸った。

 八咫の左耳朶の先端には裂けた傷跡がある。

 最初に食国が口にした場所だ。

「お前ほんと俺の左耳好きだな」

「仕方ないじゃない。だって、ここだけ特に甘いんだもの」

 左耳をかじられたのは最初の時だけだ。あとは最後に味を確かめるようにこうしてめねぶるに留めている。彼なりにこらえているのだ。

 華奢な両の腕が八咫の肩に回される。至近距離からじっと視線が絡められる。耳から離れた唇が――小声でいつもの言葉を紡ぐ。



「約束して。僕以外のものにならないで。誰にもこの身体を与えないで。決して嘘をかないで。約束を破ったら骨の髄まで食い尽くしてやるから」



 八咫は困ったように笑いながら、「わかってる」と頷いた。

 それを確認した食国は、やっと安心したようににこりと笑った。それから、じっと真顔を向けた。

「あっちで待ってるから、必ず無事で戻って。僕を玉座に押し上げるのは八咫なんだからね」

 そう言うなり、食国はぱっと身を翻すと、八咫が先飛び出した辺りの茂みに飛び込んだ。あっという間にその背中は木立の向こうに隠れてしまう。がさがさという葉擦れの音は、間もなく聞こえなくなった。

 僅かな時間、その行方を見詰めてから、八咫はゆっくりと振り返った。


 ――祠。


 これが、祠か。

 これまでずっと、遠く下から見上げるばかりで、しかもその姿は木立に隠れてほとんど目に触れる事がなかった。ようやく辿り着いて間近にするそれは、想像よりも遥かに小さかった。

 見詰めながら、ゆっくりと溜息を吐く。

 祠は外から見ると上下奥行が三尺三寸程度の物であったが、長鳴が言うには、開扉が赦されると、何処か違う場所に引き込まれたようになるのだという。

 どうなるかは分からない。やってみるしかない。

 父さん。

 ほんまにすまん。言いつけ破るわ。俺は先へ進む。自分の脚でこの先へ行く。そう決めたんや。

 何処かから、かまへん、という父の声が聞こえた気がした。


 ――なぁ八咫。お前はな、お前が思う以上に、儂に似とるんや。


 ああ。ほんまにそやったんかも知れんな。 



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