38 屍



 ぺたり、ごと。ぺたり、ごと。ぺたり――ことん。

 息を吸い込む度に、肺はきしみ、喉が笛のようにひうひうと音を立てる。もう、脚の痛覚すら働かない。どうやって己の身体を動かしているのかも分からない。

 頭髪も焼けて抜け落ち、焦げた顔の中で、眼だけが白くぎらぎらと鋭い。その眼だけが、今、己の意志が生きている事を証明している。轟轟ごうごうと鳴るのは火の手がここまで至った事を示すのだろう。

 ぺたり、ごと。ぺたり、ごと。

 進む回廊は、邑長邸の表玄関から伸びるものだ。しばらく進んでゆくと、広い中庭を囲む回廊に出る。ああ、豪勢だなぁ。こんな所に住んでやがったか。これじゃあ、俺等の考えなんか分かる訳がないや。

 はは、と力無い笑いが漏れた。所詮生きる時間も場所も命の価値もまるで違ったんだ。俺は馬鹿だったな。分かってほしかったんだ、きっと。でもこれじゃあ、無理だ。


 ――せめて、自分のものだけは、返してもらわなきゃ割に合わねぇや。


 蔓斑つるまだらは、ゆっくりと進む。ここに至るまでに、三人は殴り伏した。かんぬきを振り回したら、当たった奴はもう動かなかったから、きっと死んだろう。なんだ。最初からそうしていれば全部一回で終わったんだ。馬鹿だな。無駄な事をした。

 回廊を半周回って、奥に延びる廊下を進んだ。その先に、裏玄関が見える。ああ、こないだ俺が追い返されたのはここか。なら、と右に折れた。幾筋か折れて進んだ先に、戸があった。

 閂を、ごとんと落とす。

 戸に手をかけると、軽い音と共にからからとそれは開いた。その奥には、汐埜しおのと女が一人。女は蔓斑の姿を見るや否や悲鳴を上げて後退あとずさり、奥の間へ駆けこんでいった。

 その部屋の中央に置かれた寝台の上に横たわるのは、紛れもない自分の妻だった。その隣に歩み寄り、顔がそばで見えるように膝を突く。傍らにある桶には、血濡れた布が山と積まれていた。ああ、これはお前か。お前も、もうぼろぼろなんだな。

 と、ふう、と汐埜の眼が開いた。眼だけを動かして、蔓斑の顔を見る。

「汐埜……」

 焼けて肉と骨の覗いた手で、胸の上に置かれていた妻の手を取り、握りしめた。

「――あんた」

 汐埜は、力なくも安堵したように笑った。

「なぁに、あんた、ぼろぼろじゃない。玉様に何されたの」

 蔓斑は、へへ、と笑った。

「玉には何にもされてない。ちょっと迎えに来るのに手間取っただけだ」

「遅いよう。もう、本当に引き剥がされるのかと思ったわ」

「すまんかったなぁ。俺が馬鹿なせいで」

「ほんとうよ。いっぱい、いっぱい、あやまってよね」

「ああ。悪かった。――さあ、行こうか」

「うん」

 微笑む汐埜の頬を涙が落ちた。力の入らない細い腕を自分のくびに回し、蔓斑は最期の力を振り絞って汐埜を抱きあげた。ああ、こうしてやった事は、今までついぞなかったなぁ。すまなかったなぁ。

 汐埜を抱え上げ、奥の間を見た。赤子はいなかった。そのまま戸から出る。廊下を進むと、その先でばちんと激しく何かが割れる音がした。見れば、表門が崩れ落ちている。そこから飛び火した残骸が玄関に飛び込んできた。やがてそれはじりじりと広がり、母屋へと延びていった。激しさを増し、炎が近付いてくるのが分かる。それでも蔓斑は汐埜を抱きかかえたまま、子供を探した。ああ、いないなぁ、この部屋にもいないか。どこだ。どこにいったんだ?

 ふいと廊下が途切れ、裏玄関に至った。

「ああ、そうか。外に連れ出されてるのかも知れねぇな。さあ、こっちから出てみよう」

 ぺたり、ごとん。ぺたり、ごとん。ぺたり、ごと――

 蔓斑は裏玄関に降り、裏門へと向かった。石畳を通り、裏門を潜ろうと戸に身体を押し当てた時だった。


「止まりなさい」


 右の方から声がして、ゆっくりと体をそちらへ向けた。

 そこには、見慣れぬ男が立っていた。その腕には、白いおくるみに包まれた赤子が抱かれていた。男は南辰なんしんだった。

「それ、おれの、餓鬼か」

「――ええ。貴方の子です。汐埜をどうするつもりですか」

 蔓斑は不思議そうに小首を傾げた。

「どうするって、これは俺の女房だ。連れて帰るんだよ」

「ややは? 置いていく気ですか?」

「ちょうどよかった。探してたんだよ。餓鬼、かえしてくれよ」

 にじり寄る蔓斑に、南辰は後ずさった。

「いけません。この子はまだ生まれて間がない。汐埜と一緒に抱えていけると思いますか? それに、貴方をここから逃がす訳にはいかないんです」

 男は赤子をしかと抱えて放す様子がない。

「でもそれは、俺達の餓鬼なんだが」

「それは分かっていますよ」

「親、なんだが」

「子が生まれてくればただちに親になれる訳ではない! 親とはその在り様を言うのです! このいとけない命をないがしろに動くものが親を名乗れるものですか!」

 ずるり、ごとん。ずる、ごとん。

 静かに近付いてくる蔓斑に、南辰は震えた。これはもう人の形を辛うじて留めるだけのかばねだ。その眼に宿る光だけが、ぎらぎらと幽鬼のように現世を憎悪しているのだ。

「は、離れなさいっ……!」

 恐怖に思わず眼をつむり、赤子を抱え込んだ。その次の瞬間、駆けつける何者かの足音が自分と蔓斑の間に滑り込んだ。

 南辰が恐る恐る眼をあけると、果たしてそこには木刀を持った少年がいた。

長鳴ながなき、か?」

 南辰の問いかけに、ちらと目線を寄越よこして少年は頷いた。

「はい。叔父上ですね? 兄からお話はうかがっています。母屋の書庫から書籍を運び出すので手間取りました」

 ぼとぼとと、焼けた血肉を地面に滴り落としながら、蔓斑はにぃ、と笑った。

「よぉ、出来の悪い坊じゃねぇか」

「蔓斑さん。貴方も人の親になったなら、受けるべき報いは受けてください」

「受けるべき、報い?」

 小声で復唱してから、蔓斑は呵々と笑った。その勢いで口から黒い血が吐き出される。

「よく言うぜ。邑をわたくししてきたお前等が言えた義理かよ。なあ、汐埜? ……しお」

 蔓斑は、静かに腕の中の汐埜を見下ろした。そして、彼の表情はゆっくりと無になった。



 すでに、そこには鼓動も呼吸もない。ただ、安らかな微笑みだけがあった。

 


 蔓斑は視線を長鳴に向けた。否、その眼が見据えていたのは、南辰の腕に抱かれた自身の娘の方だったのだろう。その泣き声が微かなのは、周囲で起きている火災で、邸の建具が焼け落ちていく音の方が大きいからだ。

 蔓斑は顔を歪めながらくつくつと笑った。そして、かっと眼を見開く。

「――いいぜ。餓鬼はてめぇらにくれてやる。その代わり、これ以上俺達の命も体も好きにはさせない」

 言うと、背を向けて歩き出した。自身の身体を扉に押し当てて開いていく。ぎい、と音を立てて開扉したそこを、蔓斑は潜ろうとした。

「まっ」

 待て、と長鳴が叫ぶはずだった言葉は、そこで途切れた。長鳴のすぐ横を背後から二つの線が飛び抜ける。どっ、どっ、と鈍い音がして、態勢を崩した蔓斑が地に崩れ落ちる。その背中には二本の矢が射掛けられていた。

 長鳴と南辰は、はじかれたように振り返る。矢が飛んできたと思しき方を見る。すると、裏玄関の内に黒い一つの影があった。男と思しきその影は、ゆっくりと長鳴と南辰の方へ向かってきた。

「長鳴君だな」

 静かで凛とした声が長鳴の名を呼ばわる。長鳴はびくりと硬直した。

「――貴方は」

 少しずつその全身を現した男は口元を布で覆っていた。つい、と闇に白銀の長髪がなびく。

「君の父上は表門の方にいる。かなりの重傷だが息はあった。雀女士と細君に預けている」

「父上が⁉ 一体表で何が⁉」

 男は「恐らく」と、ついと顎を蔓斑へ向けた。

「あの男が地下牢から火を掛けたのだろう。見ろ。奴自身も全身火傷を負っている。あれはもう肺まで煙にやられているだろう。助かりはすまい」

 男は、少し口籠り、視線を外した。

「――薬師は、残念だ」

「え」

「頭部を砕かれ、脳そのものが露出していた。――手の施しようがなかった」

 長鳴は、八咫と八重の顔を思い出し絶句した。彼等兄妹に何と言えば良いのか。そう思い、胸がつぶれるように痛んだ。

 ふい、と男は蔓斑の方へ眼を向けた。ぐずり、ぐずりとうごめきながら、蔓斑はまだ立ち上がろうとしている。男は、長鳴と南辰は、静かにそれを見守る。やがて蔓斑は汐埜の身体を抱え直し、しかとかいなに抱き留めて立ち上がった。

 よろよろとした歩みは、ゆっくりと裏門をくぐり切ると、静かに東の方へと向かって行った。

「ま、待て! 話は終わっていない‼」

 駆けようとする長鳴の肩を、男が掴んで止めた。首を横に振る。

「矢には毒を仕込んである。もう四半刻と持つまい。最期くらいは好きにさせてやれ」

「しかし……」

「あれはあれなりの生を全うしたのだろう。為政者には、民の憎悪を受けて嚥下えんげする責務がある。君もそれを肝に銘じておくといい。君達は、彼の憎悪を撤回する事ができなかったのだから」

 男は長鳴の肩から手を外すと、ずる、ずると進んでゆく蔓斑の背中を、鉛を飲み込んだような眼で見送った。

ただでさえ、砂塵さじんのように儚い命を、お前達はいつも、散華の様に燃やして散らせるな」

 長鳴は、隣にたたずむ男の横顔を見詰める。邸内からは、火を消そうと水をかける音と共に、類焼を防ぐために母屋に隣接した建物を壊していく音と怒声が鳴り響いている。そして、男の両眼が白い事に今更気付いた。白眼が、つい、と長鳴に向けられる。

「――君をゆうちょう代理として処遇する。我が名はこく野犴やかん白浪はくろうより白の御子と御母堂をお迎えに上がった」



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