37 発破

 西へ、西へと八咫やあたは駆け抜ける。

 胸の鼓動が痛いくらいに走る。一刻も早く食国おすくに達に知らせなくては。せめて穿うがち孔の向こうへ逃がす事が出来れば、そう思いながら間もなく入り口に着くと言うところで、横の茂みが揺れてガサガサガサと高らかな音と共に一塊いっかいが勢いよく飛び出てきた。

 ぎょっとして足を止める間もなく、それは八咫の身体に直撃した。咄嗟とっさに受け身を取って塊ごと地面に転がったが、一瞬背中をしたたかに打ち付け、呼吸が止まった。

「いてっててて」

 背中を抑えながらしかめ面で体を起こした八咫は、塊の正体を見極めようとして闇に眼を凝らし、すぐにそれを認めて眼を丸くした。

かじ、か⁉」

「いた! 八咫テメェぶつかってんじゃねぇよ!」

「飛んできたのはそっちだろうが!」

 一瞬、一触即発の空気をかもしたが、すぐに梶火は「それどころじゃねぇ」と顔を強張こわばらせた。

「保管小屋の地下から火が出た。囚人が火ぃ着けて逃走して邑長邸に駆け込みやがった!」

「はあ⁉ 囚人⁉」

 八咫の叫びに梶火は頷いた。

 悟堂の邸を飛び出た後、梶火は道中で南方みなかたと行き会った。南方は梶火の育ての親である。老爺ではあるが筋骨たくましく、大抵その拳で躾けられてきた。出火後まもなくその事実に気付き保管小屋へとかけた南方は、蔓斑つるまだらが保管小屋から出てくるのを目撃していた。梶火はそれを伝え聞いたのである。南方は――これもまた長の側の事情に密かに通じている。蔓斑の件も聞き知っていた。

 「西」に向けて走る養い子に南方は深くは事情を問わなかった。ただ一言「死ぬなよ」とだけ言い残し、自らも東へと向かっていった。

 僅かな間に養い親の言葉を思い起こしてから、梶火は鋭い目を八咫に向けた。

「火の手が上がったのを契機に、黄師が邑に入った。奴等も中に押し入る機会を見計らってたんだろうな」

 梶火の言葉に八咫はいきり立った。

「そんな馬鹿な! この空気の中で⁉ 俺達には分からんが、これだけ燃えてたらそれだけ死屍しし散華さんげが充満してるって事だろ? なら黄師こうしは無事じゃ済まねぇんじゃねぇのか⁉」

 八咫の言に、梶火は「ああもう!」とうなってから、がし、と両手で八咫の頭を挟み掴んだ。

「いいか⁉ 根拠は説明できねぇが、実際に飛び込んできた以上、奴等には、死屍散華の瘴気を回避する情報と手段が行き渡ってるっつってんだよ! あの貧弱野郎と母親を迎えにくるって奴の専売じゃなかったって事だ!」

「――いやでも、国中の他の場所にいる黄師は、仙山せんざんの策では死屍散華の髪を燻して潰せてるって」

「つまり国の他んとこではまだ通用するが、今中に飛び込んできた奴等には通用しねぇって事だろうが! お迎えと関係者だけが知ってたはずの事がバレてんだ! いい加減察しろ! 白浪の中か、この邑の中に間諜かんちょうがいる‼ 可能性としては後者のが高けぇだろうが!」

 八咫の目の前が赤くなった。間諜、つまりげっちょうに通じている者がいる。この中に? 誰だ、それは一体誰だ⁉ 八咫の脳内で思考がぐるぐると回り、視界が泳ぐ。

 そんな八咫の混乱を目の当たりにしながら、梶火もまた現状に歯噛みしていた。この時悟堂ごどうの事を伏せたのは、わざとというよりも彼自身がその事実を信じたくはなかったという事が大きい。かつ、黄師に死屍散華の回避方法を伝えたのが悟堂だろうという事に思い至ったのは八咫に話している最中での事だった。

 その為人ひととなりを自分はよく知っていると思っていた。物心付くより前から熊掌達共々に世話を焼いてくれた男だ。誰よりも信頼できると信じていた師範が自分達を裏切っていた。この衝撃は重く大きい。

 ――加えて、今この瞬間にも、自身の身の内で蜷局とぐろを巻いているどす黒い何かに梶火は困惑していた。胸の内を焼く正体の知れない憎悪のようなものが一体何に由来するのか――分からぬまま、それを振り払わんばかりにぎりっと歯噛みすると八咫を睨んだ。

ほうけてる場合じゃねぇんだよしっかりしやがれ!」

 どん! と梶火の拳が八咫の胸を打った。

「この騒ぎじゃ大兄も長鳴ももう動けねぇ! さっき立てた計画は御破算ごはさんなんだよ! 奴等だけじゃねぇ。迎えも死屍散華の瘴気に耐える手段を持ってんだ。――今夜必ず迎えに来る! そうしたら貧弱野郎が連れて行かれちまうんだろうが‼」

 はっとして顔を上げた八咫の頬を、駄目押しとばかりに一発張る。

「邑を出る為の支度は貧弱野郎のとこに置いてあるんだろうが。邑の中の事は大兄と長鳴が何とかする。つかそれをやらにゃならんからあいつらはもう動けねぇ。お前が今から白玉はくぎょくのとこへ走って『子宮』の有無を確かめろ。その間に俺は貧弱野郎とおっさんに事を伝えて先に逃がす! あいつの身柄を邑から出して殺さない事が最優先だろうが⁉」

 梶火のその言葉に、八咫は――震えた。


「――おれ、が、白玉の、ところへ?」


 目の前に突き付けられた物に、八咫はついぞ覚えた事がないおびえを感じた。

 それは、今まで誰にも認められなかった事だ。万に一つも粗相があってはならぬからと、祠に近寄る事自体を固く禁じられていた。お前は参拝するに足りない不足者だと、生まれてこの方ずっと突き付けられてきた。

 それはおもりだ。

 飲み込まされたなまりの様に、それは八咫の中に沈殿し続けてきたものだ。

 生まれてからずっと、お前は行ってはならぬと厳命されてきた。

 なのに、それが今、お前が行かねばならぬと言われている。

 躊躇ちゅうちょした八咫は、自分の両掌りょうてのひらを見た。そこには何もなかった。これまで一度たりとて、そのささやかな自負を掴み取れた事がないのだ。

 うつむく八咫に、梶火は小さく溜息をいた。

「――あの野郎を誰にもられたくねぇなら、お前がとっとと白玉のとこ行って確かめて邑から出ていくしかねぇんだよ」

「でも、俺は、俺は今まで一度もお参り出来た事が、ないんだ……」

 その言葉に、梶火が真顔を向けた。



「お前そりゃ、やってしくじった経験もねぇって事だろうが」



 その言葉に、八咫ははっとした。

「やってみた事もねぇのにお前が失敗すると決めたのは誰だ? 周りの奴等が勝手に決めたんだろうが。お前はこのに及んで、自分の行動如何いかんを他人の判断にゆだねんのか?」

「――いや、いやだ」

「いやだ、じゃねぇよ、餓鬼かテメェは。――なぁ、俺はお前の事、もうちょい決断力がある奴だと思ってたぞ。俺の買いかぶりすぎやったんか? ――お前は、あいつと二人で、この先へ行くんと違うかったんか⁉ 白浪とやらに獲られていいんか⁉ 離れちまったらなぁ、人間の関係なんて一瞬で終わるんだぞ⁉」

 梶火の最後の言葉は、何より強く八咫の背中を押した。もう迷いはなかった。八咫は梶火が飛び出てきた茂みに飛び込む。山裾に隠れながら石段を目指すのだ。

「すまん、恩に着る。行かせてもらう! 食国を頼む‼」

「任せろ‼ ――為すまで死ぬんじゃねぇぞ‼」

 駆けながら振り返る八咫の眼に、木立の合間に見え隠れする梶火の振り上げた拳が映る。それを最後に眼に焼き付けて、八咫は今度こそ前を向き白玉へ向けて駆け出した。それこそ、己がこの邑で生きた全ての前に立ち塞がり続けた壁だった。

 やはり、これを自力で越えない限り、自分はどこへも行けなかったのだ。

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