36 兄妹


 興奮でまんじりともできずにいたのが、ようやくうとうととしてきた頃に、突如八咫やあたの耳を悲鳴が突いた。

 慌てて外に飛び出た八咫の目を捉えたのは信じられない光景だった。


 邑の中心が――燃えていた。


 最初強風にあおられた木々が鳴り、天まで赤く染めている何かがある事だけが理解できた。それがやがて、ゆうちょう邸と保管小屋の辺りが実際に燃えているのだと理解した瞬間に、八咫は己が発したとは思えぬ絶叫を上げた。その声を聞きつけた母と八重やえが表に転がり出る。

 その業火の中に自分達の家人がいる事は明白で、母は絶叫を上げて駆け出した。

 八咫の脳裏を様々な事が瞬時に駆け巡る。これは、大変なのは父だけではない。熊掌だ。熊掌には、明日白玉はくぎょくの元へ確認に行ってもらわねばならないんだ。彼はどうなっている? 無事なのか? 明日、明日なのだ。明日の為に自分達はずっと準備をしてきたのだ。なのに、どうして、どうして今こんな騒ぎになっている? あの火の大きさなら間違いなく邑長邸も小屋も燃えているだろう。――そうだ、保管小屋が燃えているなら、と、そこでようやくハッとした。


 ――布と下がりの品が燃えていたとしたら、この煙を吸って食国おすくにが無事でいるはずがない。


 血相を変えて「西」へ駆け出そうとして、八咫はびくりとした。自分のすぐかたわらには八重がいる。蒼白になった頬に、ただでさえ大きな眼を更に大きく見開いて、炎の先をじっと見詰めている。

 行けない。

 八重を置いてはいけない。母が父の元へ駆けた今、自分が八重を置いては動けない!

「八重!」

 八咫は咄嗟に八重の手を掴んだ。はっとした眼がこちらを見上げる。

「兄々……」

「はよ! こっちこい! 一緒に逃げるんや!」

 引き摺り駆け出そうとした時、その手は渾身の力で振り払われた。

「おいこら阿呆! 何こんな時に駄々こねとんのや‼」

 怒鳴りつけた八咫の右頬を、八重の掌が打擲ちょうちゃくした。ぱん、と乾いた音が響いた。

「八重」

「何しとんのや、兄々」

「なにて」

「こんなところで何しとんのやって聞いとんねん! 兄々にはやらなあかん事があるんとちゃうんか⁉」

 八咫は思わず眼を見開き、八重の手を再び掴んだ。

「お前、なに」

「最近の兄々見とったらどんな頓馬とんまでも気ぃ付くわ! こそこそ荷物こしらえて隠しよって……そんなん、うちからしたら見え見えじゃ!」

「八重……」

「あんた、何や知らんけどはらくくったような顔しとったやないか!」

 次は左頬を打擲される。

「早よ行きぃ! うちは自分の事は自分でやれる!」

 叫んだ八重に、八咫は震えながら首肯した。

「必ず……必ずお前を護るからな! 戻ってくるから!」

 その言葉を受け、八重は不適に笑った。

「何が起きとるんかは知らんけど、うちはただ食われるのを黙って待つような玉とちゃうからな! 大人しいはしとらんから、安心して行きや!」

「すまん!」

 八咫は八重から手を放し駆け出した。

 駆ける兄の背を、八重は震えながら見送った。本当はどれ程恐ろしいか。震える膝を止める事ができず、八重はその場に崩れ落ちた。震える手で顔を覆う。

 涙は、涙だけは、決して誰にもさらしたくはなかった。


          *


 東の果てから押し寄せる波がある。

 それは人間と馬の形をしている。怒号どごういななき、それと折り重なるように邑人の悲鳴が其処そこ彼処かしこで上がる。

 悟堂ごどう邸で火事を視認してすぐにその騒ぎは耳に届き始めた。

「あれは……」

 東に目を向ける熊掌ゆうひに、悟堂は極静かに「黄師こうしだろう」とつぶやいた。ゆうは信じられない物を見る目で悟堂を見上げる。ふいに悟堂の右眼を覆う布が解けかけた。布の奥がほんの一瞬さらされるが、すぐに抑えて後頭部で結び直した。左の眼が静かに熊掌に向けられる。

「火の手が上がったのを契機として後顧こうこうれいを絶つ気だろうな。それ程奴等も打つ手がない状態にれていた訳だ」

 薄く笑って見せる悟堂を熊掌はぎっとめ付けた。悟堂は、ただ静かにその怒りを受け止める。

 熊掌は唇を噛み締めた。


 どう考えても無理だ。

 計画を変えるしかない。


 ――当初の予定では、明日の夜、熊掌が白玉の下へ『子宮』の有無の確認に向かうはずだった。夜間に邸宅を出る事をいぶかしく思われぬよう、そもそも今夜から熊掌は悟堂の邸に留まる予定だった。父にそう報告するため長鳴を帰邸させている。夜間の事ではあるが万に一つ祠周りに人目がないとも限らない。見張りと散らしには梶火が対処する事になっていた。

 『子宮』の有無が確認出来次第、熊掌と梶火の二人で「西の端」へ走り、結果を伝えて三人を見送る。寝棲、八咫、食国の三人は穿ち孔の向こうで待機する。出奔の為の荷自体はすでに「西」に用意してあった。

 しかしもう、そんな事は言っていられない。

 事は一刻を争う。熊掌は腹を括った。

 熊掌は梶火の腕を掴み「今から言う事をよく聞いて動いてくれ」と懇願こんがんした。かじは黙ってうなずく。 

「いいか梶火、本当に済まないが、今すぐ俺の代わりに祠へ行って『子宮』の確認をしてくれ。もうこの状態では俺は祠に行けない。俺の不在に黄師が気付いたら大変な事になるから。――ああそうだ、その前に八咫の所へ行って計画変更を伝えてもらわねばならん。八咫には急ぎ御子の無事を確認してもらって、今直ぐ穿ち孔の向こうへ荷を持って先に抜けるように――」

「大兄それは駄目だ」

 熊掌の言葉を断ち切る様に、梶火は言い切った。

「梶火?」

「玉のとこへ行かせるのは八咫だ。あいつ自身に行かせなきゃならねぇ」

「いや、しかし」

「あいつが無参拝者だからってんだろ? だからこそ尚更だ。あいつは自分がこれから何を背負って戦わなきゃいけねぇのかを、ちゃんとあいつ自身の眼で見なきゃいけねぇんだ。あいつはこれから玉っていう化け物を取り戻すために命を懸けなきゃならねぇんだぞ? それだってのに、実際の正体が知れてねぇんじゃ、いざって時に踏ん張りが利かなくなるだろうが」

 その言葉に、熊掌は胸を打たれた。梶火の言う通りだった。目に見えないあやふやなもののために、人はそう容易く全てを捧げられはしない。

「――わかった。お前の思うようにしてくれ。任せる」

「うん」

 梶火は小さく頷いてから「大兄はどう動く」

「まずはやしきの状況を確認する。父上の動向と対処を見ない限り独断専行はまずい。どこで何がほころぶか分からないからな」

「わかった。――で」

 つ、と梶火の視線が動く。その目が悟堂のそれをひたと見据えた。


「師範は?」


 悟堂は思わず息を吞んだ。

 その静かすぎる目と声での問いに、悟堂は少なからず動揺した。この愛弟子がこんな顔をするのを見た事がない。想像もした事がない。その腹の内に抱えた思いを――見透かす事ができない。

「師範? 俺聞いてんだけど?」

「――俺は熊掌を守る。それだけだ。今までと何も変わらない」

「どう守る」

 なおも言いつのる少年に、悟堂は答えにきゅうした。

 そんな師の様子を見て、梶火はかすかに目を伏せ吐息を零してから――ぎっと睨み付けた。切り裂くような殺気を込めて。

「どういう事情があるかは知らんし、俺が言えた義理じゃねぇが――大兄自身の意志を置き去りにするようなやり方選びやがったら、俺があんたをぶっ殺すからな」

「――肝に銘じておくよ」

 それだけを聞くと、梶火は母屋に駆け込んだ。壁に掛けてあった刀を根こそぎつかんで一瞬の内に表へ戻った。自身の二本だけを掴み、他は熊掌達の足元へ投げ落とす。そして文字通りの押っ取り刀で、そのまま外へ駆けて行った。

 門扉の外へ飛び出していった少年の背中を僅かな時間見送ってから、熊掌は背後に立つ男の方へと顔を向けた。

 悟堂の左の眼が、そして恐らくは布の下に隠された右の眼が、じっと熊掌を見詰めている。確かに二人、視線を絡め合う。

 いたたまれずに視線を外したのは熊掌の方だった。

「……悟堂。俺は父上の所へ行く。お前は――」

 そこまで言うと、熊掌は自分の両腕を抱いた。無性に体が冷えた。

「お前の好きにしろ。お前が本気で動いたら俺では止められない。――分かっているんだ。分かってた。俺はいつも、お前が作る流れに乗っていただけだった。お前が敷いてくれた道を歩いていただけだったんだ。俺の――」

 熊掌は自身の腕に爪を立てた。

「――俺のために、お前の人生と時間を割かせて、無駄脚を踏ませ続けてきたんだろう……?」

 ああ、こんなに弱く情けない姿を見られたくない。そう心底思った。この先に起きるだろう事を思い、感じているのは紛れもない恐怖だ。全身がおこりに掛かったように震えている。

 そんな熊掌の方へ、悟堂はゆっくりと近付いてきた。その一歩一歩に熊掌は後退あとずさる。

「頼む早く行ってくれ! 味方の――黄師こうしがこっちへ向かって来てるんだろうが⁉」

 ざ、と熊掌の前で立ち止まる。腰を曲げて膝に手を突き、まるで幼子の顔を覗き込むように熊掌の顔を見て、笑んだ。

「命じてはくれないのですか?」

「でも、それはお前の本懐とはなんの関わりも……」

 悟堂は前髪を掻き揚げながら、憎たらしげに片頬を歪ませた。

「あのクソ餓鬼。今、釘刺して行きやがったでしょう?」

「釘?」

「お前一人を力尽くでさらって行っても良かったんだがな。というか、さっきまでそうするつもりだった。でもあいつは、それではお前の真意に反するだろうがと抜かしやがった。全く小賢しくなりやがったもんだ。こうも容易く読まれるなんて俺も焼きが回った」

「――梶火が、か?」

 悟堂は困ったような笑みを浮かべた。

「お前は、自分で思うよりも多くの人間に求められている。もう少しそこに胡坐をかいてもいいんだ。長の座ってのはな、人心を集める何かを持っている人間が着くものだ。そして、お前は間違いなくそこへ座すのに相応しい」

悟堂ごどう

「胸を張れ。お前以上に親愛から忠誠を集める人間を俺は他に知らん。――俺はお前一人を守り切れればいい。お前以外の奴等が死に絶えようが、えいしゅうが滅びようが、俺にとってはどうでもいいんだ。それが俺の本音だ。でもなあ、お前はそれで良しとは出来んだろう?」

「できないに決まっている……!」

「さあ、言え。俺にどうしてほしい?」

 燃え盛る炎の匂いが、風に巻かれて吹き荒ぶ。怒号と悲鳴は止まない。こうしている間にも、誰に危害が加わっているか分からないのだ。

 熊掌は両の拳を力の限り握りしめ、かっと両眼を見開いた。


「最大多数の邑人の命を救う。その為なら黄師に刃向かう事をいとうな!」


「御意」

 悟堂が不敵に笑ったその時だった。

「ここにもいたぞ!」

 門の方から届いた声に、二人は瞬時に腰を落として足元の木刀を拾い上げ、身構えた。時を置かずして弓が撃ち込まれる。明らかに熊掌に向けて放たれたそれは、届く間際に払い落とされた。悟堂が刀で叩き落していたのである。熊掌は我が目を疑った。強い強いとは思っていたが、流石にこれは段違いなのではないか?

 弓が放たれたと同時に、三人、いや五人が押し入ってきた。手にするのはこちらとは違い真剣である。切り掛ってきた数人の黄師を、悟堂は木刀と素手でしていく。

「なんでっ」

 仲間であるはずの黄師から攻撃を受ける事になるのかと最後まで言葉にできなかった熊掌に、悟堂は笑いながら「俺の面は割れてないんですよ!」と叫んだ。

 そうか、間諜かんちょうというのはそういうものなのだと、熊掌は初めて理解した。

「熊掌! 遠慮せずに本気でやれ!」

 次の瞬間、熊掌に襲い掛かって来た者の頸を、反射的に木刀ではじいた。するとそれは軽々と吹き飛び母屋の引き戸を破って中に姿を消した。熊掌は血相を変える。

「いやまてまてまて! そんな力込めてないぞ⁉」

 慌てる熊掌の前で、青褪めた黄師が「撤退っ、撤退‼」と叫んで引いていく。後から続くはずだった黄師も悲鳴を上げながら駆けていく。それを見送り呆然とする熊掌の顔を見て、悟堂は呵々大笑かかたいしょうした。

「熊掌、直ぐに援軍と武器を増やして戻ってくるぞ! 動くなら今だ!」

 悟堂は熊掌の腕を掴んだ。

「行くぞ! 力の限り上へ飛べ‼」

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