35 死屍散華、赫天に染む



 最初、気付いたのは風の匂いが変わった事だった。

 きな臭い予感がしたのは確かだったが、実際に焦げ臭いのだと気付いた瞬間に、かじは鼻を鳴らして、がばりと顔を南東の空に向けた。


 ――天が、赤い。


 地の燃え盛るのをすくい取ったかのように、天が赤く赫く燃えている。

 強風に流される嵐雲が、刻一刻と姿形を変え、そこに映された赤が苦悶に惑うようにうごめくのだ。それのなんとおぞましい事か。

 ぞくりとしたものが腹の底から這い上がった。方向からして邑長邸のある方だと知れる。自分と熊掌ゆうひはここにとどまったが、西から帰還してすぐに、長鳴ながなきは自邸に戻っているのだ。


 まずい。


 瞬間的に、事が動くのは今だと直感で分かった。己のこういう時に働く厭な予感と言うのは、大抵外れた事がない。

 窓の下から戸口へ回り、渾身の力でガンガンと戸を叩いた。

「大兄! 師範! 乳繰り合ってる場合じゃねぇぞ! 火事だ‼」

 中でがたがたとかしましく音が響く。

 間もなく引き戸が開いて、蒼白になった小袖姿の悟堂ごどうが飛び出てきた。

「お前っ、まさか、ずっとここにいたのか……⁉」

「当たり前だ! 俺は大兄の右腕だからな。何があろうがもうそばから離れねぇんだよ! ンな事より見ろ!」

 梶火の指先が南東の空を指す。

「あっちにあるのは邑長邸だ。じゃなきゃ」

 そこで一旦区切られた言葉は、梶火をしても震え上がらずにはいられない事実を示していた。ばたばたと駆け寄る足音と共に熊掌が悟堂の後ろから顔を出す。こちらの顔も十二分に青褪めていた。「梶火っ……お前っなんで帰ってないんだよ⁉」と叫んだ顔が、梶火の指さす先を見て、更に色を失っていく。

「――じゃなきゃ、燃えてんのは保管小屋だ」


          *


 喉に妙な刺激がある。

 最初にそう感じたのは果たして誰であったろうか。潮騒しおさいのようなさざめきが、陣に張られた幾張もの天幕の内側からひたひたと外へ溢れ出てくる。それはやがて確かな瘴気しょうきとして捉えられ、それが全幕の中で確信に変わった瞬間、さざめきは怒号へと成り代わった。

 隊長の元へ報せが届いた時には、既に陣全体が焦げ臭い瘴気に覆われ、頭を抱えて地に膝を付く者も現れだしていた。

 皆が皆、蒼白な顔で天を見詰める。天を染める赤の不穏に、陣に留まる者もそうでない者も、全身を硬直させてその様をただ眺めていた。この瘴気は明らかに死屍しし散華さんげの燃やされたものだ。これに対抗する手段など黄師こうしはおろか月人つきびとにあろうはずもない。

 「こんな事になるなんて」「撤退命令はまだか」「だから前線になんて来たくなかったんだ」「おい! 幕内で吐くな!」其処そこ彼処かしこから響く叫びは、自身の生命の危機にひんした混乱が当然の如くもたらすものである。隊長並びに副長は、統率の崩壊が目前に迫っている事を理解した。撤退命令を出すならば、早急に員嶠いんきょう残党の痕跡探索に出した隊を呼び戻さねばならない。

 しかし、しかしだ。死屍散華の焼失という大事を看過して撤退など、月皇げっこう逆鱗げきりんに触れぬ訳がない。ましてやこのような時に起きた火災だ。邑内で何がしかの動きがあったとしか思えない。これが万一自分達黄師を遠ざけようと侵入者が行った事であれば、尚更邑に入りその実行者をとらえ、その策略を白日にさらす必要がある。

 決断の時は刻一刻と迫っている。隊長は陣を見渡した。ここにいる黄師の大半は日々の糊口ここうしのがんと前線に志願した困窮者である。各地に配されているしょう軍の兵程ではないが実質の大差はない。故に危機的状況ではその忠誠を頼めず、統率しがたいのは自明のだ。かつて彼等と同様の立場にあった隊長は腹を括った。撤退させ、自身の首を皇に差し出すしか、この所帯の大半を生かす術はない。

 隊長は陣幕の前に出た。その前に麾下きかは並び蒼白となり天を見上げている。伝令を呼び集めさせ、いざ撤退の号をと口を開いた正にその時であった。

 一人の黄師が脱兎の如く隊長の天幕へ向け駆けてくる。長は眼を大きく見開いた。この駆けてきた者の所属は、黄師の中でも最も特殊で、特に男はえいしゅう専属としてほぼ常駐していた。

 男は苦しげに口覆いの上から手を当てて何とか瘴気を吸わないようにしていた。無論隊長以下も同様に呼吸を最低限に耐え忍んでいる。男が隊長の前へ滑り込むように地に倒れたのを見て、長はそちらへ駆け寄った。

「『とう』からの報せはあったか⁉」

「ございます!」

 せ込みながら、男は懐に手を入れ隊長に一つの文を手渡した。

 男は、異変を察知してすぐに一人天幕から駆け出していた。異常事態が起きた場合はそう動く事が決められていたからだ。


 男が所属する隊は『筒視隊とうしたい』と呼ばれていた。平の隊士は総勢五名。他の所属にその役務の一切を知られてはならず、万一情報が漏れた事が発覚した場合は隊士全員の処断しょだんと、内容を知り得た部隊の殲滅せんめつが実行される。それほど厳密な忠誠と機密きみつ堅持けんじを求められる隊だった。


 えいしゅうの邑から抜けたとある場所に、細い清水が流れ込む泉がある。そこから程近い場所に拳大のほらの空いた木がある。男は木に至るや否やその洞に手を伸ばし入れた。中には折り畳まれた紙がある。広げて中を確認するなり、彼は長の陣幕へ駆けたのだ。

 黄師長は奏上された文を広げた。いて文の端を破るも、そのしたためられた物の意味を解し、その相貌そうぼうを笑みに歪ませた。

ほうせきだ! 口中に含め! 取り落とさぬよう下顔を布で覆え!」

 伝令により、瘴気の回避方法が疾風の如く伝わってゆく。隊長は常備している不死石を口に含んだ。途端、呼気が正常となる。これは間違いない『筒』よりの吉報である。

 死屍散華の瘴気の害を回避できれば、炎に焼かれようが彼等月人の肉体は瞬時に回復する。

 隊長は拳を挙げた。

「これより邑内に突入する! 逃亡を図る者、刃向かう者、疑わしき者は捉えよ! 我等に反する者、捉えるが難である者は切り捨てて構わん‼」

 地揺れを引き起こすかの如きときの声が上がる。

 次の瞬間には、黄師の一団は駆け出していた。歩兵の前に騎乗兵が駆けてゆく。

 火蓋は切られた。

 陣から駆けて間もなく、馬同士すれ違うのがやっとという巨岩と巨岩に挟まれた狭窄きょうさくに差し掛かる。そこを一頭ずつが駆け抜けていく。



 遠眼鏡でそれを視認するや否や、黒野犴こくやかんは舌を打った。明日に事を起こすと決め、既に百雷びゃくらいを伝令した事が悔やまれる。それもほんの一刻か二刻そこら前の事でしかないのだ。何故この時に、何故この夜に行わなかったのか。己に向けて湧く決断の遅れに憎悪すら湧いたが、後悔すべきは今ではない。きびすを返し邑に向けて駆け出す。

 口中に不死石しなずのいしを投げ入れ、口と鼻を布で覆った。

 駆けながら、野犴の胸中には、またそれとは別に不穏なものが渦巻いていた。そしてその予感はほぼ正鵠せいこくを射ていただろう。

 そう。黄師は死屍散華充満する邑内へその卒全体で突入していったのだ。本来自殺行為に近いそれを、なんら躊躇ちゅうちょなく行っているのである。それが意味する事実に考え至らずに済む程、野犴は浮薄ふはくな希望に頼り思考を放棄できるような人間ではなかった。

 死屍散華の回避方法が黄師に漏れている。

 野犴はぎり、と歯噛みした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る