34 急変


 闇の中に腐ったような匂いが充満している。

 ぴちょん、ぴちょんと続く、滴下てきかの音が苛立いらだちをつのらせる。

 そこに己の獣じみた荒い呼吸がにじむ。その数を数えるだけで、他に出来る事が何もない。衛士えじによって手枷てかせと目隠しは外されたが、その時に殴りかかった為、返しで腹に一撃を食らい気絶したらしい。どれくらいの時間意識を手放していたのかまるで分からないが、目覚めた時には、己の顔は自身の吐瀉物としゃぶつまみれになっていた。

 蔓斑つるまだらは、沸き上がり続ける憎悪をとどめる術を持たなかった。

 時折生温い風が吹き込んでは、蔓斑の頬を撫でて神経を逆撫でにする。

 持てる者は、残虐だ。

 自分達のような何も持たない者が抱える憎悪が一体何に起因するのか、それに対して意識を払おうとすらしない。横目で眺めてそのまま通り過ぎるばかりで、今ここにある踏みにじられた物が何なのか、決して知る事がない。

 持てる者が持つ事を赦されるのは、それだけの役割を果たす義務があるからだ。それを為さずして、その特権だけを当たり前のように食らう者共を、決して、決して赦せない。

 その上、俺が持つただ一つのものを、当たり前の顔をして奪って行きやがった。

 赦せるか。

 赦せるわけがあるか⁉

 蔓斑は自分の足首に拳を振り下ろした。枷でも足でもどちらでもいい、早く砕けろと念じて拳を振り下ろした。

「割れろ! 割れろ! 割れろおおおおお‼」

 あれは、あれだけは、あれだけは奪われてなるものか!

 やがて、拳の皮膚はめくれ、血が飛び散り、足首は痣で赤黒く腫れ上がった。

 それが、どれ程の時間続いただろうか。

 滴下の音。腐臭。自身の吐瀉物。

 憎悪。満ちていく怒り。

 暴力。報復。この世は、この世界は。


 ――俺を拒絶するなら、焼け落ちて崩れてしまえ‼


汐埜しおのおおおおおおおお‼」

 ごぎり、と鈍い音が体の中から響く。あまりの激痛にもんどりうって、蔓斑はそのまま気を失った。潰された踵から、足枷の環がずるりと抜ける。そして、からん、と石畳に横たわった。


          *


 の量が尋常ではない――という邑長邸からの報せに八俣やまたが飛び起きたのは寅の刻の事だった。不安げな顔の妻と顔を見合わせ、行って来ると八俣は立ち上がった。騒ぎに眼をこする娘の頭を一撫でして土間で履物を履くと、納屋から息子が顔を出した。

「――父さん、急患か?」

 息子が八俣へと向けるその眼差しは、寝起きのそれとは思われなかった。まだ寝付いていなかったらしい。遅い帰宅に夜這いという苦しい言い訳――近年何度か疑わしい事があったので、それとなく邑の年頃の娘がある家々に尋ねてみたが、該当しそうな相手はいなかった――ので、それが本当とは思っていなかったが、ならば親しく交わる友でもできたのだろうと判じた。息子にも夜通し人と語り合うような機会を少しは与えてやりたかったから、嘘と知りつつ見逃した。自分達の策謀によって、この息子には不自由を与える事になる。その罪滅ぼしでもあった。

「ああ、行って来るわ」

「父さん!」

 切羽詰まった声に振り返ると、強張った顔で息子は「――何でもない、気ぃ付けてな」と、振り絞る様に言った。

「寝て待っとり」

 その後はもう、振り返らなかった。だから、八咫やあたが父の姿が角の向こうに消えるまでずっとずっと見詰めていた事を知る事はなかった。

 それを知るのは、柱の影から項垂うなだれた兄の背中を見詰めていた、八重やえ一人だけだった。



 報せの通り、汐埜しおのの出血は尋常ではないものとなっていた。

 じゃく南辰なんしんが既に対処に当たっていたが、戸を開け飛び込んだ八俣の顔を見た彼等の表情は、既に力を失っていた。

 この顔を、これまでも何度も見てきた。零れ落ちる命を目の前にした者は、いつもこうやって少しずつ、高揚と自身の生命力を中空に霧散させていくのだ。人の命を救おうとする度に己自身の命が削られてゆく。八俣はぎゅっと眼を閉じ、開いた。

 今はまだ、まだだ。

「いつからや、ここまで量が増えたんは」

 雀は黙って目配せをする。そこには出血を止めようとあてた布が山と積まれたおけがあった。ずっしりと赤黒い血を吸い込んでいるその山は、それそのまま汐埜の命の抜け落ちたものなのだ。「赤子は?」と問うと、南辰から「東馬とうまの奥がみている」と応えた。

 汐埜が静かにこちらを見る。

「せんせい……」

 力なく、蒼白になった唇が、震えながら八俣を呼ぶ。傍らに立ちその手を取った。脈が弱い。全身も失血量のせいでがたがたと震えがおきている。ああこれは、と八俣は喉を鳴らした。

「しっかりするんやで、汐埜」

「先生、わたし、もうだめ、ですか」

「そないな事いうたらあかん」

 頬を落ちる涙と、弱まる眼の光。

「わたし、あの人を、ちょっとは楽にしてあげたかった」

「――つるまだらか」

「うん。あの人、何をやらせてもへたくそで、ずっと自分を憎んで憎んで、それがありあまって、周りに当たり散らすしかなかったんです。わたし、なんとなくわかった……」

 からりと戸が開いた。東馬とうまだった。東馬の表情もまた蒼白だった。

 汐埜はふふ、と笑う。

「夜中にね、わたしが寝てると、おなかをなでるの。それでね、泣くのよ、あの人。やさしーくなでながら泣くの」

 ほろほろと零れ落ちる涙が、まるで命そのもののようで、八俣は汐埜の手を強くにぎった。

「ほんとに、ほんとうに大嫌いだったのにな、死んだらいいのにって毎日思ったのに――ずるいわ、男って、ずるいのよ」

 たまらず、八俣は東馬に顔を向けた。意図は伝わったのだろう。東馬は顔をしかめながら首を横に振った。せめて今際の際に夫婦めおとを会わせてやれたら……それは東馬も同じ思いだったろう。しかしそれを赦せない立場でもある。


 ああ、こんな事がこれまでに一体何度あっただろうか。


 八俣は汐埜の手を一度軽く握りなおしてから、後を雀達に委ねて産屋を東馬と共に出た。

「東馬、何があった」

 邸内にいながら自分より産屋に来るのが後になったなら理由があるはずとの問いだった。

こく氏から文が来た」

 八俣の顔色もそれで変わる。

「なんやて」

「明日だ。夜に迎えに上がると。それまでにこちらへお移り頂ければ抜け道に近いが、邸がこの状態では夜見の民は入れられない。特に御母堂の御身体は持つまい」

この五百年の間に、宇迦之うかのの身体は手の施しようもない程に病み衰えた。いかに汚れにくい井戸があろうと完全には出来ぬ。


 ――不思議なのは寧ろおすくにのほうだった。


 宇迦之はあれ程に身体を弱らせたと言うのに、何故か彼だけはほとんど異変や不調らしきものを訴えた事がなかった。折々に異変はないか尋ねるものの、その細い首を横に振るばかりだった。それが悪いわけではないので深く追求はしないで来たが――ふと、微かに胸の奥に冷たいものが走った。そのままにしておいて本当に良かったのだろうかと、今更ながらに思ったのである。しかし今はもう手出しの及ばぬ事だ。今後彼の事は白浪はくろうへ委ねられるのだから――その末が健やかである事を祈るよりない。

 八俣は頭を切り替えた。今考えるべきは無事に引き渡すための道をどうするかだ。

「――やっぱり、山の隧道を抜けさせるしかあらへんやろ。あれやったら河まで抜けられる」

 東馬も頷く。

「もう何年も使ってはおらぬが、あれしかあるまい」

 二人が話している山の隧道とは即ち、その夜にかじ熊掌ゆうひ長鳴ながなきを引き連れて渡った道であるが、それが自分達以外の邑人に知れていた事を、今の二人が知るよしもなかった。あの隧道は本来使う度に出入口を土と石で盛り閉じておくようにしてあったが、何年か前の嵐の時に隧道内を水が流れた事で崩れ落ちていたのだ。後に繁茂した蔦があった為に人目に付かずに済んでいたが、あちこちと動き回る梶火であるが故に見つけられたものである。

 これは思わぬ僥倖ぎょうこうであった。梶火の手が入った事により、行き来が易くなっていたのである。

 八俣は、深く重い溜息を零した。

「これで、ほんまに流れが変わるんやな」

「ああ」

 それだけを思い、生き抜いた二十年だった。

 ここにきたばかりの頃の事を八俣は思い出す。

 悟堂という唯一の供は身体を傷め、半年は床に就いたままだった。そんな折に八俣の傍付きになったのが妻の真秀路まほろだった。三つ程年上の、不思議な娘だった。口数の少ない、ぼうとしたところのある娘だったが、やたらと記憶力が良く、一度しか見ていないはずの物を詳細に覚えていたという事がよくあり驚かされた。

 八俣が妻の眼について聞かされたのは婚姻の夜だった。真秀路は一度見たものを忘れないのだという。しかし当時は、それは一つの優れた資質であるとは思ったが、それだけの事としか捉えなかった。

 時が流れ、三歳の息子が、取り落としてバラバラに混在した薬を一葉もあやまたずに壺と籠に振り分けた時に、嗚呼、これは妻の眼を受け継いだのだなと知った。後に、そこに東馬と共に目を付けた。

 邑を奪われた憎悪の火が消える事はなかった。しかし彼は多くの物を持った。妻と子と、邑人の命を預かる身になった。彼自身が動く事で奪われる物が歳月と共に大きく増している事を、八俣は自覚せざるを得なかった。

 彼自身は、もう身動きをとる事ができなかったのだ。

「このまま、どうか、恙無つつがなく事が成就するように、儂は祈るだけや」

「そうだな」

「――家族が、家族がある日突然消えておらんくなるような、そんな不安と生きやなあかんような、そんな毎日が、もうなくなるように」

 八俣は、両掌で自分の顔を覆った。

 分かっている。次に器の継承があるとすれば、それは娘になるだろう。それに間に合うのかどうかは分からない。しかし賽は投げられたのだ。

 東馬が八俣の両肩に手を置く。

「その為に、儂等が五百年の沈黙はあったのだ。邑人には黙する事で最大を護り、逆らわぬ事で誅罰ちゅうばつを避けた。そして、御子みこをお守りする事で彼奴きゃつが正道ではない事を示した。これ以上の事が、容易たやすく命を散らす我等に出来ようはずもないのだ。であるからこそ、他邑は事を急いて焼き払われる事に――」

 と、その刹那、鼻先を厭なものが掠めた。

「なんや――この匂いは?」

 表門の方から酷く急いた声と悲鳴が上がる。八俣と東馬が我知らず表門へ足を向けると、そちらから血相を変えた下男が駆け込んできた。いた勢いのまま、東馬の足元にもんどりうって倒れる。

「一体何事だ⁉」

「おっ、おさっ……!」

 下男は咳き込んでひゅうと喉を鳴らす。薄暗がりの中、よくよく見ればその顔はすすけていた。

 東馬の顔から血の気が引く。

「火の手がっ……保管小屋っ、からっ‼」

男が言い終わるや否や、東馬と八俣は駆け出していた。

「まさか」

 八俣は自身の頭髪が逆立つのを感じた。全身の血がざわめく。今、今この時に何故だ⁉ ようやく明日に全てが決するという時にっ……!

 表門の外に出た二人は、思わずうなりながら足を止めた。東馬は、膝が笑うのを抑えられない。八俣は、かつて故郷を襲った災禍を思い出した。

 明らかに保管小屋から火の手が昇っている。

「なんって、ことだ……」

 既に火を消そうとしている者等が何人もいる。裏の水路から懸命に水を汲み上げる者、炎の中に飛び込んでわずかでもと籠を運び出しては戻る者。全てはあれを護るために命を賭していた。

 

 東馬の眼に、炎と命が浮かぶ。

 

 命を賭していたのは己等だけではないのだ。邑の誰もが、掴みどころのない不安を手に、ただ一縷の望みを賭けて、己の大切な者を護る為に、この参拝と下がりの品を護ってきたのだ。理由も意味も根拠も知れないこの馬鹿げた犠牲に、ただ一途に、その命と体と信念を捧げたのだ。

 これを愚鈍とわらうなら嗤え。

 このささやかな糸しか手繰たぐれなかった、もろく弱い我々を蟻の如く踏み潰すなら、そうすればよい。踏み潰された我等の僅かな隙間で生き残ったものがまた立ち上がるだろう。巣穴に籠り耐えた卵が間もなく孵化するだろう。

 我らが死屍しし散華さんげは、絶える事なく、先へと進む。

「行くで‼」

 先んじて駆け出した八俣の後を、はっとして追った。駆け出した。そして、八俣の向こう側に爆ぜる木材を見た。振り下ろされた角材を、どこかで見た気がする。あれは、あれは確か、そうだあれは


 ――牢の、かんぬき、


 がん、と鈍く重い音が目の前で、した。

 崩れ落ちる八俣の身体を、踏み付けて進む影がこちらへと向かい来る。それは黒い焦げの塊だった。まとうものは既に全て焼け落ちて形を留めていない。全身がただれて、ただ、眼だけが白くぎらぎらと輝いていた。左に、左にと、がくんがくんと、揺れて傾きながら、それは恐ろしい速度で東馬の元へ来た。

 声にならない声が、東馬の喉を潰す。視界に映ったのは、八俣のその向こうにも打ち据えられて倒れている何人もの邑人達だった。


「――つる」


 獣の咆哮が東馬の耳をつんざく。振り下ろされた閂が、東馬の左肩に激しく叩き付けられた。

 嗚呼、何故。

 何故この時に……。

 やっと、ここまで来たのに。やっと明日、これまでの全てから解き放たれるのだと言うのに。

 たおれ行く東馬の眼に天球が映る。暗き天に大き星の青が輝き、立ち昇る赤きほむらと煙が雲を染め、嵐によってその色と音と匂いを、邑外へ運び出し、拡散してゆく。


 嗚呼、動くのは、今宵、なのか。


 骨砕かれ皮膚破れ、血液と泥に塗れ、全てがき出しになった蔓斑つるまだらの右の踵が、東馬の顔面を踏み付けた。


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