33 夏の嵐 



 闇夜に吹き荒ぶ嵐の音を聞きながら、熊掌は、この男の眼が見据えている物を思った。

 それは恐らく世界だ。今の自分には未だ見えていない、手触りも香りも熱も、何もかも想像の付かない、遥か遠い残酷な――世界だ。

 熊掌の手では計り知れない、文字通り命を削り合うようなそんな場所で彼は生きてきたのだろう。だからこそ彼は自分に言ったのだ。尊厳を奪われるぐらいならば、一切躊躇わずに殺しなさい――と。

 見下ろす悟堂の髪が肩から零れ落ち、熊掌の頬に触れた。それと共に、青く鮮やかな柑橘の香が降り注ぐ。

 冷たいしとねの上に組み敷かれながら、どちらでもない己をどうやって抱くというのだと聞けば、だから絶対ではない、うまくいけばと言ったでしょうと、悟堂はうそぶいて笑った。そう言われてなお、確証もなしにいたずらに体を開く事を止める訳ではない自身がおかしくて、熊掌も少し笑った。

「まあ、多少の勝算はありますよ? それに、負けてもあなたが後悔しない程度の務めは果たします」

「随分と自信ありげだな。この手の事に手慣れていたとは知らなかったよ」

 前髪を掻き揚げながら、悟堂は片頬を歪めた。

「当たり前だ。こんなもん世話役が見せていい顔じゃないだろうが」

「慣れている事は否定しないんだな」

「――こんな場面で、そういう事は追求しないのが礼儀だ」

生憎あいにくとこちらは不慣れなものでね」

「それこそ、震えながら言うことでもない」

「……見て見ぬふりは礼儀の範疇に入らないのか?」

 二人の視線が絡む。風の音が壁を叩く。静かに真っ直ぐに見下ろす男の唇が、やめますか、と動いたように見えたが、熊掌は黙ってそっと眼を閉じた。だからそんなものは見えなかった。そして風の音で何も聞こえなかった――事にした。

 もう、この時には既に二人にとって、理由が先だったのか、求める為に理由が必要だったのか、その結論を出す事に意味はなかった。体面も矜持も、それまでの関係も立場も、禁忌も倫理も、最早どうでもよかった。


 十七年に渡って自分達の足元に積み上げられてきた、いびつな積み石を破壊し尽くしてしまいたいという確かな衝動が、二人の指先をきつく絡め合わせた。叩き付けるような嵐が、全ての葛藤を闇夜の底に流した。


          *


 ――それからどれ程の時間が過ぎたか。座した悟堂の胸に凭れ掛かるようにして聞く鼓動は穏やかで、朦朧とした意識は、ともすればそのまま眠りに引きずり込まれてしまいそうだったが、かいなに抱かれる強さと熱で、辛うじて保たれていた。

 ぽつりぽつりと、悟堂は自身の事について語った。自分は方丈の父親の血が濃く出た為、死屍散華は全く効かないが、代わりに月人の血を引くのに傷の治りが遅い。員嶠いんきょうからえいしゅうへ移る時に、怪しまれぬよう悟堂の母自らが彼の右眼を潰し、全身を切り裂き、その中心を割いて焼いた。見ての通りの白眼ですから潰れていた方が正体を悟られずによいのは確かでしょうが、あの女は本当に楽しそうにそれをやったのだと、遠い目で悟堂は語った。情愛や思いやりなど自身の成育歴には存在しなかったという、悟堂の言葉が今更ながらに熊掌の胸を締め付けた。

 嵐の音を聞きながら、その腕の中で胸に耳を当てる。語る言葉が胸を振動して少し籠って耳に伝わる。そっと胸の皮膚をなぞる。そのあたりに巡らされた傷痕も、昔見た時より薄く浅くなっていた。

「他の奴等は一瞬で修復出来るのに、俺は成り損ないだから、ここまで回復するのに二十年もかかってしまった」

「成り損ないだなんて、言うな」

 かつて自分も言ったその言葉だが、聞かされる身になるのはとても苦しかった。

「いくらお前が女ではないと言い張った所で、奴等の判断次第ではどう転がるか分からない。止むに止まれず白玉を継承する事になっても、これで上手くいけば、お前の肉体は分割されずに済む。そうなれば、えいしゅう蓬莱ほうらいは白玉を祀る場ではなくなる。ほうは一つにまとめられ、間違いなく宮廷内の方丈に安置される」

 悟堂の指先が熊掌の目の下を拭う。汗か涙か、その両方であるものが上頬を濡らしていた。

「――俺は、誰にも捻じ伏せられる事のない、利用されずに済むだけの力が欲しかった。だから、方丈の長の座と、黄師統括の座の双方を獲ろうと思った。月朝最大武力の根本である死屍散華を監督する黄師を掌中に収められれば、それはこの国で最強と同義だ。そのために今まで全てを費やしてきた。力以上に希求を実現させるものはない。――そして、それができれば、方丈でお前を俺の傍においておく事も可能になるはずだと、いつしかそう考えるようになった」

 馬鹿馬鹿しそうに、しかし楽しげに悟堂は笑った。

「阿呆のようだろう? 力さえあればと妄信して、俺はこの四百年をかいいぬとして生きて来たんだ。俺でも流石に飽きるし馬鹿だと思う。だがな、手放しで放り出せる程、容易い覚悟でもなかった。そして、力だけを求めていた形のなかった俺の願望に、根拠を与えてくれたのは、他でもないお前なんだ」

 無骨な指先が、頬に掛かった熊掌の髪を梳くように撫でた。頬にそのぬくもりが過り、直ぐに冷える。

「どんな形になろうと、お前の命と体を守る。――笑ってくれていいぞ。生まれてはじめてなんだ。これだけの歳月を生きて、本気で失えないと思ったのは」



 闇夜に吹きすさぶ風は、木の葉を拭き散らして邑を、この世を、世界を揺さぶり荒していく。まるで明日に起こる事を予感しているかのように。

 母屋の外、僅かに開いた格子窓の下で、梶火はただ黙って空を見上げた。


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