32 方丈

 真っ直ぐな視線と共にぽつりとつぶやかれたその言葉に、ゆうは声を失った。あまりに静かでにごりのない、真摯な声だった。

 そこに嘘やたばかりはないと言う事は理解できたが、故に混乱は増す。

「それでどうしてそんな話になる……」

 熊掌は、暗闇の中で頭を抱えた。邸の外の強風で頭が揺さぶられる。激しい動悸でまともに受け止める事ができない。対面に座した悟堂がゆっくりと口を開く。強風の唸りの隙間に悟堂の声はくっきりと浮かび上がり熊掌に届いた。


不死石しなずのいしは月人の祖である赤玉せきぎょくの肉体から生まれる。この赤玉は、異地いちの帝との誓約に基づき異地に留まっているため、今現在この姮娥こうがの地にはない。故に不死石の残りには数に限りがあり、その全ては黄師こうし所属の神子みこが管理している。赤玉に仕える者には赤玉に対して貞節が求められ、故に白玉はくぎょくの器にも生娘である事が要求される。つまり交合を経験していれば器に選ばれる事はない。五つという早さで初参りをさせるのは、器足り得るかを早期に見極めて、その貞操を守らせるためにある」


 熊掌の姿勢が崩れる。後退りながら手を床に着いた。

 一息にまくし立てられたその言葉に、熊掌は愕然としながらも、しかしその一言一句を聞き洩らす事がなかった。それは、あまりにも衝撃が大き過ぎたからだ。その内容も、それを語ったのがこの目の前の男だと言う事も。

「そんな事、そんなことを、お前の立場で知るはずがないだろう」

 悟堂の目がわずかに伏せられる。

「そうですね。たかがゆうちょうの衛士風情が、こんな黄師の内部事情など知るはずがないですよね」

 無意識に熊掌は己の口元を覆う。

「だけど厄介な事に、お前がこんな時に無意味な嘘を吐くような男じゃない事も俺は知ってる」

「ええ」

「お前、一体何者なんだ? というか――何をする気だ? お前本当に何かする気だろう」

「何だと思いますか?」

「だからそれを聞いて……」

「あなた、俺に言ったでしょう? 自分の命と体の使い道をお前達の好きなように決めて来たんだから、自分にはそれを聞く権利があるはずだ、と。あれがね、響いたんだと思いますよ」

 闇の中、悟堂は微動だにしない。果たしてどんな表情でそこにいるのか。一かなその表情いろを掴めない。

「説明になっていない」

 熊掌の言葉にも悟堂は微動だにしなかった。ただ、微かな吐息が闇の中で聞こえた。笑ったのか。

「俺もね、自分の命と体の使い道を、自分で決めて見たくなったんですよ」

「――はっ」

 熊掌は、吐き捨てるように笑った。

「お前、正気か? お前の命の使い道ってのは、俺に誰でもいいからとにかく誰かと同衾しろって言う事だってのか? そんな下劣な事にお前の命を使うって言うのか⁉」

「そうです」

「ふざけるのも大概にしろ! 大体黄師も阿呆なのか⁉ そんな事でただでさえ数がない器候補を更に絞ってきたというのか⁉」

「まあねぇ、言いたい事は分かりますよ」

「――お前、俺を馬鹿にしてるだろ」

「そんな事は決して」

「そもそも未通か否かなど、どうやって証立てる? 誰がどうやって確かめるんだよ‼」

 嵐の轟音の最中、静かな怒りと困惑の言葉が投げつけられる。と、それまで静かに熊掌の言葉を聞いていた悟堂が、つい、と視線を上げた。するりとその巨躯が熊掌の傍へ這い寄る。床の上で熊掌の影と悟堂の影が重なる。

 熊掌の眼の前で、悟堂は自身の右眼のおおいを解いた。露わになった右眼に、熊掌は我が眼を疑った。

 生まれてこの方ずっとその傷を負った眼を見てきた。痛々しく割かれたそれを惜しんだ。だのに、いま眼の前にするそれは開かれ、光を宿している。

 白い、否、ここまで近くで見れば、その色が薄青くすらある事が分かる。確かに見覚えがある。そうだ、これは――

「うそ、だ」


 これは、月人の、色だ。


「先の話は表向きの理由だ」

 熊掌の耳元近くに寄せられた唇が、内密の小声で語る。熊掌は震えながらその眼を見つめ返す。

「どう、いう」

「白玉の器を切り分けるのは不死石しなずのいしで作られた寶刀ほうとうだ。やるのは黄師の大師長と決まっている。寶刀は普段はげっこうがいる帝壼宮ていこんきゅうの内宮に納められているらしいが、俺は実際には目にした事がないから在所については確かな話じゃない。死屍散華がこの地にもたらされる以前、不死石の寶刀は、民の命を奪える唯一のものだったという。これは民の肉体を切り分ける事が出来たからだ。――が、そののうには限りがあった。寶刀は、処女童貞でなければ切れん」

「――は」


「白玉の器になると言う事は、神との同化と同義だ。神を切る事もまた不死石しなずのいしの寶刀にしか成し得ない。分割できない白玉の死屍散華は強大過ぎて誰にも制御できない。故に目合まぐわいを経験した者は絶対に白玉の器に選ばれない」


 息が掛かる程近くで紡がれたその言葉に、熊掌の全身から、どっと力が抜けた。

「大、というのは月人である母の姓です。俺の父姓は四方津よもつ。父の名は堂索どうさく。――父は、たい輿を裏切った方丈の長でした。三交の一は赤玉。俺は宮廷で生まれ、必要に応じ勅令に従い、各邑を移り住んで回った。そうやって、黄師に籍を置く間諜部隊『筒視隊とうしたい』の『筒』を務めてきたんですよ。――この四百年の間、ずっと」

「四方津、悟堂――方丈の、長の」

 初めて聞く、この男の本当の名を口の中で転がす。耳慣れない、まるで知らないその名は、今まで絶対的な拒絶の内にあった真実に他ならなかった。それはあまりに苦い。

「黄師には、御子達の事は知らせていません。知らせたところで奴等は動かない。月皇も歯牙にもかけないでしょうね。血縁に重きを置かない月人にしたら力もない成長も遅い童一匹などどうでもよいのですよ。報告したところで私の評価にも何一つ繋がらない。手札はね、一番効果的に働く場面で出さねば意味がないのです」

 ささやかれた言葉に熊掌は愕然とする。なんと冷酷で透徹した言葉だろう。その端々に悟堂という男の本質が現れている。どんどんと今まで見えていなかった男の剥き出しの本質がさらされてゆく。それに胸の内が奮える。

「お前、神経だけじゃなくて情も取りこぼして生まれて来たのか?」

 ぶっと悟堂は噴き出した。

「よく分かりましたね。情愛だの思いやりだのいうなまぬるいものは、俺の出生にも成育歴にも関与する余地がなかったからな。もしかしたら今も何も分かっていないのかも知れんな」

 けらけらと笑って見せる男を信じられないものを見る目で見ていると、やがて悟堂は笑いを納めてふうと息を吐いた。

「まあ、辛うじて約束は守らねばならないものだと言う感性だけは残っていたみたいですよ」

「約、束?」

「あなたの母上と。あなたをるなら最後まで護りなさいと言われてしまったので。――女親にそこまで言わせたなら、聞かぬわけにはいかんからな」

 闇の中、影が重なるほど近くであるからこそ、闇に浮かぶその表情がようやく視認出来た。

「俺の命と体は、もうお前を俺の傍に留め置く為にしか使いたくない。偽りじゃないのはそれだけだ。俺の命なんぞ幾らでもくれてやるから、生き延びる為の最善を尽くしてくれ。目合まぐわいなんぞ、その程度の些事さじに過ぎない。これまで俺が命を賭してお前を護って来たのは紛れもない真実だ。この程度の頼みくらい聞いてくれてもバチは当たらないだろうが」


 その言葉を聞いた時に、熊掌は心を決めたのだろう。


 ふとした隙間に、闇夜の嵐を聞いた。ああ、騒がしいな。これでは何も聞こえない。外で何があろうと気付かないだろうな。内で何があろうと、外にもきっと気付かれない。

「――俺はもう、この体の事を、これ以上誰にも知らせない」

「熊掌」

「お前だ。お前が俺に言ったんだ。如何いかに生きるかで人の意味は定まるんだと。俺はこれから、ほうを着て長と認識される者になる。そうやって生きるんだ。それ以外の評価は要らない」

「熊掌」

 悟堂の掌が静かに熊掌の頬に触れる。まるで流れてもいない涙を拭うように。闇の中、熊掌の乾いた目が悟堂へと真っ直ぐに向けられる。



「その程度の些事だというなら――悟堂。お前がやれ」


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