31 目合い


 丑の刻、だった。

 闇に沈んだ師邸の母屋に、薄く二つの影が無言で向かい合っていた。


 ゆうと――悟堂ごどうである。


 長鳴ながなきかじには、西から戻った後夫々すぐに帰宅するよう指示を出した。だから、現在この師邸には悟堂ごどうと自分しかいない。

 「西」へ向かう前、無理を押して父達には内密にしておけと要求すると、悟堂は困ったように小さく笑い「交換条件として、若には一つ俺の頼みを聞いてもらいましょうかね」と受け入れた。

 熊掌は、その頼みを聞く為に、一人残ったのである。

 熊掌は厳しい表情で悟堂を凝視していた。無意識のうちにこくりと生唾を嚥下する。


 ――悟堂の言う頼み、その内容如何いかんによっては、大きく状況が変わりかねない。


 これは、回避できぬ対峙だった。

 この男を味方と信じていいのか、父ではなく自分にくみしてくれるのか、この時点での熊掌ゆうひにはその確証が持てなかった。だから、現在の熊掌が直面している状況を率直に明からしめる事も、ありのままにその心境を開陳する事も躊躇ためらわれた。

 悟堂は、熊掌がこの邑で最も信頼を置く男である。と同時に最も得体と本心が知れぬと思っている男でもあった。

 この悟堂と言う男は、明朗快活なタチだ。加えて闊達かったつなその性状は人好きする事に限りがないと皆に思われている。これはつまり、それ以外の部分を決して衆目にさらしていないと言う事だ。

 人間と言うものは、それほど上手く体面を装い切れるものではない。怒りもすれば悲しみもしよう。そういった側面を伏せる事にこの男が成功すればするほどに、その評価が確かなものとして人心に定着していると知れば知るほどに――熊掌の中には確信が増した。


 この男の見せる顔はたばかりであると。


 それは今や確信に近かった。彼は明らかに父や八俣やまたと比肩している。自分達に隠され続けた邑を覆う秘事に精通している。当然そうだろう。彼は、八俣やまたと共に員嶠いんきょうから移って来た外部の者だったのだから。

 ただ明るく穏やかな師ではないのだ。それはもう誤魔化しようがない。その事実を知ってしまった以上、その背に背負うものを看過する事は出来ない。彼と対峙する度に、熊掌の二の腕を怖気おぞけが這い上がる。無論今もだ。

 悟堂は、自身の命を守るために、当時邑にいたという罪人の命を奪い、そしてその名を奪っている。その上で、明朗快活な人物としてこの邑で見事にも生き切っているのだ。

 実際にその手を下したのが誰かまでは聞かないし、今更問う気もない。ただ、その事実をして尚この人物像を演じ切れているという事が恐ろしい。演じているのでないならば尚更だ。

 何よりも明らかなのは、それだけこの親達の結束が固いと言う事だ。人命の犠牲をもって結ばれたものはそう容易くかれはすまい。だからこの男は決して父達に背反しないだろう。


 そう思っていた。はじめは。


 しかし、あの時の表情を見て熊掌には分からなくなったのだ。

 交換条件を言い出した時、彼は熊掌の頭に手を乗せて笑ったのだ。何処か痛みを押し殺したような目で。

 彼があんな顔を熊掌に見せたのは初めてだった。そこに決して見過ごしてはならぬ何かを感じ取ったのだ。あれは、覚悟だ。何かが終わる事、そして終わらせる事を受け入れ諦めた顔だ。そして――恐らくはそれこそが彼の言おうとしている頼みに直結するのだろう。

 それが万一熊掌の本意に添わぬものであれば、それは、この決して太刀打ちならぬ男が自分達の敵に回るという事を意味する。


 だから――やはりこちらからは打ち明けられぬ。

 自陣に取り込みたいのは山々だが――そのための手管が、今の己には見出せないのだ。

 

 熊掌は――静かに吐息を零した。

 こうして改まり、正座して対面するなど何時ぶりの事か。無言でこちらをじっと見つめる大柄な男を、熊掌は半ば恐れる思いで見つめ返していた。強い光を持つ左の眼を、まるで初めて見る物のように感じていた。少しずつ目が闇に慣れだし、悟堂の頬の輪郭が確認できた頃、口火を切ったのは――結局熊掌だった。

「それで、頼みと言うのは?」

 悟堂は、眼を細めてふわりと笑った。

「そこまで身構える必要はないですよ。困ったな、そこまで警戒させる意図はなかったんですがね」

 対する熊掌の表情は硬い。

「――お前は、一体どうするつもりなんだ」

「どうする、とは?」

「お前が考えている事が分からないから聞いている。一体何を、」

 言葉を途切らせて、熊掌は小袴の膝を握った。

「何を決めた? お前は何を切り捨てるつもりなんだ?」

「――熊掌」

「俺を口先だけで言い包められるなんて思うなよ。お前が言ったんだろうが、俺を育てたのはお前なんだって。全部じゃなくても何かを隠そうとしてる時のお前は、俺には絶対に分かる」

 悟堂は、少し時を置いてから「どうも、あなたは……」と頭を掻いてから、脚を崩して胡坐をかいた。

「俺はこれでも信用されやすい人間だと自負していたんですがね。あなただけは駄目だ。昔から少しでも疑わしいと思えば、そんな風に零れ落ちそうに眼を見開いてこちらの真意を見極めるまで目を逸らさない」

 崩していた相好はそのまま、悟堂は背筋を正して熊掌に向かった。



「――では言いましょう。相手は誰でも構いません。なるべくいそいで情を交わしなさい」



 せかけた喉の奥が、ぐぅと鳴る。こらえすぎたそれが嘔吐を伴い競り上がったが、なんとかえた。口元を抑えながら、必死の形相で師の顔を見た。

「……お前、いま―――なんて言った?」

「ですから、誰でもいいから一度ぐわってきなさいと」

「黙れ馬鹿野郎‼ 本当に駄目押しする奴があるか⁉」

「えぇ……あなたが聞き返したのに?」

 自分の耳が信じられなかった。丸きり思いもしなかったその乱暴で滅茶苦茶な要求に、熊掌は目の前が赤く染まった。

 目の前の師の顔を凝視する。聞き間違いだと思いたかった。タチの悪い冗談だと言って今から本題に入ってくれるのではないかと真剣に望んだ。しかしその顔は――薄く笑んだままだ。

 沈黙が重く垂れる。膝を掴む力は震える程強くなるが、それとは対照的に貧弱なうめき声で、「ふざけるな」と返す事しかできなかった。

「そんな頼みは聞けない。というか、お前は何を言っているんだ? なんだそれ?」

「聞けないという事ですか」

「当たり前だろうが⁉」

「では、今日あなたが二人を連れて「西」の奥を越え、邑から一時脱出した事を長に報告し、拘束します」

「拘そっ……お前、つけて来てたのか」

「ええ。もしこの交渉が決裂した場合、残念ですが、ゆうちょう継嗣けいし長鳴ながなきに移譲の上、今後あなたには私の監視下を外れて行動する事をいちじるしく制限させていただきます」

「そんな馬鹿な事を父が許可すると思うか⁉」

「しますよ」

 しれっと微笑んで断言する悟堂に、熊掌はこくりと生唾を呑んだ。

「長は私に必ずその許可を出す。私にはその権限がありますから」

「権限、って」

「あなたの身に何らかの難が起きかねない事態となりそうな場合、またはあなたが自らそれを引き起こしかねない行動をとる場合、あなたの身をどう取り扱うかの判断の全権は私に委ねられている。はじめから、そういう取り決めなのです」

「はじめからって――」

「ええ。あなたが生まれた時から」

「っ――」

 薄い笑みをその顔に張り付けたまま、悟堂は溜息を吐いた。

「――まさかね、「西の端」の崖にあんな面倒な孔が開いているとは思いませんでしたよ。あれは流石に通れなかった。だから追えたのはそこまでです。その先で何をしていたのかは、私からはもう問いません。これでも随分と譲歩している要求のつもりなんですがね」

 その言葉で、もうこの男は自身の気配を読ませるつもりがない事がよく分かった。

 熊掌はぎりと歯噛みした。

「……お前は、これ以上の辱めを俺に受けろと言うのか」

「辱め、ですか」

「そうだろうが。ただでさえ父のあの策をとるというのは、汐埜しおのを凌辱し孕ませたのは俺だと村中に喧伝する事を意味するんだぞ。しかもそれを蔓斑つるまだらに押し付けたという形をとっていた事にもなる。最悪極まりない。そんな愚劣な男であるという前提で、そんな事を一体誰に頼める。――馬鹿な事を言わないでくれ。そこまで恥知らずに徹する事が出来る程、俺は鉄面皮にはできていない!」

 ふ、と悟堂は笑った。

「仮にも長となる者でしょう。腹を括りなさい。絶対とは断言し切れませんが、これでうまくいけば、幾分かはあなたの身を守れる。次期長のお相手を一晩務めるくらい一声かければ誰だってやりますよ。汐埜でも良い。なんなら梶火でも」

 熊掌は絶叫した。

「冗談は止めてくれ! よりにもよってなんでその二人の名前を出すんだ‼ お前に配慮や神経という物は存在しないのか⁉」

「ああ、まああまり考えた事はありませんかね」

「おまえ、お前は、俺にこれ以上の恥を他人にさらせというのか? 地獄を味わえと言うのか?」

「恥ぐらいいくらでも味わえばいいじゃないですか。それがあなたの命と体を守るならば、地獄の一つや二つ巡りなさい」

「大陀羅!」

「俺はな」

 ごう、と突風が板戸を殴りつけ、母屋全体を揺らした。いつの間にか、外は強風に煽られている。


「――俺はもう、お前以外はどうでもいいんだよ」


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