30 動く
なるべく音を立てぬように、
音を立てぬように進み入り、三人の枕元に膝を突いた。両親の顔を夫々見遣る。記憶の中にある二人の顔よりも幾分か年を取って見えるのは、果たして気の所為だったろうか。
すまないな。親不孝をする。ずっと親不孝しかしてきていないけれど、俺は必ず成して帰るから。
両親の間に挟まれて眠る八重が、うむ、と唸りながら寝返りを打った。熟睡している。小さく笑って、その頭を撫でた。眠っていると普段どう憎らしかろうが、この妹もかわいく見えるものだ。
「――必ず、兄々が守ったるからな」
その為には力をつけなくてはならないのだ。
この邑も朝廷に対抗する為の策は守ってきたのだと知れたが、八咫には納得ができなかった。
熊掌が梶火と長鳴を連れてきたのは予想外だったが、熊掌を信頼する事にした。何よりも、先、解散直前に寝棲と梶火がしたやり取りで、八咫は彼等を信じていいと思えたのだ。
――決行が明日夜と決まった後、手順の打ち合わせに関して梶火は熊掌の考えに一切意を唱えなかった。長鳴もまた、熊掌の案に補足を加えて全員の理解を深めていく事に努める。
彼等は熊掌を中心として固く結束していた。また相互理解が深いと言う事もそれでよく分かった。
邑内に対する理解は、寝棲は勿論の事、八咫や食国よりも彼等の方が深いのは自明の理で、彼等の案は即興であるのに理に適っていた。寝棲がにやりと笑いながら「お前等も中々、上の奴に逆らうのが好きな
話がまとまり、そろそろ邑に戻るかと立ち上がった所で、寝棲が梶火を呼び止めた。
「なあ、お前どうしてそんなに熊掌に心酔してるんだ。確かにこいつが切れる事は今のでよく分かったが、お前みたいな餓鬼が邑長の嫡子だからなんて理由でそこまでするとは思えんのだが?」
その問いに、梶火は暫時小首を傾げていたのだが、ややあってから肩を
「あんたさ、邑から出ていく前に、一回大兄に聞いてみれば分かるよ。お前はこの邑を愛しているか、って」
怪訝そうな顔で寝棲は「なんて言うんだ?」と熊掌に顔を向けた。熊掌は苦笑して顔を
梶火は熊掌の肩に手を置いて、「な?」と笑った。
「俺も大兄も、自分達は邑の一部だと思ってんだ。考えても見てくれよ。自分の為に生きるだとか、自分を命がけで愛してるだなんて言う奴ぁ気持ち悪くてならねえし、信用がおけねぇだろうが?」
唇を尖らせながら言う梶火の隣で、長鳴が微笑みながら頷いた。
「これに関しては、僕も彼と同意見なんです」
「これに関してはって何だよ。お前は俺が言う事には大人しく全部同意しとけよ」
「そういう事を言うからしたくないんだよ! 頼むからこれ以上僕に恥かかせないでくれるかな?」
「おまっ、俺に向かってなんちゅう偉そうな事を……」
「お前達、喧嘩なら後でやれ」
角突き合わせてやり合う二人の間に両腕を押し込み、熊掌がぐいっと押しのける。男子二人がいとも容易く引き剥がされる様が滑稽で、八咫と食国は笑った。
もうそれで、何となく今までの事を水に流してやっても良いような気がした。彼等もまた自身の立場から邑と向き合い必死でやっていたのだろうと思い至ったからだ。人により立場や事情は変わる。梶火などは親もない。
「ふん」と鼻息荒く腕組みしながら、梶火は不敵な笑みを浮かべた。
「つまりだな、俺達は邑そのものなんだ。邑として生き、邑の責任を負う。その眼が盲目の自己愛じゃあ、邑は沈む。爺共の中には偉そうに自分は邑のために生きてる、だから大きく認められて当然だみたいに言うのもいるけど、俺はそういう考えは邑を滅ぼすと思う。で、大兄もそう考えてる」
梶火が視線を向けると、熊掌はかすかに俯きながら笑った。
「――この邑には余裕がない。皆で必死に持てる力の限りを出し合わねば現状を維持する事もままならない。誰かが人より努めた所で、誰かが立ち止まればその余分な努力はすぐに消費され掻き消えてしまう。そして人より努めた者は目に見える報いを得られずに不満を重ねて行く。頑張ってくれた者には報いてやりたいが、どうしようもないんだ。――弱者を存分に抱えきれる余裕がない。だから、お前達に酷く辛くあたる邑人の事をうまく
熊掌の言葉に、梶火は嬉しそうに微笑み、胸を張った。
「ということだ。俺は大兄になら賛同できるし命をかけてもいい。俺の全部は大兄のものなんだ。大兄が言うなら、八咫。お前の妹の命を獲られねぇために、俺も俺の命を使う。約束する」
梶火のその言葉を聞いて、八咫は頭を下げた。
「――よろしくお願いします」
下げていなければ、涙を見られてしまうところだった。これで、大きな心残りと気がかりが一つ解消された。
その隣で、食国がじろりと梶火を睨む。
「――しんじていいんだね?」
「おう。無事に邑から出してやる」
その後二人が、お互いに心底厭そうに顔を顰めながら拳を合わせ合ったのがおかしくて、八咫はまた笑った。
思い出しながら、口元をむにゃむにゃと動かす八重を見て、八咫は再び笑った。
明日昼間、普段の通りにして過ごし、家族と時間を共有して、夜お休みを言って、そしてまたいつか再会できる事を誓おう。そう心に決めて、やおら立ち上がろうとした時だった。
「――こんな時間までどこにおった」
「度々夜におらんの、気付かれとらんとでも思ったか? どこや」
「決まっとるやろ。夜這いや」
しれっとそう答えた。
八咫も間もなく十三になる。どこの戸でも子がそれくらいの年頃になれば、どんなに粗末な家だろうが玄関脇に人が出入りしやすいよう小部屋を与える。大抵は納屋の隅をそれらしく設えるだけで、八咫に与えられている寝床もそうだった。八咫にとってはそういった意図で使う事のない無用の長物だったのでどうでもよかったが、お陰で今夜の出入りが出来たのは有り難かった。
「誰の所や」
「それはまだ言えん」
「――最近は騒がしくもある。暫く控えなさい」
「わかった」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
同時刻、黄師隊長の元へ血痕の付着した州繍入りの黄旗が届けられた。これで
万一に――万一にも、鼠が事を起こしたとしてだ、それと時を同じくして先朝遺臣が行動を起こしたとしたら、ここにいる百人隊だけで対処するのはどう足掻いても難しいだろう。
邑で産が起きたのは流れが悪かったというより他ない。今回の産はこれまでになく瘴気が濃かった。中に詰めていた十人の内、発生当初に邑内にいた三人は、その産の気に充てられて臥せったままだ。これでは迂闊に中には入れない。
隊長以下腹心も、焦れに焦れていた。何より、その焦燥は隊全体を覆い始めている。今、国全体に広がりつつある異変は尋常の物ではない。このまま済し崩しに終局していくものではないだろう。
何かが、何かが起きたら、もう止まらぬ。
黄師達の内に自然と湧き上がるそれは、鼓動の明滅と共に彼等を刻一刻とその時へと導いているように思われた。
またその同時刻。
黄師の動きが慌ただしい事を察知した
鳩は間もなく四半刻で戻った。送り先は邑長だった。黄師の元へ黄旗が至った事。結果、新たに伍長三隊が配下を連れて周辺に残党を捜索に回った事。陣が手薄となった今を置いて他に好機はない、明日夜お迎えに上がる。そう
応えは是であった。
帰巣した鳩に水を少し飲ませてから、新たに文を括りつけて飛ばした。
「すまんな
喉元を撫でてから、鳩を高く飛ばした。向かわせたのはすぐ近くに待機する仲間の元だ。黄師
そしてその同時刻。
邑長邸の主の部屋へ一羽の鳩が降り立った。
脚に括りつけられた文を見て、東馬は決行の時を知る。
一人、深く深い溜息を吐いた。
長い長い、あまりに長い歳月だった。
手早く文を書き付けてから、ふいと棚の片隅に置かれた陶器に眼を向ける。中には父の骨粉が収められている。
「これで、終わります、父上」
そっと小さく呟きながら、鳩の脚に文を括りつけて飛ばした。
同時刻。
天頂から滑空する鳥がある。一羽の鷹だ。悠々と美しく闇夜を切り裂いて下降してゆくその姿は圧巻だった。鷹が翼をはためかせて降り立ったのは、岩の上に立つ一人の男の掲げた左拳の上だった。拳には手甲が巻かれている。人と鷹の視線が交わる。
「
鷹の口に鼠の肉の欠片を放り込むと、寝棲は頭を撫でた。
そして、彼女の震える肩を抱き寄せた事を思い出す。貴方も、必ず戻ってくださいと、寝棲の手を握りしめた彼女の涙に濡れた顔が胸から消えた事はない。
必ず生きて帰る。
そう誓ったのだ。
文に書かれていたのは、今宵最後の仕上げが行われるという知らせだった。寝棲は破れそうに高鳴る心の臓を抑えながら、ぎらぎらとした眼で天を見据えた。
眼に浮かぶようだ。死屍散華に
これより反撃の
力は我等が手に還ろう。食国は最早仙山の手にある。白浪との交渉には不死石にこれが並べば間違いない。月皇を仙山、白浪の両壁より挟撃し、先朝よりの正統な後継として復古を果たす。邑は立場を変え、夜見の民も月人もその配下に置き、ゆくゆくは我等が祖を売り渡した異地の帝をも討ち果たす。
――それが、仙山の進む道だ。
「待っていてくれ、
あの柔和な笑顔を思い出すだけで背中が薄ら寒くなる。人徳の限りを尽くしたような物腰で、容易く命を屠り、味方陣営ですら策の前に散らす。あの冷酷無比な頭領の元でならば或いは――そう思ったからこそ、この無謀な策に身を投じたのだ。
寝棲は、
次に会う時は帰途の上だ、と小さく囁いた。
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