29 黄旗、対岸に流れ着く


 商人の一人が砂浜を歩いていた。

 海の水には決して触れたくないので、水際からは大きく距離をとっている。

 この者の実の身分は黄師こうしであるが、官位を得てよりの日は浅く、階級は地を這い、押し並べて評価も低く、これより先も出世する見通しが立つとは思われなかった。他からのみならず、本人が己をそう解していた。とすれば、上へ昇る扉は自ずと閉じられているに等しい。

 商人のていで邑に入るのは、邑長とやり取りをする隊長を除けば黄師の中でも新参や地位の低い者に限られる。邑に入り、支給品を与え、代わりに死屍散華を含ませた下がりの品と布を回収する。重要な任ではあるが、死屍しし散華さんげに近付く以上命に係わる事であり、階級が上がればそれだけ直接触れる機会は減ってゆく。


 ――誰も、やりたいとは思わぬ。

 

 本来なら、己はここへ動くはずではなかった。

 上のどのあたりの意向かは分からぬが、急遽この隊は編成された。常時最低三十近くはある駐屯師と合流した後、隊中で下位の十人が選抜され――この中の一人が勿論自分なのだが――この十人で邑に入り、一月間、邑内での監視を持ち回った。

 今回、追加の派兵隊を作るのに矢鱈やたらと時間がかかった。通常、上層中層下層の夫々から兵が選抜され派兵の命を受けるのだが、今回はなんとか下層から百人を掻き集めたと言った方が正しい。

 原因は分かっている。えいしゅうへ派兵できる者が、すでにまともに残っていなかったからだ。それ以外は正しく全軍出払っていた。

 ここ数カ月の間に国中で異変が生じているという話は、かねてより彼の耳にも入っていた。大きく天変が発生した訳でもない。しかし何と言えばいいのか、ふと気付くと薄ぼんやりとした手触りの悪さがそこかしこに満ちているのだという。

 それまで機知に富み、才気さいき煥発かんぱつの士とうたわれていた者が、ぼんやりとたたずむ事が増えた。昼間が静かになったと思えば、道理で子供達が屋内に引きこもって出てこない。学舎も通う学徒がまばらで講義が成立しない。買い物をしようにも市場に肉や野菜が並ばない。各県に常駐する軍兵の士気が下がり、それに対して将も物を申さない。当然の如く、その上にある州の軍も言わずもがなである。これは明らかにおかしい。

 そんな中、黄師が長年その在処を追い続けてきた先朝の敗残兵の動向痕跡が発見されたという。巧妙に隠されてはいたが、朝の軍が扱わない武器の残滓である。

 更に問題となったのは、その痕跡がこのえいしゅうの近くにあったという事だった。

 奴等が万一死屍散華を奪取するような事があれば国家転覆の危機となる。瀛洲内への侵入を許し、邑人に事の真偽が露呈すれば、かつてのたい輿員嶠いんきょうで起きた事が再び黄師を襲いかねない。最も忌避すべきは、すでに邑内に先朝の臣が入り込み、邑と結託している事だ。黄師は本当であれば邑に入り真偽をあらためたい。

 が、証拠がない。

 加えて、員嶠いんきょうの残党がこの近くに出没しているという点も看過できない。相当に追い詰めたという話は聞いているが、無視していい話でもない。万一双方が同時的に事を起こした場合、百人隊で対処しきれるものか怪しい。州県に派兵されている黄師が有事に間に合わぬとも限らぬのだ。

 ただ、これも真実瀛洲近くに迫っているという確証がない。

 あらゆる懸念が宙ぶらりんの状態にある。判断を下すための決定打がない。明らかに本隊は現状にれていた。

 男は頭を一つ振るうと、寄せては返す波の音を聞いた。

 この邑は本当に波風を立てない。逆らう者もない。ように見える。穏やかで確実に死屍散華の下がりの品を納めるし、新たに繁殖しては死んで入れ替わり、すっかり新しくなっても決まりを守り続けている。そして、唯一事情に通じた邑長一族がそれを維持し続けている。管理する側としては楽なものではあるのだ。しかし、このえいしゅうに祀られている白玉の危険さは他とは比べるべくもない。


 その事実が、ざわりとした恐怖を以って黄師をこの邑に対峙させる。


 各地の異変に対処すべく、州県常駐の黄師が異常の起きた市、あるいは街に入り、事の対処に当たり始めているが、いっかな原因が把握されない。

 この姮娥国全体に、ざらりとした気持ちの悪いものが漂い始めている。

 この動きでよいのか。こう対処していれば間違いないのか。その確証が持てぬまま、民が、軍が、黄師が右往左往している。そんなように見えた。

 己も、本当にここにいて良いのだろうか? 先朝遺臣が邑に近付いているというのは本当なのか? ましてや邑との結託など疑心が産んだ妄念ではないのだろうか? ならば、いっそ故郷の異常究明のために働きたい――そう、己の生まれた街にも、その気味の悪い異変は訪れていたのだ。

 もどかしい。耐え難い。これで間違いないのか分からない。

 ――あやふやだ。

 確証無き任の不確かさが齎す座りの悪さ。成果が上がらぬまま惰性で続く日々の虚しさ。それらは人心を削り、その精細をことごとく欠いていく。

 ふいと黄師の目を捉えた物がある。浜に打ち捨てられた小汚い塊であった。最初それはつまらない魚の死骸か藻屑ででもあるかと思われた。しかし、何かしらを捉えたのであれば、何かしらであるのだろう。深くは考えずに、つまらない相貌でそれに近づいて行った。手には油を塗った革の手袋をしている。それでも忌避の念に耐えず、醜穢しゅうわいなるをつまみ上げるようにして、その塊を拾う。

 訝し気にその黄色をしばし眺めて、やおら黄師の顔は色を変えていった。先まで汚物のように扱っていたそれを胸に抱えると砂浜を蹴立ててその場から離れていく。

 黄師が拾い上げたのは、一匹の鼠を逃した州の州繍を施した黄旗であった。紛れもなくそれは、寝棲が逃走時に拾い包帯替わりに使用したものであり、八咫と食国が彼を発見した時に川を滑り落ちていったものであった。

 それが、海に至り、流され、対岸の邑外東岸に至っていたのである。



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