25 八咫と熊掌、再び密談す
――その夜、浜に降りる人影があった。
白砂に足を取られながら、静かに影は進んでいく。無言で歩む素足の下では薄い貝殻が割れ、ぱきり、と小さな悲鳴を上げた。
その諸手には、小さく白く仄淡い物が大切に乗せられていて、ふるふると揺れていた。掌は少なからず強張り、それが掌の主にとって、とても重要な物である事を示していた。
影は、そのまま静かに海の中へと進み行く。水は、生温かった。波が寄せる度に、足下の砂が崩れてゆく。つるつると沈み込む感覚が生々しい。膝と腿が水に洗われるか否かという辺りにまできて、ようやくそれ以上進むのを止めた。
じっと掌の物を見つめる。ふるふると揺れる中に、更に小さな、仄明るい
ふわり、ふわりと、波の狭間に紛れていく。
――ごめんね。
影の唇がそう動いたのか、どうか。音もなく紡がれたそれは、見る者もなく、また確かめる術もなかった。
主はしばらくするとその場から離れていった。海から上がり、砂浜をとぼとぼと進んでいく。
仄かな物は、その背が見えなくなるまで見送ってから、水中でこぽり、とあぶくをひとつ上げて、ふるり、と波間に姿を消した。
絶え間なく続く波音と、白い玉様に見守られて。
一人静かに砂浜を歩く。足指の間に砂が入り歩きにくかった。
じくじくとした痛みが下腹部にある。脂汗を堪えながら、なんとか磯にまで戻り、手近な樹の根元にその身を横たえた。
両手で眼を覆う。ぼろぼろと零れ落ちる涙が耳の中に流れ落ちる。
こんな事を一体何度繰り返しただろうか。そして何度こうして一人泣いただろうか。
辛かった。どうしていつも駄目なのか分からず、誰にも打ち明けられず、一人で大切なものを海に流した。自分が何者なのかが分からないから、どうして駄目になるのかも分からないのだと、そう思った。
だから、自分が何者なのか知りたかった。
しかし、その疑問に返された答えは残酷だった。それこそ自分自身ではどうしようもない事だった。理由が分かった事で、更に苦しみが増しただけだった。
刺すような痛みが引かない。
今夜もまた一人、こうして眠れぬまま朝を迎えるのだろう。
震える吐息を零した次の瞬間、
――名を呼ばれた。
びくりとするが、敢えてそのままの状態を続けた。「声」に反応するわけにはいかない。やがて足音が近付いてくると、すっと自身の傍らで
薄闇の中、眉を曇らせた少年が、ゆっくりと口元を大きく動かしながら語り掛ける。
「――また腹が痛むのか」
「どうして、いるの」
問うと、少年は困ったように笑うと、「来なきゃならんような気がしたんだよ」と言ってから、自身の懐に手を入れた。中から取り出したのは小さな薬壺である。中には酒精が仕込まれている。それを少年は自身の両手に振りかけてから真っすぐに視線を寄越した。
「診せろ」
溜息を吐いてから、大人しく少年の言葉に従う。
年齢にしては長い手指だ。その手先が器用である事はあまり知られていない。それで腹の上と中からぐ、と圧迫した。痛みと圧迫感に呻き声が漏れかけるが何とか耐えた。
「……やっぱり、かなり腫れてるな。しばらくは無理に動かさないほうが良い」
厳しい顔をしながら手を引き抜くと、少年は再び酒精で自らの手を清め、手拭いで拭いた。その硬い質感の髪が海風に
「――海に近付くのはもうやめろ。危ないんだって
「――……。」
「親父に診せるのは厭だっていうから黙ってるけど、これ以上続くようなら言うぞ」
「――でも」
「俺も腐っても薬師の息子だからな。親父からある程度の事は仕込まれてるが、本職ほど精通してるってわけじゃねぇんだ。これが万一取り返しのつかない病だったら――俺が自分で自分を
寝棲が「お前の親父は医者か?」と問うた時に、彼は、父親は薬師だと言って誤魔化したが、この邑では医者と薬師の職分は分けられていない。最初、その意図はよくは分からなかったが、恐らくあの時はまだよく知れない存在だった寝棲に対して、家族の特定が容易くなりかねない情報は伏せたかったのだろう。
彼は、身内の事をとても愛している。そして疑う事を知らない。自分で思っている以上に身内を囲い込もうとし、身内に事があれば見境がなくなる。そういった
だから――辛かった。
長いその手指で、眦に残った涙が拭われる。
「お前のそれは、本当に俺のせいじゃないよな? 嘘じゃないよな?」
「――うん」
二人の間に沈黙が満ちる。ややあって、深い溜息が少年の唇から零れ落ちた。
「嘘を
「うん。……うん」
「ここを出る前に、一度ちゃんと診せる事を本気で考えてくれ。お前まで俺から失わせかねないマネしないでくれよ、頼むから」
「ごめん。――ごめん」
頬に当てられた少年の手に自らのそれを重ね、強く頬へ押し当てた。
*
濯いだ布を、刺繍が切れぬようにやさしく絞る。それから、ぱん、と
――その子は、『色変わり』するのだろうか。
しかし、とも思う。そうすると、他の誰か『色変わり』しない女の子が命と体を獲られるんだ。誰も何もしなければ、これからもずっとそういう日々が続く事になるんだ。
八咫は水路から上がり、手拭いで手足を拭いた。ふいと顔を上げる。
これまでの自分では誰も考え付かなかったくらいに、この一月、自分はあらゆる仕事に精一杯務めた。畑に水を遣り掃除をし、草履と保存食を作って二人分の背嚢を縫った。それから――毎日保管小屋にきて、毎日布を洗って、『色変わり』している奴、していない奴を確かめた。そして小屋の中で一人泣いた。どう確認しても、女で『色変わり』していないのは
水路――そう、ずっと小川だと思っていたこれは水路と呼ばれていた――を挟んだ向こう側にある東屋を見詰める。最近までずっと邑内に詰めていたはずの
「――どうして、
八咫が小さな声で問うと、小屋脇の茂みから一つの影が進み出た。
「あれでは目立って仕方ないからね」
八咫は振り返る。
互いに思惑は同じだと理解していた。
「どこがいい。俺はここじゃないほうがいいと思う」
「そうだな、僕もそう思う。人目には付きたくない。――前と同じはどうだろう」
「ああ。悪くないんじゃねぇかな」
八咫はしばらくその場に立ち尽くしてから、小さく溜息を吐いた。洗い終えた物を小屋の中に片付けて、静かに歩き出した。
高く白い土塀の傍をゆっくりと静かに進む。人影は見当たらなかった。皆畑や田に出ているのだろう。子供達は河で遊んでいるのかも知れない。今日はやけに暑かった。だから頭巾は被っていない。
村長邸の裏門に至る。その脇には小さな潜り戸がある。小さく辺りを見渡してから中に潜り込んだ。前にもやったように、脇にあった中低木の影に滑り込む。
果たして熊掌はそこにいた。胡坐をかいて膝の上に肘を置き、頬杖をついている。悪戯気な表情だが、目は微塵も笑っていなかった。八咫もそれに倣い、熊掌の前で胡坐をかく。
「こうやって二人で話すのは、あの日以来かなぁ」
「――ああ、そうだな」
前にここでこうした時は、まだ熊掌の髪は長かった。つい先月の事のはずだが、随分時を経たように感じられた。時間の経過以上に、自分達自身の変化が過去を遠ざけているのだろう。
「僕はね、どうしてもお前と話さなきゃいけないと思っていたんだ」
「ああ。俺もだよ」
二人は、普段は周囲に決して見せる事のない、重く鋭い眼差しで互いを見据え、しばし沈黙した。
破ったのは、八咫のほうだった。
「俺は
熊掌は眼を丸くした。
「――そこまで知っているのか」
「ああ。これで分かるなら、やっぱりお前ももう聞いたんだな」
熊掌は首肯した。
「邑から出奔するというのは、当てがあっての事か?」
首肯しながら八咫は「ある」と即答した。
「前に、お前が接触したという奴か」
「そうだ。黄師の読み通り、
「当然だろう? じゃあ、お前の父親が
「いや、まて、マジか⁉」
「マジだ。それは知らなかったか」
「おいおいおい、それはちょっと……マジでか……」
「お前の姓の
「待ってくれ。ちょっと待てよ、もしかして『色変わり』しない奴ってのは邑長の近親者だったりしないか?」
「する。僕もつい先日聞いたばかりだ」
「ああああそういう事かぁ」
八咫は小声で唸りながら頭を抱えた。
「八咫、しかし
「まとめて聞くなよ、ちゃんと言うから。今俺が会っているのは一人だけだ。党員の規模や詳細はまだ教えられていない。
「蓬莱……」
熊掌は言葉を失った。確かに、五邑とは言うが、話の中でついぞ名前の上がらない邑があった。知るべき事があまりに多く、最後の一邑をすっかり意識から除外してしまっていた。
「蓬莱は分かるか?
「あ、ああ、名前だけは確かに」
「祀っている白玉は『
「――いや、一向に……」
「そうか。蒸州は国土の大体ど真ん中あたりに位置しているらしい。この村は、
八咫が土の上に殴り書きの様に大きな丸を描く。その中心辺りに小さく丸が一つ、八咫から見た左側、大きな丸の内側にもまた丸が一つ描き加えられる。二つの小さい丸を一本の線で貫き繋げる。これは先の解説と照らし合わせるならば、熊掌の側から見ての地理として描いてくれたのだろう。こういった配慮も、一月前までの彼ならばしそうにない事だ。
「この国は、丸いのか」
「おおよそな」
八咫が手にしている棒の先端が、とん、と蒸州――蓬莱を意味するらしい中央の丸を指した。
「今、
そこで、八咫は姿勢を低くして、更に声を潜めた。
「熊掌。お前はどうする。こんな話を聞いて、このままみすみす女を差し出し続けるのを良しとするのか?」
差し向けられた八咫の視線は鋭かった。ああ、彼はこんな顔をするようになったのかと感慨深く思った。熊掌はにやりと笑んだ。
「するわけがないだろう」
二人は笑いあう。そこには共犯の信頼が確かにあった。
「しかし八咫、どうしてこんなに大事な事を簡単に話した。口止めされていただろうに」
「簡単じゃねぇよ。信頼できたからだ」
熊掌は瞬間意味を汲み取り切れずに瞬いた。
「あの日、お前が信じろって送り出してくれたんじゃねぇか」
「――ああ」
思い出した。確かに自分は八咫にそう言った。
八咫は鼻先を擦り上げながら「へへ」と笑った。
「本当はこの一月、いつバラされてもいいように、すぐ逃げ出す覚悟はしてたんだ。でも必要なかった。お前は本当に誰にも言わなかった。それが俺は嬉しかったんだ」
そういえば、と熊掌は思い出す。ここのところの彼は、日々畑の世話や魚の干物作り、長期保存が聞く保存食作りなどを熱心にやり、彼に任せられている布の洗濯も丁寧にするようになっていた。あれは、自分の発した「信じろ」という言葉を彼が信じたからこそできた旅立ちの支度だったのだ。
これは、できないな、と熊掌は薄く笑った。
この少年を『影』の犠牲にするなど、自分の心が赦せない。
「旅支度は、もう整ったんだな」
「ああ」
熊掌は覚悟を決めた。己が信じるものに身を投じよう。それが例えば誰かの意に沿わないものであったとしても。その為には――
「なあ、八咫。僕をその
八咫は眼を丸くした。
「ああ、それは願ってもないが、でもどうして」
「誠意には誠意で返すべきだと僕は思う。八咫は僕を信じてくれた。僕は、今僕が知り得る事を君達に手渡そう。だから君達も手にしている情報を開示してくれ。僕には最善を尽くす義務がある。――僕を生かした全てに恥じる事のない者になりたい」
八咫は最後まで熊掌の言葉を聞き届けてから、ふ、と笑って眼を閉じた。
「ありがとう。本当に助かる。――俺達には手が足りない。熊掌に助けてほしい」
「うん。勿論だ」
と、ここまで告げてから、熊掌はにこりと微笑んだ。
「ついては、同行者を許可してほしい」
「――え、は?」
「僕とそれから、あと二人に
「いや、ちょっとおい、さすがにそれは」
「これから次期邑長をやって行くにあたって、無勢はやっぱり駄目だからね。今後の事を考えて自分の手駒を整えたい意味もある。その辺は君が僕に協力してくれ」
「頼んだよ」という有無を言わさぬ笑顔に、八咫は盛大な溜息を吐いて「分かったよ」と折れた。この場合、折れざるを得なかっただろう。思いの外強引に事を進める熊掌に、こいつこんな奴だったかな、と、八咫は困惑しながら頭を掻いた。
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