20 記憶


          *


 父は只静かに首を横に振った。熊掌にはそれが憎くてならなかった。

 自身の成育歴において邑人達との接触が少なかったのは恐らく意図的な制限であり、父と大陀羅、極稀に長鳴と母、更に稀に梶火と顔を合わせる以外は本当に誰ともまともに関わらなかった。それも全てはこの事実を隠蔽する為だったのだろうとなじった。

 父は、小さく溜息を落とす。

「儂の言う事では得心とくしんが行くまい。お前を取り上げた者から直接聞け」

「逃げるつもりか」

「逃げる?」

「決めたのはあんただろう。あんたには自ら俺に説明する責任があるはずだ」

「今更儂が何を言ったところでお前は納得せんだろう」

 父の言は確かにその通りではあったが、父が己と真っ向から向き合う事を拒絶したとしか思えず、熊掌は歯噛みして沈黙した。

「今宵、子の刻丁度に儂の部屋へ来なさい。あの御方と引き合わせる」

 父は、熊掌を置き先んじて下山した。熊掌は赤煙の始末を済ませると、やおらその場に横たわった。

 見上げたそらは一際青く、綿の如き雲の塊が流れ、名も知らぬ鳥が渡る。

 日に焼かれた石畳の上、両の掌で頭を抱える。じりじりと肌が焼ける。身の内が焦燥で焼けるのと同じ強さで。本日のお参りは既に終わっている。ここは、今唯一一人になれる場所だった。

 否、そのはずだった。


「――出て来いよ」


 喉の奥から絞り出した熊掌の声に、感情は見られなかった。

「よく俺がいると分かりましたね」

「分かるさ。……これまでもずっと、お前が傍にいれば肌で分かった」

「ずっと、ですか」

「ああ。子供の頃からずっとな。――だい陀羅だら、ではなくて、悟堂ごどうというのが正しいのか」

 がさりと葉擦れの音がした方に、熊掌は僅か視線を向けた。祠周りは半径三間程木々が切り開かれている。その木立に紛れて、見慣れた大男が立っていた。その男の常にない困惑したような有様に、我知らず苦い笑みが漏れた。

「大悟堂」

「――はい」

「どうした。意外だったか? お前が初参りの時にも付いてきていた事、俺は知っていたぞ」

 大陀羅――悟堂は、虚を突かれたように進みかけた歩みを止めた。

「――ほんとう、ですか」

「ああ。だから聞いただろうが。僕の秘密を、お前はいつまで守ってくれるんだと」

 河原でのやり取りを思い出し、悟堂は息を吞んだ。その様を静かに見守ってから、熊掌はついと視線を逸らした。

「……なあ、あの日の俺は一生懸命お参りに集中していたか?」

「のように見えていました」

「自身に失望しているようには見えなかったか」

「――一向に」

「あの日、俺は一人では何も成し遂げられないんだと、その無力の限りをお前達に突きつけられたんだよ」

 ざ、と砂の擦れる音と共に熊掌は身を起こした。頭を悟堂の方へ巡らせる。言葉ではなじりながら、その眼に責めるものはなかった。

「私は若をそこまで傷付けましたか」

「下駄を履かされる侮辱がお前に分かるか」

「あなたを未熟と侮った訳ではない。あなたの護衛優先は譲れない」

「じゃあお前が離れた後に襲われたのは単なる手落ちか」

「それに関しては返す言葉もありませんよ」

「なんだ、ないのか」

 皮肉な笑みを浮かべる熊掌に、悟堂は重い嘆息を落とした。

「――あれを後悔しなかった日はない。今でもだ」

 素に近い言葉だった。表情に現れた悔恨の色からもそれは見て取れた。熊掌は――うつむいた。

「お前が世話役をしてくれていた事は覚えているつもりだったんだがな、思っていたよりも大きく記憶が飛んでいたらしい」

「――あの日を境に、確かにあなたの記憶は酷く乱れるようになった。私はおろか、長鳴や梶火の事も分からない事がありました。年々落ち着きを取り戻しては行きましたが、それでも完全な回復とは見受けられなかった。心因的なものかと長は仰っていましたが」

「もしかして、当時も頭を殴られていなかったか」

「ああ、確かに。あの時もこめかみに痣を作っていましたね」

 熊掌は胡坐をかくと、膝に肘をつけて頬杖を突いた。

「あれも芸がないな。人の頭を殴ってから頸を絞めるしか能がないらしい。――いつの頃からかは忘れたが、何かを思い出そうとするとこめかみに疼痛が起きるようになってな。ずっと理由が分からなかったが、俺はあの日襲われた事を完全に忘れていた。それを思い出しそうになる時に痛んでいたらしいと昨日理解した」

 逡巡するような素振りを見せてから、悟堂は唇を引き結んだ。

「――あの直後、あなたは一度自分自身が誰であるのかも忘れたんですよ」

「そうだな、あれ程までに嫌われ呪われ死を望むという言葉を浴びせられ続ければ、己という存在に蓋をしたくなっても仕方ないだろうな。だから、自分自身に最も近く付随した養育者おまえという存在を忘れた」

「――じゃあ」

「ああ。思い出したよ」

 熊掌はく駆け出した。下草を掻き分け木立に身を投じた。悟堂の胸襟を掴み、樹の幹にその背をがんと押し付けた。

「生まれてからずっと、お前が俺の起居に関わる全ての世話をしていた事をな。通りで母上と過ごした記憶がない訳だ。あの糞親父は俺を取り上げた人間に聞けと言っていたが、産湯を使ったのがお前ならお前でもいいだろうよ、どうせあそこにいたお前等全員知っているはずだ」

 激高を力の限り手に込め襟を締め上げる。悟堂は何の抵抗もせず、ただ黙って絞められるがままでいる。

「何故あざむいた。何故そう決めた。何故お前が俺の世話役を受ける事になった。お前が命を賭して守るべき主は俺じゃなくて八俣だっただろうが!」

「熊掌」

 悟堂は、己の頸を締める熊掌の手首に手を添え掴んだ。苦しく歪む表情は、決して喉に掛けられた力によるものではなかった。

「言えよ。これだけ俺の命と体の使い道をお前達の好きなように決めて来たんだ。俺には理由を聞く権利があるはずだ!」

 悟堂の唇が少しく開き、何かを言おうとして、そして再び噤んだ。熊掌の背に激した物が這い上がり、咄嗟に悟堂の手を振り払うと自分の袍を締める絹紐を解いた。悟堂の形相が変わる。

「ゆっ、熊掌こら待てやめろ!」

 熊掌の手を止めようと今度こそ悟堂は力を込めて手首を掴んだが、振り払われた上に頬に拳を撃ち込まれて体勢を崩した。括緒くくりおもそのままに指貫さしぬきを解いたため膝で見苦しくも脱衣が止まる。構わず単をかなぐり捨てたところでようやく今度こそ悟堂がその手を止めた。

「いい加減にしなさい! ここを何処だと思っている! わっぱの駄々では済まんのが分からんか⁉」

 手を振りほどけないと見るや否や、終に熊掌は悟堂の鼻先に頭突きを食らわせた。さしもの悟堂も躊躇ない鼻先への打撃には怯むより他なく、思わず手を放し下顔を抑えた。ぬると鼻血が落ちる。痛みをこらえて目を熊掌に向ければ、自身もその額を切って血を流していた。終には白小袖と襦袢の襟を力付くで開き、白くまろい乳房を露わにした。

「やめなさい熊掌! しまえ!」

「今まで散々見て来た体だろうが⁉ 今更なんだって言うんだよ! お前が一番分かってる事だろうが! これが女じゃないって言えるか⁉」

 襟を開こうとする手と、それを掻き合わせようとする手が拮抗する。

「いい加減にせんか!」

「だったら答えろ! なんで俺はこんな体に生まれなきゃいけなかった‼」

 我知らず、滂沱ぼうだの涙に濡れる。泣くまい、涙を落とすまいとしても止められぬ。

「これが男の身体か? いくら鍛えても骨は細いままで肉も一向に付かないのに乳房ばかりがぶくぶくと肥える。この恐怖に毎夜震えた俺の気持ちが分かるか⁉ 日毎に男から乖離していく絶望が分かるか⁉」

 熊掌は悟堂の手を掴み、無理やり自身の下肢に導いた。さしもの悟堂も血相を変え跳ね退けると、熊掌の頬を打擲ちょうちゃくした。した自身に悟堂こそが驚いていたが、直ぐに表情を険しいものに戻した。

「何て馬鹿な真似を!」

「これで女でないというなら確かめてみろよ!」

「熊掌‼ 好い加減にしろ! 俺を試すような真似はするな‼」

「なら答えろ! 女だと邑の奴等に知られてはならないから隔離してきたんだろうが! それこそ! お前等が俺を女だと認識している証だろうが⁉」

 揉み合いになった拍子に態勢を崩し二人は身体を草の上に投げ出した。悟堂の上に馬乗りになった熊掌は、落涙を止められぬまま、悟堂の胸を幾度も拳で殴打した。

「俺はっ、今更女の顔をして生きていけない! お前達からも村の奴等からも邑長嫡子だ長兄だ大兄だと扱われて生きてきたんだ! 今更変えられる訳がないだろう⁉ でも俺にはこの体しかない。この血肉は、死ぬまでこの命にこびり付いて離れる事はないんだ! その度に死すら望むこの絶望が分かるか⁉ 俺はっ、お前達にお膳立てされない限り男で居続けられない。周りが思ってるような俺はこの世に存在しない! 一人では何もできない! そう、他でもないお前が一番俺の眼の前に突き付け続けるんだよ!」

 ぐっ、と熊掌の背に力が込められた。悟堂の腕に力の限り抱き留められて、その胸に咆哮ほうこうした。幼子のようにただただ泣き叫んだ。

「すまん。本当にすまん」

「謝るな馬鹿野郎っ……!」

「熊掌。分かってた。お前が苦しんでいる事、ずっと分かってた」

「嘘を吐け」

「本当だ。自身の身が置かれた状況の齟齬そごにお前が苦悩している事、ずっと分かっていて、声をかけなかった。――かけられなかった」

「できない……理解できるわけがない」

「わかるさ。誰がお前を育てたと思ってるんだ」

 無骨な指先が、細い黒髪をくしけずる。

「でも、そうだな。ここまでかも知れん。俺達が黙っている事で守り切れるような段階じゃ既になかったんだな。お前は、もうお前の荷を自ら背負うべきなんだ」

 悟堂は己の身の上に乗せた熊掌の身体ごと起き上がり、膝の上で抱え直した。

「まてよ、これではわっぱの扱いが過ぎるか?」

「もうどちらでもいいよ。俺はどのみち死ぬまでお前にとっては童なんだろうから」

 諦めたように笑う熊掌に、悟堂は、「違いない」と笑った。

「若。我々も最初は迷いました。自分達の判断が正しかったのか誤りだったのか、確信はなかった。ですが、やはり間違いではなかったのです」 

「――は?」



「あなたには経血がない」


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