21 雌雄


 虚を突かれたように熊掌は身じろぎを止めた。そして、引き攣ったように息をひゅうと吸い込んだ。

「それ、は」

「心当たりはありませんでしたか? 母君から体調の異変はないか確認されるような事は?」

「――ある。割と頻繁に、顔を見る度に……」

 あれは、月の物の訪れがないかを問うていたのかと今更に気付いた。

「十七に至っても始まらなかった。それはそうでしょう」

「そうでしょうって」

「あなたが生まれた時、雀が不死石を身体に安置しようとしたができなかった。あなたは生まれついていずれの具も持たなかったのです」

 言葉の意味が漸く理解できた時にはもう、全身が脱力して使い物にならなくなっていた。後じさり、崩れ落ちるところを悟堂の腕が支える。

「そんな、馬鹿な、ことが」

「道らしきものはあった。が、どうしても奥へ鉗子が入らない。その先がないのだ。雀はそう言いましたよ。確かにあなたは男の具を伴ってはいない。しかし女の具もない。だから長は、あなたが女だとは判断しなかった」

 嘘ではなかった。父の言うのは嘘ではなかったのだ。しかしそれは、それでは――、

「欺瞞て言わないか?」

「そうかも知れませんね。だが、かつての白玉の構成要素に『子宮』があった事は事実。その有無は恐らく重視される要素だ。それを持たないあなたを女として白玉に出した場合、万が一の異常事態があっては取り返しが付かない。白玉の継承破壊を目論んだと朝廷から判断され、邑に危険が及ぶ事もあり得る。だから長は黒煙を上げたのです」

 悟堂の言葉に、ゆっくりと熊掌の肩が下がる。

「男ではないが、女でもないから、白玉足り得ないと黒煙を上げた、と」

「そうです」

「――それじゃあ俺は、俺は人の成り損ないではないか」

 呆然とする熊掌の肩を、悟堂はしかと掴み、その目を覗き込んだ。

「熊掌、雄か雌かが人を分ける全てじゃない。人とは如何に生きるかでその個の意味が定まる」

「――そんなのは、詭弁だ」

 項垂れる熊掌の前に、悟堂は鴉羽からすば色の布を掴んで見せる。

「いいか。この袍を着ている限り、お前は長たるものとして判断される。その役と働きでお前は認識され評価される。性ではなくその力でお前はお前として人になるんだ」

「ここまでお前達にぬくぬくと守られてきた俺に、そんな役が務まるはずがない。しかも、俺達の命は黄師に握られている。長になれというのは、その手足となれという事だろう。こんな支配を受ける屈辱に従い、従属に甘んじて生きろというのか?」

「大丈夫だ。それももう変わる」

 それは、意に反して確信に満ちた言葉であったので、熊掌は怪訝な顔をする事を禁じ得なかった。悟堂は困った顔で笑った。

「お前は――子供の時から納得がいかない事があると必ずそういう顔をする。これは童だからじゃなかったんだな。お前の性分だったんだ」

 さすがにあまりに長く膝に乗り過ぎた事が面映おもはゆくなり、熊掌は悟堂の上から降りてその傍らに座した。

「なぁ、大陀羅」

「はいはい。何ですか」

「その、入らなかったというのは本当か」

「ええと、雀が言うには、ですが」

「経血が遅れに遅れているだけという事は」

「流石に今更それはないでしょう」

「何か、そう、道が狭すぎたのを誤って判断しただけとか」

 悟堂は眉間に皺を寄せた。

「何ですか、実はやっぱり女だったほうがいいんですか?」

「いや、違うそうじゃない! そう言う事じゃない、けど……」

 しばらく口籠った挙句、熊掌は頭を抱えた。

「どちらでもないと言うのは――それよりもキツいな」

「キツいですか」

「お前は雌雄の別が全てじゃないと言うが、世に身の置き所がない気分だ。知る前より余程足元に穴が開いたようだよ」

 情けない声を上げて髪を掻き毟る熊掌の様に、悟堂は噴き出した。熊掌はぶすくれて唇を尖らせる。

「何だよ、他人事だと思って!」

「否全く。何時ものあなたの調子が戻ってきたなと思ったんですよ」

一分いちぶたりとも嬉しくないんだが⁉」

「人にとって性などはその側面でしかない。それが軽いとは言いませんがね。それはあなた個人の事として生涯付き合うしかない事です。他人と如何に論を突き詰めたところであなたの事はあなたにしか答えが出せない。そしてそんな個人の内の事よりも、他人との関わりや働き、こちらの方が余程その人生の全体に置いて幅広く重きを持つものです。さっきも言いましたが、あなたには十二分に重い役責がある。この責を己の生として生きなさい。第一、子をす事が人間の最大必須の意義だというならば、それこそ黄師有する朝に支配される事を肯定する事になってしまう。――それでは俺の」

「おれの、なんだ?」

 悟堂の両の掌が、熊掌の頬を包んでから、頭髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。


「俺の命も、この世に生を受けた理由も、無価値な茶番になってしまう」


「それはどういう」

 言いかけて、熊掌は言葉を飲み込んだ。ざわりと全身が総毛立つのが分かった。

 熊掌の手に我知らず力が籠った。幼いあの日、湯に浸かりながら、ぼうと悟堂の身体を眺めていた事を思い出す。全身を覆う傷痕は何れも無残ではあったが、特に右下腹部から腿の半ばにかけて引き攣れたような広範囲の火傷痕があった。ああ、こんなにも体中を大きく怪我して、損なって、痛くは無かったろうか、と。

「――八俣の、身代わりになった時か」

 熊掌の言葉に、悟堂は刹那間をおいてから、柔らかく笑った。

「身を挺して守り、代わりに拷問を受けたと聞いた」

「ええまあ、あれはね、さすがに死ぬと思いましたよ」

 熊掌は、己が心の臓が早鐘のように打つのを感じた。全身に粟が立つ。胸の内に湧いたのは、どうしようもない程の自己嫌悪だった。

「――父の言葉の意味が分かった。邑長と呼ばれる生まれに偶々落ちただけの俺達のために、お前の尊厳を奪わせるに至らしめた……俺は、馬鹿だ。何も分かっていなかった」

「私は、後悔はしていませんよ。己が心に従い、為すべきを為した。それだけです」

「お前、我が子を抱きたいと思った事は本当になかったか?」

「――急にどうしました」

「先日、婆に言われたんだ。俺は生涯自身の子を持つ事はないと」

 「ち」と珍しく師が舌を打った。

「――雀め、いらん事を……」

「それを聞いた時に、俺は――自分がそれを特段望みはしていないのに、いつかは……形は違うにしろ、為さねばならないし、為すだろうと、そう思っていた事に気付かされたんだ。だがそうではないと言われた。漠然といつかは来ると思っていた未来が自分にだけは閉ざされているのだと、そう断言されて――目の前が暗くなった」

 熊掌の言葉に、悟堂は苦しい眼差しで吐息を零した。

「それこそ――思い込みです」

「そうか?」

「子を持たずに生涯を閉じる者など大勢いる。持ったところで永らえぬ者も多いのです。そんな事に拘泥するべきではない」

「それでも――求めるものじゃないのか? お前は、家族を持ちたいと思った事はないのか?」


「ありませんよ」


 突然の、思わぬ強い口調での断言に、熊掌は胸を突かれた。

「――本当に?」

「いや、まあそれは正しくはないか。そもそも望むべくもなかった、というのが正確なところでしょう」

「いや、八俣の事以前の――」

 言い募ろうとした熊掌を「ですから」と悟堂は遮った。

「俺にも不死石は安置されていません」

 悟堂の言葉に、熊掌は息を呑んだ。

「どうして……」

「こればかりはね。言いたくはないが親次第ですよ。まあ自分はこれまで一人の女と添いたいと思った事もないし、子も欲しいと思った事がないので、奴等がどういう考えでそうしたのかなど心底どうでもいいです。係累の有無だの強い絆だの、そんなものは俺一個の命になんの関わりもないし干渉もしようがないでしょう? 俺が生きる為に、比重の重い他人なんて必要だった事はこれまで一度もなかった」

 澄んだ眼差しが見下ろす。紡がれたのはあまりに無神経な言葉であるのに、その目には一切の濁りがなかった。これは本音だ。この男の本心だ。これまで決して触れる事の出来なかった、この男の一端が確かにそこにはあった。熊掌は自身が剝き出しのままのそれに触れたのだと痛感し、心が掻き毟られたような気がした。

「詮ない事を聞くぞ。――俺は、生まれて良かったのか」

「ええ。少なくとも、俺にとっては」

「価値があったと言えるか」

「ないはずがないでしょう」

「じゃあ、無情の極みのようなお前が価値を認めるという俺が、万一不具なく女に生まれていたら、添ってみたいとでも思えたか?」

 その問いに含んだ意味を解した悟堂の眼に、瞬時険しい物が浮かんだ事を熊掌は見逃さなかった。しかし、それは柔らかな微笑みの奥にすぐに紛れた。

「さあて、わっぱとしか見た事がありませんからというのと、或いはあり得たかもしれませんねというのと、若にはどちらがお好みか?」

 熊掌は、自嘲の笑みを漏らして答えなかった。

 そうか。この男は、己が真意を誤魔化したい時にこそ、優しく笑うのだ。本当に自分は――父よりこの男に似てしまった。


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