17 不死石


          *


 まとまらぬ頭のまま、湯を使い終わり身形を改めた熊掌は産屋へ向かった。引き戸を開けた瞬間から、そこは日常とは別の世界である事が分かった。

 噎せ返るような血の匂いが蒸気に巻かれて室内に充満している。悲鳴、叫び、嘔吐、宙を凝視する剝き出しの零れ落ちそうな眼。赤く染まる女の体。生まれ来るのは赤子というが、それは母も同じなのかも知れない。赤子がその身を切り崩して赤子をこの世に送り込むのだ。


 赤き命、赤き玉。


 そこで起きている事は、本当に常軌を逸していた。そこで全身を苦痛で満たしているのは確かに汐埜であるはずなのに、そんな事は百も承知のはずなのに、熊掌には全く別の生き物にしか見えなかった。

 叫び、乱れ、しばらくするとそれが途絶える。その激痛は、潮の満ち引きのように、打ち寄せては引き、引いてはまた打ち寄せる。そうやってこの現世に這い出でる為の隧道を引き裂きながら押し広げるのだ。引いている間、予想もしえなかったが、汐埜は眠りに落ちていた。極々僅かな間隙に、疲労に耐えかねて失神しているのだ。そしてまた、鈍器で幾度となく打たれるような苦痛によって意識を取り戻す。

 ああ、この痛みと苦しみが人を世に送り込むというのか。そして己は、男達は、この傍観するより手がない苦痛の代償によってしか維持され得ない村と言う生命体を、己が命を懸けて支え護らねばならないのだ。

 汐埜に目を閉じるな、血の管が切れると叱咤を飛ばした後、雀が「熊掌」と名を呼んだ。

「よくよく見ておおき。この痛み、耐えているのは赤子も同じじゃからな。母の道に引き絞られ圧されて、それでも這い出でる。それが、産じゃ」

「っ、はい」

 熊掌は唇を嚙み締めた。これは、手軽な感傷でどうこうもてあそんでよい物ではなかったのだ。この場に臨んで初めて理解する。人の命はこれ程までに削り、ふり絞らねば繋がらぬのだ。

 望まれぬ命などない。

 存在してはならぬ命など一つもない。

 生まれいずる事を望まぬ命もない。

 命をふるいにかけるのは、ひとえに人の世の方なのだ。人間がその集団の維持の為に強いて規範とし、組み立てた仕組みが、人の間に流れの差異を作り、そこから傍流となり離れた物が滑り落ちてしまうのだ。

 そして人の作る仕組みは、はぐれた全てを余さず拾い上げられる程の余力を持たないのだ。

 そこから、生存をかけた憎悪と優劣の争いが生まれ、膨らんだそれが人間を殺すのだろう。

 赦す、赦さない、そのなんと傲慢で愚かな事か。

 罪咎を人が定めたと言うならば、罰を為す正義すら暴力であろう。

 正しいからではない、清廉潔白だから赦されたのではない。

 積み重ねられ、骨身に染みる程に思い込まされた認識によって、多数が「認めた」と提示した、肯定されたものが、人の道として繋がる。一人が真実正しい正義を叫んでも、他が受容しない限り、それは認められない。そうやって零れ落ちてしまう命がどれ程あったのか。

 人の道は、あまりに多すぎる屍の上に築かれている。

 それを自分はこれから生まれる子に手渡さねばならぬのか。

 それは、なんと重い残酷な恭順か。

「次じゃ。次でいきめ」

 雀の言葉に従い、汐埜の荒い呼吸が最後のいきみに変わる。

 そして、産声が上がる。

 朗らかな明るい希望が、ずるりと重い鎖を抱えてこの道の先へ行く事を、人は求め、世界は傍観する。

 汐埜の胸に乗せられた赤子は大きな声で生誕を告げ、汐埜は涙を零しながら笑顔を赤子の額に擦り付けた。

 ふと気づけば、あたりには光が満ち始めていた。

 一夜の戦いが明けて、新しい日が昇っている。

「若、こちらへ」

 生まれたばかりの赤子を汐埜から受け取った薬師――八俣やまたが熊掌を呼ばう。不安げな汐埜とわずか視線が絡む。八俣が土間に用意された桶で産湯を使うのを、熊掌は傍らでつぶさに見守った。

「よぉ覚えておきなさい。赤子は利き手ではないほうで首の後ろ、ここを支えて。そうすれば体は自然に浮きます。首がまだ座っておらんので、湯の外で抱く時も首を必ず支える。尻を持たんと不安で泣く」

「それでは、両の手が塞がる……」

 八俣はふ、と笑った。

「じきに肘に頭乗せて掌に尻を載せて、片手で運べるようになりますわ。慣れんと硬とぅなって抱くから、赤子はまた不安で泣く。こつを掴んだら後は身体揺らしといたらええ」

 説明を加えながら、八俣は赤子の身体を清めていく。湯はすぐに赤く染まる。切られたばかりの臍の緒は先端を縛られている。浮き出た血管の青さも相まって、内臓が突き出ているように思えた。察した八俣が「これも、一月もすればしおれて取れてまう」と呟く。

「そうして、母の内で母の身を削ってこしらえる時期を過ぎ、母の外で乳房にぶら下がり、また母の身を削る。赤子とは、女の血肉を剥ぎ取り、人を食ろうてようやっと別個の個体になるんですよ」

 おああ、おああと泣く赤子が、湯の中で震えるようにもがいている。ここから始まるのだ、誰もが。

 熊掌は、胸が潰れる思いで赤子の身体を見詰める。

「――女児、か」

「ええ」

 痛みを隠せない笑みが漏れる。

「この子もまた、我が子に食われるのだな」

「それは男と合してらんが生ればじゃ。女が皆子を産めるわけでも産むわけでもない」

 横からしれっと雀が口を挟む。

「現に儂も子は産まなんだからな」

 婆はまだ汐埜の脚の間にいる。

「雀、裂けたか」

「少しな。切り足りなんだ。胎盤がまだ出ん。八俣、産湯は」

「終わりました」

 見れば既に手拭いで水滴を拭い終えた子を大きい布で包んでいる。

「胎盤が出るのを待ってから縫合を。後は任せる。子を」

「うむ」

 八俣が雀に赤子を渡す。雀が熊掌に目配せをし、八俣が熊掌の背中を叩いて付いてゆくように促しながら、「若」と小さく呟く。

「よう見てきなはれ。我等は、こないしやな生き繋がれへんのや」

 雀の後について産屋を出る。矢張り既に十二分に明るい。一晩を明かした後とあって、目に光が染みる。熊掌は目頭を押さえてしばたたいた。これまでどうしても逃れる事のできなかったこめかみの痛みが失われている事にその時はじめて気付いた。

 扉を出て向かった先は、熊掌も立ち入る事を許可されていない場所だった。母屋と産屋を結ぶ回廊の半ばに、二段程下る階段があり、その先に扉がある。その前に女が一人待ち受けていた。すいと頭を下げて扉を開ける。

黄師こうしは」

「長がお知らせして、皆様昨夜の内に邑より出ておいでです」

「ほっほ、今のこの邸内は奴等にすれば毒溜まりと同じだからの」

 雀が扉の内に進む。先は暗いが明かりの取られた下りの回廊になっており、それは先で何度か折れて更に下っているようだった。

「雀女士、今のは?」

 雀はちら、と目配せをし「もう言うてもええじゃろ」と独り言ちた。

「商人商人言うておるが、奴らの本身は黄師こうしという。奴等には産婦と赤子の気が毒になる。お主も産屋に血の気が充満しているのが分かったじゃろ。邑内で産がある時は、奴らは、ほれ、邸内と保管小屋を囲む石の内には入れぬ。入れば死ぬ」

「――は?」

「しかし、相当怯えたものだの。邑自体から逃げ出すとはな」

くつくつと笑ってから、「詳しくはお主の父から聞け。儂はお主に別の事を伝えねばならん」

 やがて回廊の奥に扉が見えた。「儂じゃ」という雀の声と共に扉が中から開かれる。中にはしっかりとした明かりが取られていた。

 中に踏み入り、言葉を失う。

「じ、女士、これは」

「これより、不死石しなずのいしの安置を行う」

 中には白い衣を纏った男が一人いた。口鼻元も白い手拭いで覆っている。この男が扉を開けたのだろう。部屋の中心には、白い布を掛けられた大きな卓子があり、その傍の台には見た事もない金属製やら硝子がらす製やらの器具が数点と、白くて丸い極々小さな石らしきものが皿に一つ乗せられていた。

「あの、彼は」

 熊掌の問いに、口元を布で覆った男が目元だけでふわりと微笑んだ。

「はじめまして、熊掌だね」

「は、はい」

「こやつはお前の叔父だ。東馬の弟よ」

 雀の言葉に熊掌は面食らった。

「ぼ、いや、私は、父からそんな話は聞いた事が」

「うん、そうだね。僕はここから出ない事にしているから」

「出ないって」

 熊掌が生まれて十七年、彼の事は見た事も聞いた事もない。

「僕はここで不死石を護る役目をいただいているんだ」

「その、不死石、と言うのは一体何なのですか?」

「二人ともおしゃべりはまたの機会にせい。先に処置を済ませる」

 雀は赤子を卓子の上に横たえ、用意されていた器具の隅に置かれていた硝子がらすの器を手に取った。熊掌は生まれて初めてこんなに精巧な作りの硝子の器を見た。蓋をずらすと、中に籠めてあった薄い煙が漏れ出た。それを赤子に嗅がせる。やがて動きが弱くなり、泣き声が止んだ。

「雀、それは」

「寝かせる薬じゃ。調合は南辰なんしんが心得ておる」

 男がこくりと首肯した。

南辰なんしんです。侶雀の術はおよそ私と八俣が心得ております」

「儂が退しりぞいて後は南辰から手解きを受けよ。熊掌、よく見ておきなさい」

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